100 ビューティフルネーム
夏休みの間、演劇部は忙しかった。
長い休みの後には放課後エンターテイメントがまた開催され、秋には文化祭が控えている。
ちゃんと頭数が揃っている今年度は、本来一番の活躍時であろう学校最大のイベントに参加できるということで、俳優志望の少年はありえないテンションで張り切っていた。
「それでビューティ、ここで使う大道具なんだけど、クリスマスの時に使った木をアレンジして、あとね、後ろに立っているだけでいいからこのシーンには人が欲しいんだよね。これだけでも手伝ってくれる人を誰か募集したらいいと思うんだ。そしたら見栄えもいいしかっこいいでしょう」
マシンガンのように次々と出される提案をノートに書き出していく。
ちょっと待って、という返事をはさみながらペンを走らせていると、一年生女子が泣きついてきた。
「ビューティ先輩、よっしー先輩がイヤミを言ってきます!」
良彦の吐き出す毒舌の苦情窓口は華恋が一手に引き受けていて、最初こそ丁寧に答えていたがそんなヒマは今はもうない。
「藤田がケチつけるのは見込みのあるヤツだけだから。評価してもらってると思って、自信もちな」
「うう……、そうですか?」
目の前ではまだ祐午がなにかをまくしたてている。
それをもう一度聞きなおし、できそうなことから少しずつ着手していく。
「藤田っ!」
「よっしーでいいぜ!」
普段はおヒマなメイク担当に雑務を振り分け、辻出教諭が来れば全員で走る。
発声練習をこなし、新学期には演劇部だけ特別に放課後エンターテイメントで十五分使えるよう交渉をした。
目の前のことに全力で。
夢がなくても、趣味や特技がなくても、華恋はもう平気だった。
クラス全員の名前も覚えて、いつだって笑顔で学校生活を送った。
「どうだった、ミメイ! 名前はあったか?」
クラスに戻るなりかけられた声に、大きく両手で丸を作る。
「良かったなー、第一志望だろ? 家には連絡した?」
「もちろん」
部活はとっくに引退し、三月上旬。
合格発表から帰ってきた華恋はニヤリと笑って、いろんな用紙が満載の封筒をひらひらと振って良彦に見せつけた。
当初受けようと思っていた幸島北はやめて、それよりも少しだけ難しい秋谷南高校に合格し、これでめでたく入学が決まった。
志望校を変更した理由は、礼音がこっそり受験に失敗して滑り止めの男子校に入っていたからというのもあるのだが、これは誰にも話していない乙女の秘密だ。
「しかし、とうとうミメイとお別れかあ。寂しいだろ、俺がいなくなるなんてさ」
「まだ家にはちょくちょく寄るんでしょ」
「ま、そうだな。近所だし、どうせばったり会うよなあ」
「髪切る時は声かけるし」
二人でケラケラと明るく笑い合う。
今日、同じように第一志望のもっとランクが上の公立高校に合格した良彦は、すっかり背が伸びてそろそろ華恋と同じサイズになろうとしていた。
その差はあと三センチで、きっと抜かれてしまうのだろう。
「もうちょっと寂しがってほしいよなあ。お前の永遠のアイドル、よっしーとそろそろお別れなんだぜ?」
「そうだね。本当は少し寂しいよ」
公立高校の合格発表の日、教室の中はいつもよりも人が少ない。
後ろの黒板の前に並んで立って、二人は揃って微笑んでいる。
「どう考えても静かになるよね。今までがうるさかったから」
「そんなに声が大きいかなあ」
「声の大きさじゃないよ。口数と発言の質の問題」
お前はまだわかってないのかい、と華恋はぱしっと良彦の胸のあたりを叩いた。
初めて会った時にはだぶついていた制服がようやくピッタリになって、良彦の顔は随分大人びている。
スピリットの面影はまだ残っているが、そのうち消えてしまうだろう。
「でもさ、学校が別になっても、大事な友達なのは変わらないよ。……あんたの隣の席になってホントに良かった」
「俺も良かったぜ。おかげで、楽しい中学生活送れたもんな」
照れくさい空気が二人の間に流れていく。
このあと、どうやって普段どおりに戻ろうか困っていると、救世主が現れた。
「やったよー! よっしー! 合格したよー!」
自分のクラスに帰る前に師匠に挨拶したかったらしい。
祐午はキラキラの笑顔で良彦の前にやってくると、嬉しそうに両手をぎゅうっと握ってブンブン振って、最終的に師匠をぐりんっとひっくり返した。
「ユーゴ、やりすぎ!」
「ごめんごめん、嬉しかったから、つい」
祐午は背がますます伸びていて、良彦は立ち上がると弟子をじっとりとした目で見つめた。
「ユーゴと並ぶとどうも背が伸びた気がしないぜ」
「そう?」
「まあ、私を抜いてから言うんだね、そういうことは」
「ちっくしょーミメイ、でかすぎる女は可愛くないぜ?」
「可愛い系は目指してないので問題ありません」
澄ました顔でこう返され、良彦は悔しそうに鼻のあたりにしわを寄せたが、すぐにケラケラと笑い出した。
相変わらず影響力のある笑い声につられて、華恋と祐午も一緒になって声をあげる。
みんな無事に進路が決まって、それぞれ新しいスタートラインの前に向かって歩きだす。
本格的に大人の階段を上りだすのは、少し怖い。
しかし、勇気をもって進んでいく。
困った時には、力になってくれる友達がいるから。
やたらと清々しい気分になって、華恋は窓の外へ目を向けた。
まだ、冬の気配が残る景色。しかし、降り注ぐ光の色は明るくなってきて、教室にあふれる喜びの声とともに春を少しずつ運んできていた。
二週間後、華恋は中学校を卒業した。
卒業パーティに参加したり、新学期の準備をしたり、通学用の定期を買いに行ったり。
春休みはあわただしく過ぎていく。
入学式の日、華恋は母と共に高校へと向かった。
隣にいつも明るい声で笑っている少年はいない。
みんなそれぞれの道へ踏み出して、バラバラになっている。
今度はどんな出会いがあるだろう。
新しい教室に入り、窓際の後ろの方の席に着く。
そして、とうとうやってきた。
自己紹介の時間。
新しい学校、新しいクラス、新しい仲間のためにどうしても避けられない魔の儀式だ。
自分の番がまわってきて、華恋はゆっくり立ち上がると、ふうっと息を吐き出して。
辻出教諭の発声練習で鍛えられた、よく通る声でこう話した。
「美女井華恋です。ミメイは、美女に井戸の井、カレンは、豪華の華に、恋愛の恋と書きます。私の見た目とはまったく似合わない名前ですが、案外気に入ってます。中学の時はまわりからビューティと呼ばれていました。皆さん、どうぞよろしく!」
クラスメイトたちのあっけに取られたような顔が眼に入る。
隣からゲラゲラと笑い声が聞こえたような気がして、華恋はふっと微笑むと、ゆっくりと新しい自分の席に座った。