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七禍島、鳳恭介の帰還 ―七つの禍に選ばれた死者と、遺体なき兄の謎―  作者: 綾見 恋太郎


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第六章 風禍――影を吊る回廊

 格子の奥から、三度目の音がした。

 コン。

 コン。

 コン。

 乾いた石を叩くような音だった。

 水の向こうで、誰かがこちらに存在を知らせている。

 それだけはわかった。

 けれど、それが誰なのかはまだわからない。

 灯村要かもしれない。

 別の誰かかもしれない。

 あるいは、そう思わせるために置かれた音かもしれない。

 真壁彰は、格子の前に膝をつき、暗い水路の奥へライトを向けた。光は奥まで届かなかった。潮の引いた水路には、まだ膝ほどの海水が残っている。石積みの壁には藻が張りつき、ところどころ白い貝殻が固まっていた。

 奥から、低い水音がする。

 呼吸の音ではない。

 人の声でもない。

 だが、何かがいる。

 その気配だけが、確かにあった。

「中にいる人、聞こえますか」

 真壁は声をかけた。

「警察です。今、格子を開けます。返事ができるなら、何か音を出してください」

 しばらく沈黙があった。

 それから、弱い音。

 コン。

 一回。

 鳳恭介が、真壁の隣で格子の状態を見ていた。

「曲がっています。外からこじ開けた跡ではありません。内側から押されたか、何度も叩かれた可能性が高い」

「閉じ込められた?」

「その可能性があります」

「格子は外せるか」

「錆びていますが、固定金具は古い。工具があれば」

 佐伯警部補の部下が、工具箱を持って駆け戻ってきた。続いて九条雅紀も坂を下りてくる。白い髪が夜明け前の薄青い光にぼんやり浮かんでいた。息を切らしてはいない。だが、目は完全に覚めている。

「中に人?」

 九条が訊く。

「可能性がある」

 真壁は答えた。

「灯村さんかは、まだわからない」

「わかった」

 九条はそれだけ言って、手袋をはめ直した。

 鳳と若い刑事が格子の固定金具に工具をかける。錆びた金属が嫌な音を立てた。何度か力を入れると、片側の金具が外れた。もう片方は固着していたが、鳳が角度を変えて押し上げると、格子はわずかに開いた。

 潮の匂いが強くなった。

 その中に、人間の匂いが混じる。

 汗。

 血。

 湿った衣服。

 九条がライトを奥へ向けた。

「見えた」

「人か」

「人」

 真壁は息を止めた。

 水路の奥、曲がり角の手前に、人影があった。

 壁にもたれ、膝を曲げている。片腕がだらりと水に落ち、もう片方の手に何かを握っていた。石を叩いていたのは、その手だったのだろう。

 顔は伏せている。

 濡れた髪。

 作業着。

 古い防寒着。

 真壁は名前を飲み込んだ。

 まだだ。

「救出する」

 真壁は言った。

 格子をさらに押し開ける。大人が通るには狭い。だが、身を横にすればなんとか入れる。

「俺が入る」

 真壁が言うと、鳳が即座に言った。

「僕が先に」

「だめだ」

「水路の構造が」

「俺が先だ。あんたは外から指示してくれ」

 鳳は言い返しかけたが、真壁の目を見て黙った。

「わかりました。足元、左側が少し深いです。壁の右手に金具があります。そこに手をかけてください。天井が低いので、頭を」

「了解」

 真壁はコートを脱ぎ、ロープを腰に巻いた。若い刑事が固定する。九条が短く言う。

「意識がない可能性がある。首と背中を無理に動かさないで」

「わかった」

 真壁は格子をくぐった。

 冷たい海水が膝までくる。

 石の床は滑る。藻が張りつき、足を置くたびにぬるりとずれた。鳳の言った通り、左側は深い。真壁は右の壁に手をつき、少しずつ進んだ。

 水路の奥は狭かった。

 海からの光は届かない。ライトの輪だけが、湿った石壁を照らす。壁には古い傷がある。何かを引きずった跡。金属の擦れ。近年ついたものと、ずっと昔から残っているものが混ざっていた。

 人影まで、あと少し。

 真壁は足を止めた。

 水に、赤が混じっていた。

 大量ではない。

 だが、確かに血だった。

「九条」

「見えてる?」

「血がある」

「量は」

「少量。流れてる」

「まず呼吸を確認して」

 真壁は人影の横に膝をついた。

 顔を上げさせる前に、首筋へ手を伸ばす。

 脈があった。

 弱い。

 だがある。

「生きてる」

 外で、誰かが息を吐いた。

 九条の声だけが冷静だった。

「呼吸は」

「浅い」

「頭部外傷?」

「後頭部に血。ほかにも傷がある」

「首を固定して出す」

 真壁は、そこで初めて顔を照らした。

 灯村要だった。

 船頭の男は、唇を青くし、目を閉じていた。額と頬に擦過傷があり、後頭部から出血している。右手には小さな石が握られていた。それで壁を叩いていたのだろう。

 灯村は生きていた。

 海禍は、死ではなかった。

 少なくとも今は。

 真壁は声に出さず、そう確認した。

 名前を、死者の側へ置かずに済んだ。

 救出は慎重に行われた。

 狭い水路から意識のない人間を出すのは難しい。真壁が灯村の身体を支え、外からロープで補助し、九条が首と頭の位置を指示した。鳳は水路の形状を見ながら、どこで身体を傾ければ引っかからないかを伝えた。

「少し右。そこ、天井が下がっています」

「わかった」

「次の石段で足元が深くなります」

「鳳さん、先に言ってくれ」

「言っています」

「もっと早く」

「すみません」

 こういう時にも鳳の声は穏やかだった。

 真壁は腹立たしさより先に、妙な安心を覚えた。

 鳳は動揺していない。

 いや、しているのだろう。

 だが、建物を読む時だけは、その動揺を手の外に置ける。

 九条が死体の前でそうするように。

 ようやく灯村を外へ引き出すと、空はわずかに明るくなり始めていた。

 朝ではない。

 夜が薄くなっただけだ。

 九条はすぐに灯村の状態を確認した。

「低体温。意識障害。後頭部裂創。肋骨の痛みがあるかもしれない。水を吸っている可能性もある。すぐ温めて、搬送したいけど……」

「船は燃えた。外部連絡もまだです」

 佐伯が苦い顔で言う。

「館に医療品は」

 真壁が訊く。

 鳳が答えた。

「開発調査用の救急箱があるはずです。あと、管理室に毛布」

「運ぶぞ」

 真壁は灯村の顔を見た。

 灯村は薄く目を開けた。

 焦点は合っていない。

 唇が動く。

 真壁は顔を近づけた。

「灯村さん。聞こえますか。真壁です」

 灯村の喉が鳴った。

 声にならない。

 九条が言う。

「無理に喋らせない」

 だが灯村は、必死に何かを言おうとしていた。

 真壁は耳を寄せた。

 かすれた声。

「……み、た」

「何を見た」

「かぜ……」

「風?」

 灯村の手が動いた。

 震える指が、七禍館の方角を指す。

 崖の上。

 海側回廊よりさらに奥。

 細く斜めに走る、風洞回廊。

「かぜが……人を……」

 そこで灯村の意識が落ちた。

 九条がすぐに処置へ戻る。

「もう喋らせない」

「ああ」

 真壁は、灯村の言葉を頭の中で繰り返した。

 風が、人を。

 四つ、風は影を吊る。

 まだ何も起きていない。

 いや、もう起きているのかもしれない。

 真壁は七禍館を見上げた。

 朝の光が薄く差し始めた館は、夜よりもなお不気味だった。

 闇に隠れていた継ぎ目が、少しずつ見えてくる。

 海側の顔。

 島側の顔。

 その間にある、細い風洞回廊。

 そこに、風が通っている。

     *

 灯村の救出は、館の空気を一度変えた。

 死んだと思われていた男が生きていた。

 海禍の木札に名前を置かれた男が、死者ではなかった。

 その事実は、七禍の見立てを少しだけ揺らした。

 だが、揺らしただけだった。

 館の中に戻ると、全員が同じことを考えているのがわかった。

 海禍は外れた。

 では次は。

 火禍で黒羽が死んだ。

 土禍で古賀が死んだ。

 そして灯村は「風が人を」と言った。

 次は風禍だ。

 誰も口には出さなかった。

 だが、言葉にならない恐怖の方が、かえって館の中を満たした。

 九条は管理室横の小部屋で灯村の処置を行った。濡れた衣服を切り、毛布で包み、体温を戻す。呼吸状態を確認し、傷を処置する。病院なら当たり前にできることが、孤立した館の中では一つひとつ不安定になる。

 真壁はその扉の外に立っていた。

 廊下の向こうでは、二階堂が佐伯と一緒に食堂の状況を整理している。鳳は、七禍館の図面を広げ、港の水路と旧祭壇棟、海側回廊、風洞回廊を一本の線で結んでいた。

「灯村さんは、どこから水路に入れられたと思う」

 真壁が訊くと、鳳は図面を指した。

「港側から押し込められた可能性もありますが、それだと格子の状態が合いません。内側から閉じ込められ、海側へ押し流された可能性が高い」

「内側というのは」

「館の床下です。旧祭壇棟、または海側回廊の下。潮位の変化で水が港側へ流れる時間帯があります」

「犯人は、灯村さんを殺すつもりだったのか」

「わかりません。ただ、死んでもいいとは思っていたはずです」

 鳳の声が少し冷えた。

「海禍として成立すれば、灯村さんは死んだことになる。実際に死んでいなくても、名前は置ける」

「二十一年前の鳳悠一さんと同じか」

 真壁が言うと、鳳は鉛筆を止めた。

 短い沈黙。

「そうかもしれません」

「悪い」

「いえ」

 鳳は静かに首を振った。

「僕も、それを考えていました」

 廊下の奥から、二階堂が来た。

「灯村さん、意識は?」

「落ちた。九条が見てる」

「生きててよかったね」

「ああ」

「ただ、犯人にとっては予定外かも」

「なぜ」

「海禍の名前が死者から戻った。犯人が“七つ”を揃えたいなら、灯村さんが生きているのは困る」

「また狙われるか」

「可能性はある」

 二階堂は図面に目を落とした。

「それと、久世さんが妙」

「何が」

「灯村さん救出の時、ずっとカメラを気にしてた」

「撮ってたのか」

「撮ってはいない。少なくとも見える形では。でも、見たい顔だった。記録したいというより、記録を確かめたい顔」

 真壁は眉を寄せた。

「久世さんの映像に何かあるか」

「あると思う。火禍の時の食堂映像、反射で鳳さんに似た影が映ってたでしょ。あれ、久世さんは本当に偶然撮ったのかな」

「仕込んだ?」

「本人が仕込んだか、仕込まされたか、見せたい部分だけ残したか」

 鳳が言った。

「映像は、建物より嘘をつきやすいですね」

 二階堂が少し笑った。

「でしょう。映像は切れるから」

 その時、廊下の奥で扉が開いた。

 火野朱里が立っていた。

 眠っていない顔だった。

 赤いストールは肩にかけていない。黒い服だけになると、彼女は葬儀の場にいる人のように見えた。

「灯村さんは」

 朱里が訊いた。

「生きています」

 真壁が答える。

 朱里は目を閉じた。

「よかった」

 その声には、嘘はなさそうだった。

 ただし、すべてが真実でもない。

 二階堂が訊いた。

「灯村さんと、何か接点が?」

「母のことを少し知っていました」

「火野千景さんの?」

「はい。けれど、あまり話してくれませんでした」

「今回、灯村さんに会う予定は?」

 朱里は首を横に振った。

「ありません。でも、話せるなら話したかった」

「何を」

「母が最後に誰といたのか」

 真壁は朱里を見た。

「灯村さんが知っていると?」

「二十一年前、灯村さんは港にいました。母は火禍の前、港へ行っていたと聞きました」

「誰から」

「古賀さんです」

 古賀清澄。

 死んだ保存会の老人。

 真壁は二階堂と目を合わせた。

 古賀は多くを知っていた。

 灯村も知っている。

 そして二人とも、犯人に狙われた。

 朱里はさらに言った。

「でも、古賀さんは最後まで詳しく話してくれませんでした。灯村は逃げなかった、とだけ」

「逃げなかった?」

「はい。逃げた人間がいる、とも言っていました」

 真壁は黙った。

 灯村。

 古賀。

 真依。

 火野千景。

 鳳悠一。

 沙羅。

 名前だけが少しずつ床下から出てくる。

 だが、まだつながらない。

 朱里は食堂の方へ戻ろうとした。

 二階堂が声をかける。

「火野さん」

「はい」

「七禍を壊すために七禍を使う、という話」

 朱里は足を止めた。

「はい」

「あなた自身は、どう思います?」

「愚かだと思います」

「でも、理解はできる?」

「……理解は、できます」

 二階堂は微笑まなかった。

「それが一番危ないんですよね」

 朱里は振り返った。

「理解することが?」

「理解できる悪事は、自分の言葉に近いから」

 朱里は、しばらく二階堂を見ていた。

「二階堂さんは、人の言葉を疑うんですね」

「ええ」

「自分の言葉も?」

「一番疑います」

 朱里は、ほんの少しだけ笑った。

「だから広報なんですね」

「たぶん」

 朱里はそれ以上答えず、食堂へ戻った。

 真壁は二階堂を見た。

「突っ込みすぎだ」

「知ってる」

「怒らせるぞ」

「怒らせた方が、言葉が出る人もいる」

「火野さんが犯人だと思ってるのか」

 二階堂はすぐには答えなかった。

「思いたくはない」

「思いたくはない、か」

「彼女の言葉、犯人の思想に近すぎる。でも近すぎるからこそ、犯人が彼女に寄せている可能性もある」

 鳳が低く言った。

「誰かを犯人像に置く」

「そう」

 二階堂は頷いた。

「この犯人は、死者だけじゃなく、生きている人間の名前も配置する」

     *

 久世玲央は、食堂の端でカメラバッグを抱えていた。

 真壁が近づくと、彼はすぐに顔を上げた。

「また映像ですか」

「はい」

「全部見せました」

「全部かどうか、こちらではまだ確認していません」

 久世の顔が少し引きつった。

「疑っているんですね」

「全員を」

 二階堂が横から言う。

「その言い方、便利だね」

「実際そうだ」

「久世さん。灯村さんが救出された時、何を見ていました?」

 久世は一瞬、答えに詰まった。

「何を、というのは」

「灯村さんじゃなくて、カメラバッグを気にしていました」

「……癖です。仕事道具なので」

「中のデータを心配していた?」

「湿気が多いから」

 二階堂は食堂の窓を見る。

「あなた、旧祠の影を撮った映像で、鳳さんに似た影を“鳳さんですか”と言いましたよね」

「似ていたので」

「でも、あなたは映像作家です。反射くらい見慣れているはずです」

 久世は黙った。

「本当は、あの影が鳳さんじゃない可能性に気づいていたのでは?」

「……あとから見れば」

「その場では?」

「動揺していました」

「動揺している人間は、わりと正直な判断をすることもあります」

 久世はカメラバッグの紐を握った。

 指先が白くなる。

 真壁が言った。

「久世さん。あなたの映像には、犯人が映っている可能性があります。あるいは、犯人が映っていると思わせる何かが映っている。どちらでも重要です」

「だから全部出せと?」

「はい」

「出したら、僕が疑われるかもしれない」

「出さなくても疑います」

 二階堂が言った。

「出した方が、疑いの文章は短くなります」

 久世は乾いた笑いを漏らした。

「嫌な言い方ですね」

「仕事柄」

 久世はしばらく黙っていた。

 やがて、バッグの底から小さなメモリーカードケースを取り出した。

「これは、まだ見せていません」

 佐伯が身を乗り出す。

「なぜ隠していたんですか」

「隠していたわけじゃ……」

「理由を」

 真壁が言うと、久世は観念したように息を吐いた。

「契約外の映像だからです。開発会社から頼まれたプロモーション映像とは別に、自分の作品用に撮っていました。無断撮影と取られるかもしれない」

「何が映っている」

「港へ下りる祭礼道です。船が燃える前」

 真壁と二階堂は目を合わせた。

「見せてください」

 食堂の端で、映像が再生された。

 夜の七禍館。

 灯が揺れている。

 カメラは食堂の窓ではなく、外の渡り廊下かどこかから撮影しているようだった。斜め下に、港へ続く古い石段が見える。

 時刻表示は九時十四分。

 人影が一つ、石段を下りていく。

 以前見た映像より鮮明だった。

 黒いコート。

 高い背。

 手に持った細長いもの。

 鳳に似ている。

 だが、歩き方が違った。

 真壁はすぐに思った。

 鳳はもっと足音を消すように歩く。建物の床を無意識に読む人間の歩き方だ。この人影は、少し肩が揺れている。急いでいる。階段に慣れているようで、ところどころ足元を確認している。

「止めて」

 二階堂が言った。

 映像が止まる。

 人影が振り返る寸前。

 二階堂が画面の左端を指した。

「ここ」

 風洞回廊の入口付近。

 画面の端に、別の影があった。

 小さい。

 立っているというより、身を潜めている。

 顔は見えない。

「これは?」

 真壁が訊く。

 久世は首を横に振った。

「撮っている時は気づきませんでした」

「本当に?」

「本当です」

 鳳が画面に顔を近づける。

「風洞回廊の入口です」

「そこから港へ下りられるか」

「直接は無理です。ただ、管理通路に入れるなら、旧祭壇棟や海側回廊へつながる可能性があります」

 九条が静かに言った。

「灯村は“風が人を”と言った」

 食堂の空気が、また冷えた。

 二階堂が映像を進める。

 人影は階段を下りて消える。

 風洞回廊の入口にいた小さな影も、いつの間にか消えていた。

「この映像、犯人にとって都合が悪いですね」

 二階堂が言った。

 久世は顔を上げる。

「どういう意味ですか」

「だから隠した、という話ではありません。あなたが隠していたことを犯人が知っていたなら、次に狙われるのはあなたかもしれない」

 久世の顔から血の気が引いた。

 その時、食堂の窓が大きく鳴った。

 風だった。

 朝が近づくにつれ、海風が強まっている。

 七禍館のどこかで、長い笛のような音がした。

 ヒュウ、と細く高い音。

 風洞回廊を抜ける風。

 鳳が顔を上げた。

「風速が上がっています」

「それが?」

「風洞回廊には、強風時に自動で閉まる防風扉があります」

 二階堂が嫌そうに言った。

「また嫌な仕組み?」

「ええ」

 鳳は図面を見る。

「古い構造ですが、残っているなら危険です。一定以上の風圧で扉が閉じる。人が挟まれないよう本来はゆっくり閉まるはずですが、整備不良なら」

 真壁は立ち上がった。

「確認する」

 久世が小さく言った。

「僕も」

「だめです」

 真壁は即答した。

「でも、僕の映像が」

「だからです。あなたは食堂に残る」

 久世は黙った。

 その沈黙は、納得ではなかった。

 恐怖だった。

     *

 風洞回廊は、七禍館の中で最も細い場所だった。

 廊下というより、二つの棟の間を無理やりつないだ管のような空間だった。片側は崖、片側は古い外壁。窓は細長く、ところどころ格子が入っている。風が通り抜けるたび、壁の内側が低く鳴った。

 四つ、風は影を吊る。

 その歌を思い出さないようにしても、無理だった。

 風洞回廊に入った瞬間、その言葉は身体の中に入ってくる。

 風が、人を吊る場所。

 真壁、鳳、佐伯の部下二人が回廊を確認する。

 九条は灯村の状態を見ており、二階堂は食堂に残っていた。久世から目を離さないためだ。

「防風扉は?」

 真壁が訊く。

 鳳が回廊の中ほどを指した。

「あそこです」

 回廊の途中に、古い金属製の扉があった。普段は壁際に収納されているようだが、風が強い時には横からスライドして閉まる構造らしい。上部には滑車とレール。下部には古い重り。壁には色褪せた注意書きがある。

 ――強風時、扉作動注意。

 真壁はその文字を見た。

「動くのか」

「本来なら。ただ、今は管理されていないはずです」

 鳳はレールを確認する。

「最近、動いています」

「跡が?」

「埃が切れています。滑車にも新しい擦過痕」

「犯人が動かした」

「可能性があります」

 真壁は風洞回廊の先を見た。

 奥へ行くほど暗い。

 朝の光は入っているはずなのに、窓が細いため薄暗い。風の音が一定ではなく、場所によって高くなったり低くなったりする。人の声も、ここでは歪むだろう。

「灯村さんが言った“風が人を”は、ここか」

「そう考えるのが自然です」

 鳳は防風扉の重りを見た。

「この扉、閉じる時にかなり強い力が出ます。ロープを接続すれば、人を引くこともできる」

 真壁は鳳を見た。

「吊れるか」

「条件が揃えば」

 その時、食堂の方角から悲鳴が上がった。

 真壁は走った。

 風洞回廊を戻る。

 途中、無線に二階堂の声が入った。

 雑音混じりだったが、聞こえた。

『真壁、久世さんがいない』

「いつからだ」

『一分前までいた。映像の再確認中に、照明が一瞬落ちた。その隙に』

「全員動かすな」

『佐伯さんに任せた。俺は廊下を見る』

「一人で行くな」

『それ、俺に言う?』

「言う」

『了解。食堂前で待つ』

 真壁は舌打ちした。

 まただ。

 停電。

 視線の誘導。

 席にいたはずの人間が消える。

 黒羽。

 古賀。

 そして久世。

 風洞回廊へ戻ったことが、誘導だったのか。

 犯人は、防風扉を見せ、真壁たちをそこへ向かわせ、その隙に久世を消したのか。

 食堂へ戻ると、二階堂が廊下に立っていた。

「どこへ」

「食堂の裏口。厨房側のドアが少し開いてた」

「追うぞ」

「佐伯さんには全員を見張ってもらってる」

 鳳が息を整えながら言った。

「厨房裏から風洞回廊へ通じる管理通路があります」

 真壁は振り返った。

「今いた場所か」

「はい。ただし客用の風洞回廊ではなく、壁裏の細い通路です」

 その時、風の音が変わった。

 低く唸るような音。

 館全体が、息を吸い込んだようだった。

 次の瞬間、遠くで金属が走る音がした。

 ガラガラガラ、とレールを滑る音。

 そして、鈍い衝撃音。

 ドン。

 何か重いものが閉まった。

 鳳の顔が変わる。

「防風扉です」

「久世さんは」

「風洞回廊かもしれません」

 真壁は走った。

 さっき確認した客用の風洞回廊へ。

 だが、入口に近づく前から、異様な音が聞こえていた。

 風の音ではない。

 ぎし。

 ぎし。

 何かが、揺れる音。

 真壁は回廊へ飛び込んだ。

 防風扉が半分閉まっている。

 その向こうに、人影が吊られていた。

 久世玲央だった。

 首にロープがかかり、身体が宙に浮いている。両足が床からわずかに離れ、風に煽られて揺れていた。カメラバッグは床に落ち、レンズが割れている。

「久世さん!」

 真壁は走った。

「待って!」

 鳳が叫ぶ。

 真壁は足を止めた。

 床に、細いワイヤーが張られていた。

 あと一歩踏み込めば、足を取られていたかもしれない。

 鳳が息を切らしながら追いつく。

「防風扉とロープが連動しています。触ると締まる可能性がある」

「九条を呼べ!」

 二階堂が無線を入れる。

「九条、風洞回廊! 久世さんが吊られてる!」

 雑音。

 しかし、すぐに九条の声。

『行く』

 真壁はロープの経路を見た。

 久世の首から伸びたロープは、天井の滑車を通り、防風扉の上部へつながっている。扉が閉まる力でロープが引かれ、久世が吊り上げられた。

 風が人を吊った。

 いや、違う。

 風が扉を閉じ、扉がロープを引き、ロープが人を吊った。

 人間がそれを仕掛けた。

「鳳さん、外せるか」

「扉側を固定すれば」

「早く」

「でも、首への負荷を抜く順番を間違えると危険です」

 二階堂が叫ぶ。

「真壁、俺が身体を支える」

「だめだ。床のワイヤー」

「どこなら行ける」

 鳳が床を指示する。

「右の壁沿い。窓側は踏まないでください。扉に近づきすぎるとレールが動く」

 真壁と二階堂は、鳳の指示に従って久世へ近づいた。

 真壁が久世の身体を支える。

 重い。

 生きている人間の重さは、死体とは違う。

 だが、久世の身体はぐったりしていた。

「久世さん!」

 二階堂が呼ぶ。

 返事はない。

 九条が到着した。

 状況を一瞬で見て取る。

「身体を支えたまま。ロープ切る」

「切っていいのか」

「今は頸部の圧を抜くのが先」

 九条は小型のカッターを出し、ロープへ手を伸ばす。

 鳳が防風扉の重りを押さえる。

「今、固定します」

 金属が軋む。

 風がまた強くなる。

 扉が動こうとする。

 鳳の手が白くなる。

「鳳さん!」

「大丈夫です」

「無理するな」

「今は無理します」

 二階堂が低く言った。

「真壁、あとで怒って」

「今も怒ってる」

「知ってる」

 九条がロープを切った。

 久世の身体が落ちかける。

 真壁と二階堂で支え、床へ下ろす。

 九条がすぐに気道を確認した。

「呼吸、弱い。脈あり」

「生きてるか」

「生きている」

 二階堂が目を閉じた。

「よかった」

 だが、九条の顔は緩まなかった。

「重度の頸部圧迫。意識なし。急ぐ」

 真壁は回廊の床を見た。

 久世のカメラバッグ。

 割れたレンズ。

 張られたワイヤー。

 防風扉。

 ロープ。

 そして、壁に貼られた小さな紙片。

 そこには、黒い字で書かれていた。

 四つ、風は影を吊る。

 その下に。

 真壁彰。

 二階堂が、それを見た瞬間、顔を変えた。

「真壁」

 真壁は紙片を見た。

 自分の名前があった。

 久世ではない。

 真壁彰。

 犯人は、久世を吊り、真壁の名を置いた。

 風禍の死者としてではない。

 風禍の犯人として。

 あるいは、次に吊られる影として。

 真壁は、一瞬だけ冷えたものを感じた。

 黒羽の時は鳳。

 今回の久世の時は真壁。

 犯人は、外部の者を順番に犯人像へ近づけていくつもりなのか。

 久世の映像には、真壁が風洞回廊へ向かう姿が映っているかもしれない。

 灯村救出の前後、真壁は何度も館の中を移動した。

 誰かがその一部だけを切り取れば、真壁を犯人にできる。

 二階堂が紙片へ近づこうとした。

「触るな」

 真壁が言った。

「わかってる」

 二階堂の声は低い。

 怒っていた。

 彼は、軽く見える時ほど冷静だ。

 だが、本当に怒ると、声が短くなる。

「真壁を犯人にするなら、もう少し筋の通った文章を書け」

 その声に、鳳が顔を上げた。

 九条は久世の処置を続けている。

 真壁は紙片を見た。

 風は影を吊る。

 真壁彰。

 確かに、真壁は影になりやすい。

 現場で動く。

 危険な場所へ行く。

 人を追う。

 守るために前へ出る。

 その行動を切り取れば、いつでも犯人に見せられる。

「二階堂」

「何」

「怒るな」

「怒ってない」

「怒ってる」

「怒ってるよ」

 二階堂は紙片から目を離さずに言った。

「でも大丈夫。怒ってる時ほど、俺は順番を間違えない」

 真壁は小さく頷いた。

「なら、久世さんを先に」

「もちろん」

 久世は生きていた。

 風禍は、未遂に終わった。

 だが、犯人の目的は半分達成されている。

 久世の映像は奪われたかもしれない。

 真壁の名前は置かれた。

 風洞回廊の仕掛けは作動した。

 そして、七禍館の風は本当に人を吊った。

 真壁は、防風扉を見た。

 扉はまだ軋んでいる。

 風が吹くたび、ロープの切れ端が揺れた。

 影が、床に落ちる。

 吊られた人間の影ではない。

 これから疑われる者の影だった。

     *

 久世を管理室横の小部屋へ運び、九条が処置を続けた。

 灯村と久世。

 二人の生存者。

 そして、黒羽と古賀の死者。

 船内の身元不明遺体。

 七禍は、死と生の境目を曖昧にしながら進んでいる。

 真壁は風洞回廊へ戻り、現場を確認した。

 佐伯が記録を取る。

 鳳は防風扉の構造を調べていた。

「これは、手動で仕込めます」

 鳳が言った。

「詳しく」

「防風扉には、本来、風圧を受ける板と重りがあります。風が一定以上強くなると、板が押され、重りのバランスが崩れて扉が閉まる。安全装置が生きていれば途中で止まりますが、ここでは外されている」

「犯人が外した」

「はい。そして、扉の動きにロープを接続した。風が強まって扉が閉まると、滑車を通じてロープが引かれ、久世さんの身体を吊り上げる」

「犯人はその場にいなくてもいい」

「そうです」

 二階堂が久世のカメラバッグを見た。

「バッグの中身は?」

 佐伯が答える。

「メインカメラのカードがありません。予備カードはありますが、さっき見せてもらった祭礼道の映像が入っていたカードがない」

「やっぱり」

 二階堂は低く言った。

「久世さんを殺すためじゃなく、映像を奪うため」

「殺してもいいとは思っていた」

 真壁が言う。

「うん。そこは間違えない」

 二階堂は壁の紙片を見た。

「で、ついでに真壁を置いた」

「ついでではないかもしれない」

 鳳が言った。

「防風扉を見に行ったのは、真壁さんです。犯人は、真壁さんがここへ来ることを予測していた」

「俺たちをここへ誘導した」

「はい。風洞回廊を確認させる。久世さんを消す。防風扉を作動させる。真壁さんの名前を置く」

 二階堂が腕を組む。

「かなり忙しい犯人だね」

「事前準備が大半です」

 鳳はロープの切れ端を見た。

「久世さんは、ここへ連れてこられた時点では意識がなかった可能性がある。首にロープをかけ、扉が閉まるタイミングを待てばいい」

「風任せ?」

「風任せに見せた、人為的なタイミングです。食堂で照明を落とした時、厨房裏の通路から久世さんを運び、この位置に固定した。防風扉は、風速が上がる時間を読んでおけば作動します」

「そんなに正確に読めるか」

「この館では、風の通り方が決まっています。海からの風が一定方向になれば、風洞回廊では急に増幅される」

 二階堂が嫌な顔をする。

「風まで館の装置か」

「はい」

 真壁は、床に残る痕跡を見た。

 久世の靴跡。

 犯人の足跡はない。

 いや、薄い跡はあるが、風洞回廊は乾いている場所と湿った場所が混ざっている。誰のものか判別しづらい。

「鳳さん、壁裏の管理通路は」

「狭いですが、人一人は通れます。床に直接足跡を残さず、ここへ近づける」

「犯人はそこから来た」

「可能性が高いです」

 二階堂が紙片を見たまま言った。

「ただ、真壁の名前を置いた理由は、こっちで考えた方がいい」

「どういう意味だ」

「犯人は、真壁を本気で犯人にしたいのか。それとも、真壁が疑われる状況を作って、俺たちの行動を縛りたいのか」

「俺が疑われれば、捜査が鈍る」

「それもある。でも、もっと嫌なのは、真壁自身が前に出づらくなること」

 真壁は黙った。

 二階堂は続ける。

「真壁は危険な場所へ一番に行く。犯人にとっては邪魔。だから、真壁が動くたびに“また一人で現場へ行った”という疑いを作る。守る行動を、犯行に見せる」

「俺を止めるためか」

「そう」

 二階堂はようやく真壁を見た。

「だから止まらないで」

「言われなくても」

「でも、一人では行かないで」

 真壁は苦く笑った。

「それは俺の台詞だと思ってた」

「俺たち全員に適用で」

 鳳が小さく頷いた。

「同感です」

 その時、九条が回廊の入口に現れた。

「久世さん、意識が少し戻った」

「話せるか」

「短くなら」

 真壁たちはすぐに小部屋へ向かった。

 久世玲央は、毛布をかけられ、横になっていた。首には処置の跡がある。顔色は悪く、声を出すのも苦しそうだった。

 九条が先に言った。

「長く喋らせない」

「わかってる」

 真壁は久世の横に膝をついた。

「久世さん。誰にやられましたか」

 久世の目が揺れる。

 唇が動く。

「……見て、ない」

「どうやって風洞回廊へ」

「声が……」

「誰の声」

 久世は苦しげに息を吸った。

「真壁さんの……声で」

 二階堂の表情が消えた。

 真壁は動かなかった。

「俺の声?」

 久世は小さく頷いた。

「映像を……見せろって……厨房の方へ……」

「録音かもしれない」

 二階堂がすぐに言った。

 久世は目を閉じた。

「わからない……でも、声は……」

 九条が止めた。

「ここまで」

 真壁は頷いて立ち上がる。

 自分の声。

 犯人は声まで使い始めた。

 海禍で灯村の声。

 火禍で黒羽の声。

 風禍で真壁の声。

 声も、名前と同じで置ける。

 二階堂が低く言った。

「次の音禍へつながってきたね」

「まだ風禍だ」

「そう。でも犯人はもう音を使ってる」

 鳳が言った。

「七禍は独立していない」

 九条が静かに続けた。

「死体も独立してない」

 真壁は廊下の窓から外を見た。

 朝が来ようとしている。

 だが、館の中は夜より深くなっていた。

 風洞回廊の方から、まだ細い風の音が聞こえる。

 それは、誰かの笑い声にも似ていた。

 久世の証言で、真壁に疑いが置かれた。

 紙片にも、真壁の名があった。

 それでも止まるわけにはいかない。

 犯人は、名前を置く。

 声を置く。

 見え方を置く。

 ならば、こちらは一つずつ剥がすしかない。

 真壁は二階堂を見た。

「俺の声を録れる機会は」

 二階堂は即答した。

「山ほどある。港でも、食堂でも、廊下でも。久世さんのカメラにも入ってる」

「久世さんのカードを奪ったのは」

「真壁の声素材を使った証拠を消すため。あるいは、さらに使うため」

 真壁は息を吐いた。

「面倒だな」

「真壁が言うと本当に面倒そう」

「面倒だ」

 鳳が、廊下の奥を見た。

「真壁さん」

「何だ」

「風洞回廊の壁に、古い刻印がありました」

「刻印?」

「四つ、風は影を吊る。その下に、二十一年前の文字が削られていた」

 二階堂が眉を寄せる。

「削られていた文字?」

「はい。まだ読めませんが、一文字だけ残っていました」

「何」

 鳳は言った。

「沙羅」

 その名が、廊下に落ちた。

 真壁は目を細める。

 沙羅。

 まだ姿を見せていない名前。

 鷺宮が港で見つけた女に向かって呼びかけた名前。

 血禍の候補者。

 鳳悠一、真依、沙羅。

 ここでまた一つ、過去の名前が現れる。

 風禍は、久世を吊っただけでは終わっていない。

 犯人は、過去の七禍の配置図を、現在の事件の上へ重ねようとしている。

 真壁は低く言った。

「次は沙羅を探す」

 二階堂が頷いた。

「そして、真壁の声を置いたやつも」

 九条が久世の処置を終え、手袋を外した。

「それと、久世さんは生きてる」

 真壁は九条を見る。

「そうだな」

「生きてる人間の証言は変わる。死体より面倒」

 二階堂が少し笑った。

「でも今回は、生きててくれて助かった」

「それはそう」

 九条は短く答えた。

 真壁は、風洞回廊の方角を見た。

 風はまだ鳴っている。

 しかし、吊られた影は落とされた。

 久世は死者にならなかった。

 犯人の七禍は、また完全には揃わなかった。

 だが、その不完全さこそが、次の事件を呼ぶ。

 七つを揃えなければ終わらない。

 古賀の言葉が、真壁の中で蘇る。

 七禍は呪いではない。

 誰かが、七つにしたがっている。

 そしてその誰かは、まだ諦めていない。


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