第六章 風禍――影を吊る回廊
格子の奥から、三度目の音がした。
コン。
コン。
コン。
乾いた石を叩くような音だった。
水の向こうで、誰かがこちらに存在を知らせている。
それだけはわかった。
けれど、それが誰なのかはまだわからない。
灯村要かもしれない。
別の誰かかもしれない。
あるいは、そう思わせるために置かれた音かもしれない。
真壁彰は、格子の前に膝をつき、暗い水路の奥へライトを向けた。光は奥まで届かなかった。潮の引いた水路には、まだ膝ほどの海水が残っている。石積みの壁には藻が張りつき、ところどころ白い貝殻が固まっていた。
奥から、低い水音がする。
呼吸の音ではない。
人の声でもない。
だが、何かがいる。
その気配だけが、確かにあった。
「中にいる人、聞こえますか」
真壁は声をかけた。
「警察です。今、格子を開けます。返事ができるなら、何か音を出してください」
しばらく沈黙があった。
それから、弱い音。
コン。
一回。
鳳恭介が、真壁の隣で格子の状態を見ていた。
「曲がっています。外からこじ開けた跡ではありません。内側から押されたか、何度も叩かれた可能性が高い」
「閉じ込められた?」
「その可能性があります」
「格子は外せるか」
「錆びていますが、固定金具は古い。工具があれば」
佐伯警部補の部下が、工具箱を持って駆け戻ってきた。続いて九条雅紀も坂を下りてくる。白い髪が夜明け前の薄青い光にぼんやり浮かんでいた。息を切らしてはいない。だが、目は完全に覚めている。
「中に人?」
九条が訊く。
「可能性がある」
真壁は答えた。
「灯村さんかは、まだわからない」
「わかった」
九条はそれだけ言って、手袋をはめ直した。
鳳と若い刑事が格子の固定金具に工具をかける。錆びた金属が嫌な音を立てた。何度か力を入れると、片側の金具が外れた。もう片方は固着していたが、鳳が角度を変えて押し上げると、格子はわずかに開いた。
潮の匂いが強くなった。
その中に、人間の匂いが混じる。
汗。
血。
湿った衣服。
九条がライトを奥へ向けた。
「見えた」
「人か」
「人」
真壁は息を止めた。
水路の奥、曲がり角の手前に、人影があった。
壁にもたれ、膝を曲げている。片腕がだらりと水に落ち、もう片方の手に何かを握っていた。石を叩いていたのは、その手だったのだろう。
顔は伏せている。
濡れた髪。
作業着。
古い防寒着。
真壁は名前を飲み込んだ。
まだだ。
「救出する」
真壁は言った。
格子をさらに押し開ける。大人が通るには狭い。だが、身を横にすればなんとか入れる。
「俺が入る」
真壁が言うと、鳳が即座に言った。
「僕が先に」
「だめだ」
「水路の構造が」
「俺が先だ。あんたは外から指示してくれ」
鳳は言い返しかけたが、真壁の目を見て黙った。
「わかりました。足元、左側が少し深いです。壁の右手に金具があります。そこに手をかけてください。天井が低いので、頭を」
「了解」
真壁はコートを脱ぎ、ロープを腰に巻いた。若い刑事が固定する。九条が短く言う。
「意識がない可能性がある。首と背中を無理に動かさないで」
「わかった」
真壁は格子をくぐった。
冷たい海水が膝までくる。
石の床は滑る。藻が張りつき、足を置くたびにぬるりとずれた。鳳の言った通り、左側は深い。真壁は右の壁に手をつき、少しずつ進んだ。
水路の奥は狭かった。
海からの光は届かない。ライトの輪だけが、湿った石壁を照らす。壁には古い傷がある。何かを引きずった跡。金属の擦れ。近年ついたものと、ずっと昔から残っているものが混ざっていた。
人影まで、あと少し。
真壁は足を止めた。
水に、赤が混じっていた。
大量ではない。
だが、確かに血だった。
「九条」
「見えてる?」
「血がある」
「量は」
「少量。流れてる」
「まず呼吸を確認して」
真壁は人影の横に膝をついた。
顔を上げさせる前に、首筋へ手を伸ばす。
脈があった。
弱い。
だがある。
「生きてる」
外で、誰かが息を吐いた。
九条の声だけが冷静だった。
「呼吸は」
「浅い」
「頭部外傷?」
「後頭部に血。ほかにも傷がある」
「首を固定して出す」
真壁は、そこで初めて顔を照らした。
灯村要だった。
船頭の男は、唇を青くし、目を閉じていた。額と頬に擦過傷があり、後頭部から出血している。右手には小さな石が握られていた。それで壁を叩いていたのだろう。
灯村は生きていた。
海禍は、死ではなかった。
少なくとも今は。
真壁は声に出さず、そう確認した。
名前を、死者の側へ置かずに済んだ。
救出は慎重に行われた。
狭い水路から意識のない人間を出すのは難しい。真壁が灯村の身体を支え、外からロープで補助し、九条が首と頭の位置を指示した。鳳は水路の形状を見ながら、どこで身体を傾ければ引っかからないかを伝えた。
「少し右。そこ、天井が下がっています」
「わかった」
「次の石段で足元が深くなります」
「鳳さん、先に言ってくれ」
「言っています」
「もっと早く」
「すみません」
こういう時にも鳳の声は穏やかだった。
真壁は腹立たしさより先に、妙な安心を覚えた。
鳳は動揺していない。
いや、しているのだろう。
だが、建物を読む時だけは、その動揺を手の外に置ける。
九条が死体の前でそうするように。
ようやく灯村を外へ引き出すと、空はわずかに明るくなり始めていた。
朝ではない。
夜が薄くなっただけだ。
九条はすぐに灯村の状態を確認した。
「低体温。意識障害。後頭部裂創。肋骨の痛みがあるかもしれない。水を吸っている可能性もある。すぐ温めて、搬送したいけど……」
「船は燃えた。外部連絡もまだです」
佐伯が苦い顔で言う。
「館に医療品は」
真壁が訊く。
鳳が答えた。
「開発調査用の救急箱があるはずです。あと、管理室に毛布」
「運ぶぞ」
真壁は灯村の顔を見た。
灯村は薄く目を開けた。
焦点は合っていない。
唇が動く。
真壁は顔を近づけた。
「灯村さん。聞こえますか。真壁です」
灯村の喉が鳴った。
声にならない。
九条が言う。
「無理に喋らせない」
だが灯村は、必死に何かを言おうとしていた。
真壁は耳を寄せた。
かすれた声。
「……み、た」
「何を見た」
「かぜ……」
「風?」
灯村の手が動いた。
震える指が、七禍館の方角を指す。
崖の上。
海側回廊よりさらに奥。
細く斜めに走る、風洞回廊。
「かぜが……人を……」
そこで灯村の意識が落ちた。
九条がすぐに処置へ戻る。
「もう喋らせない」
「ああ」
真壁は、灯村の言葉を頭の中で繰り返した。
風が、人を。
四つ、風は影を吊る。
まだ何も起きていない。
いや、もう起きているのかもしれない。
真壁は七禍館を見上げた。
朝の光が薄く差し始めた館は、夜よりもなお不気味だった。
闇に隠れていた継ぎ目が、少しずつ見えてくる。
海側の顔。
島側の顔。
その間にある、細い風洞回廊。
そこに、風が通っている。
*
灯村の救出は、館の空気を一度変えた。
死んだと思われていた男が生きていた。
海禍の木札に名前を置かれた男が、死者ではなかった。
その事実は、七禍の見立てを少しだけ揺らした。
だが、揺らしただけだった。
館の中に戻ると、全員が同じことを考えているのがわかった。
海禍は外れた。
では次は。
火禍で黒羽が死んだ。
土禍で古賀が死んだ。
そして灯村は「風が人を」と言った。
次は風禍だ。
誰も口には出さなかった。
だが、言葉にならない恐怖の方が、かえって館の中を満たした。
九条は管理室横の小部屋で灯村の処置を行った。濡れた衣服を切り、毛布で包み、体温を戻す。呼吸状態を確認し、傷を処置する。病院なら当たり前にできることが、孤立した館の中では一つひとつ不安定になる。
真壁はその扉の外に立っていた。
廊下の向こうでは、二階堂が佐伯と一緒に食堂の状況を整理している。鳳は、七禍館の図面を広げ、港の水路と旧祭壇棟、海側回廊、風洞回廊を一本の線で結んでいた。
「灯村さんは、どこから水路に入れられたと思う」
真壁が訊くと、鳳は図面を指した。
「港側から押し込められた可能性もありますが、それだと格子の状態が合いません。内側から閉じ込められ、海側へ押し流された可能性が高い」
「内側というのは」
「館の床下です。旧祭壇棟、または海側回廊の下。潮位の変化で水が港側へ流れる時間帯があります」
「犯人は、灯村さんを殺すつもりだったのか」
「わかりません。ただ、死んでもいいとは思っていたはずです」
鳳の声が少し冷えた。
「海禍として成立すれば、灯村さんは死んだことになる。実際に死んでいなくても、名前は置ける」
「二十一年前の鳳悠一さんと同じか」
真壁が言うと、鳳は鉛筆を止めた。
短い沈黙。
「そうかもしれません」
「悪い」
「いえ」
鳳は静かに首を振った。
「僕も、それを考えていました」
廊下の奥から、二階堂が来た。
「灯村さん、意識は?」
「落ちた。九条が見てる」
「生きててよかったね」
「ああ」
「ただ、犯人にとっては予定外かも」
「なぜ」
「海禍の名前が死者から戻った。犯人が“七つ”を揃えたいなら、灯村さんが生きているのは困る」
「また狙われるか」
「可能性はある」
二階堂は図面に目を落とした。
「それと、久世さんが妙」
「何が」
「灯村さん救出の時、ずっとカメラを気にしてた」
「撮ってたのか」
「撮ってはいない。少なくとも見える形では。でも、見たい顔だった。記録したいというより、記録を確かめたい顔」
真壁は眉を寄せた。
「久世さんの映像に何かあるか」
「あると思う。火禍の時の食堂映像、反射で鳳さんに似た影が映ってたでしょ。あれ、久世さんは本当に偶然撮ったのかな」
「仕込んだ?」
「本人が仕込んだか、仕込まされたか、見せたい部分だけ残したか」
鳳が言った。
「映像は、建物より嘘をつきやすいですね」
二階堂が少し笑った。
「でしょう。映像は切れるから」
その時、廊下の奥で扉が開いた。
火野朱里が立っていた。
眠っていない顔だった。
赤いストールは肩にかけていない。黒い服だけになると、彼女は葬儀の場にいる人のように見えた。
「灯村さんは」
朱里が訊いた。
「生きています」
真壁が答える。
朱里は目を閉じた。
「よかった」
その声には、嘘はなさそうだった。
ただし、すべてが真実でもない。
二階堂が訊いた。
「灯村さんと、何か接点が?」
「母のことを少し知っていました」
「火野千景さんの?」
「はい。けれど、あまり話してくれませんでした」
「今回、灯村さんに会う予定は?」
朱里は首を横に振った。
「ありません。でも、話せるなら話したかった」
「何を」
「母が最後に誰といたのか」
真壁は朱里を見た。
「灯村さんが知っていると?」
「二十一年前、灯村さんは港にいました。母は火禍の前、港へ行っていたと聞きました」
「誰から」
「古賀さんです」
古賀清澄。
死んだ保存会の老人。
真壁は二階堂と目を合わせた。
古賀は多くを知っていた。
灯村も知っている。
そして二人とも、犯人に狙われた。
朱里はさらに言った。
「でも、古賀さんは最後まで詳しく話してくれませんでした。灯村は逃げなかった、とだけ」
「逃げなかった?」
「はい。逃げた人間がいる、とも言っていました」
真壁は黙った。
灯村。
古賀。
真依。
火野千景。
鳳悠一。
沙羅。
名前だけが少しずつ床下から出てくる。
だが、まだつながらない。
朱里は食堂の方へ戻ろうとした。
二階堂が声をかける。
「火野さん」
「はい」
「七禍を壊すために七禍を使う、という話」
朱里は足を止めた。
「はい」
「あなた自身は、どう思います?」
「愚かだと思います」
「でも、理解はできる?」
「……理解は、できます」
二階堂は微笑まなかった。
「それが一番危ないんですよね」
朱里は振り返った。
「理解することが?」
「理解できる悪事は、自分の言葉に近いから」
朱里は、しばらく二階堂を見ていた。
「二階堂さんは、人の言葉を疑うんですね」
「ええ」
「自分の言葉も?」
「一番疑います」
朱里は、ほんの少しだけ笑った。
「だから広報なんですね」
「たぶん」
朱里はそれ以上答えず、食堂へ戻った。
真壁は二階堂を見た。
「突っ込みすぎだ」
「知ってる」
「怒らせるぞ」
「怒らせた方が、言葉が出る人もいる」
「火野さんが犯人だと思ってるのか」
二階堂はすぐには答えなかった。
「思いたくはない」
「思いたくはない、か」
「彼女の言葉、犯人の思想に近すぎる。でも近すぎるからこそ、犯人が彼女に寄せている可能性もある」
鳳が低く言った。
「誰かを犯人像に置く」
「そう」
二階堂は頷いた。
「この犯人は、死者だけじゃなく、生きている人間の名前も配置する」
*
久世玲央は、食堂の端でカメラバッグを抱えていた。
真壁が近づくと、彼はすぐに顔を上げた。
「また映像ですか」
「はい」
「全部見せました」
「全部かどうか、こちらではまだ確認していません」
久世の顔が少し引きつった。
「疑っているんですね」
「全員を」
二階堂が横から言う。
「その言い方、便利だね」
「実際そうだ」
「久世さん。灯村さんが救出された時、何を見ていました?」
久世は一瞬、答えに詰まった。
「何を、というのは」
「灯村さんじゃなくて、カメラバッグを気にしていました」
「……癖です。仕事道具なので」
「中のデータを心配していた?」
「湿気が多いから」
二階堂は食堂の窓を見る。
「あなた、旧祠の影を撮った映像で、鳳さんに似た影を“鳳さんですか”と言いましたよね」
「似ていたので」
「でも、あなたは映像作家です。反射くらい見慣れているはずです」
久世は黙った。
「本当は、あの影が鳳さんじゃない可能性に気づいていたのでは?」
「……あとから見れば」
「その場では?」
「動揺していました」
「動揺している人間は、わりと正直な判断をすることもあります」
久世はカメラバッグの紐を握った。
指先が白くなる。
真壁が言った。
「久世さん。あなたの映像には、犯人が映っている可能性があります。あるいは、犯人が映っていると思わせる何かが映っている。どちらでも重要です」
「だから全部出せと?」
「はい」
「出したら、僕が疑われるかもしれない」
「出さなくても疑います」
二階堂が言った。
「出した方が、疑いの文章は短くなります」
久世は乾いた笑いを漏らした。
「嫌な言い方ですね」
「仕事柄」
久世はしばらく黙っていた。
やがて、バッグの底から小さなメモリーカードケースを取り出した。
「これは、まだ見せていません」
佐伯が身を乗り出す。
「なぜ隠していたんですか」
「隠していたわけじゃ……」
「理由を」
真壁が言うと、久世は観念したように息を吐いた。
「契約外の映像だからです。開発会社から頼まれたプロモーション映像とは別に、自分の作品用に撮っていました。無断撮影と取られるかもしれない」
「何が映っている」
「港へ下りる祭礼道です。船が燃える前」
真壁と二階堂は目を合わせた。
「見せてください」
食堂の端で、映像が再生された。
夜の七禍館。
灯が揺れている。
カメラは食堂の窓ではなく、外の渡り廊下かどこかから撮影しているようだった。斜め下に、港へ続く古い石段が見える。
時刻表示は九時十四分。
人影が一つ、石段を下りていく。
以前見た映像より鮮明だった。
黒いコート。
高い背。
手に持った細長いもの。
鳳に似ている。
だが、歩き方が違った。
真壁はすぐに思った。
鳳はもっと足音を消すように歩く。建物の床を無意識に読む人間の歩き方だ。この人影は、少し肩が揺れている。急いでいる。階段に慣れているようで、ところどころ足元を確認している。
「止めて」
二階堂が言った。
映像が止まる。
人影が振り返る寸前。
二階堂が画面の左端を指した。
「ここ」
風洞回廊の入口付近。
画面の端に、別の影があった。
小さい。
立っているというより、身を潜めている。
顔は見えない。
「これは?」
真壁が訊く。
久世は首を横に振った。
「撮っている時は気づきませんでした」
「本当に?」
「本当です」
鳳が画面に顔を近づける。
「風洞回廊の入口です」
「そこから港へ下りられるか」
「直接は無理です。ただ、管理通路に入れるなら、旧祭壇棟や海側回廊へつながる可能性があります」
九条が静かに言った。
「灯村は“風が人を”と言った」
食堂の空気が、また冷えた。
二階堂が映像を進める。
人影は階段を下りて消える。
風洞回廊の入口にいた小さな影も、いつの間にか消えていた。
「この映像、犯人にとって都合が悪いですね」
二階堂が言った。
久世は顔を上げる。
「どういう意味ですか」
「だから隠した、という話ではありません。あなたが隠していたことを犯人が知っていたなら、次に狙われるのはあなたかもしれない」
久世の顔から血の気が引いた。
その時、食堂の窓が大きく鳴った。
風だった。
朝が近づくにつれ、海風が強まっている。
七禍館のどこかで、長い笛のような音がした。
ヒュウ、と細く高い音。
風洞回廊を抜ける風。
鳳が顔を上げた。
「風速が上がっています」
「それが?」
「風洞回廊には、強風時に自動で閉まる防風扉があります」
二階堂が嫌そうに言った。
「また嫌な仕組み?」
「ええ」
鳳は図面を見る。
「古い構造ですが、残っているなら危険です。一定以上の風圧で扉が閉じる。人が挟まれないよう本来はゆっくり閉まるはずですが、整備不良なら」
真壁は立ち上がった。
「確認する」
久世が小さく言った。
「僕も」
「だめです」
真壁は即答した。
「でも、僕の映像が」
「だからです。あなたは食堂に残る」
久世は黙った。
その沈黙は、納得ではなかった。
恐怖だった。
*
風洞回廊は、七禍館の中で最も細い場所だった。
廊下というより、二つの棟の間を無理やりつないだ管のような空間だった。片側は崖、片側は古い外壁。窓は細長く、ところどころ格子が入っている。風が通り抜けるたび、壁の内側が低く鳴った。
四つ、風は影を吊る。
その歌を思い出さないようにしても、無理だった。
風洞回廊に入った瞬間、その言葉は身体の中に入ってくる。
風が、人を吊る場所。
真壁、鳳、佐伯の部下二人が回廊を確認する。
九条は灯村の状態を見ており、二階堂は食堂に残っていた。久世から目を離さないためだ。
「防風扉は?」
真壁が訊く。
鳳が回廊の中ほどを指した。
「あそこです」
回廊の途中に、古い金属製の扉があった。普段は壁際に収納されているようだが、風が強い時には横からスライドして閉まる構造らしい。上部には滑車とレール。下部には古い重り。壁には色褪せた注意書きがある。
――強風時、扉作動注意。
真壁はその文字を見た。
「動くのか」
「本来なら。ただ、今は管理されていないはずです」
鳳はレールを確認する。
「最近、動いています」
「跡が?」
「埃が切れています。滑車にも新しい擦過痕」
「犯人が動かした」
「可能性があります」
真壁は風洞回廊の先を見た。
奥へ行くほど暗い。
朝の光は入っているはずなのに、窓が細いため薄暗い。風の音が一定ではなく、場所によって高くなったり低くなったりする。人の声も、ここでは歪むだろう。
「灯村さんが言った“風が人を”は、ここか」
「そう考えるのが自然です」
鳳は防風扉の重りを見た。
「この扉、閉じる時にかなり強い力が出ます。ロープを接続すれば、人を引くこともできる」
真壁は鳳を見た。
「吊れるか」
「条件が揃えば」
その時、食堂の方角から悲鳴が上がった。
真壁は走った。
風洞回廊を戻る。
途中、無線に二階堂の声が入った。
雑音混じりだったが、聞こえた。
『真壁、久世さんがいない』
「いつからだ」
『一分前までいた。映像の再確認中に、照明が一瞬落ちた。その隙に』
「全員動かすな」
『佐伯さんに任せた。俺は廊下を見る』
「一人で行くな」
『それ、俺に言う?』
「言う」
『了解。食堂前で待つ』
真壁は舌打ちした。
まただ。
停電。
視線の誘導。
席にいたはずの人間が消える。
黒羽。
古賀。
そして久世。
風洞回廊へ戻ったことが、誘導だったのか。
犯人は、防風扉を見せ、真壁たちをそこへ向かわせ、その隙に久世を消したのか。
食堂へ戻ると、二階堂が廊下に立っていた。
「どこへ」
「食堂の裏口。厨房側のドアが少し開いてた」
「追うぞ」
「佐伯さんには全員を見張ってもらってる」
鳳が息を整えながら言った。
「厨房裏から風洞回廊へ通じる管理通路があります」
真壁は振り返った。
「今いた場所か」
「はい。ただし客用の風洞回廊ではなく、壁裏の細い通路です」
その時、風の音が変わった。
低く唸るような音。
館全体が、息を吸い込んだようだった。
次の瞬間、遠くで金属が走る音がした。
ガラガラガラ、とレールを滑る音。
そして、鈍い衝撃音。
ドン。
何か重いものが閉まった。
鳳の顔が変わる。
「防風扉です」
「久世さんは」
「風洞回廊かもしれません」
真壁は走った。
さっき確認した客用の風洞回廊へ。
だが、入口に近づく前から、異様な音が聞こえていた。
風の音ではない。
ぎし。
ぎし。
何かが、揺れる音。
真壁は回廊へ飛び込んだ。
防風扉が半分閉まっている。
その向こうに、人影が吊られていた。
久世玲央だった。
首にロープがかかり、身体が宙に浮いている。両足が床からわずかに離れ、風に煽られて揺れていた。カメラバッグは床に落ち、レンズが割れている。
「久世さん!」
真壁は走った。
「待って!」
鳳が叫ぶ。
真壁は足を止めた。
床に、細いワイヤーが張られていた。
あと一歩踏み込めば、足を取られていたかもしれない。
鳳が息を切らしながら追いつく。
「防風扉とロープが連動しています。触ると締まる可能性がある」
「九条を呼べ!」
二階堂が無線を入れる。
「九条、風洞回廊! 久世さんが吊られてる!」
雑音。
しかし、すぐに九条の声。
『行く』
真壁はロープの経路を見た。
久世の首から伸びたロープは、天井の滑車を通り、防風扉の上部へつながっている。扉が閉まる力でロープが引かれ、久世が吊り上げられた。
風が人を吊った。
いや、違う。
風が扉を閉じ、扉がロープを引き、ロープが人を吊った。
人間がそれを仕掛けた。
「鳳さん、外せるか」
「扉側を固定すれば」
「早く」
「でも、首への負荷を抜く順番を間違えると危険です」
二階堂が叫ぶ。
「真壁、俺が身体を支える」
「だめだ。床のワイヤー」
「どこなら行ける」
鳳が床を指示する。
「右の壁沿い。窓側は踏まないでください。扉に近づきすぎるとレールが動く」
真壁と二階堂は、鳳の指示に従って久世へ近づいた。
真壁が久世の身体を支える。
重い。
生きている人間の重さは、死体とは違う。
だが、久世の身体はぐったりしていた。
「久世さん!」
二階堂が呼ぶ。
返事はない。
九条が到着した。
状況を一瞬で見て取る。
「身体を支えたまま。ロープ切る」
「切っていいのか」
「今は頸部の圧を抜くのが先」
九条は小型のカッターを出し、ロープへ手を伸ばす。
鳳が防風扉の重りを押さえる。
「今、固定します」
金属が軋む。
風がまた強くなる。
扉が動こうとする。
鳳の手が白くなる。
「鳳さん!」
「大丈夫です」
「無理するな」
「今は無理します」
二階堂が低く言った。
「真壁、あとで怒って」
「今も怒ってる」
「知ってる」
九条がロープを切った。
久世の身体が落ちかける。
真壁と二階堂で支え、床へ下ろす。
九条がすぐに気道を確認した。
「呼吸、弱い。脈あり」
「生きてるか」
「生きている」
二階堂が目を閉じた。
「よかった」
だが、九条の顔は緩まなかった。
「重度の頸部圧迫。意識なし。急ぐ」
真壁は回廊の床を見た。
久世のカメラバッグ。
割れたレンズ。
張られたワイヤー。
防風扉。
ロープ。
そして、壁に貼られた小さな紙片。
そこには、黒い字で書かれていた。
四つ、風は影を吊る。
その下に。
真壁彰。
二階堂が、それを見た瞬間、顔を変えた。
「真壁」
真壁は紙片を見た。
自分の名前があった。
久世ではない。
真壁彰。
犯人は、久世を吊り、真壁の名を置いた。
風禍の死者としてではない。
風禍の犯人として。
あるいは、次に吊られる影として。
真壁は、一瞬だけ冷えたものを感じた。
黒羽の時は鳳。
今回の久世の時は真壁。
犯人は、外部の者を順番に犯人像へ近づけていくつもりなのか。
久世の映像には、真壁が風洞回廊へ向かう姿が映っているかもしれない。
灯村救出の前後、真壁は何度も館の中を移動した。
誰かがその一部だけを切り取れば、真壁を犯人にできる。
二階堂が紙片へ近づこうとした。
「触るな」
真壁が言った。
「わかってる」
二階堂の声は低い。
怒っていた。
彼は、軽く見える時ほど冷静だ。
だが、本当に怒ると、声が短くなる。
「真壁を犯人にするなら、もう少し筋の通った文章を書け」
その声に、鳳が顔を上げた。
九条は久世の処置を続けている。
真壁は紙片を見た。
風は影を吊る。
真壁彰。
確かに、真壁は影になりやすい。
現場で動く。
危険な場所へ行く。
人を追う。
守るために前へ出る。
その行動を切り取れば、いつでも犯人に見せられる。
「二階堂」
「何」
「怒るな」
「怒ってない」
「怒ってる」
「怒ってるよ」
二階堂は紙片から目を離さずに言った。
「でも大丈夫。怒ってる時ほど、俺は順番を間違えない」
真壁は小さく頷いた。
「なら、久世さんを先に」
「もちろん」
久世は生きていた。
風禍は、未遂に終わった。
だが、犯人の目的は半分達成されている。
久世の映像は奪われたかもしれない。
真壁の名前は置かれた。
風洞回廊の仕掛けは作動した。
そして、七禍館の風は本当に人を吊った。
真壁は、防風扉を見た。
扉はまだ軋んでいる。
風が吹くたび、ロープの切れ端が揺れた。
影が、床に落ちる。
吊られた人間の影ではない。
これから疑われる者の影だった。
*
久世を管理室横の小部屋へ運び、九条が処置を続けた。
灯村と久世。
二人の生存者。
そして、黒羽と古賀の死者。
船内の身元不明遺体。
七禍は、死と生の境目を曖昧にしながら進んでいる。
真壁は風洞回廊へ戻り、現場を確認した。
佐伯が記録を取る。
鳳は防風扉の構造を調べていた。
「これは、手動で仕込めます」
鳳が言った。
「詳しく」
「防風扉には、本来、風圧を受ける板と重りがあります。風が一定以上強くなると、板が押され、重りのバランスが崩れて扉が閉まる。安全装置が生きていれば途中で止まりますが、ここでは外されている」
「犯人が外した」
「はい。そして、扉の動きにロープを接続した。風が強まって扉が閉まると、滑車を通じてロープが引かれ、久世さんの身体を吊り上げる」
「犯人はその場にいなくてもいい」
「そうです」
二階堂が久世のカメラバッグを見た。
「バッグの中身は?」
佐伯が答える。
「メインカメラのカードがありません。予備カードはありますが、さっき見せてもらった祭礼道の映像が入っていたカードがない」
「やっぱり」
二階堂は低く言った。
「久世さんを殺すためじゃなく、映像を奪うため」
「殺してもいいとは思っていた」
真壁が言う。
「うん。そこは間違えない」
二階堂は壁の紙片を見た。
「で、ついでに真壁を置いた」
「ついでではないかもしれない」
鳳が言った。
「防風扉を見に行ったのは、真壁さんです。犯人は、真壁さんがここへ来ることを予測していた」
「俺たちをここへ誘導した」
「はい。風洞回廊を確認させる。久世さんを消す。防風扉を作動させる。真壁さんの名前を置く」
二階堂が腕を組む。
「かなり忙しい犯人だね」
「事前準備が大半です」
鳳はロープの切れ端を見た。
「久世さんは、ここへ連れてこられた時点では意識がなかった可能性がある。首にロープをかけ、扉が閉まるタイミングを待てばいい」
「風任せ?」
「風任せに見せた、人為的なタイミングです。食堂で照明を落とした時、厨房裏の通路から久世さんを運び、この位置に固定した。防風扉は、風速が上がる時間を読んでおけば作動します」
「そんなに正確に読めるか」
「この館では、風の通り方が決まっています。海からの風が一定方向になれば、風洞回廊では急に増幅される」
二階堂が嫌な顔をする。
「風まで館の装置か」
「はい」
真壁は、床に残る痕跡を見た。
久世の靴跡。
犯人の足跡はない。
いや、薄い跡はあるが、風洞回廊は乾いている場所と湿った場所が混ざっている。誰のものか判別しづらい。
「鳳さん、壁裏の管理通路は」
「狭いですが、人一人は通れます。床に直接足跡を残さず、ここへ近づける」
「犯人はそこから来た」
「可能性が高いです」
二階堂が紙片を見たまま言った。
「ただ、真壁の名前を置いた理由は、こっちで考えた方がいい」
「どういう意味だ」
「犯人は、真壁を本気で犯人にしたいのか。それとも、真壁が疑われる状況を作って、俺たちの行動を縛りたいのか」
「俺が疑われれば、捜査が鈍る」
「それもある。でも、もっと嫌なのは、真壁自身が前に出づらくなること」
真壁は黙った。
二階堂は続ける。
「真壁は危険な場所へ一番に行く。犯人にとっては邪魔。だから、真壁が動くたびに“また一人で現場へ行った”という疑いを作る。守る行動を、犯行に見せる」
「俺を止めるためか」
「そう」
二階堂はようやく真壁を見た。
「だから止まらないで」
「言われなくても」
「でも、一人では行かないで」
真壁は苦く笑った。
「それは俺の台詞だと思ってた」
「俺たち全員に適用で」
鳳が小さく頷いた。
「同感です」
その時、九条が回廊の入口に現れた。
「久世さん、意識が少し戻った」
「話せるか」
「短くなら」
真壁たちはすぐに小部屋へ向かった。
久世玲央は、毛布をかけられ、横になっていた。首には処置の跡がある。顔色は悪く、声を出すのも苦しそうだった。
九条が先に言った。
「長く喋らせない」
「わかってる」
真壁は久世の横に膝をついた。
「久世さん。誰にやられましたか」
久世の目が揺れる。
唇が動く。
「……見て、ない」
「どうやって風洞回廊へ」
「声が……」
「誰の声」
久世は苦しげに息を吸った。
「真壁さんの……声で」
二階堂の表情が消えた。
真壁は動かなかった。
「俺の声?」
久世は小さく頷いた。
「映像を……見せろって……厨房の方へ……」
「録音かもしれない」
二階堂がすぐに言った。
久世は目を閉じた。
「わからない……でも、声は……」
九条が止めた。
「ここまで」
真壁は頷いて立ち上がる。
自分の声。
犯人は声まで使い始めた。
海禍で灯村の声。
火禍で黒羽の声。
風禍で真壁の声。
声も、名前と同じで置ける。
二階堂が低く言った。
「次の音禍へつながってきたね」
「まだ風禍だ」
「そう。でも犯人はもう音を使ってる」
鳳が言った。
「七禍は独立していない」
九条が静かに続けた。
「死体も独立してない」
真壁は廊下の窓から外を見た。
朝が来ようとしている。
だが、館の中は夜より深くなっていた。
風洞回廊の方から、まだ細い風の音が聞こえる。
それは、誰かの笑い声にも似ていた。
久世の証言で、真壁に疑いが置かれた。
紙片にも、真壁の名があった。
それでも止まるわけにはいかない。
犯人は、名前を置く。
声を置く。
見え方を置く。
ならば、こちらは一つずつ剥がすしかない。
真壁は二階堂を見た。
「俺の声を録れる機会は」
二階堂は即答した。
「山ほどある。港でも、食堂でも、廊下でも。久世さんのカメラにも入ってる」
「久世さんのカードを奪ったのは」
「真壁の声素材を使った証拠を消すため。あるいは、さらに使うため」
真壁は息を吐いた。
「面倒だな」
「真壁が言うと本当に面倒そう」
「面倒だ」
鳳が、廊下の奥を見た。
「真壁さん」
「何だ」
「風洞回廊の壁に、古い刻印がありました」
「刻印?」
「四つ、風は影を吊る。その下に、二十一年前の文字が削られていた」
二階堂が眉を寄せる。
「削られていた文字?」
「はい。まだ読めませんが、一文字だけ残っていました」
「何」
鳳は言った。
「沙羅」
その名が、廊下に落ちた。
真壁は目を細める。
沙羅。
まだ姿を見せていない名前。
鷺宮が港で見つけた女に向かって呼びかけた名前。
血禍の候補者。
鳳悠一、真依、沙羅。
ここでまた一つ、過去の名前が現れる。
風禍は、久世を吊っただけでは終わっていない。
犯人は、過去の七禍の配置図を、現在の事件の上へ重ねようとしている。
真壁は低く言った。
「次は沙羅を探す」
二階堂が頷いた。
「そして、真壁の声を置いたやつも」
九条が久世の処置を終え、手袋を外した。
「それと、久世さんは生きてる」
真壁は九条を見る。
「そうだな」
「生きてる人間の証言は変わる。死体より面倒」
二階堂が少し笑った。
「でも今回は、生きててくれて助かった」
「それはそう」
九条は短く答えた。
真壁は、風洞回廊の方角を見た。
風はまだ鳴っている。
しかし、吊られた影は落とされた。
久世は死者にならなかった。
犯人の七禍は、また完全には揃わなかった。
だが、その不完全さこそが、次の事件を呼ぶ。
七つを揃えなければ終わらない。
古賀の言葉が、真壁の中で蘇る。
七禍は呪いではない。
誰かが、七つにしたがっている。
そしてその誰かは、まだ諦めていない。




