焼きそばパンの予言(7)
その夜の十一時四十分、僕は洗面台の前に立っていた。
歯をみがく前に、明日のことをひととおり考えた。遥の薬。朝、昼、夜。昼の分はもうピルケースに入れた。明日は金曜で、コンビニのシフトが五時から十時。トートバッグのカイロは残り二枚で、来週補充しなきゃいけない。古文のノートは戻ってきた。
それから、スマホのカレンダーを開いて、予定を一つ作った。
タイトルは少し考えて、「貸し出し」にした。繰り返し:毎週火曜、木曜。終了日を聞かれたので一年先までめくって、来年の四月、「桜」と書いてあるマスの手前を選んだ。その日にはもう予定があるからだ。カレンダーが計算して、最後の「貸し出し」は来年の四月八日、木曜だと教えてくれた。
一年分の火曜と木曜を足すと、百日ちょっとになる。思っていたより多くて、思っていたより少なかった。それがたくさん貸し出したことになるのか、少ししか貸し出していないことになるのか、よくわからなかった。
スマホを洗面台に置いて、歯みがき粉を出した。歯ブラシを口に入れたところで、画面が光った。
「お兄ちゃん、いる?」
「いる」
歯ブラシをくわえたまま、片手で返した。壁の向こうの遥の部屋から、寝返りを打つ音がした。
「灯里さん、明日も来る?」
少し考えた。
「僕が呼んだわけじゃない」
「じゃあ来るね」
歯みがき粉を吐いて、口をゆすいで、その一行を見た。
「なんで」
「お兄ちゃんが呼んだんじゃない人は」遥が返してきた。「みんな自分で来たくて来てる人だから」
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「あの人のこと、好き?」
歯ブラシを洗面台に落としそうになった。
「契約で、だめって書いてある」
「へえ~」遥が返してきた。うしろに長い波線が続いていた。「契約ね~」
「その波線はなんだ」
「べつに」彼女は言った。「ただ、契約にわざわざ『だめ』って書いてあることって、だいたい起きそうなことなんだよね。じゃなきゃ書かないでしょ。契約期間中にキリンになってはいけません、って書いてある契約書、見たことある?」
言い返そうとして、少し考えて、言い返せるところがないと気づいた。今週は負けが多すぎる。
「寝ろ」
「はいはい、寝ます」
うしろに、あの膝をついたうさぎが続いた。うさぎが捧げ持っているものは、やっぱり潰れていて何かわからなかった。
スマホを洗面台に伏せて、電気を消した。
壁の向こうで、もう一度寝返りの音がした。それから何もなくなった。
僕は暗闇の中にしばらく立っていて、その「何もない」が眠っているほうの「何もない」なのを確かめた。この技術は人に教えるのが難しい。母さんはできるし、僕もできる。僕は母さんから習った。ただ、母さんは病室で使って、僕は家で使う。
*
次の日の朝七時十分、僕らが玄関で靴をはいていると、ドアが開いた。
母さんが帰ってきた。朝凪真澄。小田原中央病院の夜勤の看護助手で、四十四歳で、目の下のくまは勤続年数と同じくらい長い。彼女はドアのところに立っていて、僕らはドアの内側に立っていて、二人しか立てない玄関で全員が一度ぎゅうぎゅうになった。
これがうちの引き継ぎだ。母さんは仕事終わり、僕らは登校、そのあいだの一分くらい、全員が同じ場所にいる。
「おはよう」母さんは言った。
「おはよう」
「おはよー、お母さん」
母さんは僕らの頭ごしに、こたつの上の食べかけのういろうに目をとめた。
「ういろう? 誰が買ったの」
「お兄ちゃんの保証金」遥が言った。
「保証金?」
「お兄ちゃん、女の子に一年借りられたの」
母さんは僕を見た。夜勤明けで、目つきが少しのんびりしていて、まだピントを合わせているカメラみたいだった。
「……保証金はいくら」
「ういろう一箱」と僕は言った。
「五箱まで交渉した」遥がつけ足した。
母さんは少し考えた。
「安いわね」と言った。
それから手を伸ばして、僕の頭をぽんと押さえた。なでたんじゃない。押さえたのだ。熱を測るみたいに。それか、何かがちゃんと元の場所にあるか確かめるみたいに。押さえ終わると、スリッパにはきかえて自分の部屋へ向かった。途中で振り返って言った。
「鍋のはカレー?」
「母さんの分、取ってある。塩は少なめ」
「先生がそう言ってるからね」
「先生がそう言ってる」
「知ってる」母さんは言った。「おいしいよ」
ドアが閉まった。
階段を下りるとき、遥は鉄の階段の二階で中継の休憩をとって、息を切らしながら言った。「お兄ちゃん、お母さん、食べる前においしいって言った」
「いつもはおつかれさまだよな」
「今日はおいしいだった」遥は手すりをつかんで、一段下りた。「この二日で二人がお兄ちゃんのカレーをおいしいって言ったの。しかも一人はまだ食べてない。自分で数えなよ」
*
その日の放課後、東雲が教室の入口に立って、僕を待っていた。手に入部届を二枚持って。




