ダンジョン、初潜入
第七区のダンジョンは、川沿いの崖にあった。
二〇〇年前から存在する、古い横穴。
今は近代的な管理ゲートが設置され、無機質な電子音が「異界」への入り口を告げている。
「……思ったより、普通の入り口ですね」
「慣れたら、ただの地下鉄の入り口に見えるらしいぞ」
「慣れるものですか」
「らしい」
桜花がゲートをじっと見つめる。
「源之助様の時代、ダンジョンは管理などされていませんでした。……人間は、恐ろしいものにも慣れてしまうのですね」
「生きていくためだろ」
桜花が少し間を置き、静かに頷いた。
「……そうですね。そうでなくては、二〇〇年も保ちません」
ゲートをくぐると、空気が一変した。
肌にまとわりつく、重い湿度。
壁に埋め込まれた魔力灯が、通路を青白く照らしている。
「……石の質は、あの頃と変わらない」
「ダンジョンは二〇〇年くらいじゃ変わらないのかもな」
「確かに、人間よりずっと長く生きる場所ですから」
最初の分岐点。
俺は地図を広げた。
「今日は第一層で実績を積む。深追いはしない。……モンスターが出たら桜花が対処。俺は後ろで――」
「いえ、傍にいてください」
「だから、危ないだろ」
「私が守ります。……昨日も、そう言ったはずです」
桜花が真っ直ぐに前を見据える。
「秀馬が傍にいると、……不思議と、調子が良い気がします」
「ドールが『気がする』なんて言うのか?」
「感情があると申し上げました。……感覚もあります」
ため息を吐く。
「……わかった。でも無茶はするなよ」
「秀馬こそ。……まあ、あなたは魔力がないので無茶のしようもありませんが」
「……フォローになってないぞ」
最初のモンスターは、通路の奥から這い出してきた。
巨大な芋虫。体長一メートル。
第一層の典型的な「雑魚」だ。
「……これは」
桜花が、あからさまに拍子抜けした顔をした。
「第一層だ。最初はこんなもんだろ」
「これを討伐して、実績になるのですか?」
「積み重ねだ。……あ、桜花、ちょっと待て」
刀を抜きかけた彼女を止める。
「その速さで斬ったら、素材がバラバラになる。売れば金になるんだ。できるだけ『綺麗に』仕留めてくれ」
桜花が少し考え込んだ。
「……手加減、ですか」
「そうだ」
「したことがありません」
「今日から覚えろ」
桜花が、ゆっくりと抜刀した。
一閃。
吸い込まれるような一突きが、怪物の急所を正確に射抜く。
「……これで、宜しいですか?」
「完璧だ」
「思ったより、……難しいですね。殺すよりも、生かすよりも」
桜花が刀を納める。
その動作に、迷いはなくなっていた。
七体目、八体目と進むにつれ、彼女の「手加減」は芸術の域に達していく。
素材の損傷はゼロ。文字通りの、一撃必殺。
「筋がいいな」
「戦闘特化ですから。……秀馬の役に立つなら、何にでも特化します」
さらりと、恐ろしいことを言うやつだ。
第一層の最奥。
重厚な石造りの扉が、行く手を阻んでいた。
「……開けるか」
「開けます。……ボスですね」
「怖くないのか?」
桜花が、俺をじっと見た。
「秀馬は、怖いですか?」
「……まあ、少しな」
「大丈夫です。私が、傍にいます」
「……そうか」
扉を押し開ける。
そこにいたのは、天井に届くほどの巨躯。
四本の腕を持つ、醜悪な人型モンスター。第一層の主だ。
「下がっていてください」
桜花が前に出る。
「でも、――見ていてください」
「なんで?」
桜花が刀の柄に、そっと指をかけた。
「初めてのダンジョンです。……少しだけ、格好をつけたいので」
俺は何も言わなかった。
ただ、その背中を見つめた。
桜花が踏み込む。
ボスの剛腕が空気を引き裂くが、彼女はそれを紙一重で、舞うように回避した。
余裕。圧倒的な、実力差。
懐に滑り込み、刃が跳ねる。
光が走った。
咆哮。
ボスの腕が二本、同時に宙を舞う。
桜花は止まらない。
返しの刀で、胴を一閃。
静寂。
巨体が、崩れ落ちる。
桜花が、静かに刀を納めて振り返った。
「……どうでしたか?」
「……あぁ、格好よかったよ」
「本当、ですか?」
「本当だ」
桜花が、ふいと顔を背けた。
夕闇のダンジョンでは分かりにくいが、彼女の耳が、ほんの少しだけ赤くなっている。
ドールにそんな機能があるなんて、聞いていなかった。
ダンジョンを出ると、夕陽が川面を赤く染めていた。
心地よい疲労感。
素材の詰まった袋を肩に担ぐ。
「初ダンジョン、どうだった?」
「……狭かったです」
「感想それだけかよ」
桜花が少し考え、川のせせらぎに目を向けた。
「……楽しかったです。源之助様との戦いは、常に死の匂いがしました。ですが、今日は――」
「今日は?」
「気負いが、ありませんでした。ただ、秀馬の隣で、歩いていただけのような」
良い意味で、と彼女は付け加えた。
桜花の横顔は、二〇〇年前の戦士ではなく、どこにでもいる少女のそれに見えた。
「……また来よう。次は第二層だ」
「では、鍛えなければなりませんね。……秀馬を」
「え、俺を?」
「魔力がなくても、生き残る動き方はあります。戦場での立ち回り、距離感、判断。……私が知っている全てを、あなたに」
桜花が前を歩き出す。
その足取りは、昨日よりもずっと軽やかだ。
「行きましょう。素材を売って、……夕食です」
「夕食、もう気にするようになったのか」
「クリームパン以外にも、美味なものがあるはずですから。……動機としては、充分です」
「……いけませんか?」と、彼女が首を傾げる。
「全然。いいと思うよ」
俺は笑って、彼女の隣に並んだ。
Fランクの登録証。
魔力ゼロの俺と、最強の相棒。
俺たちの物語は、まだ長い物語の始まりに過ぎない。




