違和感
「ありがとう。」
急いできたのだろう。ホームズさんの日体には幾筋もの汗が流れている。
六月ともなるともう本格的な夏である。昼の気温は三十度を超える日が多くなり、熱中症への対策も騒がれる時期になる。
まあ、先生は一年のほとんどの時間(取材の時以外)をこの部屋で過ごし、家から出ることはほとんどないので、熱中症にはならないだろうが。そういう人でも脱水症状にはなるらしい。快適な温度を保っていても体は水分を欲するということだ。
僕は冷たいお茶をグラスに注いでホームズさんに手渡す。
「それで、推理が間違っていたかもしれないとはどういうことかな。ホームズ君。」
先生はホームズさんにいきなり本題を振る。ホームズさんはグラスの中のお茶を一息に飲み干した後、一息ついてコップをテーブルに置く。
「ミスター陰は、ストーカーではなかったという可能性が浮上しました。」
ホームズさんのコップにおかわりのお茶を注いでいた僕は、思わず動きを止める。
多分驚きの表情を浮かべていたんだろうけれども、あまりの衝撃で僕にはわからない。コップから溢れたお茶が手を伝ってきたことでハッとなり、注ぐのをやめた。
先生はというと、僕ほど驚いた表情は見せておらず、どちらかというと、やはりそうかと思っているようなどこか納得しているような表情を見せる。
「そうか。」
「ミス紡は気がついていましたか。」
「いや、君がここに来るということ。そして、自分の推理が間違っていたかもしれないと言った時に、ある程度予想したに過ぎない。これでも、私ちゃんも相当驚いているさ。」
先生はフーと息を吐くと、やれやれといった表情を向ける。
「詳しく聞かせてもらってもいいかい?」
先生の言葉にホームズさんは頷く。
「事件の後、私は自分の推理の裏付けをするために色々調査していました。警察はなぜか裏取り操作をすることなく、今回の事件をすでに解決済みとして処理しましたから。私が責任を持って調査しようと思ったのです。まあ、おそらく綺羅星家の力が働いた、もしくは警察上層部の忖度だとは思いますが。私はまず、ミスター陰という人物について調査することにしました。今回の事件の最重要人物の一人ですからね。その中で、もしかしたら彼は、ミス月夜のストーカーなんかではなく、事件に巻き込まれた一般人だったのではないかという可能性が浮上したのです。」
「ほう、何がわかったんだい?」
「彼の身の回り、親族関係について調査できる範囲でしました。彼の身辺の交友関係は実に狭いものでした。普段はフリーターとしてアルバイトをしていたそうです。彼の仕事仲間に聞いたところ、ミスター陰が綺羅星月夜に対して好意を抱いたり、熱心なファンであるということを知っている人は一人もいませんでした。それどころか、彼が現実の女性に対してそんな感情を持っているのは考えられないというような人までいました。」
「それはなぜだい?」
「ミスター陰は、いわゆるアニメオタクと呼ばれるアニメやゲームが好きな男性だったそうです。仕事仲間の話では、給料のほとんどはアニメ関連のグッズやゲームへの課金に使っているという話をしていたそうです。唯一、ミスター陰の部屋を訪れたことがある人にも話を聞きましたが、その方も同様に、ミスター陰はアニメオタクであり、彼の部屋はそのグッズで溢れていたと言っていました。もちろん、それらがカモフラージュであり、ミスター陰が実はミス月夜の熱狂的なファンであったという可能性はありますが、フリーターであるミスター陰の給料事情を考えると、カモフラージュに費やせる金額はあまりないと考えるのが自然です。そして、彼がストーカーではなかった場合。私が披露した推理は根底から覆ってしまう。」
「なるほどね。確かに。あの推理は陰君が月夜君のストーカーであるということが前提だった。その前提が崩れれば、推理は崩壊するというわけだね。」
「状況証拠に頼り過ぎたということは否めません。前提から間違っていたとなると……」
ホームズさんは言葉を濁す。
「あの状況証拠の中では、君の推理はしっかりと筋の通った正しいものだった。それは私ちゃんも保障する。何より事件の当事者である月夜君の自白もあったわけだし、あの時点では疑うものがなかった。だからあれは君のミスではない。そうなるように仕向けられていたと考えるのが自然だろう。」
先生はホームズさんに言葉をかけながら、再び顎に手を当て真剣に考えているようだ。そんな先生の様子を見て、ホームズさんも声はかけない。
少しばかりの沈黙は、先生の言葉で破られる。
「いや、まさか……」
先生は明らかに困惑している様子である。
「何か思いついたんですか?」
僕は思わず先生に問いかける。
「いや、あり得ない……ということはあり得ない、か。」
まだ自分の世界に入っているようだが、すぐに顔を上げ、僕たちの方を見る。
「まずは事実確認だね。」
「というと?」
今度の僕の質問にはしっかり答えてくれる。
「陰君が本当は何者なのかということだよ。」
確かに、さっきから二人がいうように陰さんが本当にストーカーだったのか否かは、この事件の根幹である。これの事実を確認しないことには始まらないのだろう。
「ホームズ君は、陰君の家は調査していないんだよね?」
「はい、流石に一探偵ができる範囲の調査しかできませんでした。家は分かりましたが、探偵が法を犯すわけにはいきませんからね。それに私は漫画や小説に出てくる名探偵のように捜査機関とのつながりはありませんから。」
微笑みながらホームズさんは先生に返答する。ホームズさんの表情に先生は納得したように頷く。
「だから、私ちゃんのところに来たということだね。」
「どういうことですか?」
僕だけがわかっていないようだ。二人の顔を交互にみる。
「私ちゃんには、捜査機関とのつながりがあるだろう?それも、自称出世コースのエリート警部との。」
先生はニヤリと笑い、自分のポケットからスマホを取り出し軽く操作する。
なるほど、あの人か。
僕もやっと理解して頷くと、先生はスマホを耳に当てあの人へと電話をかける。




