第五章 土禍――声を塞がれた床下
八つ目の灯は、海の中にあった。
いや、そう見えただけだった。
真壁彰は、海側回廊のガラスに額を近づけない程度の距離で立ち、黒い海面を見下ろしていた。七禍館の灯が波に揺れている。窓の灯、非常灯、廊下の赤い光。それらは夜の海に映り、形を崩しながら増えたり減ったりしていた。
その中に一つ、明らかに位置の合わない光がある。
七禍館の外壁より下。
崖の途中。
あるいは、館の床下。
赤とも黄ともつかない弱い灯が、海面に細く映っていた。
「本当に灯か」
真壁が訊くと、鳳恭介は首を横に振った。
「まだわかりません。ただ、あの位置に窓はありません」
「見間違いの可能性は」
「あります。反射なら」
「反射じゃなければ?」
「館の下に空間がある」
二階堂壮也が、黒羽宗一郎の遺体から少し離れた場所でガラスの外を見ていた。赤い非常灯の中で、金髪が薄暗く沈んでいる。
「床下に灯って、字面が嫌だね」
九条雅紀は、黒羽の遺体の傍らから顔を上げなかった。
「今は黒羽さんを先に見る」
「そうだな」
真壁は視線を戻した。
海側回廊の床に、黒羽宗一郎が倒れている。
顔面には焦げた布が貼りついていた。遠くから見れば顔そのものが焼け落ちたように見えるが、近くで見ると違う。九条の見立てでは、顔を大きく焼いたのではなく、焼けた布を貼りつけて“顔を奪われた死体”に見せた可能性が高い。
床には黒羽の靴跡がある。
しかし、その靴跡は歩いたものとしては妙だった。
つま先側の圧が浅く、踵側が擦れている。濡れた床の上を、人間が自力で歩いた足跡というより、足だけが床を引きずるように動いた跡。
九条は言った。
黒羽は、死んだ後にここへ来た。
人は、死んだ後には歩かない。
ならば、歩いたように見せられた。
真壁は、回廊の床をもう一度見た。
床は海側へわずかに傾いている。結露と潮で湿っている。そこに黒羽の足跡だけが残っている。犯人の足跡はない。
「黒羽さんは、どこで死んだ」
真壁が言うと、九条は黒羽の首筋を見ながら答えた。
「この場では断定しない。ただ、ここで倒れてすぐ死んだとは考えにくい」
「根拠は」
「血の流れと体勢。顔の布に付着した煤。衣服の皺。死後に姿勢が変わった可能性がある」
「死因は」
「頸部に圧迫痕がある。窒息、あるいは頸部圧迫による循環停止。ただ、顔の布と火は死因ではなさそう」
二階堂が低く言った。
「火禍なのに、火で死んでない」
「見立ては、だいたい死因より見え方が優先される」
九条は淡々と返した。
鳳が回廊の壁を見ている。
真壁は声をかけた。
「何かあるか」
「この回廊、床下から押し上げられた跡があります」
「押し上げ?」
鳳は床の継ぎ目を指した。
「ここです。床板の一部だけ、釘の浮き方が違う。最近、下から何かが当たったか、持ち上げられた可能性がある」
「床下から黒羽を上げた?」
「それなら、足跡が黒羽のものしかない説明にはなります。犯人が床下にいて、黒羽さんの足だけを床につけた状態で引き出したか、滑らせた」
二階堂が顔をしかめる。
「死体を床下から、靴だけ接地させて引っ張る? そんな面倒なことする?」
「面倒だから意味があります」
鳳は言った。
「この館では、見える場所に残る痕跡と、見えない場所に残る痕跡が分かれています。犯人は、それを利用している」
九条が黒羽の靴を見た。
「靴底に土がある」
「土?」
真壁が近づく。
黒羽の革靴の底に、湿った灰色の土が入り込んでいた。海側回廊の床は濡れているが、土はない。港なら砂や貝殻片が混じるはずだ。これはもっと細かく、粘る土だった。
「ここに来る前に、土のある場所を通った」
九条が言う。
「あるいは、死後に靴へ付着した」
二階堂が小さく息を吐いた。
「次、土禍か」
誰も否定しなかった。
三つ、土は声を塞ぐ。
その歌は、もう全員の頭に入っている。
犯人はそれを知っている。
だから、次に何が起きるかを、こちらに想像させる。
想像させれば、人は勝手に怖がる。勝手に物語を補う。勝手に名前を置く。
真壁は床下の灯をもう一度見た。
八つ目の灯。
七禍の館に、あってはならない灯。
それが床下で揺れている。
「鳳さん」
「はい」
「この床下に入る経路を探せるか」
「海側回廊の端に点検口があるはずです。ただし、ここで開けると現場を壊します」
「別の入口は」
「旧祠の祭壇下。さっき見つけた点検口。あと、祭壇棟の下にもあるかもしれません」
「祭壇棟」
真壁はその言葉を繰り返した。
二十一年前の土禍の発見場所。
旧祭壇棟。
資料には、土禍の死者は「旧祭壇棟の床下で発見」とあった。
床下。
土。
声を塞ぐ。
「佐伯さん」
真壁は背後にいた佐伯警部補を呼んだ。
「黒羽さんの遺体はこの場で動かさない。現場保存を優先。食堂の全員を再確認してください。特に、停電の直前と直後、黒羽さんを誰がどう見たか」
「はい」
「“黒羽さんを見た”ではなく、何を見て黒羽さんだと思ったか。声か、服か、座席か、顔か。細かく」
二階堂が頷いた。
「俺が聞く。佐伯さん、記録を」
「わかりました」
九条は黒羽の傍らに残る。
「俺は最低限の検案を続ける。鳳先生は行くんですか?」
鳳は真壁を見た。
真壁は即答した。
「行く。ただし一人では行かせない」
「では、旧祭壇棟を見ます。土禍に関係するなら、床下への経路があるはずです」
「俺も行く」
「真壁さんも?」
「あなたを止める係が必要だ」
鳳は困ったように笑った。
「信用がない」
「ある。だから危ない」
二階堂が横から言った。
「鳳先生、真壁がそう言う時は本当に危ない時だから、素直に連れていかれてください」
「わかりました」
鳳は頷いた。
九条が少しだけ顔を上げる。
「真壁」
「何だ」
「黒羽さんの顔の布、焦げ方が不自然」
「あとで聞く」
「あとでだと忘れそうだから今言う。布の焦げは外側が強い。顔に当てた後で焼いたんじゃなくて、焼いた布を後から顔に当てた」
「つまり、黒羽さんは火に近づいていない」
「たぶん」
「火禍は演出」
「そう」
九条はまた遺体に目を落とした。
「火より、首」
真壁はその言葉を胸に置いた。
黒羽の死因は火ではない。
火禍は死因ではなく見出し。
なら、土禍も同じだ。
土に埋もれて死んだように見えても、死因は別かもしれない。
見立てを見すぎるな。
身体を見る。
構造を見る。
言葉を見る。
順番を見る。
この事件は、その四つを間違えた瞬間に、犯人の文章へ引き込まれる。
*
旧祭壇棟へ向かう廊下は、七禍館の中でも特に古かった。
壁は厚く、天井は低い。照明は後から取り付けられたものだが、配線は露出している。廊下の両側には、今は使われていない小部屋が並んでいた。古い祭具、壊れた椅子、湿気を吸った箱、破れた布。
窓は少ない。
海側回廊のように外へ開かれた場所ではない。
むしろ、内側へ内側へと沈んでいく廊下だった。
「この辺りが最古部です」
鳳が言った。
「七禍館の中核。もともとは館というより、祭祀施設だった可能性が高い」
「祭壇棟というくらいだからな」
「ただ、普通の祭祀施設にしては床が複雑です」
「床?」
鳳は廊下の床を軽く踏んだ。
古い板が、低く鳴る。
次に一歩先を踏む。
音が違った。
「わかりますか」
「少し」
「下の空洞の大きさが違います。ここは床下が浅い。こちらは深い」
真壁は床を見た。
見た目は同じ板だ。
だが、鳳には違うものが見えている。
「十二灯館の時も思ったが、あんたは建物を人間みたいに見るな」
「人間というより、行動の結果として見ます」
「行動?」
「建物は勝手に歪みません。誰かが必要として、増やし、塞ぎ、隠し、直す。壁の厚みや床の高さには、人間の都合が残ります」
「死体と同じだな」
「九条先生は嫌がりそうですが」
「嫌がるだろうな」
真壁は少しだけ笑った。
その瞬間、廊下の奥から低い音がした。
何かが、床下で動いたような音。
真壁は立ち止まる。
「聞こえたか」
「はい」
鳳も表情を変えた。
「床下です」
「人か」
「わかりません」
二人は顔を見合わせた。
真壁は無線機を手に取る。
だが雑音だけだった。
「佐伯さん、聞こえるか」
返答はない。
無線はまだ死んでいる。
真壁は舌打ちを抑えた。
「行くぞ。ただし慎重に」
鳳は頷いた。
旧祭壇棟の扉は、重い木製だった。
上部に古い彫刻がある。波、炎、土、風、鏡、鐘、血。七つの印が円形に並び、その中央に空白があった。古い木は黒ずみ、手で触れられてきた部分だけが鈍く光っている。
扉は少し開いていた。
隙間から、土の匂いがした。
湿った土ではない。
乾いた、古い土。
蔵の奥に積まれた袋を破ったような匂い。
真壁は手袋をして扉を押した。
旧祭壇棟の中は暗かった。
非常灯の赤い光だけが、部屋の輪郭を浮かび上がらせている。中央に広い板床。その奥に古い祭壇。左右に太い柱。天井は低く、梁がむき出しになっている。
そして床の中央に、黒い穴が開いていた。
正確には、床板の一部が四角く沈み、周囲に乾いた土が散っていた。
真壁は反射的に足を止めた。
「鳳さん」
「はい」
「床が落ちたのか」
「違います」
鳳の声が硬くなった。
「これは、落ちたんじゃない。下がった」
「下がった?」
「昇降床です」
真壁は部屋の中央を見た。
床の一部が、舞台の奈落のように下へ沈んでいる。その周囲には、土砂が円を描くように散っていた。土は乾いている。外から流れ込んだものではない。
そして、沈んだ床の奥に、何かが見えた。
人の手。
土にまみれた、白い手。
「人がいる」
真壁は低く言った。
鳳が息を呑む。
「待ってください。床が不安定です」
「確認が先だ」
「真壁さん」
「鳳さん、足元を見ろ。安全な場所を指示してくれ」
鳳は即座に周囲を見た。
恐怖や動揺を押し込め、建築の目に切り替える。その速度は、九条が死体の前で切り替わる時と似ていた。
「右の柱沿いなら荷重がかけられます。中央へは行かないでください。沈んだ床の縁は踏まない。左側は危ない。床下に空洞があります」
真壁は鳳の指示通り、右の柱沿いに進んだ。
沈んだ床の下は、二メートルほどの深さだった。
底に、土が積もっている。
その中に、人が倒れていた。
古賀清澄だった。
保存会の老人は、仰向けとも横向きともつかない姿勢で、半身を土に埋められていた。口元にも土が入り、片腕だけが上へ伸びている。顔は苦悶に歪んでいるように見えた。
目は開いていない。
真壁は、すぐに名前を口にしなかった。
だが顔は見えている。
古賀清澄。
土禍。
声を塞がれた者。
その言葉が頭に浮かぶのを、真壁は力で押し戻した。
「九条を呼ぶ」
真壁は言った。
「佐伯さんも。ロープと照明。勝手に下りるな」
鳳が頷き、廊下へ走ろうとした。
真壁はその腕を掴んだ。
「一人で行くな」
「でも」
「廊下に佐伯さんの部下を呼ぶ。声を出せ」
鳳は一瞬だけ悔しそうな顔をした。
だが、すぐに大声を出した。
「誰か! 旧祭壇棟です! 人が倒れています!」
廊下の向こうで足音がした。
若い刑事が駆けつける。
その顔が、床下を見て青ざめた。
「佐伯さんと九条を呼べ。ロープ、照明、救急具も」
真壁が指示すると、若い刑事は弾かれたように戻っていった。
鳳は床を見ていた。
「おかしい」
「何が」
「昇降床なら、操作機構があるはずです。でも、この部屋から見える場所にはない」
「外から動かした?」
「可能性があります。あるいは、床下から」
真壁は古賀を見下ろした。
老人の口元に詰まった土。
伸ばされた手。
閉じられた床。
声を塞ぐ。
犯人の見立てとしては、あまりにもできすぎている。
だが、真壁はもう知っていた。
できすぎているものほど、真実そのものではない。
できすぎているのは、誰かがそう見せたからだ。
九条が到着した。
白い髪が赤い非常灯に染まり、奇妙な色に見えた。彼は床の縁まで来て、下を覗き込んだ。
「下りられる?」
「鳳さんが安全確認中だ」
鳳は床を叩き、柱の位置を見ている。
「右側からロープを固定すれば、下りられます。中央の縁には体重をかけないでください」
九条は頷いた。
佐伯も到着し、照明が設置された。
明るい光が床下を照らす。
古賀清澄の身体が、よりはっきり見えた。
土は胸のあたりまでかかっている。顔にも土が付着している。口元は塞がれているように見える。だが、喉や首の状態は上からでは見えない。
九条がロープを使って下りた。
動きに無駄がない。
細身だが、足場の悪い場所でも安定している。真壁はいつも通り、手を出しかけてやめた。九条はこういう時、見た目よりずっと身軽だ。
床下に下りた九条は、まず周囲を見た。
遺体にすぐ触れない。
土の散り方、床の壁、古賀の姿勢、光の当たり方。
それらを順番に見た後、ようやく古賀の頸動脈に手を当てた。
数秒。
九条は顔を上げた。
「死亡確認」
誰も声を出さなかった。
土禍。
その言葉を、誰も口にしなかった。
真壁は低く言った。
「死因は」
「まだ。見た目ほど単純じゃない」
「土で窒息した?」
「口は土で塞がれている。でも、死後に詰められた可能性がある。顔色と体勢が、窒息死だけとは合わない」
「また演出か」
「たぶん」
九条は古賀の首元を見た。
「首に圧迫痕がある」
黒羽と同じ。
真壁は眉を寄せた。
「黒羽さんも首だった」
「そう」
「同じ殺し方?」
「圧迫の位置は違う。道具も違うかもしれない」
九条は古賀の手を見た。
「爪に塗料」
「塗料?」
「床材の黒い塗料かもしれない。死ぬ前に何かを引っ掻いた」
鳳が床上から言った。
「昇降床の裏かもしれません」
「古賀は床の上で襲われた?」
真壁が訊く。
九条は古賀の服の土を少し払った。
「服の背中側に土が少ない。胸側に多い。土砂に埋まったなら、もっと均等になるはず」
「どういうことだ」
「土を上から落とされた」
九条は顔を上げた。
「あるいは、死んだ後に、土をかぶせられた」
真壁は床の上を見た。
乾いた土。
昇降床。
床下の遺体。
三つ、土は声を塞ぐ。
しかし、土が声を塞いだのではない。
声を塞いだ後で、土をかぶせた。
「鳳さん、昇降床はどう動く」
真壁が訊く。
「古い祭礼舞台の可能性があります。床の一部を下げて、供物や人を出し入れする構造。今は使われていないはずですが、機構が残っているなら手動で動かせる」
「どこから」
「床下の滑車か、隣室の操作桿。あるいは、壁裏」
「犯人は古賀を床上で殺し、床を下げた?」
「その方が自然です。床下で襲うより、床上で襲ってから沈める方がリスクが低い」
佐伯が言った。
「しかし、古賀さんは食堂にいたはずでは」
二階堂が遅れて入ってきた。
「そこが問題」
「食堂は?」
「佐伯さんの部下に任せた。全員いる。ただし、古賀さんがいないことに気づいたのは今」
「いつ消えた」
「停電の後。黒羽さんの騒ぎで全員の視線がそっちへ行った。古賀さんは席にいた、という証言はある。でも、それが停電前か後か曖昧」
真壁は舌打ちした。
黒羽の時と同じだ。
停電。
視線の誘導。
誰かがいたと思う証言。
そして、実際にはいない。
「古賀さんの席には」
二階堂が答える。
「杖が残ってた」
「杖?」
「本人がずっと持ってたやつ。だから皆、まだ近くにいると思った。席の背に上着もかかってた」
「つまり、本人ではなく持ち物で存在を確認した」
「そう」
二階堂は薄く笑った。
「犯人、本当に嫌な文章を書く」
九条が床下から言った。
「古賀さんは、ここへ自力で来た可能性がある」
「なぜ」
「靴に食堂の床のワックスが残っている。その上に、祭壇棟の土が付着している。引きずられた跡は少ない」
「誘い出された?」
「たぶん」
真壁は周囲を見た。
「誰に」
答えはない。
だが、候補はいくつかある。
古賀は火野朱里に何かを隠していた。
鳳悠一の名前についても何かを知っている可能性があった。
灯村についても、「この島から逃げなかった男」と言った。
そして、二十一年前の土禍に関して、古賀自身が何かを抱えている。
犯人がそれを使って呼び出したなら、古賀は来る。
たとえば。
「二十一年前の土禍の真相を知っている」
「陣内拓馬の名前を返せ」
「鳳悠一の図面がある」
どれでも、古賀は動いたかもしれない。
「鳳さん」
「はい」
「この部屋に古い図面が隠されている可能性は」
「あります。祭壇棟の床下は、増築前の構造が残っている場所です。資料を隠すなら、湿気は問題ですが、人目にはつきにくい」
九条が床下で何かを見つけた。
「真壁」
「何だ」
「古賀さんの右手」
真壁は照明を向けた。
古賀の右手は土の中から伸びている。
その指先が、床下の壁に触れていた。
爪の先で、壁の土を掻いた跡がある。
文字のように見えた。
「何か書いてる?」
二階堂が身を乗り出す。
九条が慎重に土を払った。
壁に、短い線が残っている。
読みにくい。
だが、ひらがなのようにも、漢字の一部のようにも見える。
真壁は目を凝らした。
――ま。
いや、違う。
――真。
その下に、かすれた線。
「真……?」
二階堂が呟く。
鳳の顔が変わった。
「真依」
「何?」
「真依かもしれません」
真壁は鳳を見た。
「誰だ」
「二十一年前の血禍候補者の一人です。兄の資料に、名前だけ出てきました。真依。姓は不明。七禍館の図面に関わっていた可能性がある女性」
「古賀さんは死ぬ前に真依と書こうとした?」
「または、真依に関わる何かを示そうとした」
九条が壁の文字を見たまま言った。
「死後硬直はまだ弱い。死亡からそれほど時間は経ってない。ただ、古賀さんがこの文字を書いたかは断定しない」
「誰かが書いた可能性もある?」
「ある。爪に塗料はあるけど、土壁の痕と一致するか調べないと」
二階堂が低く言った。
「また名前だ」
真壁は頷いた。
灯村要。
黒羽宗一郎。
真依。
死体の近くに、名前が置かれていく。
今度は、死者本人の名ではない。
過去の名前。
血禍につながる名前。
「真依を置いて、鳳さんを動かす気かもしれない」
二階堂が言う。
鳳は何も言わなかった。
だが、目が床下の文字から離れない。
真壁はその横顔を見た。
「鳳さん」
「はい」
「下りるなよ」
「まだ何も」
「顔が言ってる」
二階堂が小さく笑った。
「便利だね、顔」
鳳は息を吐いた。
「下りません」
「今は、だ」
「今は」
「そこを繰り返すな」
真壁は九条に訊いた。
「古賀さんを搬出できるか」
「記録してから。土の位置、身体の向き、首の痕、爪、壁の文字。全部撮る」
「わかった」
佐伯が記録を始めた。
床下の光景は異様だった。
乾いた土に半ば埋もれた老人。
口元を塞ぐ土。
壁に残る「真」のような線。
周囲に散った黒い床材の欠片。
沈んだ昇降床。
そのすべてが、土禍という言葉へ向かっている。
だが、真壁はそれを拒んだ。
古賀清澄は、土禍ではない。
古賀清澄という人間が、誰かに殺された。
その後で、土禍にされた。
順番を間違えるな。
*
食堂へ戻ると、空気はさらに悪くなっていた。
黒羽の死。
古賀の死。
続けて二人が倒れた。
船内の身元不明遺体を含めれば、すでに死体は三つ。
灯村は行方不明。
外部連絡は断たれ、船は燃え、館は閉じている。
島と館は、完全に事件の舞台になった。
誰かが望んだ通りに。
食堂にいた者たちは、それぞれ違う表情で真壁たちを見た。
鷺宮依子は唇を噛み、手を握っている。
久世玲央は青ざめながらも、視線だけが何かを記録しようとしている。
火野朱里は静かだった。
静かすぎた。
古賀の死を聞かされても、取り乱さない。
黒羽の死の時もそうだった。
彼女は恐れている。
だが、驚いてはいないように見える。
「古賀さんは?」
鷺宮が訊いた。
真壁は答えた。
「死亡が確認されました」
食堂の奥で誰かが息を呑む。
久世が口元を押さえた。
朱里は目を閉じた。
二階堂が、すぐに言った。
「土禍とは呼ばないでください」
久世が顔を上げる。
「でも、旧祭壇棟の床下で」
「それでもです」
二階堂の声は静かだった。
「今ここで土禍と呼んだ瞬間、古賀さんは古賀清澄ではなくなります。犯人が作った見出しで死ぬことになる」
「でも、現実に」
「現実を確認するために、言葉を急がないでください」
久世は黙った。
その手はカメラバッグの上に置かれている。
二階堂はそれを見た。
「撮ってませんよね」
「撮っていません」
「録音は」
「していません」
「後で確認します」
久世は悔しそうに顔を伏せた。
真壁は全員を見渡した。
「今から、停電の前後について確認します。黒羽さんが席にいたこと、古賀さんが席にいたこと、それぞれ誰がどう確認したか。見た、聞いた、触れた。曖昧にしないでください」
佐伯が記録に入る。
まず鷺宮。
停電前、彼女は食堂の入口近くにいた。黒羽は席にいたと思う。古賀も席にいたと思う。ただし、黒羽の顔をはっきり見たかと問われると、見ていない。声は聞いた。古賀は杖が見えた。
次に久世。
彼はカメラバッグを抱え、窓側にいた。黒羽が立ち上がったのを見た。だが停電の瞬間、非常灯の赤に目が慣れず、黒羽がどこへ行ったかは見ていない。古賀は席にいると思っていた。なぜなら上着があったから。
朱里。
彼女は窓の外を見ていた。黒羽の声は聞いた。古賀の姿は、停電前に一度見た。停電後は見ていない。
「古賀さんが席を立つ音は?」
真壁が訊く。
「聞いていません」
「誰かが古賀さんに近づいたのは?」
「見ていません」
「ただし、見ていないということは、なかったという意味ではありません」
朱里は静かに言った。
二階堂が少しだけ目を細める。
「いい言い方ですね」
「嫌味ですか」
「半分」
「残り半分は」
「正しいと思っています」
朱里は黙った。
次に、調理担当の二人。
停電時、食堂の裏口近くにいた。非常灯が点いた時、古賀の席には上着と杖があった。本人が座っているように見えたかと問われると、見ていない。黒羽については、声を聞いたが姿は曖昧。
最後に、佐伯の部下。
停電時、食堂の扉付近にいた。黒羽が「鍵がない」と言った声は聞いた。古賀の姿は見ていない。なぜ気づかなかったかと訊かれると、黒羽に注意が向いていたから。
真壁はメモを見た。
全員が、黒羽の声は聞いている。
黒羽の姿は、断片的にしか見ていない。
古賀に至っては、本人ではなく上着と杖で存在を確認している。
「二階堂」
「うん」
「声だ」
「そうだね」
二階堂は長卓に手を置いた。
「黒羽さんの時も、古賀さんの時も、視覚と聴覚が別々に使われてる。黒羽さんは声で存在を信じさせた。古賀さんは持ち物で存在を信じさせた」
「黒羽さんの声は本人か」
「そこが問題」
二階堂は食堂を見回す。
「黒羽さんは確かに食堂にいた。でも、最後の“鍵がない”という声まで本人だったかは、まだわからない」
鷺宮が震えた声で言った。
「まさか、録音ですか」
「可能性はあります。館内放送と同じで、音を置けるなら、人の声も置ける」
朱里が呟いた。
「声も、名前と同じで置ける」
二階堂は彼女を見た。
「誰かから聞きました?」
「あなたが港で言っていました」
「よく覚えてますね」
「忘れられない言葉だったので」
食堂の空気がまた重くなる。
真壁は話を戻した。
「古賀さんを呼び出したものがあるはずです。誰か、停電前後に古賀さんへ声をかけた者を見たか」
誰も答えない。
「メモ、紙片、音、放送。何でもいい」
沈黙。
その時、鳳が食堂の壁を見ていた。
「どうした」
真壁が訊く。
「古い写真が一枚、なくなっています」
「写真?」
食堂の壁には、七禍館の古い写真が並んでいた。
鳳が指した場所だけ、四角く壁の色が違っている。
額が一つ、外されている。
「いつから」
二階堂が訊く。
「少なくとも、さっき食堂に来た時はありました」
「何の写真だった」
鳳は少し考えた。
「旧祭壇棟の祭礼写真です。中央に古い昇降床が写っていた」
真壁は息を止めた。
「犯人が持ち去った?」
「あるいは、古賀さんが」
「なぜ古賀さんが」
鳳は首を横に振る。
「わかりません。ただ、あの写真には昇降床の操作位置が写っていたはずです」
二階堂が低く言う。
「古賀さん、写真を見て何か気づいた?」
「それで呼び出されたか、あるいは自分から確認に行った」
真壁は佐伯に指示した。
「食堂の壁から外された写真を探してください。全員の荷物も確認する必要がある」
久世がすぐに反応した。
「荷物まで?」
「はい」
「令状は」
佐伯が困ったように真壁を見る。
真壁は久世を見た。
「人が死んでいます。任意で協力を求めます。拒否するなら、拒否した事実を記録します」
二階堂がにこやかに加える。
「あとで“なぜ協力しなかったのか”という話になります」
久世は黙った。
荷物確認が始まった。
鷺宮のバッグからは鍵束、手帳、古い館内図。
朱里のバッグからは母・火野千景に関する資料、黒羽の名刺、古い新聞切り抜き。
久世のカメラバッグからはカメラ、バッテリー、録音機材、メモリーカード。
調理担当の荷物からは私物のみ。
黒羽の荷物は、本人死亡のため佐伯立ち会いで確認。
古賀の荷物は、上着と杖、古い煙草入れ、手帳。
そして、古賀の上着の内ポケットから、一枚の紙片が見つかった。
古い写真の一部だった。
破られている。
写っているのは、旧祭壇棟の床。
床の端に、小さな操作桿のようなものが見えた。
写真の裏には、震えた字で一言。
――真依は、床の下に声を置いた。
鳳の顔から色が引いた。
「鳳さん」
真壁が呼ぶ。
鳳は、写真の裏を見たまま答えた。
「この字」
「知ってるのか」
「兄の資料にあったメモと似ています」
「鳳悠一さんの?」
「いいえ」
鳳は息を吸った。
「真依の字です」
食堂にいた者たちが、その名前を初めて聞いた顔をした。
あるいは、聞きたくなかった名前を聞いた顔をした。
鷺宮依子の手が震えた。
朱里は目を伏せた。
古賀はもう死んでいる。
だが、死者の上着から、さらに別の死者の名前が出てきた。
真依。
床の下に声を置いた女。
「声を置いた?」
二階堂が呟く。
「土は声を塞ぐ、じゃなくて」
「声を隠した」
九条が、いつの間にか食堂の入口に立っていた。
黒羽の遺体の検案を終え、戻ってきたらしい。
その手袋には、まだ処置の緊張が残っている。
「九条」
真壁が言う。
九条は写真片を見た。
「古賀さんの爪の塗料、床下の昇降床の裏にある黒塗りと似てる。文字を書いたのは古賀さん本人の可能性がある。ただし、死因は土ではない」
「首か」
「首。黒羽さんとは違う道具で圧迫されてる。古賀さんは床下へ下げられる前に意識を失っていたか、死んでいた可能性が高い」
二階堂が写真裏の文字を見る。
「真依は床の下に声を置いた。これが古賀さんを呼び出した餌かな」
「古賀さんはそれを知っていた」
真壁が言った。
「あるいは、知らなかったから確認しに行った」
鳳は、写真片から目を離さない。
「真依は、兄と関わっていた可能性があります」
「鳳悠一さんと?」
「兄は建築に興味がありました。父の図面をよく見ていた。七禍館の図面にも関わったかもしれない。真依という名前は、兄の手帳に一度だけ出てきます」
「どういう文脈で」
鳳は少し黙った。
「“真依は、血禍を部屋だと思っていない”」
二階堂が眉を寄せた。
「血禍を部屋だと思っていない?」
「はい」
「部屋じゃないなら、何?」
鳳は答えられなかった。
だが、真壁の頭に、旧祭壇棟の床下が浮かんだ。
床下に声。
存在しない血禍の間。
七つの灯。
死者の名前。
この館は、部屋の名前と実際の空間が一致していない。
血禍の間も、そうなのかもしれない。
真壁は全員へ向き直った。
「今夜、これ以上の単独行動は禁止です。食堂に全員残ってください。トイレも移動も警察官同行。反発は受け付けません」
誰も反論しなかった。
死者が二人出た後では、黒羽のように声を荒げる者もいない。
だが、沈黙は従順ではなかった。
それぞれが、それぞれの秘密を守るための沈黙だった。
*
午前三時を過ぎた頃、館の中は奇妙な静けさに沈んだ。
誰も眠っていない。
だが、誰も話さない。
食堂では、佐伯の部下が交代で見張りについている。九条は簡易的な検案メモをまとめ、二階堂は証言を時系列に並べていた。鳳は食堂の端で、七禍館の簡易図面を描いている。
真壁は、その図面を覗き込んだ。
「進んだか」
「概略ですが」
鳳は鉛筆で描いた線を指した。
「客用動線がこれです。玄関、食堂、宿泊棟、海側回廊、旧祠。管理動線がこちら。管理室、厨房裏、海側回廊の床下、旧祠の点検口、旧祭壇棟の床下」
「つながってるな」
「完全ではありませんが、通路というより点検空間としてつながっています。小柄な人間なら通れる場所もある。大人でも這えば通れる箇所があるかもしれません」
「犯人はそこを使った」
「おそらく」
二階堂がメモから顔を上げた。
「それだと、犯人は館の構造に相当詳しいよね」
「はい」
「候補は?」
鳳は少し黙った。
「鷺宮さん。灯村さん。古賀さん。黒羽さん。保存会の関係者。開発前の調査資料を読んだ人間。そして、古い図面を持っている人間」
「つまり、ほぼ全員」
二階堂は苦笑した。
「鳳さん自身も入る?」
鳳は頷いた。
「入ります」
真壁は二階堂を見た。
「茶化すな」
「茶化してない。犯人が鳳さんを疑わせたいなら、こっちも鳳さんがどう疑われるか先に見ておいた方がいい」
鳳は静かに言った。
「僕には動機があります」
「兄の名前」
「はい。兄を血禍から取り戻したい。七禍館の構造を読める。過去資料も一部持っている。犯人像に近い」
二階堂が言った。
「でも、文章が違う」
「文章?」
「犯人の文章は、鳳さんより乱暴です」
鳳は少しだけ目を瞬いた。
二階堂は続けた。
「鳳さんなら、建物の嘘をもっと綺麗に解く。犯人は、建物の嘘を使って人間を見出しにしてる。似てるけど、違う」
「それは弁護ですか」
「評価です」
真壁は図面を見た。
海側回廊の下。
旧祠の点検口。
旧祭壇棟の昇降床。
港の防潮水路。
全部が一つにつながるなら、灯村失踪、黒羽の死後移動、古賀の床下の死は、同じ構造で説明できる。
犯人は、表の館ではなく、裏の館を使っている。
七禍館には、二つの顔がある。
海側と島側。
客用と管理用。
見える館と、見えない館。
「鳳さん」
真壁が言った。
「古賀の死体があった床下から、港の水路へつながるか」
「直接は難しいかもしれません。ただ、旧祭壇棟の下には水音がありました。完全に乾いた空間ではありません」
「土は乾いていた」
「はい。だから、あの土は外から流れ込んだものではない」
「誰かが持ち込んだ」
「そうです」
二階堂がメモに何かを書いた。
「土を持ち込む意味は?」
「見立て」
真壁が言う。
「だけじゃないと思う」
二階堂は首を振った。
「犯人は、見立てだけのために面倒なことをしてない。海禍は島を孤立させるため。火禍は黒羽の顔と時間を曖昧にするため。土禍も、何か隠すためだと思う」
「声を塞ぐ」
九条が言った。
三人が九条を見る。
九条は検案メモを閉じた。
「古賀は何かを言おうとしていた。だから殺された」
「何を?」
九条は写真片を見た。
「真依」
鳳の手が、図面の上で止まる。
「真依は床の下に声を置いた」
二階堂が繰り返した。
「声って、証言? 録音? 手紙?」
「この館なら」
鳳は言った。
「音響管かもしれません」
「音響管?」
「古い建物には、声を遠くへ伝えるための伝声管や空洞が残っていることがあります。七禍館は風や音の通り道が多い。真依が何かを“声”として床下に残したなら、録音ではなく、声が届く仕組みを指している可能性がある」
二階堂の目が光った。
「音禍につながる」
「はい」
真壁は、犯人の順番を考えた。
海。
火。
土。
次は風。
その次に鏡。
その次に音。
血。
しかし、土の段階で音の伏線が出た。
犯人は七禍を一つずつなぞっているようで、実際には全部を絡めている。
現実の事件は、歌ほどきれいに分かれていない。
それを無理やり七つに編集している。
「二十一年前も同じか」
真壁が呟く。
鳳が顔を上げた。
「複数の死や不在を、七禍として編集した」
「ああ」
二階堂が頷く。
「今回の犯人は、それを再現してる。再現というより、解説してるのかもしれない」
「解説?」
「見ろ、二十一年前もこうやって名前を置いたんだって。俺たちに実演してる」
真壁は嫌な感覚を覚えた。
犯人は、事件を起こしている。
同時に、過去事件の読み方を提示している。
殺人で、解説している。
そんなものを許していいはずがない。
その時、食堂の隅で、火野朱里が立ち上がった。
佐伯の部下がすぐに反応する。
「どちらへ」
「水を」
「こちらで取ります」
「自分でできます」
「座ってください」
朱里は、少しだけ笑った。
「私は、疑われているんですね」
二階堂が顔を上げる。
「全員です」
「鳳さんも?」
「もちろん」
「警察の方も?」
二階堂は笑った。
「俺たちも、互いに見ています」
朱里は真壁を見た。
「真壁さん」
「はい」
「もし、誰かが七禍を壊すために七禍を使っているとしたら、それは罪ですか」
食堂の空気が止まった。
真壁は答えた。
「人を殺しているなら罪です」
「でも、そうしなければ誰も見ないとしたら」
「それでも罪です」
「死者の名前を返すためでも?」
「生きている人間の名前を奪うなら、罪です」
朱里は、じっと真壁を見た。
その目には、怒りも悲しみもあった。
それ以上に、失望があった。
真壁の答えが正しいとわかっている人間の失望。
「そうですね」
朱里は座った。
二階堂が、低く呟いた。
「今の、覚えておいた方がいい」
「覚えてる」
真壁は答えた。
犯人の思想が、少しだけ姿を見せた気がした。
七禍を壊すために、七禍を使う。
朱里はそれを仮定として言った。
だが、仮定の形をした告白は、世の中にいくらでもある。
もちろん、それだけで犯人とは決めない。
名前を置くな。
だが、言葉は拾う。
*
午前四時前。
潮が引き始めた。
港の防潮水路を確認するため、真壁、鳳、佐伯の部下二人が外へ出た。九条は黒羽と古賀の記録をまとめるため館に残り、二階堂は食堂の監視と証言整理を続ける。
夜はまだ明けていない。
空の端がわずかに薄くなる前の、一番冷たい時間だった。
坂道を下ると、港の船は黒い塊になっていた。火は完全に消え、煙も薄い。だが焦げた匂いはまだ残っている。
岸壁の下。
鳳が見つけた石垣の隙間。
潮が引き、黒い格子が見えるようになっていた。
「人が通れるか」
真壁が訊く。
「格子が外れれば、小柄な人間なら。大人でも、かなり無理をすれば」
鳳がライトを向ける。
格子の一部が曲がっていた。
最近、力をかけたような跡がある。
その奥から、微かな音がした。
水音。
いや。
何かが、石を叩く音。
真壁は耳を澄ませた。
コン。
コン。
コン。
規則的ではない。
弱い。
だが、人為的な音だった。
「灯村さんか」
佐伯の部下が言う。
真壁はすぐに言った。
「まだ名前を置くな」
鳳が格子に近づく。
「中に誰かいる可能性があります」
「開けられるか」
「工具が必要です」
真壁は部下に指示を出した。
「工具。ロープ。担架。九条も呼べ」
「はい」
部下が走る。
真壁は格子の奥へ声をかけた。
「中にいる人、聞こえますか。警察です」
返事はない。
代わりに、また音がした。
コン。
コン。
二回。
石を叩く音。
鳳が低く言った。
「水路は館の下へ続いています」
「灯村さんが閉じ込められているなら」
「海禍は、まだ死ではない」
真壁は頷いた。
海は名を呑む。
だが、呑まれた名が戻らないとは限らない。
格子の向こうで、誰かがまだ叩いている。
生きている。
そう思いたかった。
だが真壁は言葉にしなかった。
確認するまで、名前も生死も置かない。
鳳が水路の奥を見つめる。
「真壁さん」
「何だ」
「この水路、旧祭壇棟の床下へつながっています」
「古賀さんのいた場所か」
「おそらく」
「つまり、海禍と土禍はつながっている」
「はい」
真壁は、夜明け前の海を見た。
黒い水面は、少しずつ色を取り戻し始めている。
だが、まだ名前を与えるには早かった。
背後の七禍館は、崖の上で沈黙している。
その床下に、海と土と死者と生者が混ざっている。
誰かが、そこを使って七つの禍を作っている。
そしてその誰かは、まだ館の中にいる。
格子の奥から、三度目の音がした。
コン。
コン。
コン。
今度は三回。
三つ、土は声を塞ぐ。
真壁は歯を食いしばった。
土に塞がれた声が、海の底から戻ってくる。
事件は、ようやく本当の床下を見せ始めていた。




