表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
七禍島、鳳恭介の帰還 ―七つの禍に選ばれた死者と、遺体なき兄の謎―  作者: 綾見 恋太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/16

第七章 鏡禍――罪を返す廊下

 沙羅という名前は、館の中の空気を変えた。

 それは、死者の名前ではなかった。

 少なくとも、まだ死者として確認された名前ではない。

 けれど七禍館では、名前が先にあるだけで十分だった。

 灯村要。

 黒羽宗一郎。

 古賀清澄。

 真壁彰。

 それぞれの名前は、それぞれ違う形で置かれた。

 木札に。

 名刺に。

 床下の壁に。

 紙片に。

 そして今度は、風洞回廊の壁に削られた古い刻印として。

 沙羅。

 真壁彰は、風洞回廊の壁を見ていた。

 朝の薄い光が、細い窓から斜めに入っている。夜の赤い非常灯の下では見えなかった壁の凹凸が、少しずつ浮かび上がっていた。風洞回廊の壁は、ところどころ補修されている。漆喰の色が違い、古い木材と新しい補強材が混ざっている。

 その一部。

 防風扉から少し離れた柱の陰。

 そこに、削り取られた文字があった。

 四つ、風は影を吊る。

 その下に、別の文字列があったらしい。だが、ほとんど削られている。刃物か鑿のようなもので、表面をえぐった跡が残っていた。

 かろうじて読めるのは、二文字だけ。

 沙羅。

 鳳恭介が、その文字をライトで照らしている。

「二十一年前のものか」

 真壁が訊く。

「断定はできません。ただ、削られた跡はかなり古い。最近削ったものではなさそうです」

「じゃあ犯人が今置いた名前じゃない」

「ええ。もともとここにあった名前を、誰かが消した」

 二階堂壮也が、壁に触れない距離で覗き込んだ。

「消したのに、残った。名前って厄介だね」

「消そうとした人間が、雑だったのかもしれません」

 鳳が言う。

 二階堂は首を横に振った。

「違うと思う。こういう消し方は、消したかったんじゃなくて、消したことを残したかった感じがする」

「どういう意味だ」

 真壁が訊くと、二階堂は少しだけ考えた。

「完全に削るなら、もっと削る。上から塗ることもできる。柱ごと替えることもできる。でも中途半端に削ると、“ここに何かありました”って痕になる。消した人間が下手だったか、あるいは、誰かに気づいてほしかった」

 九条雅紀は少し離れた場所で、久世玲央が吊られていた床の痕を見ていた。

 彼は振り返らずに言う。

「被害者の傷も似てる」

 二階堂が笑いかけて、やめた。

「似てるって言うと、九条に怒られると思った」

「怒ってない」

「いや、顔が怒ってる」

「顔は言わない」

「今日それ何回目?」

 九条は答えず、壁の刻印を見た。

「消した跡も、残った跡」

 それだけ言った。

 真壁は、文字を見つめた。

 沙羅。

 この名前はすでに一度、現れている。

 港の倉庫。

 船火災の後、網の陰にいた若い女。

 鷺宮依子が彼女を見て「沙羅」と呼んだ。

 女は否定した。

 私は沙羅じゃない、と。

 あの場面は、その後の火禍、土禍、風禍に押し流されていた。

 だが、押し流された名前ほど、後で浮かんでくる。

「鷺宮さんに聞く」

 真壁は言った。

「沙羅について、まだ話していないことがある」

 二階堂が頷く。

「鷺宮さん、ずっと名前に反応してる。灯村さんの時も、鳳さんのお兄さんの時も、真依の時も、沙羅の時も」

「全部知ってるのか」

「全部ではないと思う。でも、知らないふりをしている部分はある」

 鳳が風洞回廊の奥を見た。

「沙羅という名前が風禍の場所に残っているなら、二十一年前の風禍は、資料と違う可能性があります」

「資料では誰だった」

「風禍は、宮瀬遥斗。風洞回廊で首を吊ったとされています」

「沙羅ではない」

「はい」

 二階堂が低く言う。

「つまりここも、名前が入れ替わっている」

 真壁は、壁の削り跡をもう一度見た。

 七禍島事件の資料は、死者を七つの禍へ並べる資料だった。

 だが、そこに書かれた名前は、本当にその場所で死んだ人間のものだったのか。

 海禍の灯村は生きていた。

 火禍の黒羽は火で死んでいない。

 土禍の古賀は土で窒息していない。

 風禍の久世は死ななかった。

 現在事件は、見立ての形を借りて、見立てそのものの嘘を暴いている。

 ならば、二十一年前も。

 死者と禍は、一対一で対応していなかったのかもしれない。

「食堂に戻る」

 真壁は言った。

「全員の前で聞く」

 二階堂が眉を上げる。

「鷺宮さんに?」

「ああ」

「かなり追い詰めるよ」

「隠している余裕はない」

「了解」

     *

 食堂には、疲労と恐怖と眠気が混ざった匂いがあった。

 夜が明けかけているにもかかわらず、誰も朝を迎えた顔をしていなかった。黒羽宗一郎と古賀清澄が死に、久世玲央は重傷、灯村要も意識が不安定なまま小部屋で九条の処置を受けている。船内の身元不明遺体は、まだ港に残されたまま。

 椅子に座っている者たちは、みな少しずつ距離を取っていた。

 鷺宮依子。

 火野朱里。

 久世の助手として来ていた若いスタッフ。

 調理担当の二人。

 佐伯の部下たち。

 そして、真壁、二階堂、鳳。

 久世は小部屋へ移され、九条が時々様子を見ている。

 佐伯警部補は、疲れ切った顔で真壁を見た。

「風洞回廊の件は」

「久世さんは生きています。ただし、話せる状態ではありません」

「真壁さんの名前が置かれていた件は」

 その一言で、食堂の視線が真壁へ集まった。

 二階堂が、すぐに言った。

「置かれていたのは名前です。事実ではありません」

 佐伯は少し慌てた。

「もちろん、そういう意味では」

「意味を間違えない方がいいです」

 二階堂の声は穏やかだった。

 だが短い。

 怒っている。

 佐伯はそれを察し、言葉を切った。

 真壁は気にしなかった。

 疑われること自体は慣れている。

 問題は、それが誰かによって設計されていることだ。

「鷺宮さん」

 真壁は、管理人の女を見た。

 鷺宮は椅子に座ったまま、指を組んでいる。乱れた髪を直す余裕もないのか、額に細い後れ毛がかかっていた。

「はい」

「沙羅という名前について、話してください」

 鷺宮の顔から、さらに血の気が引いた。

「私は……」

「港で、あなたは倉庫にいた女性を沙羅と呼びました。彼女は否定した。今度は風洞回廊に、沙羅という名前が削られた跡として見つかった」

 食堂が静まり返る。

 火野朱里が、わずかに顔を上げた。

「沙羅さんの名前が?」

 二階堂が朱里を見る。

「ご存じなんですか」

「名前だけは」

「また名前だけ」

 二階堂は小さく呟いた。

 鷺宮は唇を噛んでいた。

 真壁は続ける。

「鷺宮さん。沙羅さんとは誰ですか」

 長い沈黙。

 やがて、鷺宮は小さく言った。

「二十一年前に、いなくなった人です」

「死者ではなく?」

「資料上は、死者ではありません」

「資料上は?」

 鷺宮は震える息を吸った。

「島では、血禍の候補者だったと言われています」

 鳳の指が、膝の上で止まった。

「血禍の候補者」

「はい」

「血禍の死者は、鳳悠一さんだと記録されています」

「そうです」

「候補者が他にもいた?」

 鷺宮は頷いた。

「沙羅。真依。鳳悠一。その三人の名前が、古い木札に並んでいたと聞いています」

 食堂の空気が変わった。

 血禍は死者を選ぶ。

 その言葉が、急に別の意味を持つ。

 死者を選ぶ。

 候補者の中から。

 誰を死者として扱うかを。

 二階堂が低く言った。

「ひどいな」

 その声には、いつもの軽さが一切なかった。

「人間の名前を候補として並べるなんて、ひどい」

 鷺宮は目を伏せた。

「私は当時、子どもでした。詳しいことは知りません」

「でも知っていることはある」

 真壁が言う。

「沙羅は、どこへ消えた」

「わかりません」

「では、港にいたあの女性は?」

「わかりません」

「本当に?」

 鷺宮は答えない。

 真壁は問い方を変えた。

「あなたは、なぜ彼女を沙羅と呼んだんですか」

 鷺宮の手が震えた。

「似ていたからです」

「誰に」

「沙羅さんに」

「あなたは子どもだった。二十一年前の沙羅の顔を覚えている?」

「写真で見ました」

「どこで」

「管理室の古い資料です」

「その資料は今も?」

 鷺宮は首を横に振った。

「なくなっています」

「いつ」

「昨夜、確認した時にはありませんでした」

 二階堂が静かに息を吐いた。

「また資料が消えた」

 火野朱里が言った。

「沙羅さんは、母と同じ頃に七禍館にいた人です」

 全員の視線が朱里へ移る。

 朱里は手元を見ながら続けた。

「母の日記に名前がありました。沙羅、真依、鳳くん。三人で図面を見ていた、と」

 鳳が顔を上げる。

「鳳くん?」

「お兄さんのことだと思います」

 鳳の表情がわずかに揺れた。

 真壁は、朱里に訊いた。

「その日記は?」

「持っています」

「見せてもらえますか」

 朱里は少し迷った。

 だが、バッグから古い手帳を取り出した。

 表紙は擦り切れている。湿気を吸った紙は少し波打っていた。火野千景の日記。

 朱里は該当箇所を開いた。

 そこには細い字で、こう書かれていた。

 ――真依は、血禍の間なんてないと言う。

 ――沙羅は、それでも血禍は人を選ぶと言う。

 ――鳳くんは、選ばれる前に名前を外せと言った。

 鳳は、その一文を見たまま動かなかった。

 兄の声が、紙の上に残っている。

 二十一年前の兄が、まだ誰かの言葉の中で生きている。

 真壁は鳳の横顔を見た。

 鳳は泣かなかった。

 ただ、息を少しだけ深く吸った。

「兄は、血禍にされる前から、それを止めようとしていた」

 小さな声だった。

 二階堂が日記を覗き込む。

「血禍の間なんてない。これはかなり重要だね」

 鷺宮が顔を上げた。

「そんなはずはありません。血禍の間は、館の奥に」

「案内図にはあります」

 鳳が静かに言った。

「でも、建物の実寸と合いません」

「では、あの部屋は」

「部屋ではない可能性があります」

 朱里は目を伏せた。

「母も、そのことを知っていたのかもしれません」

「だから火禍に?」

 二階堂が言った。

 朱里は答えなかった。

 真壁は、流れを整理する。

 二十一年前、火野千景、真依、沙羅、鳳悠一は、七禍館の構造について何かを知った。

 血禍の間は存在しない。

 七禍の見立ては、人間の死を説明するためではなく、人間の名前を配置するために作られた。

 その秘密に触れた者たちが、七禍の候補になった。

 いや、まだ飛躍だ。

 だが、線は見え始めている。

「鷺宮さん」

 真壁は言った。

「血禍の間へ案内してください」

 鷺宮は硬直した。

「今ですか」

「はい」

「危険です」

「危険だから、警察が行きます」

「床が傷んでいます」

「鳳さんが確認します」

 鳳は頷いた。

 鷺宮はしばらく黙っていた。

 その時、食堂の奥から、久世玲央のかすれた声が聞こえた。

「行かない方がいい」

 全員が振り返った。

 久世は小部屋の入口に立っていた。

 九条が背後から支えている。

「九条」

 真壁が咎めるように言う。

 九条は短く答えた。

「本人がどうしても、と」

「喋れる状態か」

「短くなら」

 久世は首に巻かれた包帯を押さえながら、かすれた声で言った。

「血禍の間に、行ったら駄目です」

「なぜ」

 真壁が訊く。

「撮りました」

「何を」

「昨日の夜、血禍の間の前で……鷺宮さんが」

 鷺宮の顔が真っ白になった。

「久世さん」

「誰かと話していました」

「誰と」

「わからない。でも、声は女でした」

 食堂の視線が、鷺宮と朱里へ動いた。

 二階堂がすぐに言った。

「名前を置かない」

 その声は鋭かった。

 視線が止まる。

 久世は苦しそうに続けた。

「会話は、少しだけ録れてます。でも、カードは……」

「奪われたカードか」

 真壁が言う。

 久世は頷いた。

「たぶん、風洞回廊で……」

 九条が止める。

「もういい」

 久世は息を乱している。

 真壁は頷いた。

「戻ってください」

 久世が小部屋へ戻される。

 鷺宮は震えていた。

 真壁は彼女を見た。

「話していた相手は誰ですか」

「……わかりません」

「あなたが話していたのに?」

「顔は見ていません」

「場所は血禍の間の前」

「はい」

「内容は」

 鷺宮は、唇を噛んだ。

「沙羅の名前を、これ以上出すなと」

「誰に言われた」

「わかりません。声だけでした」

 二階堂が低く言った。

「また声」

「本当に、姿は見えなかったんです。廊下の奥から、声だけが」

 鳳が顔を上げた。

「血禍の間の前にも、音響管か通気口がある可能性があります」

 二階堂が苦笑した。

「声だらけの館だな」

「声を残すための館だったのかもしれません」

 鳳の言葉に、食堂が静まった。

 真依は床の下に声を置いた。

 血禍の間なんてない。

 音が回る館。

 声だけが届く廊下。

 この館は、死体だけではなく、声も配置できる。

 ならば、目撃証言も、呼び出しも、脅迫も、すべて声で置ける。

「血禍の間へ行く」

 真壁は言った。

「ただし、全員ではない。俺、鳳さん、佐伯さん。九条は久世さんと灯村さんを見る。二階堂は食堂に残る」

「俺、残るの?」

 二階堂が不満そうに言った。

「残れ」

「まあ、食堂の空気も危ないしね」

「あと、お前が行くと犯人に使われる可能性がある」

 二階堂は一瞬だけ黙った。

「次は俺か」

「鏡禍だ」

 真壁は言った。

 五つ、鏡は罪を返す。

 二階堂は、目を細めた。

「俺、見られ方の仕事してるから、鏡とは相性悪いかもね」

「冗談で済ませるな」

「済ませてないよ」

 二階堂は笑った。

 だがその笑みは、かなり冷たかった。

「俺を犯人にするつもりなら、きちんと見ておく」

     *

 血禍の間へ向かう廊下は、鏡廊下の先にあった。

 正確には、鏡廊下を通らなければ、血禍の間の手前へ行けない構造になっていた。これもまた、七禍館らしい嫌な造りだった。

 鏡廊下。

 七禍の五番目に対応する場所。

 壁の左右に、古い鏡が並んでいる。どの鏡も曇っており、像をはっきり映さない。真壁たちが歩くたびに、無数の黒い影が左右に増えた。誰が本物で、どれが反射なのか、少し目を逸らすとわからなくなる。

 鳳は、廊下に入るなり足を止めた。

「何だ」

 真壁が訊く。

「奥行きが合いません」

「またか」

「はい。見た目より浅い場所と、深い場所があります」

「鏡だからじゃないのか」

「それもあります。ただ、構造としてもおかしい。片側の壁が厚すぎる」

 佐伯が不安そうに言った。

「隠し通路ですか」

「可能性があります」

 真壁は左右の鏡を見た。

 鏡の中の真壁が、少し遅れて動くように見える。

 もちろん錯覚だ。

 だが、その錯覚が不快だった。

 鏡は、見えているものを返す。

 ただし、正しく返すとは限らない。

 廊下の途中で、鳳が一枚の鏡を指した。

「この鏡だけ角度が違います」

「わかるのか」

「床との接点を見ると」

 鳳はしゃがみ込み、鏡の下端を見た。

「ここに新しい傷があります。最近動かした可能性がある」

 真壁は鏡に映る廊下を見た。

 正面には誰もいない。

 だが、斜め奥に、誰かの影が映ったような気がした。

「止まれ」

 真壁は低く言った。

 佐伯が身構える。

 鳳も顔を上げる。

 鏡の中の奥。

 黒い影が、一瞬動いた。

「誰かいる」

 真壁は廊下の先へライトを向けた。

 実際の廊下には誰もいない。

 だが、鏡の中には、確かに影がある。

 黒い服。

 金髪に見える反射。

 真壁は眉を寄せた。

「二階堂さん?」

 佐伯が呟きかけた。

 真壁はすぐに言った。

「名前を置くな」

 佐伯は口を閉ざす。

 影は、鏡の中でゆっくり動いた。

 そして、消えた。

 鳳が鏡の角度を見て、顔を強張らせる。

「違います」

「何が」

「この影は、廊下の奥ではなく、壁の内側から映っています」

「壁の内側?」

「鏡の向こうに、浅い空間があります」

 真壁は鏡に近づいた。

 触れない距離で見る。

 鏡の縁に、細い隙間がある。

 その奥に、暗い空洞。

 展示スペースのようにも見える。

「誰かが隠れていた?」

「あるいは、人形か衣服を置いた」

 佐伯が言った。

「今の、二階堂さんに見えました」

 真壁は佐伯を見た。

「見えた、だけです」

「はい」

「それを忘れないでください」

 佐伯は頷いた。

 鏡廊下の奥に、分厚い扉があった。

 血禍の間へ続く扉だと鷺宮は言っていた。

 扉には鍵がかかっている。

 古い錠前。

 その下に、新しい南京錠。

「鍵は?」

 真壁が訊く。

 佐伯が鷺宮から預かった鍵束を出す。

 南京錠は開いた。

 古い錠前は、少し抵抗したが回った。

 鳳が扉の周囲を見ていた。

「扉の奥、すぐ部屋ではありません」

「わかるのか」

「空気の抜け方が違います。奥に細い通路がある」

 真壁は扉を開けた。

 その瞬間、食堂の方角から悲鳴が上がった。

 続いて、何かが割れる音。

 ガラス。

 いや、鏡か。

 真壁は舌打ちした。

「佐伯さん、戻る」

「血禍の間は」

「後だ」

 鳳が一瞬、扉の奥を見た。

 暗い通路。

 その奥から、かすかな水音が聞こえた。

 だが真壁は鳳の腕を掴んだ。

「行かせない」

「……わかっています」

 三人は鏡廊下を戻った。

 その途中、真壁は床に小さなものが落ちているのを見た。

 白い布。

 拾わず、ライトを向ける。

 ハンカチだった。

 端に、刺繍がある。

 S・N。

 二階堂壮也。

 真壁は息を止めた。

 佐伯も気づいた。

「これは」

「触るな」

 真壁は低く言った。

 鏡廊下。

 二階堂のハンカチ。

 さっき鏡の中に見えた金髪のような影。

 犯人は、今度は二階堂を置いてきた。

     *

 食堂へ戻ると、鷺宮依子がいなかった。

 二階堂が、割れたグラスの横に立っていた。

 床に水が広がっている。

 火野朱里は壁際で立ち尽くし、調理担当の一人が震えている。九条は小部屋から出てきて、廊下を見ていた。

「何があった」

 真壁が訊くと、二階堂が答えた。

「照明が一瞬落ちた」

「またか」

「鷺宮さんが、食堂を出た。止めようとしたら、廊下の奥で鏡が割れる音がした。追いかけたけど、途中でドアが閉まった」

「一人で?」

「佐伯さんの部下と一緒。俺一人じゃない」

 真壁は少しだけ安心したが、すぐに言った。

「鏡廊下でお前のハンカチが見つかった」

 二階堂の表情が止まった。

「俺の?」

「ああ」

「見せて」

「触るな」

「もちろん」

 二階堂は深く息を吐いた。

「来たね」

「それと、鏡の中にお前らしき影が見えた」

「俺は食堂にいた」

「わかってる」

「でも、見た人は?」

「佐伯さんも見た」

 二階堂は一瞬だけ目を閉じた。

 そして開ける。

「わかった。俺を疑う文章が組まれ始めた」

 九条が静かに言った。

「鷺宮さんを探す」

「行くぞ」

 真壁が言うと、二階堂も動こうとした。

 真壁は止めた。

「お前は残れ」

「嫌だね」

「二階堂」

「俺が残ると、次に“二階堂は鷺宮さんを追わなかった”って文章になる。行っても疑われる。残っても疑われる。なら現場を見る」

「お前が来ると、犯人の思う壺かもしれない」

「だから、真壁と九条と鳳さんと一緒に行く」

 二階堂の声は短かった。

「一人では行かない。順番は守る。でも俺を外すな。俺の名前を置かれてるなら、俺が見ないと剥がせない」

 真壁は二階堂を見た。

 怒っている。

 だが、確かに冷静だった。

「わかった」

 九条が短く言った。

「早く」

 一行は鏡廊下へ向かった。

 今度は真壁、二階堂、九条、鳳、佐伯。

 鏡廊下の入口から、空気が変わっていた。

 さっきより冷たい。

 割れた鏡の匂い――というものがあるのかはわからないが、細かい粉塵と古い銀膜の臭いが、廊下に漂っている。

 鏡廊下の中央。

 左側の大きな鏡が割れていた。

 破片が床に散っている。

 その前に、鷺宮依子が倒れていた。

 仰向け。

 胸元に赤い染み。

 右手は割れた鏡の方へ伸びている。

 目は開いている。

 九条が近づき、すぐに膝をついた。

 真壁は周囲を見た。

 二階堂のハンカチは、廊下の端に落ちている。

 鏡の破片に、金色の糸のようなものが絡んでいた。

 髪か。

 繊維か。

 あるいは、二階堂に見せるためのものか。

 佐伯が息を呑んだ。

「二階堂さん……」

 二階堂は何も言わなかった。

 真壁が鋭く言う。

「名前を置くな」

 佐伯は口を閉じた。

 九条が鷺宮の頸動脈に触れた。

 数秒後、低く言う。

「死亡確認」

 鏡禍。

 その言葉を、誰も口にしなかった。

 だが、廊下の左右の鏡が、黙ってそれを返していた。

「死因は」

 真壁が訊く。

「胸部刺創。心臓に近い。即死に近い可能性がある」

「凶器は」

「見当たらない」

「防御創は」

「右手に切創。鏡で切ったものか、抵抗時のものかはまだ」

 二階堂は、鷺宮の倒れた位置と割れた鏡を見ていた。

「俺のハンカチは?」

 真壁が示す。

「そこ」

 二階堂は近づかずに見た。

「たしかに俺のだ」

「いつなくした」

「さっきまでは持ってたと思う。でも確実じゃない。久世さんの処置で水を使った時、手を拭いた。その後、食堂のテーブルに置いたかもしれない」

「誰でも取れる?」

「取れる」

 鳳が割れた鏡の奥を見ていた。

「この鏡、裏に空間があります」

「さっきの影の場所か」

「はい」

 真壁は割れた鏡の向こうを照らした。

 鏡の裏は、浅い展示スペースのようになっていた。人が立つには狭い。だが、マネキンや衣服なら置ける。

 床には、黒いコートの切れ端。

 金色の糸。

 そして、紫色の小さなガラス片。

 二階堂の目が細くなる。

「紫の目、ってこと?」

 誰も答えなかった。

 二階堂は紫がかった目をしている。

 犯人は、そこまで使っている。

 見た目の記号。

 金髪。

 紫の目。

 ハンカチ。

 鏡に映る影。

 すべてを組み合わせて、二階堂壮也という名前を置こうとしている。

「雑だな」

 二階堂が言った。

 声は低い。

「俺を作るなら、もう少し品よくやれ」

 真壁は、二階堂を見た。

 二階堂は笑っていない。

 九条が鷺宮の右手を見ていた。

「何か握ってる」

 真壁が近づく。

 鷺宮の右手は、鏡の破片で切れている。その指の間に、小さな紙片が挟まっていた。

 九条が慎重に取り出す。

 紙片には、血が付いている。

 そこに、震えた字で書かれていた。

 ――沙羅は、返した。

「返した」

 鳳が呟く。

 二階堂が鏡を見る。

「五つ、鏡は罪を返す」

 真壁は紙片を見た。

 沙羅は、返した。

 何を。

 罪をか。

 名前をか。

 死者をか。

 鷺宮は、死ぬ直前にそれを書いたのか。

 それとも、犯人が握らせたのか。

 九条が言う。

「指の力が残っていたかは、後で見る。今は断定しない」

「わかった」

 鳳が鏡の裏の空間を調べていた。

「ここに、人形か衣服が置かれていた可能性があります」

「二階堂に見えるように?」

「はい。鏡の角度で、廊下の奥に人がいるように見せられる」

 二階堂が自分で補った。

「俺のハンカチを落とし、金髪っぽい糸と紫のガラス片を置く。佐伯さんに“俺らしき影”を見せる。鷺宮さんを殺した後、俺がいたように見せる」

 佐伯は苦い顔をした。

「すみません。私は」

「謝らなくていいです」

 二階堂は言った。

「見えたものは見えた。ただ、見えたものに名前をつけるのが早かった」

 佐伯は黙った。

 真壁は鷺宮の遺体周辺を見た。

 血痕が妙だ。

 胸から流れた血は床へ広がっている。だが、割れた鏡の下にも血が飛んでいる。方向が合わない気がした。

「九条」

「見てる」

「血の飛び方が変か」

「変」

 九条は即答した。

「鷺宮さんがここで刺されたなら、飛散方向が合わない血がある。鏡の近くの血は、後から付けたか、別の方向から飛んだ」

「犯人が血を移した?」

「可能性はある」

 二階堂が言う。

「鏡像を作るため?」

 九条は頷いた。

「血は鏡像にならない」

 その言葉に、二階堂はかすかに笑った。

「いいね。それ、覚えておく」

 鳳が廊下の壁に手をかざした。

「この鏡廊下、実際の通路と鏡像の通路が重なるように作られています。外から見た者は、どちらが本物かわかりにくい」

「犯人は、その構造を使った」

「はい」

 真壁は、廊下の奥を見た。

 血禍の間へ続く扉は開いたままだ。

 その向こうは暗い。

 鷺宮は、そこへ向かおうとして殺されたのか。

 あるいは、そこから戻る途中で殺されたのか。

「鷺宮さんは、何を見た」

 真壁が呟いた。

 鳳が答える。

「血禍の間の前で、誰かの声を聞いた。沙羅の名前を出すなと言われた。そして今、沙羅は返した、という紙片を握っている」

 二階堂が言った。

「鷺宮さんは、沙羅のことを知っていた。知りすぎたから殺された」

「沙羅は生きているのか」

 真壁が言う。

 誰も答えなかった。

 その時、鏡廊下の奥から、水の音がした。

 血禍の間へ続く扉の向こう。

 暗い通路の奥で、ぽたり、と何かが落ちる音。

 鳳が顔を上げる。

「奥に水があります」

「血禍の間に?」

「あるいは、その下に」

 二階堂が低く言った。

「行く?」

 真壁は、鷺宮の遺体を見た。

 今、行けば現場を離れることになる。

 だが、血禍の間の奥には、鷺宮が殺される原因になったものがあるかもしれない。

 そして犯人は、こちらが迷うことも計算している。

「佐伯さん」

 真壁は言った。

「鏡廊下の現場保存を。二階堂は俺と来い」

 二階堂が少し驚いた顔をした。

「俺、いいの?」

「お前の名前が置かれた。自分で見ろ」

 二階堂は一瞬だけ黙り、それから小さく頷いた。

「了解」

「九条は鷺宮さんを」

「見る」

「鳳さんは」

「もちろん行きます」

「……まあ、そう言うと思った」

 真壁は、血禍の間へ続く暗い扉を見た。

 海。

 火。

 土。

 風。

 鏡。

 五つ目まで来た。

 残るは音と血。

 だが、もう音は使われている。

 血も、ずっとそこにある。

 真壁たちは扉の奥へ足を踏み入れた。

 背後で割れた鏡が、何も言わずに彼らの背中を返していた。

     *

 血禍の間へ続く通路は、部屋へ向かう道というより、建物の隙間を無理やり通された管だった。

 天井は低く、壁は厚い。

 床は湿っている。

 水が染み出しているのではなく、どこかから運ばれているようだった。小さな水滴が一定間隔で落ちている。ぽたり、ぽたり、と時間を刻むような音。

 二階堂が低く言った。

「音が嫌だね」

「何の音だと思う」

 真壁が訊く。

「時計」

 鳳が先に答えた。

 二階堂が振り返る。

「建築の人からそれが出る?」

「音が一定です。水滴ですが、落ちる間隔が不自然に揃っています。自然な漏水ではないかもしれません」

「誰かが音を作ってる?」

「はい」

 二階堂は口元に手を当てた。

「六つ、音は時を狂わす」

「まだだ」

 真壁が言う。

「まだ、じゃないかもしれない」

 二階堂の声は低い。

「犯人は、もう次を仕込んでる」

 通路の奥に、木の扉があった。

 血禍の間。

 そう書かれた札がある。

 だが鳳は、扉を見て首を横に振った。

「これは、扉ではありません」

「何?」

「扉の形をした蓋です。奥に部屋がある構造ではない」

「つまり」

「血禍の間は、部屋ではない」

 真壁は扉を見た。

 厚い木。

 古い取っ手。

 錆びた金具。

 それは、誰が見ても部屋の扉に見える。

 だが鳳には違うらしい。

 鳳は指で扉の横の壁を示した。

「壁の厚みが異常です。ここから奥は、部屋ではなく空洞か、縦穴か、あるいは水路です」

 二階堂が小さく笑った。

「血禍の間なんてない、か」

 鳳の兄の日記に残された言葉。

 真依の言葉。

 それが、いま建物の形で返ってきている。

 真壁は取っ手に手をかけた。

 鍵はかかっていない。

 鳳が言う。

「ゆっくり」

 真壁は扉を開いた。

 奥から、冷たい湿気が流れ出した。

 部屋ではなかった。

 そこにあったのは、狭い空間だった。

 床はない。

 すぐに黒い穴が開いている。

 周囲には木の枠。

 下へ続く梯子。

 そして穴の底から、水音が聞こえた。

 二階堂が息を呑む。

「何これ」

 鳳の声が硬い。

「縦坑です」

「縦坑?」

「館の下の水路へ降りるための縦の空間。おそらく、昔は祭礼用の水を引くために使われた」

「血禍の間は」

「この縦坑そのものを、部屋として見せていた」

 真壁は下を照らした。

 暗い。

 しかし、底に何かがある。

 木札。

 古い木札が、壁に打ち付けられていた。

 そこには、三つの名前が並んでいる。

 沙羅。

 真依。

 鳳悠一。

 そして、その上に。

 七つ、血は死者を選ぶ。

 鳳の息が止まった。

 真壁は、咄嗟に鳳の腕を掴んだ。

 鳳は動こうとしていた。

 無意識に。

 下へ降りようとしていた。

「鳳さん」

 真壁は低く言った。

「止まれ」

 鳳の指が震えていた。

「兄の名前が」

「見えてる」

「そこに」

「だから止まれ」

 二階堂も、鳳の反対側に立った。

「鳳さん。今、降りたら犯人の文章に乗る」

 鳳は目を閉じた。

 長い呼吸。

「……わかっています」

 声は、かろうじて落ち着いていた。

 だが、顔はそうではなかった。

 この館に来てから、鳳は何度も兄の名前を見せられている。

 血禍。

 候補者。

 木札。

 血禍の間。

 そのたびに、犯人は鳳を一歩ずつ奥へ誘っている。

 今回の縦坑は、その最奥だった。

 二階堂が木札を見下ろした。

「血は死者を選ぶ」

「違う」

 鳳が言った。

 声は低いが、はっきりしていた。

「人が選んだんです」

 真壁は頷いた。

「ああ」

 その時、縦坑の底から、何かが落ちる音がした。

 ぽたり。

 水ではない。

 もっと重い。

 真壁はライトを向け直す。

 木札の下。

 黒い水の縁に、赤いものが広がっていた。

 血か。

 いや、まだわからない。

 二階堂が息を呑む。

「下に、誰かいる?」

 真壁は答えなかった。

 名前を置くな。

 まだ見えない。

 まだ確認していない。

 だが、縦坑の底で、何かが動いた。

 小さな、白い手のようなものが、水面に浮かんだ。

 そしてすぐ、闇に沈んだ。

 鳳が動きかける。

 真壁と二階堂が同時に止めた。

「鳳さん!」

「下に誰かが」

「わかってる!」

 真壁は叫んだ。

「だから、順番を間違えるな!」

 廊下の向こうで、鐘の音が鳴った。

 一回。

 二回。

 三回。

 まだ朝のはずだった。

 鳴るはずのない鐘が、館の中を震わせる。

 二階堂の顔が変わった。

「音禍」

 その鐘の音は、遠いようで近く、上から聞こえるようで下から響いていた。

 時を狂わせる音。

 そして縦坑の底には、血のような赤が広がっている。

 鏡禍の現場を離れた直後に。

 音禍が始まろうとしていた。

 真壁は、縦坑の闇を睨んだ。

 七禍は、もう順番通りには進んでいない。

 犯人は、こちらが一つを解く前に次を重ねてくる。

 鏡は罪を返した。

 だが返ってきた罪は、まだ誰のものかわからない。

 そして今、音が時を狂わせようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ