第四章 火禍――顔を奪われた者
旧祠の窓に、顔のない影が立っていた。
火の色をした窓だった。
七禍館の食堂から見下ろすその場所は、館の海側に突き出した小さな付属棟だった。古い祠を囲うように後年の壁が継ぎ足され、渡り廊下で本館とつながっている。夜の闇の中では、祠そのものというより、七禍館から伸びた黒い腕の先に灯った小さな火袋のように見えた。
窓の内側で、炎が揺れている。
その前に、人影がある。
頭部だけが黒く潰れたように見えた。肩から下はかろうじて輪郭がわかる。上半身は男のようだった。だが顔がない。火に焼かれたのか、布で覆われているのか、それとも最初から人間ではないのか。
誰も、すぐには言葉を出せなかった。
言葉を出せば、それが現実になる。
そういう沈黙だった。
真壁彰は窓際に立ち、旧祠の窓を睨んだ。
その背後で、黒羽宗一郎がかすれた声を出す。
「何だ、あれは」
答えた者はいない。
九条雅紀だけが、低く言った。
「まだ、人間とは限らない」
その声で、真壁は息を戻した。
そうだ。
まだ置いてはいけない。
人影。
顔のないもの。
火禍。
黒羽宗一郎。
その四つを、頭の中で勝手につなげてはいけない。
「佐伯さん」
真壁は振り返らずに言った。
「全員を食堂から出さないでください。窓には近づけさせない。黒羽さんはここに」
「はい」
県警の佐伯警部補がすぐに動く。
だが黒羽は、一歩後ずさった。
「私は行かないぞ」
「行かせません」
「ならいい」
「違います。あなたをここから出さないという意味です」
黒羽の顔が強張った。
「どういう意味だ」
「あなたに予告が出ています。単独行動はさせません」
「私を犯人扱いするのか、被害者扱いするのか、はっきりしろ」
二階堂壮也が横から言った。
「どちらにもなり得るので、今は動かないでください」
「ふざけるな」
「ふざけてません。顔を奪われるっていうのは、死体の話だけじゃありません。あなたの名前が火禍に置かれようとしている。今あなたが勝手に動くと、犯人の文章に自分で句読点を打つことになります」
黒羽は二階堂を睨んだ。
しかし動かなかった。
真壁は九条と鳳恭介に目を向けた。
「旧祠へ行く」
「行く」
九条は短く答えた。
鳳も頷く。
「構造を確認します」
「二階堂」
「俺は食堂に残る。黒羽さんと全員の目を見ておく」
真壁は頷いた。
二階堂が残るなら、言葉の暴走はある程度抑えられる。
火野朱里が窓の外を見ていた。
赤いストールを外しているせいか、彼女はさっきよりずっと白く見えた。母を火禍で失った女が、火禍の予告を前にしている。動揺して当然だった。
だが、朱里の顔に浮かんでいたのは恐怖だけではなかった。
もっと別のもの。
確認しているような目。
真壁はそれを覚えた。
「朱里さん」
二階堂が声をかけた。
「窓から離れてください」
朱里はゆっくり二階堂を見た。
「火は、顔を奪う」
「歌はあとで聞きます」
「二十一年前も、母は顔を奪われました」
「だからこそ、今ここで次の名前を置かない」
朱里は少しだけ目を伏せた。
「名前を置かなければ、誰にも届かないことがあります」
二階堂の表情が、ほんのわずかに変わった。
「それでも、間違った場所に置いた名前は、あとで誰かが剥がさなきゃいけない」
朱里は答えなかった。
真壁は食堂を出た。
九条と鳳が続く。佐伯の部下が二人、後ろについた。
廊下に出ると、館の中の音が変わった。
食堂にいる人々のざわめきが扉の向こうに閉じ込められ、代わりに、七禍館そのものの音が前に出てくる。
木の軋み。
遠い波音。
風洞回廊を抜ける風。
どこかで水の落ちる音。
館内放送が切れたあとの静けさは、かえって不自然だった。さっきまで誰かの声が流れていたせいで、無音そのものが次の言葉を待っているように感じる。
旧祠へ向かう渡り廊下は、食堂から階段を下り、本館一階の奥へ進んだ先にあった。
途中、真壁は足元を見た。
廊下には薄く水の跡があった。
港で見た水滴に似ている。
海水。
あるいは、海水を含んだ何か。
「九条」
「見てる」
九条はしゃがみ込まず、歩きながら床を見ていた。
「足跡ではない。滴下痕」
「濡れたものを運んだ?」
「そう見える」
鳳が廊下の壁を見た。
「この壁の裏に、細い管理通路があるかもしれません」
「今、通れるか」
「わかりません。ただ、空気の流れがある」
「旧祠へ?」
「おそらく」
真壁は前を見た。
渡り廊下の入口には、小さな木の扉があった。上部に古い札が掛かっている。
火禍祠。
扉は閉まっている。
鍵はかかっていない。
真壁は手袋をして、扉に触れた。
熱はない。
焦げた匂いはするが、扉そのものが燃えているわけではない。
「開けるぞ」
九条が頷く。
鳳が一歩下がり、廊下の壁と天井を見た。
真壁は扉を押した。
軋む音がした。
渡り廊下の中は暗かった。
奥に、赤い光が揺れている。
火だ。
だが、大きな炎ではない。燭台か、ランプのような小さな火。廊下の両側には海側の窓があり、波の音が近い。窓の隙間から潮風が入り、赤い光を細かく震わせている。
廊下の突き当たりに、旧祠の部屋がある。
そこに、影が立っていた。
正面から見ると、それは人ではなかった。
黒い外套を着せられた、古い祭礼用の人形だった。
頭部は焼け焦げた布で覆われ、顔は見えない。肩のあたりに黒羽宗一郎のスーツに似た布が掛けられている。腕らしきものは垂れ、胸元には焦げた名刺が一枚、針で留められていた。
真壁は近づきすぎずに止まった。
「人形だ」
後ろの若い刑事が安堵の声を漏らしかける。
九条が低く言った。
「安堵するのは早い」
真壁も同じことを思っていた。
人形を見せた。
顔のない影を見せた。
なら、その次に本物が来る。
あるいは、すでに来ている。
旧祠の部屋は小さかった。
中央に石の祭壇。奥の壁に古い木札。左右に燭台。窓は食堂から見えていた海側の一つだけ。床は古い板張りだが、ところどころ新しい補修材が入っている。
部屋に入った瞬間、鳳が低く言った。
「やっぱり浅い」
「何が」
「外から見えた窓の位置と、内側の奥行きが合いません。この部屋、見た目より狭い」
真壁は周囲を見た。
「隠し部屋か」
「そこまで大きなものではないかもしれません。でも、壁の厚みが異常です」
九条は人形を見ていた。
「焦げ方が浅い」
「火で焼いたんじゃない?」
「布の表面だけ。人形自体はほとんど焼けていない。黒く見せるために煤を塗ってる」
真壁は人形の足元を見た。
床に灰が落ちている。
灰の中に、細い金属片があった。
「これ、写真を」
「はい」
「触るな」
若い刑事が写真を撮る。
鳳は祭壇の横へ回った。
「ここに通気口があります」
真壁が近づく。
壁の下部に、小さな格子がある。古く錆びているが、向こうから微かな風が入ってきていた。潮の匂いが濃い。
「海側に抜けてるのか」
「おそらく。あるいは管理通路へ」
「人は通れるか」
「無理です。ただ、声や煙なら通る」
館内放送の声を思い出した。
二つ、火は顔を奪う。
あれは本当に管理室から流れたのか。
それとも、壁の中の音響管を通じて、別の場所から入れられた声なのか。
鳳は祭壇の背後を見ていた。
「真壁さん」
「何だ」
「この祭壇、動きます」
真壁は眉を寄せた。
「動く?」
「床に擦過痕がある。祭壇は固定されているように見えますが、下に小さな車輪があるかもしれない」
九条が言った。
「床の傷が新しい」
真壁は祭壇の下をライトで照らした。
確かに、石の祭壇の下に細い隙間がある。完全に床へ固定されてはいない。左右にわずかな傷が伸びている。古い傷に見せかけているが、表面の粉塵が新しい。
「動かすぞ」
「待って」
九条が止めた。
「何か挟まってる」
祭壇の下。
暗い隙間に、白い紙の端が見えた。
いや、紙ではない。
布だった。
真壁はピンセットで慎重に引き出した。
焦げた布片。
黒羽が着ていたスーツの袖口に似ている。
だが、それだけではない。
布片には、血のような赤黒い染みが付いていた。
「人形につけたものか」
真壁が呟く。
九条は首を振った。
「血液かどうかは調べないとわからない。でも、煤の上に染みが乗ってる。燃えた後についた可能性がある」
「この部屋で誰かが怪我をした?」
「または、血のついた布をここへ持ち込んだ」
鳳が祭壇の横に手をかけた。
真壁が頷くと、若い刑事と一緒に慎重に動かした。
石の祭壇は、重い音を立てて数センチ横へずれた。
その下に、四角い蓋があった。
床板ではない。
金属の取っ手がついた、古い点検口。
真壁は息を止めた。
「開けられるか」
鳳が取っ手に手をかける。
動かない。
「錆びています。けれど、最近開けた跡があります」
「なぜわかる」
「取っ手の根元だけ錆が落ちている」
九条が点検口の周囲を見た。
「水滴がある」
真壁は膝をついた。
点検口の縁に、小さな水滴。
港の水。
火禍の名刺の近くにあったものと似ている。
「ここが裏動線か」
鳳は小さく頷いた。
「旧祠の下を通る点検用空間があるのかもしれません。海側回廊や港の水路とつながっている可能性もあります」
真壁は、蓋を無理に開けなかった。
「今は写真。開けるのは準備してからだ」
九条が人形の胸元の名刺を見ていた。
「名刺の焦げ方が、廊下で見つかったものと同じ」
「同じ場所で炙ったか」
「たぶん」
「人形はいつ置かれた」
「火が消えかけてる。燭台の蝋の減り方から見ると、点火は食堂に集まる前か、その直後。放送の前には準備されていた可能性が高い」
真壁は頭の中で時系列を組む。
港の船火災。
玄関の木札。
管理室の筆。
焦げた黒羽の名刺。
館内放送。
旧祠の顔のない人形。
この短時間で、全部を一人が直接やったのか。
それとも、事前に仕込んでいたのか。
犯人は館の構造を熟知している。
そして、人をどこへ集め、どこから何を見せるかを計算している。
「戻るぞ」
真壁は言った。
「黒羽さんから目を離すな」
廊下に出ると、風が強くなっていた。
渡り廊下の窓が微かに鳴る。海側から吹きつける風が、古いガラスを震わせている。赤い燭台の火は旧祠の中でまだ揺れていた。顔のない人形は、近くで見ればただの人形だ。だが食堂の窓から見れば、人の影に見える。
見せる角度。
それが、この館の基本構造だった。
食堂へ戻ると、空気は重く固まっていた。
全員が待っていた。
二階堂は食堂の入口近くに立ち、長卓と窓の両方を見られる位置を取っている。黒羽は席に座っているが、手元のグラスには触れていない。朱里は窓から離れた壁際。古賀は目を閉じ、何かを呟いている。鷺宮は両手を膝の上で握りしめていた。久世はカメラバッグを抱えたまま、顔だけを上げた。
「人でしたか」
久世が訊いた。
「人形です」
真壁は答えた。
食堂の空気がわずかに緩んだ。
その緩みを、真壁はすぐに切った。
「ただし、人形だけではありません。黒羽さんの名刺、黒羽さんの衣服に似た布片、血液の可能性がある染みが見つかりました」
黒羽が椅子から立ち上がった。
「私の衣服だと?」
「似ているだけです。断定していません」
「私はここにいた」
二階堂が言った。
「今ここにいることと、布片がそこにあることは両立します」
「どういう意味だ」
「黒羽さんの持ち物を誰かが事前に入手していた可能性があります」
「馬鹿な」
黒羽は自分の袖口を見た。
スーツの袖は揃っている。
破れてはいない。
だが、顔色がさらに悪くなった。
真壁はそれを見た。
黒羽は、単に命を狙われていることに怯えているのではない。
自分のものが、勝手に使われていることに怯えている。
犯人が自分の近くまで来ている。
あるいは、自分の過去に触れている。
その恐怖だった。
「黒羽さん」
真壁は言った。
「あなたの名刺を今日受け取った人間を、全員挙げてください」
「だから、何人もいる」
「順番に」
「鷺宮、古賀、火野、久世、佐伯さん、そこの若い刑事、灯村……」
「灯村さんにも?」
「ああ。港で渡した。開発会社の連絡先を」
二階堂が低く言った。
「また灯村さんが絡む」
「何だ、その言い方は」
「犯人は、灯村さんを死者にも容疑者にもできるようにしてる」
黒羽は黙った。
真壁は佐伯に目を向けた。
「灯村さんの所在確認は」
「港周辺の捜索を続けています。ただ、夜間で海沿いは危険です。無理はできません」
「水路は」
「外から確認するには潮位が高く、今は難しいです」
鳳が言った。
「明け方、潮が引く時間があります。その時なら格子の内側を確認できるかもしれません」
「何時だ」
「午前四時前後」
「それまで待つ」
鳳は頷いた。
しかし不満そうではあった。
真壁はそれを見て、低く言った。
「鳳さん」
「はい」
「行くなよ」
「まだ何も言っていません」
「顔が言ってる」
二階堂が少し笑った。
「ほら、九条だけじゃない。顔は言う」
九条が無表情に返す。
「顔は言わない」
「はいはい」
短い会話が、重い空気に小さな穴を開けた。
だが、その穴はすぐに塞がった。
食堂の扉が、風もないのに小さく鳴った。
全員がそちらを見る。
誰もいない。
廊下の奥から、古い木が軋む音だけが聞こえた。
鷺宮が立ち上がった。
「皆さま、お飲み物を……」
「座ってください」
真壁が言った。
「今は職員も含め、全員が席に」
鷺宮は従った。
その様子を、朱里が見ていた。
「警察が来ても、島は閉じるんですね」
朱里が呟いた。
真壁は彼女を見た。
「どういう意味ですか」
「昔も、警察は来ました。でも、島の中のことは島の中で決まった。死者の名前も、禍の名前も」
「今回はそうさせません」
「できますか」
朱里の声は責めているようで、どこか試しているようでもあった。
「死んだ人の顔がなくなって、名前だけが残って、その名前をみんなが信じたら」
真壁は答えた。
「信じる前に確認します」
「確認できなかったら?」
「確認できないと記録します。誰かの都合のいい名前は置かない」
朱里は黙った。
その目に、かすかに涙のようなものが浮かんだ。
しかし、落ちなかった。
火野朱里は泣かなかった。
泣くことを、とうにやめた人間のようだった。
夜は深くなった。
外部連絡は回復しない。
船の火は消えたが、身元不明の遺体はまだ動かせない。
灯村要は行方不明のまま。
玄関には木札。
廊下には焦げた名刺。
旧祠には顔のない人形。
そして、黒羽宗一郎には火禍の予告。
真壁たちは、食堂で全員の事情聴取を始めた。
最初は黒羽だった。
黒羽は苛立ちながらも、さすがに協力した。開発会社の責任者として七禍島へ来たこと。観光開発に伴う安全調査と、保存会や遺族への説明会を予定していたこと。二十一年前の資料は会社を通じて一部確認しているが、個別の死者に詳しいわけではないこと。
「火野千景さんの資料は?」
真壁が訊く。
「読んだ」
「顔が焼けていたことも」
「資料にはそうあった」
「身元確認は?」
「私は知らん」
「あなたは先ほど、禍は観光資源だと言った」
「言葉のあやだ」
二階堂が微笑む。
「便利ですね、言葉のあや」
黒羽は二階堂を睨んだ。
「私は殺人者ではない」
「まだ誰もそう言っていません」
「言わせたいんだろう」
「むしろ、言われないようにしてるんです」
二階堂の声は穏やかだった。
「火禍という言葉と黒羽さんの名前が接続され始めています。このまま感情的に動くと、本当に“火禍の黒羽”になります」
黒羽は黙った。
次に古賀。
老人は頑なだった。
二十一年前のことは知らない。
保存会として七禍館の保存に関わっているだけ。
火野千景とも鳳悠一とも直接の接点はない。
しかし真壁が「七つを揃えなければ終わらない」と言った理由を尋ねると、古賀は答えを濁した。
「昔から、そういうものだ」
「誰が言い始めた」
「知らん」
「古賀さん。島の言い伝えと、二十一年前の事件は別です」
「別ではない」
「なぜ」
「二十一年前、別にしようとしたから死んだ」
真壁はメモを止めた。
「誰が?」
古賀は口を閉ざした。
その後は何を訊いても答えなかった。
久世玲央は、映像作家として七禍島を取材する予定だったと語った。開発会社からプロモーション映像の相談があり、同時に自身のドキュメンタリー作品としても撮影許可を得ようとしていたという。
「火禍の名刺を撮影しましたか」
二階堂が訊く。
「していません」
「旧祠の影は?」
「食堂から、少しだけ」
「見せてください」
久世はカメラを差し出した。
映像には、食堂の窓越しに旧祠の赤い光が映っていた。顔のない影。食堂のざわめき。黒羽の声。朱里の横顔。
真壁は映像を巻き戻した。
旧祠の光が点る前。
窓は暗い。
だが、食堂のガラスに室内が反射している。
そこに、誰かの姿が映っていた。
食堂を出ていく人影。
背は高い。
黒い服。
一瞬だけ、鳳に見えた。
久世が言った。
「鳳さん、ですか?」
鳳が顔を上げる。
真壁は映像を止めた。
画像は粗い。
背格好だけなら鳳に似ている。
だが、鳳はその時、真壁たちと管理室にいたはずだ。
二階堂が映像を覗き込む。
「また置きにきたね」
「何を」
「鳳さんの疑い」
鳳は表情を変えなかった。
だが、指先が小さく動いた。
真壁は言った。
「鳳さんはその時、俺たちと管理室にいた」
久世は慌てたように言った。
「すみません、似ていたので」
「似ている、で名前を置かないでください」
二階堂が柔らかく言った。
その柔らかさが、逆に冷たかった。
久世は口を閉ざした。
鳳は映像を見ていた。
「これは、僕ではありません」
「わかってる」
真壁が言う。
「いえ、そうではなく」
鳳は画面を指差した。
「この人影は、食堂の扉から出ていません」
「どういうことだ」
「ガラスへの反射角度が合わない。これは食堂内の人影ではなく、廊下側のガラスに映った別の反射です」
二階堂が眉を上げる。
「また見え方の罠?」
「はい。たぶん、誰かが食堂から出たように見せるために、廊下の照明とガラスを使った」
「鳳さんに似せて?」
「あるいは、誰にでも似るように」
真壁は映像をもう一度見た。
確かに顔は映っていない。
背格好だけ。
人は、そこに知っている名前を当てはめる。
鳳恭介。
黒羽宗一郎。
灯村要。
誰でもいい。
犯人は、読者に名前を選ばせるように、登場人物にも名前を選ばせている。
事情聴取は続いた。
鷺宮は、七禍館の管理を数年前から任されていると語った。二十一年前は子どもで、直接の記憶は曖昧だという。だが、島では七禍の話を避けて通れなかった。どの家にも、誰かの死がつながっている。
「血禍の間については」
鳳が訊いた。
「封鎖されています」
「理由は床の傷み」
「はい」
「いつから」
「少なくとも私が管理を引き継いだ時には」
「中を見たことは」
鷺宮は少し迷った。
「一度だけ」
「何がありましたか」
「何も」
「何も?」
「部屋というより、空間でした。壁が厚く、窓もなく、古い木札だけがあった」
「木札には?」
「血禍」
鷺宮はそこで声を落とした。
「そして、鳳悠一さんの名前が」
鳳は目を伏せなかった。
真壁は、鳳の横顔を見た。
兄の名前を、また置かれた。
本人がいないところで。
本人の弟の前で。
「その木札は今も?」
鳳が訊く。
「あるはずです」
「確認したい」
「今は」
「今でなくても構いません」
鳳はそう言った。
だが、真壁にはわかった。
構っている。
今すぐ確認したいのを、理性で押さえ込んでいるだけだ。
最後に朱里が呼ばれた。
火野朱里は、長卓の端に静かに座った。
手は膝の上。
背筋は伸びている。
「お母さんの火野千景さんについて、教えてください」
真壁が言うと、朱里は少しだけ頷いた。
「母は二十一年前、七禍館で亡くなりました。火禍の死者として」
「当時、あなたは?」
「五歳でした」
「記憶は」
「母の顔は覚えています。死んだ時の顔は、見ていません」
その言い方が、真壁の胸に残った。
死んだ時の顔は、見ていない。
火は顔を奪う。
顔を奪われた死者は、残された者からも最後の顔を奪う。
「火野さんは、なぜ今回ここへ?」
「母の名前を戻すためです」
「誰から?」
「火禍から」
朱里は淡々と言った。
「母は火禍ではありません。火野千景です」
鳳が静かに彼女を見た。
同じ言葉だった。
兄は血禍ではない。
母は火禍ではない。
死者を禍から取り戻したい人間が、ここに二人いる。
真壁は訊いた。
「今日、黒羽さんの名刺を受け取りましたか」
「はい」
「今持っていますか」
朱里はバッグから名刺入れを出し、一枚を取り出した。
黒羽宗一郎。
焦げていない、白い名刺。
「これです」
真壁は受け取らず、写真を撮らせた。
「火禍の名刺とは別物ですね」
「はい」
「今日、黒羽さんの衣服に触れましたか」
「いいえ」
「旧祠へは」
「行っていません」
「火野さん」
「はい」
「さっき、騒ぎにならないと何も見てもらえないこともある、と言いましたね」
朱里は、真壁を見た。
「言いました」
「どういう意味ですか」
「そのままです」
「人を殺してでも騒ぎにすべきだと思いますか」
佐伯がわずかに身じろぎした。
問いは直截だった。
だが、真壁は必要だと思った。
朱里は表情を変えない。
「いいえ」
「では、どこまでなら」
「どこまでなら、見てもらえますか」
朱里は逆に訊いた。
食堂の空気が張る。
「静かに訴えれば、聞いてくれますか。資料を集めれば、読んでくれますか。遺族が何年も声を上げれば、誰かが母の名前を戻してくれますか」
誰も答えなかった。
朱里は、かすかに笑った。
「私は、何が正しいかわかりません。でも、何も起きなかったことにされるのが、一番怖い」
「起こす必要はありません」
真壁は言った。
「起きたことを確認します」
「確認できなかったから、二十一年経ったんです」
朱里の声は、初めて揺れた。
泣き声ではない。
怒鳴り声でもない。
長く押し殺してきたものが、ほんの少し表に出ただけだった。
「母の顔は焼けました。資料には火禍と書かれました。島の人は、仕方なかったと言いました。開発会社は、悲劇を観光資源にすると言いました。保存会は、七禍は島の記憶だと言いました。警察は、古い事件だから難しいと言いました」
朱里は、真壁を見た。
「では、誰が母を火野千景に戻してくれるんですか」
真壁は、すぐには答えなかった。
答えられることと、答えるべきことは違う。
安易に約束すれば、それもまた言葉の暴力になる。
「少なくとも」
真壁は言った。
「火禍という名前で終わらせない」
朱里は目を伏せた。
「そうですか」
その時、食堂の外で、何かが落ちる音がした。
重い音。
金属か、木箱か。
全員が振り返る。
真壁は立ち上がった。
「佐伯さん、全員ここに」
「はい」
「黒羽さんも」
真壁が言う前に、黒羽が椅子から立っていた。
「何だ、今の音は」
「座ってください」
「確認する」
「座れ」
真壁の声が低くなった。
黒羽は一瞬、真壁を睨んだ。
だが座った。
今度は、彼も理解していた。
自分が動けば、犯人の思う通りになる。
真壁、九条、鳳、若い刑事一人が食堂を出た。
音は廊下の奥。
旧祠へ続く渡り廊下ではない。
反対側。
海側回廊の方角だった。
廊下には、人影はない。
ただ、床に黒いものが落ちていた。
手袋だった。
黒い革手袋。
片方だけ。
その手袋には、赤黒い染みが付いている。
九条が近づいて膝をついた。
「血液の可能性」
「誰の手袋だ」
真壁が訊く。
若い刑事が言った。
「黒羽さん、さっき黒い手袋をしていませんでしたか」
真壁は、記憶を辿った。
港。
火災。
黒羽宗一郎は黒い革手袋をしていた。
食堂では外していたか。
手元を思い出す。
黒羽はグラスに触れていない。
手袋はしていなかった。
「片方だけか」
「はい」
九条が手袋の周囲を見る。
「引きずった跡はない。落としただけに見える」
鳳が廊下の壁を見た。
「ここにも、壁の中に通路がある」
「またか」
「はい。海側回廊と旧祠をつなぐ管理通路かもしれません」
真壁は手袋を見た。
黒羽の名刺。
黒羽の布片。
黒羽の手袋。
犯人は、黒羽の周囲に火禍の部品を置いている。
だが、それは黒羽を殺すためか。
黒羽を犯人にするためか。
それとも、黒羽がすでに何かに関わっていることを示すためか。
食堂から悲鳴が上がった。
今度は、はっきりと黒羽の声だった。
真壁は走った。
食堂へ戻ると、黒羽宗一郎が自分の胸元を押さえて立っていた。
スーツの内ポケットを探っている。
顔色が真っ白だった。
「ない」
「何が」
真壁が訊く。
「鍵だ」
「鍵?」
「旧祠の鍵と、海側回廊の予備鍵。さっきまであった」
鳳が食堂の入口で止まった。
「黒羽さん」
「何だ」
「旧祠は鍵がかかっていませんでした」
「だから何だ」
「鍵を盗む必要があったのは、旧祠ではない。別の場所です」
二階堂が口を開いた。
「海側回廊」
その瞬間、館全体の照明が落ちた。
一秒。
二秒。
暗闇が食堂を呑む。
誰かが叫ぶ。
椅子が倒れる。
グラスが割れる。
真壁は反射的に声を張った。
「動くな!」
非常灯が赤く点いた。
薄い赤の光が、食堂を沈める。
その赤の中で、黒羽宗一郎の席だけが空だった。
「黒羽さん!」
真壁は叫んだ。
窓の外で、海側回廊の灯が一つ、点いた。
赤い灯。
ゆらゆら揺れる火のような灯。
そして館内放送が、再びノイズを吐いた。
今度の声は、さっきより近かった。
「二つ」
誰も息をしなかった。
「火は、顔を奪う」
真壁は食堂を飛び出した。
背後で二階堂が叫ぶ。
「全員座ってろ! 今動いたら、誰かの名前にされる!」
真壁は海側回廊へ走った。
九条と鳳が続く。
回廊の入口には、鍵がかかっているはずだった。
だが扉は開いていた。
黒羽の予備鍵が使われたのか。
あるいは、最初から開いていたのか。
海側回廊は、赤い非常灯に沈んでいた。
ガラスの向こうに黒い海が広がる。床はわずかに傾き、波音が下から響く。回廊の奥、旧祠へつながる角の手前に、何かが倒れていた。
人だった。
黒羽宗一郎。
うつ伏せに倒れている。
スーツの背中は黒く濡れ、片腕が不自然に折れている。頭部の周囲に、焦げた臭いが立ち込めていた。
真壁は駆け寄った。
「九条!」
「触るな」
九条は即座に横へ膝をついた。
真壁はライトを向ける。
黒羽の顔は、見えなかった。
顔面に黒い布のようなものが貼りつき、焼け焦げている。皮膚が焼けた臭いかと思ったが、九条はすぐに言った。
「顔そのものが大きく焼けているわけじゃない」
「生きてるか」
九条が頸動脈に触れ、呼吸を確認する。
数秒が長かった。
「心停止」
「蘇生は」
「この状態では難しい。でも確認する」
九条は処置に入った。
真壁は周囲を見た。
回廊には焦げた名刺が散っている。
黒羽宗一郎の名刺。
何枚も。
そのうち一枚が、血で床に貼りついていた。
鳳は回廊の奥を見ている。
「扉が閉まっています」
「どの扉だ」
「旧祠側の管理扉。さっきは見えなかった場所です」
「犯人はそこから?」
「可能性があります。ただ……」
「ただ?」
鳳は床を指した。
「足跡がありません」
海側回廊の床は湿っている。
潮風と結露で、薄く濡れていた。
そこに、黒羽の靴跡だけがあった。
食堂側からここまで、乱れた足跡。
だが、黒羽以外の明確な足跡はない。
まるで黒羽は、一人でここまで来て、顔を奪われたようだった。
九条が低く言った。
「死亡確認」
その言葉は、回廊の赤い光の中で、重く落ちた。
真壁は目を閉じなかった。
「黒羽宗一郎、死亡。だが火禍とは呼ばない」
九条が顔を上げた。
「顔を焼いたのは、死後の可能性がある」
「死因は」
「まだ言えない」
「顔は」
「焼かれたというより、焼けた布を貼りつけられたように見える」
真壁は息を吸った。
火は顔を奪う。
だが実際には、火が奪ったのではない。
誰かが、火に奪わせたように見せた。
黒羽は死んだ。
火禍の予告通りに。
しかし、この死に方はまだ、犯人の文章の表面にすぎない。
真壁は床の名刺を見た。
散らばった名刺。
黒羽の顔を隠す焦げた布。
消えた鍵。
開いていた回廊。
足跡のない湿った床。
赤い非常灯。
そして、館内放送の声。
二階堂が遅れて駆けつけた。
食堂を佐伯に任せてきたのだろう。額に汗が浮いている。
「黒羽さん?」
「死亡確認」
二階堂は一瞬だけ目を閉じた。
すぐに開ける。
「火禍とは呼ばないんだよね」
「ああ」
「でも犯人は呼ばせたい」
「そうだ」
二階堂は、回廊の床に散った名刺を見た。
「今度は見出しどころじゃない。本文まで書いてきた」
鳳が低く言った。
「いいえ」
二階堂が振り返る。
「何?」
「これは、本文ではありません」
鳳は海側回廊のガラスを見た。
黒い海に、回廊の赤い灯が映っている。
その反射の中で、黒羽の倒れた姿は二重に見えた。
本物と、海の中の影。
「これは、読ませるためのものではありません」
鳳は言った。
「見せるためのものです」
真壁は、黒羽の遺体を見た。
火禍。
顔を奪われた者。
しかし、顔を奪われたのは、黒羽だけではない。
この瞬間、黒羽宗一郎という人間は、開発会社の責任者でも、一人の男でもなくなりかけていた。
火禍の死者。
その呼び名が、回廊の赤い光の中で待っている。
真壁は低く言った。
「名前を置くな」
それは、犯人に向けた言葉だった。
そして、自分たちに向けた言葉でもあった。
九条が黒羽の首筋を見て、わずかに眉を寄せた。
「真壁」
「何だ」
「黒羽さんは、ここで死んでいないかもしれない」
二階堂が息を呑む。
「じゃあ、運ばれた?」
「でも足跡がない」
鳳が言う。
九条は、黒羽の衣服の皺と血の流れを見ていた。
「運ばれたんじゃない」
「なら」
九条は赤い回廊の奥を見た。
「黒羽は、死んだ後にここへ来た」
その言葉の意味を、すぐに理解できた者はいなかった。
死んだ後に、ここへ来た。
人間は死んだ後に歩けない。
ならば、運ばれたのか。
だが足跡はない。
回廊の床には、黒羽の靴跡しか残っていない。
真壁は、黒羽の靴跡を見た。
食堂側から伸びる足跡。
乱れている。
途中で深く擦れている。
まるで酔った人間がよろめきながら歩いたように。
あるいは。
死体の足を床につけたまま、誰かが引いていったように。
だが、引いた者の足跡はない。
鳳が、ガラスの外を見た。
「床線」
「何だ」
「この回廊、海側へ二センチから四センチ下がっています」
前に、鳳が船上から見抜いた違和感。
ここへ来て、真壁の中でつながった。
「傾斜か」
「はい。床はわずかに海側へ傾いている。そして、結露で濡れている」
二階堂が顔を上げる。
「まさか、滑った?」
「死体が?」
真壁が訊く。
鳳は黒羽の靴跡を見た。
「人間が歩いた足跡に見えますが、重心が変です。つま先側の圧が浅い。踵側が擦れている。もし黒羽さんが意識を失った状態で、何かに引かれるか、傾斜を滑るように移動したなら」
九条が続けた。
「死んだ後にここへ来た、という説明になる」
真壁は回廊の奥を見た。
犯人の足跡がない理由。
死体が歩いたように見える理由。
火禍の見立て。
そして黒羽が食堂から消えた一瞬の停電。
「黒羽は食堂から自分で出たのか?」
「そこも怪しい」
二階堂が言った。
「停電の直前、黒羽さんは立っていた。でも照明が落ちたのは数秒。普通に走っても、ここまで来るには時間が足りない」
「では、食堂にいた黒羽は?」
二階堂の顔が、ゆっくりと変わった。
「まさか」
真壁も同じ可能性に辿り着いた。
食堂にいた黒羽。
あれは本当に黒羽だったのか。
いや、黒羽は食堂にいた。
話もした。
声も出した。
だが、停電の直前、全員の視線は放送と窓に奪われていた。
黒羽の席。
黒羽の声。
黒羽の姿。
それらは本当に、最後まで一致していたのか。
九条が静かに言った。
「顔を奪う、の意味が変わる」
二階堂が頷く。
「顔を焼くんじゃない。顔があると思わせる」
鳳が海側回廊の赤い反射を見ていた。
「この館は、見せる方向を決める建物です」
真壁は黒羽の遺体を見た。
火禍の死者。
そう呼ばせるために置かれた遺体。
だが、おそらく真相はその下にある。
顔を奪われたのは、黒羽の死体ではない。
食堂にいた全員の目だ。
誰が黒羽を見ていたのか。
誰が黒羽の声を聞いたのか。
誰が黒羽の最後を確認したのか。
真壁は低く言った。
「全員の証言を取り直す」
二階堂が頷いた。
「今度は、“黒羽を見た”じゃなくて、“何を黒羽だと思ったか”だね」
「そうだ」
九条は黒羽の遺体に視線を落としたまま言った。
「解剖が必要」
「ここでは無理か」
「無理。だが最低限、死亡時刻の手がかりは見る」
「頼む」
鳳は海側回廊の奥へ目を向けた。
「真壁さん」
「何だ」
「この回廊の下に、旧祠の点検口とつながる空間があります。黒羽さんがここへ“来た”経路は、廊下ではないかもしれません」
「床下か」
「はい」
真壁は、赤い灯の下で静かに息を吐いた。
海禍は、船と海を使った。
火禍は、顔と見え方を使った。
次に来るなら。
三つ、土は声を塞ぐ。
床下。
土。
隠された空間。
黒羽の死体の下で、次の禍がもう口を開けている気がした。
その時、回廊のガラスに映った自分たちの背後で、何かが揺れた。
真壁は反射的に振り返る。
誰もいない。
だが、ガラスの向こう――海に映った七禍館の灯の数が、ひとつ増えていた。
七つではない。
八つ。
鳳が、その光を見て、表情を変えた。
「あり得ない」
「何が」
「今の位置に、灯はありません」
二階堂が低く言った。
「じゃあ、あれは何?」
鳳は答えなかった。
海の黒に映る八つ目の灯。
それは、七禍館の下から、まるで床下の闇が目を開けたように光っていた。
火禍は終わっていない。
あるいは、もう次が始まっている。
真壁は黒羽宗一郎の遺体を見下ろした。
顔を奪われた者。
しかし、奪われた顔の下には、まだ解かれるべき謎が残っている。
その謎を解く前に、犯人はもう次の名前を置こうとしていた。




