先生
先生、先生と呼称しているが、何も大学の教授であるとか、どこかの医者というわけではない。
この世界において『先生』と呼ばれる職業は数多く存在するが、僕が呼ぶその『先生』の職業は、作家である。より細かく規定すると小説家だ。名前は、言葉紡。ペンネームをいくつも持ち、さまざまなジャンルの小説で数多くの賞を受賞する天才作家だ。
ペンネームをいくつも持っていることから『現代の葛飾北斎』なんて呼ばれ方をしている。なんでペンネームをわざわざ変えているのかは正直わからない。僕のような凡人からすると、売れている名前があるのに、それを使わないというのは、勿体無いような気がして仕方がないが、先生には先生独自のこだわりやら信念があるのだろう。
先生と僕の出会いの物語は、今は割愛させてもらうが、あの運命的な(僕の人生を変えてしまうという意味で)出会いの一幕の後、僕は先生の元でアルバイトをすることになった。
運命的な出会いの後というと、僕が先生に頼み込んで、バイトをさせてもらっているというような聞こえ方をするかもしれないが、それは違う。断じて、違う。僕は、半ば強制的に先生の記録係として召し抱えられてしまった。なんの特技も持たない、強いていうなら趣味でカメラを嗜んでいる(と言っても、全く素人に毛が生えた程度の遊びの範疇の腕前である)だけの僕を、なんであの大作家先生が雇い入れているのかは、凡人の僕にはわからない。
いや、あの人の考えを真の意味で理解できる人なんてこの世にはいないんじゃないかとも思う。強いて理由を考えるなら、大学生である僕がある程度、時間的な融通を効かせることができる、ちょうどいいやつとでも思われているのかもしれない。なんで僕も断らなかったのかというと、理由は簡単。給料がいいからだ。例に漏れず僕も苦学生の一人なので、生活するためには何かしらバイトをしなくてはいけない。
先生との旅行は大変だけれども、いろいろなところに行けてさまざまな体験ができる。その上で給料がいいのであれば文句がつけられないだろう。まあ、先生の性格的な問題はあるが。
そんなさまざまなジャンルに精通する先生が唯一手を出さないジャンルがある。
それがミステリー、いわゆる推理小説というやつだ。余談であるが、ミステリー、推理小説の始まりは、アメリカの大作家、エドガー・アラン・ポー先生の『モルグ街の殺人』であると言われている。19世紀に出版された、かの物語をはじめとするミステリーというジャンルは、コナン・ドイル先生の世界的大人気シリーズのシャーロック・ホームズシリーズの誕生により世界的に普及し、日本においては黒岩涙香先生の『無惨』が始まりだと言われている。
僕は海外のミステリーは、シャーロック・ホームズシリーズを多少読んだことがあるに過ぎないが、このミステリーというジャンルは、小説のジャンルの中でも屈指の人気を誇るジャンルで、さまざまな作品が世に出ている。
これは僕の所感であるが、もはやミステリーにおける殺害方法、トリックといったものは、全てされ尽くしているのではないかと思う。100年以上の歴史の中でさまざまな人物がさまざまな殺され方をしてきたのだろうが、人の殺し方・殺され方というのは、それほどまでに種類があるのだろうか。あらかたトリックのネタは出し尽くされてしまっているのではないだろうか。
それでも現在、推理小説が多く出版されているのは、方法よりも動機というものに焦点を当てたストーリーが多いからなのだろう。心情描写から読者を取り込んでいくというのは非常に難しいことのように思うんだけど。
先生がミステリーというジャンルに手をつけないのは、何もネタが浮かばないからというわけではないそうだ。この前、先生になぜミステリーを書かないのかと尋ねると、
「私ちゃんはね、ミステリーが大好きなんだ。小説家を志したのは、ミステリーがきっかけだったと言っても過言ではない。まあ、それだけではないんだけど。だからこそ、ミステリーには、並々ならない思いがあってね。中途半端なものは書きたくない。それにね。私ちゃんは、ミステリーの本質を作家と読者とのバトルだと思っているんだ。作家が作った舞台設定、登場人物、状況などに対して、読者がどれだけその作家の真意に迫り、犯人を推理するかというね。でも、私ちゃんが本気で書いてしまったら、読者の誰も解けないだろう?もはや完全犯罪と同じさ。それは読んでいてつまらない。それに、私ちゃんが考えた殺害方法が実際に使われたら困る。だって、完全犯罪なんだから。犯人を捕まえることができないよ。」
自信満々な顔でこう言い放った先生を見て、「この時代に完全犯罪なんて実行可能なのか?」と思ったが、先生がここまで言うのであればできるんだろうな、と変に納得してしまった。




