第七章 鏡禍――罪を返す廊下
沙羅という名前は、館の中の空気を変えた。
それは、死者の名前ではなかった。
少なくとも、まだ死者として確認された名前ではない。
けれど七禍館では、名前が先にあるだけで十分だった。
灯村要。
黒羽宗一郎。
古賀清澄。
真壁彰。
それぞれの名前は、それぞれ違う形で置かれた。
木札に。
名刺に。
床下の壁に。
紙片に。
そして今度は、風洞回廊の壁に削られた古い刻印として。
沙羅。
真壁彰は、風洞回廊の壁を見ていた。
朝の薄い光が、細い窓から斜めに入っている。夜の赤い非常灯の下では見えなかった壁の凹凸が、少しずつ浮かび上がっていた。風洞回廊の壁は、ところどころ補修されている。漆喰の色が違い、古い木材と新しい補強材が混ざっている。
その一部。
防風扉から少し離れた柱の陰。
そこに、削り取られた文字があった。
四つ、風は影を吊る。
その下に、別の文字列があったらしい。だが、ほとんど削られている。刃物か鑿のようなもので、表面をえぐった跡が残っていた。
かろうじて読めるのは、二文字だけ。
沙羅。
鳳恭介が、その文字をライトで照らしている。
「二十一年前のものか」
真壁が訊く。
「断定はできません。ただ、削られた跡はかなり古い。最近削ったものではなさそうです」
「じゃあ犯人が今置いた名前じゃない」
「ええ。もともとここにあった名前を、誰かが消した」
二階堂壮也が、壁に触れない距離で覗き込んだ。
「消したのに、残った。名前って厄介だね」
「消そうとした人間が、雑だったのかもしれません」
鳳が言う。
二階堂は首を横に振った。
「違うと思う。こういう消し方は、消したかったんじゃなくて、消したことを残したかった感じがする」
「どういう意味だ」
真壁が訊くと、二階堂は少しだけ考えた。
「完全に削るなら、もっと削る。上から塗ることもできる。柱ごと替えることもできる。でも中途半端に削ると、“ここに何かありました”って痕になる。消した人間が下手だったか、あるいは、誰かに気づいてほしかった」
九条雅紀は少し離れた場所で、久世玲央が吊られていた床の痕を見ていた。
彼は振り返らずに言う。
「被害者の傷も似てる」
二階堂が笑いかけて、やめた。
「似てるって言うと、九条に怒られると思った」
「怒ってない」
「いや、顔が怒ってる」
「顔は言わない」
「今日それ何回目?」
九条は答えず、壁の刻印を見た。
「消した跡も、残った跡」
それだけ言った。
真壁は、文字を見つめた。
沙羅。
この名前はすでに一度、現れている。
港の倉庫。
船火災の後、網の陰にいた若い女。
鷺宮依子が彼女を見て「沙羅」と呼んだ。
女は否定した。
私は沙羅じゃない、と。
あの場面は、その後の火禍、土禍、風禍に押し流されていた。
だが、押し流された名前ほど、後で浮かんでくる。
「鷺宮さんに聞く」
真壁は言った。
「沙羅について、まだ話していないことがある」
二階堂が頷く。
「鷺宮さん、ずっと名前に反応してる。灯村さんの時も、鳳さんのお兄さんの時も、真依の時も、沙羅の時も」
「全部知ってるのか」
「全部ではないと思う。でも、知らないふりをしている部分はある」
鳳が風洞回廊の奥を見た。
「沙羅という名前が風禍の場所に残っているなら、二十一年前の風禍は、資料と違う可能性があります」
「資料では誰だった」
「風禍は、宮瀬遥斗。風洞回廊で首を吊ったとされています」
「沙羅ではない」
「はい」
二階堂が低く言う。
「つまりここも、名前が入れ替わっている」
真壁は、壁の削り跡をもう一度見た。
七禍島事件の資料は、死者を七つの禍へ並べる資料だった。
だが、そこに書かれた名前は、本当にその場所で死んだ人間のものだったのか。
海禍の灯村は生きていた。
火禍の黒羽は火で死んでいない。
土禍の古賀は土で窒息していない。
風禍の久世は死ななかった。
現在事件は、見立ての形を借りて、見立てそのものの嘘を暴いている。
ならば、二十一年前も。
死者と禍は、一対一で対応していなかったのかもしれない。
「食堂に戻る」
真壁は言った。
「全員の前で聞く」
二階堂が眉を上げる。
「鷺宮さんに?」
「ああ」
「かなり追い詰めるよ」
「隠している余裕はない」
「了解」
*
食堂には、疲労と恐怖と眠気が混ざった匂いがあった。
夜が明けかけているにもかかわらず、誰も朝を迎えた顔をしていなかった。黒羽宗一郎と古賀清澄が死に、久世玲央は重傷、灯村要も意識が不安定なまま小部屋で九条の処置を受けている。船内の身元不明遺体は、まだ港に残されたまま。
椅子に座っている者たちは、みな少しずつ距離を取っていた。
鷺宮依子。
火野朱里。
久世の助手として来ていた若いスタッフ。
調理担当の二人。
佐伯の部下たち。
そして、真壁、二階堂、鳳。
久世は小部屋へ移され、九条が時々様子を見ている。
佐伯警部補は、疲れ切った顔で真壁を見た。
「風洞回廊の件は」
「久世さんは生きています。ただし、話せる状態ではありません」
「真壁さんの名前が置かれていた件は」
その一言で、食堂の視線が真壁へ集まった。
二階堂が、すぐに言った。
「置かれていたのは名前です。事実ではありません」
佐伯は少し慌てた。
「もちろん、そういう意味では」
「意味を間違えない方がいいです」
二階堂の声は穏やかだった。
だが短い。
怒っている。
佐伯はそれを察し、言葉を切った。
真壁は気にしなかった。
疑われること自体は慣れている。
問題は、それが誰かによって設計されていることだ。
「鷺宮さん」
真壁は、管理人の女を見た。
鷺宮は椅子に座ったまま、指を組んでいる。乱れた髪を直す余裕もないのか、額に細い後れ毛がかかっていた。
「はい」
「沙羅という名前について、話してください」
鷺宮の顔から、さらに血の気が引いた。
「私は……」
「港で、あなたは倉庫にいた女性を沙羅と呼びました。彼女は否定した。今度は風洞回廊に、沙羅という名前が削られた跡として見つかった」
食堂が静まり返る。
火野朱里が、わずかに顔を上げた。
「沙羅さんの名前が?」
二階堂が朱里を見る。
「ご存じなんですか」
「名前だけは」
「また名前だけ」
二階堂は小さく呟いた。
鷺宮は唇を噛んでいた。
真壁は続ける。
「鷺宮さん。沙羅さんとは誰ですか」
長い沈黙。
やがて、鷺宮は小さく言った。
「二十一年前に、いなくなった人です」
「死者ではなく?」
「資料上は、死者ではありません」
「資料上は?」
鷺宮は震える息を吸った。
「島では、血禍の候補者だったと言われています」
鳳の指が、膝の上で止まった。
「血禍の候補者」
「はい」
「血禍の死者は、鳳悠一さんだと記録されています」
「そうです」
「候補者が他にもいた?」
鷺宮は頷いた。
「沙羅。真依。鳳悠一。その三人の名前が、古い木札に並んでいたと聞いています」
食堂の空気が変わった。
血禍は死者を選ぶ。
その言葉が、急に別の意味を持つ。
死者を選ぶ。
候補者の中から。
誰を死者として扱うかを。
二階堂が低く言った。
「ひどいな」
その声には、いつもの軽さが一切なかった。
「人間の名前を候補として並べるなんて、ひどい」
鷺宮は目を伏せた。
「私は当時、子どもでした。詳しいことは知りません」
「でも知っていることはある」
真壁が言う。
「沙羅は、どこへ消えた」
「わかりません」
「では、港にいたあの女性は?」
「わかりません」
「本当に?」
鷺宮は答えない。
真壁は問い方を変えた。
「あなたは、なぜ彼女を沙羅と呼んだんですか」
鷺宮の手が震えた。
「似ていたからです」
「誰に」
「沙羅さんに」
「あなたは子どもだった。二十一年前の沙羅の顔を覚えている?」
「写真で見ました」
「どこで」
「管理室の古い資料です」
「その資料は今も?」
鷺宮は首を横に振った。
「なくなっています」
「いつ」
「昨夜、確認した時にはありませんでした」
二階堂が静かに息を吐いた。
「また資料が消えた」
火野朱里が言った。
「沙羅さんは、母と同じ頃に七禍館にいた人です」
全員の視線が朱里へ移る。
朱里は手元を見ながら続けた。
「母の日記に名前がありました。沙羅、真依、鳳くん。三人で図面を見ていた、と」
鳳が顔を上げる。
「鳳くん?」
「お兄さんのことだと思います」
鳳の表情がわずかに揺れた。
真壁は、朱里に訊いた。
「その日記は?」
「持っています」
「見せてもらえますか」
朱里は少し迷った。
だが、バッグから古い手帳を取り出した。
表紙は擦り切れている。湿気を吸った紙は少し波打っていた。火野千景の日記。
朱里は該当箇所を開いた。
そこには細い字で、こう書かれていた。
――真依は、血禍の間なんてないと言う。
――沙羅は、それでも血禍は人を選ぶと言う。
――鳳くんは、選ばれる前に名前を外せと言った。
鳳は、その一文を見たまま動かなかった。
兄の声が、紙の上に残っている。
二十一年前の兄が、まだ誰かの言葉の中で生きている。
真壁は鳳の横顔を見た。
鳳は泣かなかった。
ただ、息を少しだけ深く吸った。
「兄は、血禍にされる前から、それを止めようとしていた」
小さな声だった。
二階堂が日記を覗き込む。
「血禍の間なんてない。これはかなり重要だね」
鷺宮が顔を上げた。
「そんなはずはありません。血禍の間は、館の奥に」
「案内図にはあります」
鳳が静かに言った。
「でも、建物の実寸と合いません」
「では、あの部屋は」
「部屋ではない可能性があります」
朱里は目を伏せた。
「母も、そのことを知っていたのかもしれません」
「だから火禍に?」
二階堂が言った。
朱里は答えなかった。
真壁は、流れを整理する。
二十一年前、火野千景、真依、沙羅、鳳悠一は、七禍館の構造について何かを知った。
血禍の間は存在しない。
七禍の見立ては、人間の死を説明するためではなく、人間の名前を配置するために作られた。
その秘密に触れた者たちが、七禍の候補になった。
いや、まだ飛躍だ。
だが、線は見え始めている。
「鷺宮さん」
真壁は言った。
「血禍の間へ案内してください」
鷺宮は硬直した。
「今ですか」
「はい」
「危険です」
「危険だから、警察が行きます」
「床が傷んでいます」
「鳳さんが確認します」
鳳は頷いた。
鷺宮はしばらく黙っていた。
その時、食堂の奥から、久世玲央のかすれた声が聞こえた。
「行かない方がいい」
全員が振り返った。
久世は小部屋の入口に立っていた。
九条が背後から支えている。
「九条」
真壁が咎めるように言う。
九条は短く答えた。
「本人がどうしても、と」
「喋れる状態か」
「短くなら」
久世は首に巻かれた包帯を押さえながら、かすれた声で言った。
「血禍の間に、行ったら駄目です」
「なぜ」
真壁が訊く。
「撮りました」
「何を」
「昨日の夜、血禍の間の前で……鷺宮さんが」
鷺宮の顔が真っ白になった。
「久世さん」
「誰かと話していました」
「誰と」
「わからない。でも、声は女でした」
食堂の視線が、鷺宮と朱里へ動いた。
二階堂がすぐに言った。
「名前を置かない」
その声は鋭かった。
視線が止まる。
久世は苦しそうに続けた。
「会話は、少しだけ録れてます。でも、カードは……」
「奪われたカードか」
真壁が言う。
久世は頷いた。
「たぶん、風洞回廊で……」
九条が止める。
「もういい」
久世は息を乱している。
真壁は頷いた。
「戻ってください」
久世が小部屋へ戻される。
鷺宮は震えていた。
真壁は彼女を見た。
「話していた相手は誰ですか」
「……わかりません」
「あなたが話していたのに?」
「顔は見ていません」
「場所は血禍の間の前」
「はい」
「内容は」
鷺宮は、唇を噛んだ。
「沙羅の名前を、これ以上出すなと」
「誰に言われた」
「わかりません。声だけでした」
二階堂が低く言った。
「また声」
「本当に、姿は見えなかったんです。廊下の奥から、声だけが」
鳳が顔を上げた。
「血禍の間の前にも、音響管か通気口がある可能性があります」
二階堂が苦笑した。
「声だらけの館だな」
「声を残すための館だったのかもしれません」
鳳の言葉に、食堂が静まった。
真依は床の下に声を置いた。
血禍の間なんてない。
音が回る館。
声だけが届く廊下。
この館は、死体だけではなく、声も配置できる。
ならば、目撃証言も、呼び出しも、脅迫も、すべて声で置ける。
「血禍の間へ行く」
真壁は言った。
「ただし、全員ではない。俺、鳳さん、佐伯さん。九条は久世さんと灯村さんを見る。二階堂は食堂に残る」
「俺、残るの?」
二階堂が不満そうに言った。
「残れ」
「まあ、食堂の空気も危ないしね」
「あと、お前が行くと犯人に使われる可能性がある」
二階堂は一瞬だけ黙った。
「次は俺か」
「鏡禍だ」
真壁は言った。
五つ、鏡は罪を返す。
二階堂は、目を細めた。
「俺、見られ方の仕事してるから、鏡とは相性悪いかもね」
「冗談で済ませるな」
「済ませてないよ」
二階堂は笑った。
だがその笑みは、かなり冷たかった。
「俺を犯人にするつもりなら、きちんと見ておく」
*
血禍の間へ向かう廊下は、鏡廊下の先にあった。
正確には、鏡廊下を通らなければ、血禍の間の手前へ行けない構造になっていた。これもまた、七禍館らしい嫌な造りだった。
鏡廊下。
七禍の五番目に対応する場所。
壁の左右に、古い鏡が並んでいる。どの鏡も曇っており、像をはっきり映さない。真壁たちが歩くたびに、無数の黒い影が左右に増えた。誰が本物で、どれが反射なのか、少し目を逸らすとわからなくなる。
鳳は、廊下に入るなり足を止めた。
「何だ」
真壁が訊く。
「奥行きが合いません」
「またか」
「はい。見た目より浅い場所と、深い場所があります」
「鏡だからじゃないのか」
「それもあります。ただ、構造としてもおかしい。片側の壁が厚すぎる」
佐伯が不安そうに言った。
「隠し通路ですか」
「可能性があります」
真壁は左右の鏡を見た。
鏡の中の真壁が、少し遅れて動くように見える。
もちろん錯覚だ。
だが、その錯覚が不快だった。
鏡は、見えているものを返す。
ただし、正しく返すとは限らない。
廊下の途中で、鳳が一枚の鏡を指した。
「この鏡だけ角度が違います」
「わかるのか」
「床との接点を見ると」
鳳はしゃがみ込み、鏡の下端を見た。
「ここに新しい傷があります。最近動かした可能性がある」
真壁は鏡に映る廊下を見た。
正面には誰もいない。
だが、斜め奥に、誰かの影が映ったような気がした。
「止まれ」
真壁は低く言った。
佐伯が身構える。
鳳も顔を上げる。
鏡の中の奥。
黒い影が、一瞬動いた。
「誰かいる」
真壁は廊下の先へライトを向けた。
実際の廊下には誰もいない。
だが、鏡の中には、確かに影がある。
黒い服。
金髪に見える反射。
真壁は眉を寄せた。
「二階堂さん?」
佐伯が呟きかけた。
真壁はすぐに言った。
「名前を置くな」
佐伯は口を閉ざす。
影は、鏡の中でゆっくり動いた。
そして、消えた。
鳳が鏡の角度を見て、顔を強張らせる。
「違います」
「何が」
「この影は、廊下の奥ではなく、壁の内側から映っています」
「壁の内側?」
「鏡の向こうに、浅い空間があります」
真壁は鏡に近づいた。
触れない距離で見る。
鏡の縁に、細い隙間がある。
その奥に、暗い空洞。
展示スペースのようにも見える。
「誰かが隠れていた?」
「あるいは、人形か衣服を置いた」
佐伯が言った。
「今の、二階堂さんに見えました」
真壁は佐伯を見た。
「見えた、だけです」
「はい」
「それを忘れないでください」
佐伯は頷いた。
鏡廊下の奥に、分厚い扉があった。
血禍の間へ続く扉だと鷺宮は言っていた。
扉には鍵がかかっている。
古い錠前。
その下に、新しい南京錠。
「鍵は?」
真壁が訊く。
佐伯が鷺宮から預かった鍵束を出す。
南京錠は開いた。
古い錠前は、少し抵抗したが回った。
鳳が扉の周囲を見ていた。
「扉の奥、すぐ部屋ではありません」
「わかるのか」
「空気の抜け方が違います。奥に細い通路がある」
真壁は扉を開けた。
その瞬間、食堂の方角から悲鳴が上がった。
続いて、何かが割れる音。
ガラス。
いや、鏡か。
真壁は舌打ちした。
「佐伯さん、戻る」
「血禍の間は」
「後だ」
鳳が一瞬、扉の奥を見た。
暗い通路。
その奥から、かすかな水音が聞こえた。
だが真壁は鳳の腕を掴んだ。
「行かせない」
「……わかっています」
三人は鏡廊下を戻った。
その途中、真壁は床に小さなものが落ちているのを見た。
白い布。
拾わず、ライトを向ける。
ハンカチだった。
端に、刺繍がある。
S・N。
二階堂壮也。
真壁は息を止めた。
佐伯も気づいた。
「これは」
「触るな」
真壁は低く言った。
鏡廊下。
二階堂のハンカチ。
さっき鏡の中に見えた金髪のような影。
犯人は、今度は二階堂を置いてきた。
*
食堂へ戻ると、鷺宮依子がいなかった。
二階堂が、割れたグラスの横に立っていた。
床に水が広がっている。
火野朱里は壁際で立ち尽くし、調理担当の一人が震えている。九条は小部屋から出てきて、廊下を見ていた。
「何があった」
真壁が訊くと、二階堂が答えた。
「照明が一瞬落ちた」
「またか」
「鷺宮さんが、食堂を出た。止めようとしたら、廊下の奥で鏡が割れる音がした。追いかけたけど、途中でドアが閉まった」
「一人で?」
「佐伯さんの部下と一緒。俺一人じゃない」
真壁は少しだけ安心したが、すぐに言った。
「鏡廊下でお前のハンカチが見つかった」
二階堂の表情が止まった。
「俺の?」
「ああ」
「見せて」
「触るな」
「もちろん」
二階堂は深く息を吐いた。
「来たね」
「それと、鏡の中にお前らしき影が見えた」
「俺は食堂にいた」
「わかってる」
「でも、見た人は?」
「佐伯さんも見た」
二階堂は一瞬だけ目を閉じた。
そして開ける。
「わかった。俺を疑う文章が組まれ始めた」
九条が静かに言った。
「鷺宮さんを探す」
「行くぞ」
真壁が言うと、二階堂も動こうとした。
真壁は止めた。
「お前は残れ」
「嫌だね」
「二階堂」
「俺が残ると、次に“二階堂は鷺宮さんを追わなかった”って文章になる。行っても疑われる。残っても疑われる。なら現場を見る」
「お前が来ると、犯人の思う壺かもしれない」
「だから、真壁と九条と鳳さんと一緒に行く」
二階堂の声は短かった。
「一人では行かない。順番は守る。でも俺を外すな。俺の名前を置かれてるなら、俺が見ないと剥がせない」
真壁は二階堂を見た。
怒っている。
だが、確かに冷静だった。
「わかった」
九条が短く言った。
「早く」
一行は鏡廊下へ向かった。
今度は真壁、二階堂、九条、鳳、佐伯。
鏡廊下の入口から、空気が変わっていた。
さっきより冷たい。
割れた鏡の匂い――というものがあるのかはわからないが、細かい粉塵と古い銀膜の臭いが、廊下に漂っている。
鏡廊下の中央。
左側の大きな鏡が割れていた。
破片が床に散っている。
その前に、鷺宮依子が倒れていた。
仰向け。
胸元に赤い染み。
右手は割れた鏡の方へ伸びている。
目は開いている。
九条が近づき、すぐに膝をついた。
真壁は周囲を見た。
二階堂のハンカチは、廊下の端に落ちている。
鏡の破片に、金色の糸のようなものが絡んでいた。
髪か。
繊維か。
あるいは、二階堂に見せるためのものか。
佐伯が息を呑んだ。
「二階堂さん……」
二階堂は何も言わなかった。
真壁が鋭く言う。
「名前を置くな」
佐伯は口を閉じた。
九条が鷺宮の頸動脈に触れた。
数秒後、低く言う。
「死亡確認」
鏡禍。
その言葉を、誰も口にしなかった。
だが、廊下の左右の鏡が、黙ってそれを返していた。
「死因は」
真壁が訊く。
「胸部刺創。心臓に近い。即死に近い可能性がある」
「凶器は」
「見当たらない」
「防御創は」
「右手に切創。鏡で切ったものか、抵抗時のものかはまだ」
二階堂は、鷺宮の倒れた位置と割れた鏡を見ていた。
「俺のハンカチは?」
真壁が示す。
「そこ」
二階堂は近づかずに見た。
「たしかに俺のだ」
「いつなくした」
「さっきまでは持ってたと思う。でも確実じゃない。久世さんの処置で水を使った時、手を拭いた。その後、食堂のテーブルに置いたかもしれない」
「誰でも取れる?」
「取れる」
鳳が割れた鏡の奥を見ていた。
「この鏡、裏に空間があります」
「さっきの影の場所か」
「はい」
真壁は割れた鏡の向こうを照らした。
鏡の裏は、浅い展示スペースのようになっていた。人が立つには狭い。だが、マネキンや衣服なら置ける。
床には、黒いコートの切れ端。
金色の糸。
そして、紫色の小さなガラス片。
二階堂の目が細くなる。
「紫の目、ってこと?」
誰も答えなかった。
二階堂は紫がかった目をしている。
犯人は、そこまで使っている。
見た目の記号。
金髪。
紫の目。
ハンカチ。
鏡に映る影。
すべてを組み合わせて、二階堂壮也という名前を置こうとしている。
「雑だな」
二階堂が言った。
声は低い。
「俺を作るなら、もう少し品よくやれ」
真壁は、二階堂を見た。
二階堂は笑っていない。
九条が鷺宮の右手を見ていた。
「何か握ってる」
真壁が近づく。
鷺宮の右手は、鏡の破片で切れている。その指の間に、小さな紙片が挟まっていた。
九条が慎重に取り出す。
紙片には、血が付いている。
そこに、震えた字で書かれていた。
――沙羅は、返した。
「返した」
鳳が呟く。
二階堂が鏡を見る。
「五つ、鏡は罪を返す」
真壁は紙片を見た。
沙羅は、返した。
何を。
罪をか。
名前をか。
死者をか。
鷺宮は、死ぬ直前にそれを書いたのか。
それとも、犯人が握らせたのか。
九条が言う。
「指の力が残っていたかは、後で見る。今は断定しない」
「わかった」
鳳が鏡の裏の空間を調べていた。
「ここに、人形か衣服が置かれていた可能性があります」
「二階堂に見えるように?」
「はい。鏡の角度で、廊下の奥に人がいるように見せられる」
二階堂が自分で補った。
「俺のハンカチを落とし、金髪っぽい糸と紫のガラス片を置く。佐伯さんに“俺らしき影”を見せる。鷺宮さんを殺した後、俺がいたように見せる」
佐伯は苦い顔をした。
「すみません。私は」
「謝らなくていいです」
二階堂は言った。
「見えたものは見えた。ただ、見えたものに名前をつけるのが早かった」
佐伯は黙った。
真壁は鷺宮の遺体周辺を見た。
血痕が妙だ。
胸から流れた血は床へ広がっている。だが、割れた鏡の下にも血が飛んでいる。方向が合わない気がした。
「九条」
「見てる」
「血の飛び方が変か」
「変」
九条は即答した。
「鷺宮さんがここで刺されたなら、飛散方向が合わない血がある。鏡の近くの血は、後から付けたか、別の方向から飛んだ」
「犯人が血を移した?」
「可能性はある」
二階堂が言う。
「鏡像を作るため?」
九条は頷いた。
「血は鏡像にならない」
その言葉に、二階堂はかすかに笑った。
「いいね。それ、覚えておく」
鳳が廊下の壁に手をかざした。
「この鏡廊下、実際の通路と鏡像の通路が重なるように作られています。外から見た者は、どちらが本物かわかりにくい」
「犯人は、その構造を使った」
「はい」
真壁は、廊下の奥を見た。
血禍の間へ続く扉は開いたままだ。
その向こうは暗い。
鷺宮は、そこへ向かおうとして殺されたのか。
あるいは、そこから戻る途中で殺されたのか。
「鷺宮さんは、何を見た」
真壁が呟いた。
鳳が答える。
「血禍の間の前で、誰かの声を聞いた。沙羅の名前を出すなと言われた。そして今、沙羅は返した、という紙片を握っている」
二階堂が言った。
「鷺宮さんは、沙羅のことを知っていた。知りすぎたから殺された」
「沙羅は生きているのか」
真壁が言う。
誰も答えなかった。
その時、鏡廊下の奥から、水の音がした。
血禍の間へ続く扉の向こう。
暗い通路の奥で、ぽたり、と何かが落ちる音。
鳳が顔を上げる。
「奥に水があります」
「血禍の間に?」
「あるいは、その下に」
二階堂が低く言った。
「行く?」
真壁は、鷺宮の遺体を見た。
今、行けば現場を離れることになる。
だが、血禍の間の奥には、鷺宮が殺される原因になったものがあるかもしれない。
そして犯人は、こちらが迷うことも計算している。
「佐伯さん」
真壁は言った。
「鏡廊下の現場保存を。二階堂は俺と来い」
二階堂が少し驚いた顔をした。
「俺、いいの?」
「お前の名前が置かれた。自分で見ろ」
二階堂は一瞬だけ黙り、それから小さく頷いた。
「了解」
「九条は鷺宮さんを」
「見る」
「鳳さんは」
「もちろん行きます」
「……まあ、そう言うと思った」
真壁は、血禍の間へ続く暗い扉を見た。
海。
火。
土。
風。
鏡。
五つ目まで来た。
残るは音と血。
だが、もう音は使われている。
血も、ずっとそこにある。
真壁たちは扉の奥へ足を踏み入れた。
背後で割れた鏡が、何も言わずに彼らの背中を返していた。
*
血禍の間へ続く通路は、部屋へ向かう道というより、建物の隙間を無理やり通された管だった。
天井は低く、壁は厚い。
床は湿っている。
水が染み出しているのではなく、どこかから運ばれているようだった。小さな水滴が一定間隔で落ちている。ぽたり、ぽたり、と時間を刻むような音。
二階堂が低く言った。
「音が嫌だね」
「何の音だと思う」
真壁が訊く。
「時計」
鳳が先に答えた。
二階堂が振り返る。
「建築の人からそれが出る?」
「音が一定です。水滴ですが、落ちる間隔が不自然に揃っています。自然な漏水ではないかもしれません」
「誰かが音を作ってる?」
「はい」
二階堂は口元に手を当てた。
「六つ、音は時を狂わす」
「まだだ」
真壁が言う。
「まだ、じゃないかもしれない」
二階堂の声は低い。
「犯人は、もう次を仕込んでる」
通路の奥に、木の扉があった。
血禍の間。
そう書かれた札がある。
だが鳳は、扉を見て首を横に振った。
「これは、扉ではありません」
「何?」
「扉の形をした蓋です。奥に部屋がある構造ではない」
「つまり」
「血禍の間は、部屋ではない」
真壁は扉を見た。
厚い木。
古い取っ手。
錆びた金具。
それは、誰が見ても部屋の扉に見える。
だが鳳には違うらしい。
鳳は指で扉の横の壁を示した。
「壁の厚みが異常です。ここから奥は、部屋ではなく空洞か、縦穴か、あるいは水路です」
二階堂が小さく笑った。
「血禍の間なんてない、か」
鳳の兄の日記に残された言葉。
真依の言葉。
それが、いま建物の形で返ってきている。
真壁は取っ手に手をかけた。
鍵はかかっていない。
鳳が言う。
「ゆっくり」
真壁は扉を開いた。
奥から、冷たい湿気が流れ出した。
部屋ではなかった。
そこにあったのは、狭い空間だった。
床はない。
すぐに黒い穴が開いている。
周囲には木の枠。
下へ続く梯子。
そして穴の底から、水音が聞こえた。
二階堂が息を呑む。
「何これ」
鳳の声が硬い。
「縦坑です」
「縦坑?」
「館の下の水路へ降りるための縦の空間。おそらく、昔は祭礼用の水を引くために使われた」
「血禍の間は」
「この縦坑そのものを、部屋として見せていた」
真壁は下を照らした。
暗い。
しかし、底に何かがある。
木札。
古い木札が、壁に打ち付けられていた。
そこには、三つの名前が並んでいる。
沙羅。
真依。
鳳悠一。
そして、その上に。
七つ、血は死者を選ぶ。
鳳の息が止まった。
真壁は、咄嗟に鳳の腕を掴んだ。
鳳は動こうとしていた。
無意識に。
下へ降りようとしていた。
「鳳さん」
真壁は低く言った。
「止まれ」
鳳の指が震えていた。
「兄の名前が」
「見えてる」
「そこに」
「だから止まれ」
二階堂も、鳳の反対側に立った。
「鳳さん。今、降りたら犯人の文章に乗る」
鳳は目を閉じた。
長い呼吸。
「……わかっています」
声は、かろうじて落ち着いていた。
だが、顔はそうではなかった。
この館に来てから、鳳は何度も兄の名前を見せられている。
血禍。
候補者。
木札。
血禍の間。
そのたびに、犯人は鳳を一歩ずつ奥へ誘っている。
今回の縦坑は、その最奥だった。
二階堂が木札を見下ろした。
「血は死者を選ぶ」
「違う」
鳳が言った。
声は低いが、はっきりしていた。
「人が選んだんです」
真壁は頷いた。
「ああ」
その時、縦坑の底から、何かが落ちる音がした。
ぽたり。
水ではない。
もっと重い。
真壁はライトを向け直す。
木札の下。
黒い水の縁に、赤いものが広がっていた。
血か。
いや、まだわからない。
二階堂が息を呑む。
「下に、誰かいる?」
真壁は答えなかった。
名前を置くな。
まだ見えない。
まだ確認していない。
だが、縦坑の底で、何かが動いた。
小さな、白い手のようなものが、水面に浮かんだ。
そしてすぐ、闇に沈んだ。
鳳が動きかける。
真壁と二階堂が同時に止めた。
「鳳さん!」
「下に誰かが」
「わかってる!」
真壁は叫んだ。
「だから、順番を間違えるな!」
廊下の向こうで、鐘の音が鳴った。
一回。
二回。
三回。
まだ朝のはずだった。
鳴るはずのない鐘が、館の中を震わせる。
二階堂の顔が変わった。
「音禍」
その鐘の音は、遠いようで近く、上から聞こえるようで下から響いていた。
時を狂わせる音。
そして縦坑の底には、血のような赤が広がっている。
鏡禍の現場を離れた直後に。
音禍が始まろうとしていた。
真壁は、縦坑の闇を睨んだ。
七禍は、もう順番通りには進んでいない。
犯人は、こちらが一つを解く前に次を重ねてくる。
鏡は罪を返した。
だが返ってきた罪は、まだ誰のものかわからない。
そして今、音が時を狂わせようとしていた。




