星占い相談室の予言(1)
「今日は金曜だぞ」と僕は言った。
「うん、金曜」
「契約には火曜と木曜って書いてある」
「契約には借用期間一年って書いてあるよ」東雲は入部届を二枚重ねて、手のひらでとんとんとそろえた。「火曜と木曜は、きみが一方的に出した使用時間。今日は準備作業だから、使用には入らないの」
「準備作業も作業だろ」
「じゃあ残業代を払うね」
「何で払うんだ」
彼女は少し考えた。
「ういろう一箱」
「うちの冷蔵庫にまだ四箱半ある。妹が受け取った保証金が」
「じゃあツケにしとく」彼女は向きを変えて、廊下の反対側へ歩きだした。「五時までには解放するから。邪魔はしないよ」
スマホを見た。四時二分。ここからコンビニまで歩いて二十分だから、彼女に貸せるのはあと四十分くらいだ。僕は頭の中でその四十分のシフト表を書いてから、あとを追った。
彼女は校門のほうへも、南校舎の階段のほうへも行かなかった。渡り廊下を通って、北校舎に入った。
*
北校舎は汐見高校でいちばん古い建物だ。一階が購買と保健室、二階が理科室で、そこから上にはほとんど誰も行かない。音楽準備室、鍵のかかった資料室、それからドアに部活の名前が貼ってあるのに中から何の気配もしない部室がいくつか。階段は上へ行くほど狭くなって、手すりは上へ行くほど古くなる。四階まで来ると、手すりの塗装は手でこすられて木の色しか残っていない。
廊下のつきあたりに屋上へ出る鉄の扉があって、鍵がかかっていた。その鉄の扉の隣が、最後の部室だった。
ドアに紙が二枚貼ってあった。
上の一枚は手書きで、印刷みたいにきちんとした字だった。
天文部
観測記録、いつでも閲覧できます
下の一枚は印刷で、生徒会の赤い印が押してあった。
通知
天文部の現部員数は一名。
部活動規程第七条により、五月三十一日までに部員が五名に満たない場合、廃部とする。
生徒会
「五人」と僕は言った。
「五人」と東雲は言った。
「今いるのは一人」
「今いるのは一人」
「つまりきみは」と僕は言った。「五月末までに、僕の知らない部活のために四人集めろと」
「三人」彼女は入部届を二枚かかげた。「ここに二人いるから」
「その二枚のうち一枚は僕だ」
「だから三人」
彼女はドアをノックした。中ですごくあわてたような音がした。何かを倒して、大急ぎで起こしたような。それからドアが細く開いた。
すきまに目が二つあった。すごく大きくて、すごく警戒していて、巣をノックされた小動物みたいだった。
女子だった。すごく小柄で、東雲よりもう少し低い。一年生の上履きをはいていて、レンズ拭きの布を持っていて、布には少しほこりがついていた。彼女は僕らを見上げて、それからドアの赤い印の通知を見た。その二つに関係があるかどうか確かめるみたいに。
「……こんにちは」彼女は言った。「生徒会の方ですか」
「違う」
「では」彼女はすきまを少し広げた。「観測記録の閲覧ですか」
「それも違うよ」東雲が言った。「入部しに来たの」
その子は固まった。レンズ拭きの布が手から落ちた。
*
部室は思っていたより広くて、思っていたより散らかっていた。秩序のある散らかり方だった。壁ぎわの本棚には星図と観測記録が年ごとにきっちり並んでいて、背表紙に手書きのラベルが貼ってある。机の上には大きな紙が広げてあって、座標がびっしり描いてある。隅にはすごく古い反射望遠鏡が立っていて、鏡筒の白い塗装がはげかけていて、年をとった白鶴みたいだった。窓は屋上に面していて、窓の外に鉄のスタンドが見える。スタンドには手のひらくらいの灰色の箱が固定してあって、箱から線が一本伸びて、窓枠のすきまを通って、部屋の中の古いノートパソコンにつながっていた。
「星乃ひより」その子は背すじをぴんと伸ばして、朝礼で自己紹介するみたいに言った。「一年、天文部部長です」
「部員は?」
「部長兼部員です」彼女は言った。「現在、部員一名、部長一名、同一人物です」
「顧問は?」
「顧問は地学の高橋先生です。高橋先生の今年度の出席率は」彼女は壁のカレンダーをちらっと見た。「現在ゼロです。昨年度は二回。二回とも寝ていました」
東雲は入部届を二枚机に置いて、すべらせた。
星乃ひよりはそれを手に取って、すごくていねいに見た。一枚目を見て、二枚目を見て、また一枚目に戻った。入部届を見るその様子は、観測データを照合しているみたいで、小数点の位置を一つでも写しまちがえないかと心配しているようだった。
「二年、東雲灯里」彼女は読み上げた。「二年、朝凪朔」
「僕だ」
「入部理由……」彼女はそこで止まって、顔を上げた。「『ふつうのこと』」
二枚の入部届の入部理由の欄には、どちらも同じ一言が書いてあった。筆跡も同じで、丸くて、少し傾いていた。僕の分も。
「僕の理由もきみが書いたのか」
「ほかに理由ないでしょ」東雲は言った。
少し考えた。たしかになかった。
星乃は彼女を見て、僕を見て、また二枚の入部届を見た。それから二枚を机に置いて、手のひらで押さえて平らにした。何度も。勝手に飛んでいかないか心配しているみたいに。
「ようこそ」彼女は言った。
声は平らだった。でも入部届を押さえた手は、ずっと離れなかった。
*
それからの三十分は、星乃による入部説明会だった。
彼女は本棚からすごく分厚いファイルを抜き出して開いた。中にはA4用紙に印刷した「天文部活動規程」が入っていた。十二条あって、どの条にも付則がついている。彼女は一条ずつ、すごく真剣に読み上げて、ときどき止まっては僕らがちゃんと聞いているか確かめた。
「第四条。観測会は原則として月一回、城山または屋上で行う。天候、シーイング、光害の状況を見て判断する」
「シーイングって?」と僕は聞いた。
「大気の安定度です」彼女は言った。「シーイングのいい夜は星があまりまたたかなくて、くっきり見えます。シーイングの悪い夜は、星がずっとまたたいています」
「星がずっとまたたいてるのって、きれいじゃないのか」
「観測にとってはノイズです」彼女は言った。「ちかちかする星は、今夜の大気が乱れていると教えてくれているんです」
「第五条。週に一回、空の明るさを測定し、光害の変化を記録する。現在の記録では」彼女は別のページをめくった。「過去二年間で、小田原駅東口の光害は〇・四等級上昇しています。主な原因は、新しくできたドラッグストアです」
「あのドラッグストア、明るいよね」東雲が言った。
「すごく明るいです」星乃は力強くうなずいた。「あの店の看板は、シリウスよりおよそ十二等級明るいです」
二人の意見が初めて一致した。いいスタートだと僕は思った。
それから星乃は第九条まで来た。
「第九条。本部の活動は天体観測を目的とし、占星術、星座占いなど非科学的な内容は扱わない」
読み終わると、彼女は止まって、ちらっと東雲を見た。
なんでよりによって彼女を見るのか、僕にはわからなかった。東雲は机の向こうに座って、いつ買ったのかわからない温かいお茶の缶を両手で持っていて、表情はすごく落ち着いていて、占星術とは何の関係もなさそうに見えた。
「……念のための確認です」星乃はうつむいて、ページをめくりつづけた。
「何座?」東雲が聞いた。
ファイルをめくる星乃の手が止まった。
「本部は星座占いを扱いません」
「占いは聞いてないよ。星座を聞いたの」
「……しし座です」
「八月?」
「八月九日です」
「しし座のひとは」東雲はすごく真剣に言った。「今月、思いがけない仲間に出会うでしょう」
部室がしばらく静かになった。
窓の外、屋上の灰色の小さな箱は鉄のスタンドの上で、ぴくりとも動かなかった。部屋の古いパソコンの画面では、細い線が一本、ゆっくりと前へ這っていた。
「東雲先輩」星乃が言った。「八月九日生まれの人は、現在の天文学では、その日、太陽はかに座の方向にあります」
「ん?」
「歳差です」星乃は言った。「地軸の向きは、二千年あまりのあいだに星座一つぶん近く動いています。占星術で使っている星座表は、二千年以上前の空なんです。だから厳密に言うと、わたしはかに座です」
「じゃあかに座のひとは、今月、思いがけない仲間に出会うでしょう」
「……さっきはしし座っておっしゃいました」
「星は歳差くらいで、友だちを作っちゃだめなんて言わないでしょ」
星乃は口を開けて、また閉じた。彼女は東雲を見ていた。その目は病院で見たことがある。患者が医者に「もう治った気がします」と言って、医者がその患者を見ながら、心の中でその言葉に点数をつけている目だ。
「朝凪先輩」彼女は僕のほうを向いた。
「なに」
「あの、東雲先輩はふだんから」彼女は言葉を選んだ。「こういうお話のしかたなんですか」
「知り合って一週間なんだ」と僕は言った。「その一週間は、だいたいそうだった」
「……わかりました」
スマホを見た。四時三十八分。
「そろそろ行かないと」と僕は言った。「五時からバイトなんだ」
「うん」東雲も立ち上がった。ずっとその一言を待っていたみたいに。
四十分の借用時間は、一分も超えなかった。
ドアのところで、星乃に呼び止められた。
「あの」
僕らは振り返った。彼女は古い望遠鏡のそばに立って、両手でレンズ拭きの布を握りしめていた。すごく強く。
「来週の火曜日」彼女は言った。「天気がよければ、屋上で空の明るさを測ります。五時半からです。もしお二人のご都合がよければ……」
声はだんだん小さくなって、最後のほうはほとんど聞こえなかった。
「火曜はあいてる」と僕は言った。
彼女の手が少しゆるんだ。
「では、来週の火曜日に」彼女は言った。「遅刻しないでください。空の明るさの測定は、時間にとても敏感なので」
階段を下りるとき、一度振り返った。四階の廊下のつきあたりでドアが開いていて、入口にすごく小さな影が立っていた。僕らが階段を曲がるまで、ずっと立っていた。
*
その夜の十時七分、コンビニの裏口で、LINEが一通届いた。
遥じゃなかった。遥はもう九時に寝ている。寝てからもたいてい一時間はスマホをいじっているけれど。
知らないアイコンだった。ぶれた空の写真で、どこの空なのかも、昼なのか夕方なのかもわからない。名前は二文字だけ。灯里。
いつ友だち登録したのか思い出せなかった。友だちリストを開くと、今日の夕方に追加されていた。「朝凪遥」という人の紹介で。
「月曜の放課後までに、入部届を担任の先生に出してハンコもらってね」
うしろにスタンプが一つ。うさぎが膝をついて、両手で何かを頭の上に捧げ持っている。何を捧げているのかは潰れていてわからない。
僕はそのうさぎをしばらく見つめた。
それから遥に一通送った。
「いつあいつとLINE交換したんだ」
既読。返事はなかった。
僕はコンビニの裏口に立って、三階のあの部屋を想像した。布団の中で誰かが寝返りを打って、スマホを枕に伏せて、もう寝たふりをしている。




