お風呂
「ふ〜。」
僕は髪と体を先に洗い、すっきりとした状態で湯船に浸かる。さすが、あれだけ広い部屋である。部屋付きの温泉も非常に広い。小さな銭湯の浴場くらいはありそうな広さで、湯船も足をしっかりの伸ばした状態で肩まで浸かれるくらい広い(身長が高いことのデメリットとして足を伸ばせる湯船がなかなか無いということがあるのだ)。
ただし、シャワー台は一つしかない。先生にお先にどうぞと言ったら、入っていていいよと言われたので、僕はお言葉に甘えてお先にお風呂をいただくことにした。少し乳白色のお湯は、熱すぎないちょうどいい温度に設定されており、肩まで浸かっても息苦しいということはない(僕の勝手なイメージでは東北の温泉は、全てとても熱いものだと思っていた)。
朝早くからの移動と先生の大量の荷物持ちで意外と疲労が溜まっていたのだろう、温泉が骨身に染みる感覚である。この瞬間にこそ自分が日本人に生まれてきてよかったと心の底から感じる。海外に行ったことはないのでわからないが、シャワーを浴びるだけで一日の疲れを取ることなんてできるのだろうか。
瞳を瞑りながら湯船の淵に頭をもたげてゆっくりと息を吐く。そして、先ほどのホームズさんとの出会いと、美しいながらもどこか不気味さを感じる桜の樹を思い出す。そして先生の言葉、全てのものには二面性がある。では、先生にも・・・?
「君が何を考えているのか、当ててあげようか。」
ん?
予想だにしない声に僕は瞳を開け、声のした方を見る。そこには、椅子に座りながら長い髪の毛をシャカシャカと洗っている先生の姿があった。泡がもこもこになっていて頭全体を覆っている。顔をこちらに向けているが泡が目に入らないように目はぎゅっとつぶっている。
なんで、目を瞑っているのに僕の様子がわかったんだ?いや、それより!
「ちょいちょいちょい!先生!なんで入ってきてるんですか!」
僕は慌てて目線を外す。一瞬のことだったが先生の体は頭から流れてきた泡で覆われていたので、僕が見たのは羊のような先生だけだ。先生は、僕が声を急に大きくしたので、体をビクッとさせて驚いている。
「急に大きい声を出してどうしたんだよ。」
「いやいや、先生。さっき僕に先に入っていいよって言ってましたよね。」
「いいや、君。間違っているよ。人の話はちゃんと聞かないと。私ちゃんは先に入っていていいよって言ったんだ。入っていいよと入っていていいよの間には、大きな差があるぞ。」
「なにを、」
僕は、聞き間違いをしていたのか。入っていいよと入っていていいよか。入っていいよの場合はあれか、先に済ませてきていいよ、私は後で入るからっていう意味で、入っていていいよの場合は、先に入っててね、私も後から入るからという意味なのか。一文字追加するだけで、意味合いが変わってしまうとは。やはり日本語、難しい。いや、そんなことはどうでもよくて。
「なんで僕が入ってるのに入ってきちゃうんですか。」
「君、男同士で恥ずかしいも何もないだろう。しかもこんなに広いお風呂で一人というのもね。」
先生がぶっきらぼうな調子で僕に対して言う。まさかの発言。先生はやっぱり男だったのか?
「先生、やっぱり男だったんですね。よかったですよ。てっきり僕は、」
僕はそう言いながら振り返り先生の方を見る。
「まあ、そういうことにしておかないとね。」
先生は、桶に溜めたいっぱいのお湯を頭から勢いよくかぶり、泡を吹き飛ばしながらそんなことを言った。体を覆うほどの泡だ。一回桶のお湯を被ったからといって全部の泡が消えるなんてことはない。それでも、多くの泡がさっきまでのモコモコの勢いを失くして萎みながら流れていく。中途半端に流れたせいで先生の体が部分的に顕になる。なで肩で肩幅が狭く、適度な猫背のすべすべの白い背中、そして細い腰と適度な肉付きの太もも。僕は先生の言葉と目の前の光景に再び後ろを向く。
「しておかないとね?違うんですか!どっちなんですか!」
「だから、さっきも言っただろう。性別なんて大したことではないさ、私ちゃんにとってはね。まあ、君がどうしても気になると言うのならば、今回は男ということにしておこう。それでいいだろう?」
「よくない!」
大声で先生に抗議するも、先生は素知らぬ顔で泡を流し続けているようだ。そして、髪と体を洗い終えると長い髪をまとめながら、タオルで覆い留めている。そのまま湯船の方に歩いてきて、足先を湯につける。
「お。ちょうどいいかな。では失礼。」
「ちょ、ちょっと。」
まだ動揺しいている僕を尻目に僕の向かい側に陣取り湯船に座り込む。今は、この温泉が乳白色でよかったと心の底から思っている。先生の性別がどちらであるかというのがわからない以上どちらでも大丈夫なように気を張っている必要がある(やはりこの時代、性別関係の問題には気を付けておかねばならない)。
いくらシュレディンガーの猫の状態だとしても、今回は箱の中身を確かめるという訳にはいかない。万が一のことがあれば、僕は違う箱の中に入ってしまうことになる。(この状態でも僕に刑事責任が生じるのかは疑問である、残念ながら学生の僕ではまだ判断できるほど刑法を理解できていない。)僕は先生が肩まで湯船に浸かっているのを薄目で確認して先生の方を見る。
「全く。なんで入ってくるんですか。」
「せっかくなら一緒に入った方が楽しいかと思ってね。君の反応は実に良かったよ。今度の小説の参考にさせてもらうさ。」
「そんな体を張って、反応を見ないでください。僕の心臓に悪いです。」
先生は、はっはっはと高笑いをしている。
「ところで、何を考えているかという話だったが、君はさっきの桜のことについて考えていたんだろう?」
「まあ、それもあります。あの桜、綺麗なのは綺麗なんですがどこか恐ろしい雰囲気を感じてしまったんです。」
「ほう。」
「あの美しすぎるほどに鮮やかな赤色の花びらと、あの丘に一本だけ植えられて風に揺れている樹。先生の、桜には死のイメージもあるという言葉を聞いたからだとは思いますが、どこか不気味な、不吉な予感がしてくる感じがするんです。」
「なるほどね。確かにあの桜の樹の美しさは見事なものだった。それと同時に君が抱いたような不気味な雰囲気というのも醸し出していた。美しすぎるが故のものだろう。それに、あの赤さは彼岸花の赤色に近いものを感じた。それがどこしれぬ不気味さの正体なのかもしれないね。」
「彼岸花ですか?」
「君、彼岸花は知っているよね?別名を曼珠沙華とも呼び、これは仏教用語で『天上の花』という意味なんだよ。だから彼岸花には不吉なイメージがある。根っこには毒もあるしね。それに近しい赤色、それがあの桜を彷彿とさせているのかもしれないね。」
「なるほど。彼岸花。実物は見たことがありませんが、そういうイメージが重なり合うというのはありますね。案外人間の感性というものは一定の法則があるんでしょうか。」
「そうかもしれない。一定のイメージをみんなが共通して抱いているからこそ、普遍というものがあるのだろうしね。でもその中でも、独自の感性と考え方を持つというのは重要なことだよ。特異なものに普遍を見出すということとかね。いいね、いいね。君を連れてきている理由はその感受性の豊かさが故もある。色々な感想を聞かせてくれたまえ。」
先生が言っていることは難しすぎて僕にはあまり理解できなかったが、それから僕と先生は、ここまでの旅路の感想や桜について、そしてホームズさんについていろいろ話した。




