曇りのち陰
「これはやはり、もう一人の宿泊客。名前は、確か曇利陰。どうして彼の遺体がここにあるんだろうか。」
男の顔を唯一見たことがあるホームズさんが、その遺体がもう一人の宿泊客であることを確認し、名前を僕たちに教えてくれる。この桜の樹の根元に座り込んで死んでいる男の名前は、曇利陰というそうだ。ホームズさんと同じ日、つまり僕たちがこの宿に来た前日から宿泊しており、今日この時間まで体調を崩していると言って部屋にこもっていたはずの最後の(この宿に来た順番で言うと最初だが)宿泊客である。
陰は中肉中背で身長はおそらくだが170センチ前後。黒髪短髪で歳は二十代前半から中盤といったところだろうか。腹部には自分の両手でぎっしりと握られたナイフが刺さっており、おそらくはこれが死因のように見える。彼の周りには血の池とも呼べるような血が溜まっており(とはいえ、表面は少しばかり固まり始めているようだ)、おそらく地面の土が硬いからだろう、一部しか土に吸収されていない。陰は虹日さんの顔とは違い、苦悶の表情を浮かべている。
「死因は見ての通り腹部を刺したことによる出血死かな。おそらくここで腹部を刺して死んだんだろうね。」
先生はしゃがみながら陰の表情や周りの地の池を観察している。僕は先生の指示に従って、現場の写真をいろいろな角度から撮影する。面識のない人ではあるが、この苦悶の表情をカメラに収めるというのは、さすがに来るものがある。それでも、周囲の状況を細かく撮影した。
「やはりこの腹部以外目立った外傷は見られませんね。とはいえ、遺体に触れるわけにもいかないので、動かさずに見える範囲でという意味ですが。」
「これは自殺なんでしょうか?」
僕は二人に質問をする。目立った外傷が腹部の刺し傷であり、出血もそこからしているのだろう。そしてその腹部を指しているナイフはこの男自身が握っている。パッと見た感じは自殺のように見える。
「その可能性もあるというにとどまっておこう。君の言いたいことはわかるよ。確かに、見た目は自殺だ。だけど自殺にしては不可思議と思える部分もある。それに、気になるところは他にも。ねえ、ホームズ君?」
先生はしゃがみながら血の池ならぬ血溜まりを虫眼鏡で観察しているホームズさんに声をかける。ホームズさんは、スッと立ち上がりながら僕たちの方を見る。
「そうですね。さっきの虹日君の首から流れる血が異常に少なかったのに対して、この男が流している血は多すぎる気がするといったところでしょうか。」
「その通り。私ちゃんもそれが気になっていた。もちろん個人差はあるだろうが、成人の総血液量は大体5〜6リットルと言われている。この男の身長は見たところ男性の平均身長くらいだろうから、多く見積もって6リットルとする。だがそれに対してこの血の池は少なく見積もっても5リットル近くはある。」
「おかしいんですか?」
僕は何気なく質問する。人間の血液量に対して血の池がそれを下回っているなら何も問題がないように思える。
「いや、君。考えてみたまえよ。いくら肝臓を刺したからといってせいぜい出血量は総血液量の50%ほど、つまり2〜3リットルだろう。60%を超える出血は、あまり考えられない。しかもこの体勢なら、下半身にも血は溜まっているはずだからね。どの段階で心臓が動きを止めたのかも関係するが、人間の出血における致死量は約40%と言われている。その後しばらく心臓が動き、出血が止まらなかったとしてもこの量はいささか異常にも思えるね。」
「私もそう思います。あくまで医学素人の見解ではありますが、法医学に関する知識はそこそこありますので。」
なるほど。そう言われてみれば、確かに血の量は多く見える。
「血が地面の土に吸収されていませんもんね。」
「ああ、だからこそ、この大量の出血量を確認することができたのかもしれないね。桜の樹の根元は土が硬いから水分の吸収が遅いんだ。これでは、この桜の花が血を吸って赤いという説は崩れてしまったね。実験をする必要のないほど、実証されてしまったか。」
先生は首を傾げながら、そんな冗談なのか本気なのかわからないことを言っている。
ウーウー
「おや、どうやら警察が到着したようだね。」
遠くから鳴り響いていたサイレンがこの宿のそばで鳴り止んだ。おそらくパトカーが宿の玄関のところまできたのだろう。
「では、私ちゃんたちも大広間へと向かうとするか。」
先生の言葉に頷き、僕たちは丘を降り始める。僕は最後に桜の写真をカメラに収める。その桜の色は心なしか昨日カメラに収めた時よりも赤く、いや赤黒くなっているような気がした。そして、月明かりに照らされながら春の夜の風に枝が靡く。




