第二章 海禍――船は戻らない
坂道を下る途中で、真壁彰は二度、足を止めかけた。
一度目は、風の向きが変わった時だった。
七禍館の玄関を出た時、風は海から吹いていた。潮の匂いが強く、髪や襟元に湿った冷気がまとわりつく。だが坂道を数十メートル下ったところで、風は一瞬、山側から吹き下ろした。
背後の館から、島の内部を通って、港へ向かって流れてくる風。
その中に、焦げた匂いが混じっていた。
木が燃える匂いではない。紙でもない。もっと油を含んだ、重い臭気。船の燃料か、塗料か、あるいは古いロープに染み込んだ油か。
真壁は足を止めかけたが、止まらなかった。
二度目は、坂の途中で古い石段が分かれているのを見た時だった。
車道は港へ向かって大きく蛇行している。一方、石段は斜面をまっすぐ下り、途中で闇の中へ消えていた。手すりはない。苔がつき、ところどころ崩れている。今の観光客に使わせる道ではない。
「祭礼道です」
鳳恭介が、息を乱さずに言った。
真壁は走りながら横目で見る。
「港へ出るのか」
「出ます。たぶん車道より早い。ただし危険です。雨の後なら滑る」
「今は」
「滑ります」
後ろで二階堂壮也が低く言った。
「じゃあ却下。真壁が行くと九条まで行く。九条が行くと俺が後始末する羽目になる」
「俺は行くとは言ってない」
九条雅紀が淡々と返す。
「顔が言ってた」
「顔は言わない」
「言うんだよ、九条の顔は」
真壁は短く判断した。
「車道を行く」
四人は坂を下り続けた。
七禍館は背後で暗く沈んでいる。だが、ところどころに灯が点っていた。さっきまで玄関ホールで見上げた七つの灯。それとは別に、宿泊棟の窓、管理室らしい小さな明かり、風洞回廊の薄い照明。それらが坂の角度によって見えたり消えたりする。
七つに見える瞬間があった。
次の瞬間には、九つにも、五つにも見えた。
鳳が言った。
「やはり、海側から見た時だけ七つに揃うように見えます」
「今それが重要か」
真壁が訊くと、鳳はすぐに答えた。
「重要です。誰かが“七つに見せる”ことを考えているなら、次に何を見せたいのかも考えられる」
二階堂が走りながら笑った。
「建築の人間って、走りながらそんなこと考えるの?」
「人によります」
「鳳さんは?」
「考えてしまいます」
港が見えた。
赤い光が揺れている。
船が燃えていた。
正確には、船全体が炎に包まれているわけではなかった。岸壁に係留された小型船の船尾付近で火が上がり、黒い煙が風に流されている。船体の一部にはすでに水がかけられた跡があり、炎は弱まりかけていた。だが、船尾に近い部分だけがまだ赤く光っている。
港には人が集まっていた。
県警の佐伯警部補。灯を持った島の男たち。開発会社の黒羽宗一郎。保存会の古賀清澄。映像作家の久世玲央。赤いストールを巻いた火野朱里。何人かは火を消そうと動いているが、何人かは遠巻きに見ているだけだった。
鷺宮依子は、まだ来ていない。
灯村要の姿もない。
真壁は岸壁へ入る直前に声を張った。
「全員、船から離れてください。消火している者以外は、港の入口へ」
佐伯が振り返った。
「真壁さん」
「状況は」
「船が燃えています。灯村さんがいません。さっきまで港にいたという証言があります」
「最後に見たのは誰だ」
佐伯は一瞬、周囲を見た。
その一瞬で、真壁は答えが固まっていないことを理解した。
「証言を分けて取れ。今ここで全員に喋らせるな」
「はい」
二階堂がすぐに動いた。
「港にいた人、館から来た人、船に触った人。三つに分けましょう。あと、勝手に“灯村さんが死んだ”と言わないこと。まだ確認されてない」
その声は、普段より少し低かった。
広報の人間の声だった。
言葉が先に走ることを止める声。
真壁は船へ近づいた。
炎は船尾の外側でくすぶっている。消火器の白い粉が甲板に散っていた。係留ロープは一本が焦げ、もう一本は切れている。船体は岸壁にぶつかるたび、鈍い音を立てている。
波は高くない。
だが、海面は黒い。
夜の海は、船の下で何かを隠しているように見えた。
「九条」
「まだ入れない」
九条は即答した。
「火が残ってる。煙も強い。中に遺体があるかどうかは、火が落ちてから」
「匂いは」
「燃料と塗料。あと、血の匂いはわからない。海と煙で消えてる」
真壁は頷いた。
「鳳さん」
「はい」
「この船はさっき俺たちが乗ってきた船か」
鳳は船体を見た。
「同じです。ただし、係留の向きが違います」
「向き?」
「到着時は船首を外側へ向けていました。今は船尾がわずかに外へ振れています。風と潮だけでは、ここまで変わりません」
真壁は係留ロープを見る。
一本は焦げている。
一本は切れている。
切断面は暗くて見えない。
「誰かが動かしたか」
「可能性はあります」
二階堂が戻ってきた。
「灯村さんを最後に見た証言、割れてる」
「どう割れてる」
「黒羽さんは“船にいた”と言ってる。久世さんは“港の倉庫の方へ歩いた”と言ってる。古賀さんは“館へ上がる坂で見た”と言ってる。朱里さんは“声だけ聞いた”」
「全部違うな」
「うん。全員が嘘をついてるか、全員が違う時間を見てるか、全員に違うものを見せられてるか」
九条が静かに言った。
「見た、は当てにならない」
「死体を見る人がそれ言うと重いね」
「死体は喋らないけど、状態は残る」
「人間は喋るけど、状態を隠す」
二階堂が言うと、九条は少しだけ目を向けた。
「それはお前の領分」
「そう。だから今かなり嫌」
真壁は岸壁の端へ歩いた。
港の倉庫がある。古い木造の小屋だ。扉は半開きになっている。中には予備のロープ、燃料缶、網、工具箱が見えた。床に濡れた跡がある。
その濡れた跡は、海水だけではなかった。
暗い色が混じっている。
「佐伯警部補」
「はい」
「ここを照らしてくれますか」
佐伯がライトを向ける。
床に、点々と何かが落ちていた。
血のように見える。
だが、海水で薄まっている。
九条が膝をつき、顔を近づけた。
「血液の可能性はある」
「量は」
「この場で致命傷とは言えない。でも、負傷者がいた量ではある」
「灯村さんか」
「断定しない」
九条は低く言った。
「名前を置くのが早い」
真壁はその言葉を胸に置いた。
名前を置くのが早い。
その通りだ。
この島では、死体より先に名前が走る。
死因より先に伝承が走る。
現場より先に物語が立ち上がる。
それを止めなければならない。
その時、港の外れで声がした。
「海禍だ」
保存会の古賀だった。
白髪の老人が、震える指で燃えた船を指している。
「海が、名を呑んだ」
周囲の島民がざわめいた。
真壁が振り返るより早く、二階堂が前に出た。
「まだ誰の名前も呑まれてません」
古賀は二階堂を睨んだ。
「よそ者にはわからん」
「わからないから確認するんです。今ここで“海禍”と言えば、次に誰かが“灯村さんは死んだ”と言う。そうなれば、確認する前に死者の名前が決まる」
二階堂の声は穏やかだった。
だが、言葉は強かった。
「それ、二十一年前にもやったんじゃないですか」
港の空気が止まった。
古賀の顔色が変わる。
黒羽宗一郎が舌打ちした。
「言葉が過ぎる」
二階堂は黒羽を見た。
「過ぎているのは、言葉ではなく順番です」
「何?」
「船が燃えた。灯村さんがいない。血らしきものがある。でも遺体はまだ見つかっていない。その状態で“海禍”と呼ぶのは、現場の確認ではなく演出です」
黒羽は黙った。
真壁は二階堂の横に立った。
「二階堂の言う通りです。灯村要さんの所在を確認するまで、死亡と断定しない。海禍とも呼ばない」
古賀が震える声で言った。
「だが、歌はある」
「歌は証拠ではない」
「二十一年前、歌を軽んじたから七人死んだ」
「二十一年前も、歌を重んじすぎたから名前を間違えた可能性がある」
真壁は言った。
古賀は口を閉ざした。
その沈黙の中で、港へ駆け下りてくる足音がした。
鷺宮依子だった。
息が少し乱れている。だが、顔は整っている。管理人としての顔を崩さないようにしている。それがかえって、彼女の動揺を浮かび上がらせていた。
「灯村さんは」
真壁が訊く。
鷺宮は船を見た。
赤い炎はほとんど消え、煙だけが残っている。
「先ほどまで、港にいたはずです」
「いつ見た」
「皆さまを館へご案内したあと、黒羽様たちの到着確認のため、港に連絡しました。その時、灯村さんが無線に出ました」
「時刻は」
「午後九時二十分頃です」
「声は本人でしたか」
鷺宮は一瞬、答えに詰まった。
真壁はその一瞬を見た。
「鷺宮さん」
「……本人だと思いました」
「思いました?」
「無線越しでした。雑音もありました。ですが、灯村さんの声だと」
二階堂が低く言った。
「声も、名前と同じで置ける」
鷺宮が二階堂を見た。
「どういう意味ですか」
「まだ断定しません。でも、二十一年前の資料も今夜の状況も、直接確認より先に“そうだと思わせるもの”が置かれてる。声、灯、名前、伝承」
鷺宮の顔が、ほんの少しこわばった。
「では、灯村さんは生きていると?」
「わかりません」
真壁は言った。
「だから探します」
佐伯が船の方から戻ってきた。
「火は落ちました。船内、確認できます」
真壁は頷いた。
「九条」
「行く」
「佐伯警部補、鑑識が来るまで動かさないでください。ただし、人命確認が先です。燃え残りを崩さないように入る」
「はい」
船に近づくと、熱がまだ残っていた。焦げた木と燃料の臭いが強い。甲板は濡れ、白い消火剤が膜のように広がっている。船尾の物置部分がひどく焼けていた。
九条が先に中を覗く。
真壁はその横でライトを向けた。
黒く焼けた布。
焦げた木片。
曲がった金具。
燃え残ったロープ。
そして、人の手。
真壁は息を止めた。
船尾の奥、物置と座席の隙間に、人の身体があった。
うつ伏せに近い姿勢。背中側が焼け、衣服は判別しにくい。海水を浴びたのか、全体が濡れている。顔は船底側に向き、すぐには確認できない。
九条が短く言った。
「遺体あり」
港のざわめきが遠くなった。
真壁は振り返らない。
「性別、年齢は」
「まだ無理。成人。男性の可能性が高いが、断定しない」
「死亡時刻」
「この場では出さない」
「死因」
「同じく。焼死かどうかもまだ言えない。火の前に死んでいた可能性がある」
九条の声はいつも通り淡々としていた。
だからこそ、真壁は少しだけ安心した。
死体の前で、九条は名前を急がない。
真壁は遺体の周囲を見る。
右手付近に、焦げた布片がある。船頭が着ていた防寒着の一部に似ている。だが、似ているだけだ。
靴は片方しかない。
左足の靴がない。
遺体の手首には、金属製の腕時計が残っていた。ガラスは割れている。時刻は九時三十七分で止まっている。
「灯村さんの時計か」
佐伯が言いかけた。
真壁は遮った。
「まだ言うな」
佐伯は口を閉ざした。
九条が遺体の左側へ回ろうとした時、船体が揺れた。
波ではない。
誰かが岸壁側で船を押さえたのだ。
真壁が振り返ると、古賀が岸壁から身を乗り出していた。目を見開き、遺体を見ようとしている。
「下がれ」
真壁が言う。
古賀は聞かない。
「灯村か。灯村なんだな」
二階堂が古賀の前に立った。
「下がってください」
「海禍だ。海禍が始まったんだ」
「まだ始めさせません」
二階堂の声が、低くなった。
「誰かが始めたいなら、なおさら」
古賀は一歩下がった。
だが、港の空気はもう変わっていた。
遺体がある。
船が燃えた。
灯村がいない。
歌には「海は名を呑む」とある。
人々の頭の中で、言葉が勝手に結びついていく。
海禍。
灯村要。
死者。
真壁は、その結びつきを断つために声を上げた。
「全員聞いてください」
港の人間が真壁を見る。
「船内に遺体があります。ただし、身元は未確認です。灯村要さんと断定しません。灯村さんは行方不明。遺体は身元不明。この二つを混同しないでください」
黒羽が苛立ったように言った。
「そんな言い方をして、何の意味がある」
「意味があります」
二階堂が答えた。
「人は最初に聞いた名前を覚える。あとから訂正しても、最初の名前が残る。だから最初に間違えると、死者はずっと間違った場所に置かれる」
鷺宮依子が、かすかに目を伏せた。
その表情を、真壁は見た。
何かを知っている顔ではなかった。
何かを、思い出したくない顔だった。
「鷺宮さん」
「はい」
「二十一年前の海禍の死者は、誰でしたか」
「……資料では、浦瀬清人さんです」
「資料では?」
鷺宮は唇を結んだ。
「私は当時、子どもでした。直接は知りません」
「島ではどう伝わっている」
「海に呑まれた人、と」
「名前ではなく?」
「名前は、後から覚えました」
真壁は黙った。
海に呑まれた人。
それが最初にある。
名前は後から付く。
この島では、死者はまず禍になり、その後に名前を与えられる。
順番が逆だ。
真壁は船内の遺体をもう一度見た。
この遺体も、同じ順番で処理されようとしている。
まず海禍。
それから灯村。
それを止めなければならない。
「九条、遺体の搬出は」
「この場で無理に動かさない方がいい。焼損部が崩れる。写真、温度、位置、周囲の燃焼状況を記録してから」
「佐伯警部補」
「はい」
「県警の鑑識を呼んでください」
「すでに無線を試していますが、つながりません」
二階堂が顔を上げた。
「無線も?」
「港の無線は反応が悪いです。さっきから雑音ばかりで」
「館の衛星電話は」
鷺宮が答えた。
「管理室にあります。今なら使えるはずです」
二階堂が真壁を見る。
「俺が行く」
「一人では行くな」
「じゃあ佐伯さんの部下を一人借りる」
佐伯が若い刑事を呼んだ。
二階堂は港を見回し、すぐに言った。
「それと、全員のスマホを確認した方がいい。圏外でも録音や撮影はできる。船が燃えたところを誰かが撮ってるかもしれない」
久世玲央が、わずかに肩を動かした。
真壁はそれを見逃さなかった。
「久世さん」
久世はカメラバッグを抱え直した。
「はい」
「撮影しましたか」
「火が上がってから少しだけ」
「見せてください」
「今ですか」
「今です」
久世は周囲を見た。
映像作家としての顔と、巻き込まれた客としての顔が、その場で入れ替わる。こういう人間は珍しくない。事件を怖がりながら、同時に記録したがる。だが久世の場合、その反応が少し遅かった。
出すか、出さないか。
迷ってから、彼はカメラを取り出した。
「ただ、暗いので、あまり映っていないと思います」
「確認します」
二階堂が一度、館へ向かいかけてから戻ってきた。
「真壁。俺、先に衛星電話見てくるけど、久世さんの映像は後で一緒に見たい」
「なぜ」
「今の表情、素材を守る人の顔だった」
久世の顔がこわばる。
二階堂は笑った。
「悪い意味とは限りません。でも、素材を守る人は、たまに事実より画を優先する」
「そんなことは」
「まだ責めてません」
二階堂は軽く手を上げた。
「だからこそ、順番を間違えないようにしましょう」
真壁は頷いた。
「行け。だが急げ」
「了解」
二階堂は若い刑事とともに坂道を上っていった。
その背中が闇に消えていく。
真壁は船に戻った。
九条は遺体の周囲を見ている。ライトの位置を変えながら、焦げた部分と濡れた部分を確認していた。
「何かわかるか」
「火の回り方が変」
「どう変だ」
「船尾全体が燃えたんじゃない。燃えやすいところだけ燃えてる。遺体の周囲も、焼け方に偏りがある」
「遺体を焼くための火か」
「というより、遺体を見えにくくするための火」
九条は遺体の肩口を見た。
「顔、衣服、手が確認しにくい。でも、全身を燃やし尽くすほどではない」
「身元を消すには中途半端だな」
「だから、消したいんじゃなくて、曖昧にしたい」
曖昧にしたい。
真壁はその言葉を受け取った。
海は名を呑む。
完全に消すのではない。
名が沈み、浮かび、揺れる状態にする。
誰かが、この遺体を灯村だと思わせたい。
だが、完全に証明されては困るのかもしれない。
「灯村さんが生きている可能性は」
「ある」
九条は即答した。
「この遺体が灯村さんじゃなければ」
「そして、この遺体が誰か別の人間なら」
真壁は港を見た。
今ここにいる者。
館に残っている者。
島にいる者。
二十一年前の記録上の死者。
記録から外された者。
名前だけがある者。
名前すらない者。
死体が一つ見つかっただけで、候補は増える。
鳳が岸壁の端で、石垣を見ていた。
船ではなく、岸壁。
それも、海面近くの暗い部分。
「鳳さん」
真壁が呼ぶと、鳳は顔を上げた。
「すみません。少し気になるところが」
「何だ」
「この港、あとから補修されています」
「古い港なら普通だろ」
「ええ。ただ、補修の仕方が変です。海に面した石垣の一部だけ、積み方が違う」
鳳はライトを受け取り、岸壁の下を照らした。
波が暗い石を濡らしている。苔と貝がつき、ところどころ白く砕けている。真壁には、ただの古い石垣に見えた。
鳳は違った。
「ここです」
ライトが、一箇所で止まる。
石の間に、横長の黒い隙間があった。
最初は影かと思った。だが、波が引くと、その奥に金属の格子のようなものが見えた。
「排水口か」
「古い防潮水路かもしれません」
「水路?」
「港と館側の地下水路をつなぐものです。潮位が高い時は海水が入り、低い時は排水される。今は使われていないように見えますが、完全に塞がってはいません」
真壁は隙間を見た。
「人は入れるか」
「大人が普通に入るには狭いです。ただ、海側から流されるか、上から落とされるなら」
鳳は言葉を切った。
その先を言わなくても、意味はわかった。
灯村要が海に落ちたように見せられたのなら。
あるいは、どこかからこの水路へ押し込められたのなら。
「灯村さんがそこにいる可能性は」
「否定できません」
「佐伯警部補」
真壁が呼ぶと、佐伯が駆け寄った。
「この港の地下水路、図面はありますか」
「確認します。ただ、古い設備までは……」
「館側に資料があるかもしれません」
鳳が言った。
「七禍館の祭壇棟と港は、水路でつながっている可能性があります。昔の祭礼で海水を引き入れる構造だったのかもしれない」
「祭礼で?」
「海禍に関わる儀式があったなら、水は必要です」
古賀が離れたところで顔を上げた。
「余計なことを言うな」
声が震えていた。
鳳は古賀を見た。
「余計なことですか」
「昔のことを掘るな」
「二十一年前にも、そう言って誰かを黙らせましたか」
古賀の顔が歪んだ。
真壁は鳳の前に立った。
「鳳さん、挑発するな」
「すみません」
鳳は素直に引いた。
だが目は引いていなかった。
二十一年前の子どもの言葉を退けた島。
その島を前に、鳳はもう子どもではない。
だからこそ危うい。
真壁は低く言った。
「兄の名前を戻すために、あんたの名前を死者に足すな」
鳳は、少しだけ驚いた顔をした。
そして、ほんの一瞬だけ笑った。
「十二灯館の時も、似たようなことを言われましたね」
「言わせるようなことをするからだ」
「気をつけます」
「本当に気をつける人間は、そういう顔をしない」
鳳は答えなかった。
その時、火野朱里が近づいてきた。
赤いストールが、港の風に揺れている。燃える船の残り火に照らされて、その赤は血の色に見えた。
「灯村さんは、生きていると思いますか」
朱里が訊いた。
真壁は答えを急がなかった。
「まだわかりません」
「わからない、ですか」
「はい」
「わからないまま、二十一年経つこともあります」
鳳が朱里を見る。
朱里は鳳を見返さなかった。
視線は、燃えた船の奥にある黒い海へ向いている。
「母の時も、最初は誰もわからないと言いました。なのに翌日には、火禍の死者になっていました」
「火野千景さん」
九条が言った。
朱里は九条を見る。
「ご存じなんですね」
「資料では」
「資料では」
朱里は小さく笑った。
「皆さん、その言い方をしますね」
二階堂がいれば、この言葉を拾っただろう。
資料では。
記録では。
島では。
人は都合が悪い時、事実そのものではなく、事実が置かれている場所の名前を言う。
真壁は朱里に訊いた。
「火野さんは、灯村さんを最後に見ましたか」
「見ていません。声だけです」
「どこで」
「館の玄関近くです。無線の音が聞こえました。鷺宮さんが応答していて、灯村さんらしい声が“港は異常なし”と言いました」
「らしい声」
「はい。私は灯村さんとそれほど親しくありません。でも、鷺宮さんが灯村さんだと思ったなら、そうなのだと思いました」
「時刻は」
「九時二十分頃だったと思います」
鷺宮の証言と一致する。
一致しすぎている。
真壁はそう思った。
声は置ける。
二階堂の言葉が頭をよぎる。
「火野さん」
「はい」
「あなたは、なぜ今回ここに?」
朱里は、真壁を見る。
「母の名前を返してもらうためです」
「名前を?」
「火禍、ではなく」
朱里は静かに言った。
「火野千景として」
その言葉には、鳳のものと似た硬さがあった。
怒りを、長い時間をかけて冷やした声。
真壁は、鳳と朱里を見比べた。
二人は違う。
だが、同じ傷を持っている。
死者の名前を、禍から取り戻したい。
それ自体は間違っていない。
間違うとしたら、そのために何をするかだ。
坂道の上から、二階堂が戻ってきた。
息が少し切れている。若い刑事が後ろにいる。
「衛星電話、使えない」
「故障か」
「たぶん、故障に見せかけた断線。管理室の裏でケーブルが切られてた」
佐伯が顔を強張らせる。
「外部連絡は」
「携帯はほぼ圏外。館の固定回線も死んでる。無線は雑音。つまり、少なくとも今夜はかなり厳しい」
黒羽が声を荒げた。
「馬鹿な。そんな状態で我々をここに泊める気か」
二階堂は黒羽を見た。
「船も燃えてますからね。戻る手段も確認中です」
「開発会社の責任問題になるぞ」
「今その話をすると、かなり嫌われますよ」
「何だと」
「人が死んでいるかもしれない時に、最初に会社の責任を心配する人間として記録されます」
黒羽は口を閉じた。
二階堂は真壁の横に来て、低い声で言った。
「管理室のケーブル、切り口が新しい。あと、切った場所が妙にわかりやすい」
「わかりやすい?」
「見つけてくださいって場所。隠すならもっと奥で切る。あれは“外部連絡が断たれた”と俺たちに認識させるための切断だと思う」
「島を孤立させるためか」
「うん。でも完全に孤立させたいのか、孤立したと思わせたいのかはまだわからない」
鳳が港の水路を見たまま言った。
「船も同じです」
真壁が振り返る。
「同じ?」
「完全に破壊したいなら、燃やす場所が違う。船底やエンジン周りをもっと確実に壊すはずです。でも火は目立つ船尾に集中している。つまり、動けなくするより、燃えているところを見せる意図が強い」
二階堂が口元に手を当てる。
「“船が燃えた”と全員に見せる」
「はい」
「そして“船は戻らない”と思わせる」
「そうです」
九条が船内から顔を上げた。
「遺体も同じ」
「同じ?」
二階堂が訊く。
「完全に身元を消すなら燃やし方が足りない。確認できる部分を残しすぎている。でも、確認しようとすると崩れやすい部分だけ焼いてある。見せたいのは、死体そのものじゃない」
「じゃあ何」
「確認できない状態」
九条の声は冷たかった。
「この遺体は、身元を隠すためじゃなく、身元を急がせるために置かれてる」
真壁は息を吐いた。
船。
無線。
遺体。
水路。
名前。
すべてが同じ方向を向いている。
確認より先に、物語を立ち上げる方向。
「佐伯警部補、全員を館へ戻します」
真壁は言った。
「しかし遺体は」
「見張りを置きます。九条、最低限の記録だけ取れ。動かすな」
「わかった」
「鳳さんは水路の位置を覚えておいてくれ。明るくなったら確認する」
「今確認した方がいい」
「だめだ」
真壁は即答した。
「夜の海に近づかない。狭い水路にも入らない。灯村がいる可能性があるとしても、二次被害を出すな」
鳳は黙った。
その沈黙を、真壁は許さなかった。
「返事」
「……はい」
二階堂が小さく笑う。
「鳳先生、真壁のこういうところ、面倒でしょ」
「ええ」
「でもだいたい正しいから、もっと面倒なんですよ」
鳳は、少しだけ口元を緩めた。
「理解しました」
その時、久世玲央がためらいがちに言った。
「あの、映像ですが」
真壁が振り返る。
「見せてください」
久世はカメラを操作した。
小さなモニターに、港の映像が映る。
暗い。
手ぶれが激しい。
船尾から火が上がっている。誰かが叫んでいる。古賀の声らしきものが「海禍」と言っている。黒羽が「水を持ってこい」と怒鳴っている。佐伯が人を下がらせている。
映像の端に、赤いストールが映った。
火野朱里だ。
彼女は炎を見ていない。
海を見ていた。
そのさらに奥、岸壁の下。
一瞬だけ、白いものが動いたように見えた。
「止めろ」
真壁が言った。
久世が映像を止める。
画面の端に、波が映っている。暗すぎてよく見えない。だが、石垣の隙間近くに、白いものがあった。
「拡大できますか」
「できますが、画質は荒れます」
久世が操作する。
白いものは、布のようだった。
あるいは、手袋。
いや。
靴かもしれない。
左足の靴。
真壁は船内の遺体を思い出した。
遺体には、左足の靴がなかった。
「この映像、いつ撮った」
「火が上がって、三分くらい後です」
「その前は」
「撮っていません。煙に気づいてからカメラを出したので」
二階堂が久世を見た。
「本当に?」
久世の顔が硬くなる。
「本当です」
「火が出る前は撮っていない」
「撮っていません」
「じゃあ、その直前に何をしていました?」
「館の外観を撮っていました」
「データを見せてください」
「今ですか」
「今です」
久世は一瞬、朱里を見た。
ほんの一瞬だった。
だが真壁も二階堂も見逃さなかった。
朱里は、表情を変えない。
久世は別の動画を開いた。
七禍館の外観。
夜の闇に沈む館。海側から見える七つの灯。いや、七つに見える灯。風洞回廊の薄い明かり。鐘楼。玄関。坂道。
そして、画面の端に、誰かの影が映っていた。
港へ下りる古い石段の入口。
そこを、人影が一つ、降りていく。
「誰だ」
佐伯が言う。
映像は暗く、顔は見えない。
だが、体格は男性に見える。コートを着ている。片手に何かを持っている。
二階堂が低く言った。
「時刻は」
「九時十五分です」
九時十五分。
鷺宮が無線で灯村の声を聞いたとされる時刻の五分前。
真壁は映像を見た。
その人影は、港へ向かっている。
だが車道ではない。
鳳が先ほど指摘した祭礼道を下りている。
「この道は滑ると言っていたな」
真壁が言うと、鳳は頷いた。
「ええ。慣れている人間でなければ、夜に使う道ではありません」
「島の人間か」
「または、事前に道を確認していた人間」
映像の中の人影は、途中で一度だけ振り返った。
顔は暗くて見えない。
だが、手元のものが光った。
金属。
刃物か。
工具か。
鍵か。
黒羽が舌打ちする。
「こんな暗い映像で何がわかる」
二階堂が静かに言った。
「わからないことがわかります」
「屁理屈を」
「顔がわからない。つまり、この映像だけで誰かの名前を置くことはできない」
真壁は久世に訊いた。
「この映像を、誰かに見せましたか」
「いえ」
「消した映像は」
「ありません」
二階堂が久世を見る。
「後で確認します」
久世は唇を噛んだ。
その時、佐伯の若い部下が慌てて駆け寄ってきた。
「佐伯さん、館の方から連絡です」
「無線はつながらないんじゃ」
「いえ、館から人が。管理人の鷺宮さんが、至急戻ってほしいと」
「何があった」
若い刑事は、真壁たちを見た。
「七禍館の玄関に、木札が置かれていたそうです」
二階堂の顔から、笑みが消えた。
「何て?」
若い刑事は喉を鳴らした。
「一つ、海は名を呑む」
港の空気が、一段冷えた。
「その下に」
彼は続けた。
「灯村要、と」
誰も言葉を発しなかった。
夜の海が、岸壁の下で黒く鳴っている。
真壁は目を閉じなかった。
閉じれば、その名前が見えてしまう気がした。
灯村要。
誰かが、先に置いた。
遺体より先に。
確認より先に。
死より先に。
真壁は低く言った。
「戻るぞ」
二階堂が頷く。
「始めさせないんじゃなかったの」
「始めた奴がいる」
真壁は、燃え残った船を見た。
九条はまだ船内にいる。鳳は岸壁の水路を見ている。朱里は海を見ている。久世はカメラを抱えている。古賀は震えながら木札の歌を呟いている。黒羽は苛立ちを隠せず、鷺宮は館で何かを見つけた。
全員が、それぞれの位置に置かれている。
まるで、誰かが配置したように。
真壁は拳を握った。
海は名を呑む。
だが、呑ませる名前を決めるのは、海ではない。
人間だ。
坂道を上り始めると、背後で船の燃え残りが小さく崩れた。
火の粉が、夜の海へ落ちる。
黒い水面は、それを一瞬だけ赤く映し、すぐに呑み込んだ。




