星占い相談室の予言(2)
火曜日。契約が始まって最初の火曜日。
五時二十分に北校舎の四階に着くと、部室のドアは開いていて、中に三人いた。
星乃は机のそばに立って、顔を真っ赤にしていた。東雲は窓ぎわに座って、両手でお茶を持って、自分には関係のない芝居でも見ているみたいだった。もう一人はドアに背を向けて床にしゃがんで、板に最後のひと塗りをしていた。
ショートカットで、リュックにスライムをぶら下げていた。北校舎の階段は四階分ある。たぶん、すごく時間をかけて上ってきたんだと思う。
「お兄ちゃん、遅刻」遥は振り向きもしなかった。「星乃さんが言ってたよ。空の明るさの測定は時間に敏感なんだって」
「なんでおまえがここにいるんだ」
「入部」彼女は刷毛をペンキの缶にのせて立ち上がり、ポケットから四つ折りの紙を出して広げて、僕に見せた。入部届だ。担任のハンコはもう押してあって、入部理由の欄にはこう書いてあった。
人数合わせ。
「これは入部理由じゃない」
「事実だもん」遥は入部届を机にばんと置いて、星乃のほうを向いた。「部長、受理お願いします」
星乃はその入部届を見て、すごく複雑な顔をした。長いあいだ見ていた。どこか合わないデータを照合しているみたいに。
「朝凪遥さん」彼女は言った。「わたしたち、同じクラスですよね」
「そうだよ」
「ドア側の列の前から二番目の席。毎日四時間目が終わると保健室に一回行って、戻ってくるときは手に水のペットボトルを持っています。体育のときは観覧席に座って、別の課題を書いています」
遥の笑顔が半秒止まった。
「……星乃さん、ストーカー?」
「観測です」星乃は言った。「二週間観測しました。あなたはクラスで初めての」彼女は少し止まって、正確な言葉を選ぶみたいにした。「初めて、記録する価値があると思えた人です」
「これって告白?」
「観測記録です」
「お兄ちゃん」遥がこちらを向いた。「告白された」
「観測記録だって言ってるだろ」
「天文部の人の告白はね、『観測記録です』って言うの。あたしはわかってるから」遥は塗り終わったばかりの板を持ち上げて、ひっくり返して、胸の前にかかげた。「よし、部長、受理が済んだならこれ掛けよ」
板は机一つぶんくらいの幅で、地は濃い紺色、そこに白いペンキで字が書いてあった。字はすごく大きくて、少し傾いていて、最後の一文字は明らかに端に押しこまれていた。
天文部 星占い相談室
(未来のお悩み、なんでも承ります)
星乃の顔色が、赤から白に変わった。
「これはなんですか」
「看板」
「天文部に看板はいりません」
「天文部に必要なのは五人でしょ」遥は言った。「今は四人。最後の一人は、部室に座ってても来ないよ。誰かに入ってきてもらうには、まず入ってみたくなるドアがなきゃ」
「では、なぜ星占いなんですか」
「灯里さん、勘がいいから」
遥はそう言いながら、ちらっと東雲を見た。東雲はお茶を飲んでいて、顔は上げなかった。ただ、缶を置くときに、いつもより少し強く置いた。
「よくないよ」彼女は言った。
「いいよ」遥は言った。「先週、カレーの塩が少ないの当てたじゃん」
「あれは事実だもん」
「だから、事実を当てるのがうまいってこと」遥は板をドアのほうへ運んだ。「占い師は灯里さん、助手はあたし。あたしが用語を考えて、灯里さんがそれを言うの」
「引き受けてないよ」
「灯里さん」遥はドアのところで止まって、彼女を振り返った。「ふつうの部活がしたいって言ってたでしょ? ふつうの部活のドアには、たいていすごくばかみたいな看板がかかってるんだよ」
東雲は遥を見た。
遥がどこで「ふつうの部活」なんて言葉を聞いたのか、僕にはわからなかった。東雲は百段坂で僕に「ふつうのこと」と言ったけれど、あの日、遥はその場にいなかった。もしかしたらあの夜のベランダで、二人が話した女の子どうしの話の中に、その一言があったのかもしれない。
東雲はもう「引き受けてない」とは言わなかった。立ち上がってドアまで行って、板の反対側の端を支えた。
「傾いてる」彼女は言った。
「どっち?」
「遥ちゃんのほうが低い」
「灯里さんのほうが高いんだよ」
「占星術は」二人の後ろで星乃が言った。声が震えていた。「天文学ではありません」
遥は板を支えたまま振り返って、すごく真剣に彼女に言った。
「だから、ドアの外に掛けるんじゃん」
*
その日の空の明るさの測定は、五時三十一分に始まった。予定より一分遅れだった。
屋上の鉄の扉はふだん鍵がかかっていて、鍵は星乃が持っている。入部した日に高橋先生から借りたのだそうだ。高橋先生は「持ってていいよ、僕は上がらないから」と言って、それきり返してと言わなかったらしい。
屋上は思っていたより広かった。コンクリートの床で、まわりを胸くらいの高さの柵が囲んでいて、柵の外はすぐ城山の木々の梢だ。南には海が見えて、北には天守閣の屋根が見えて、西には箱根の山がある。山の上には、まだ溶けていない雲が少し残っていた。
あの灰色の小さな箱は、屋上の隅の鉄のスタンドに固定されていた。排水口からそう遠くない。箱はすごく小さくて、弁当箱よりもひとまわり小さいくらいで、上に防水シールが貼ってあって、見たことのないマークが印刷してあった。
「これなに?」遥が聞いた。
「市民地震計です」星乃は言った。「家庭用のもの。中にセンサーが入っていて、二十四時間、地面の揺れを記録します。データはネットに送られて、世界中の人が見られます」
「星乃さんがつけたの?」
「わたしがつけました」
「なんで天文部が地震計をつけるの?」
星乃はしゃがんで、袖で箱のほこりを拭いた。すごくていねいに、くるくると。望遠鏡を拭くときとまったく同じだった。
「星も地面も」彼女は言った。「どちらも、見えるものだからです」
それ以上は説明しなかった。立ち上がって、カバンから小さな機械を取り出した。画面のない懐中電灯みたいなもので、それを天頂に向けてかかげた。
「スカイクオリティメーターです」彼女は言った。「空の背景の明るさを測ります。数字が大きいほど空が暗くて、観測に向いています」
一分くらいかかげてから下ろして、数値を見て、ノートに数字を一つ書いた。それから向きを変えて、またかかげた。
僕らはそばに立って、彼女が一方向ずつ測るのを見ていた。誰もしゃべらなかった。屋上の風は強くて、遥はポケットに手を突っこんでいた。指先の出る毛糸の手袋をはめたまま、ポケットの中で指をもぞもぞ動かしていた。
「寒いか」と僕は聞いた。
「寒くない」遥は言った。「四月だもん」
その「四月だもん」の言い方は、誕生日の日に「四月に手袋って、なに考えてんの」と言ったときとまったく同じだった。僕はトートバッグからカイロを一枚出して、袋を破って渡した。彼女は受け取ってポケットに入れて、何も言わなかった。
東雲は柵のそばに立って、星乃を見ていた。すごく集中して見ていた。ずっと見ていなかったものを見ているみたいに。
「星乃さん」彼女は言った。「毎週、一人で上がってきて測ってるの?」
「毎週火曜日です」星乃は振り向かなかった。「中二から始めました。前は家の屋上で測っていて、今月からここに移ったんです」
「雨の日は?」
「雨の日は空の明るさに意味がないので。地震計を一回見に上がります」
「雪の日は?」
「小田原はめったに雪が降りません」星乃はメーターを下ろして、ノートに最後の数字を書いてから、振り返って東雲を見た。「東雲先輩、どうしてそんなことを聞くんですか」
東雲は少し考えた。
「考えてたの」彼女は言った。「一人で屋上に立って、二年間も空を測ってたら、寒くないのかなって」
星乃は答えなかった。メーターをカバンにしまって、ノートを閉じて、胸に抱えた。
「今日の数値は十九・二です」彼女は言った。「先週より〇・一暗いです」
「それっていいことなのか」と僕は聞いた。
「いいことです」彼女は言った。「空が先週よりほんの少し暗くなれば、星がほんの少し多く見えるんです」
そう言ったとき、彼女は初めて笑った。すごく小さな笑いで、口のはしが少し動いて、また引っこんだ。慣れていないみたいに。
遥がそばで彼女を見ていた。長いあいだ。
その日の帰り、百段坂を下りるとき、遥はいつものように僕を二段下にさせなかった。僕の隣を歩いた。左手で手すりをつかんで、右手はポケットに入れて、カイロを握っていた。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「星乃さんってさ」息を切らしながら言った。「ずっと一人だったんだね」
「二年」
「うん」彼女は一段下りた。「これからは違うけど」
すごく普通に言った。明日の天気でも言うみたいに。




