焼きそばパンの予言(6)
契約後最初の木曜、借用人は借りに来なかった。
その日の放課後、僕は教室で少し長く座っていた。誰かを待っていたわけじゃない。ノートを整理していた。整理し終わって、もう一回カバンを整理した。カバンも整理し終わってから、窓ぎわの席がとっくに空いているのに気づいた。机の端のお茶の缶もなくなっていた。
透真が後ろから顔を出した。「朔、今日シフトないんだろ? 新聞部でレイアウト手伝ってくれよ」
「行かない」
「じゃあ誰を待ってんの」
「誰も待ってない」
「これは伏線だ」彼はそう言って、僕にカバンで席へ押し戻された。
一人で百段坂を下りて、スーパーで鶏肉と玉ねぎとカレールウを買った。ルウは減塩のやつで、箱にはすごく健康そうな笑顔が描いてあって、その笑顔からしてもう味が薄そうだった。木曜の夜はうちはカレーだ。遥が入院していた年の冬から始まった決まりで、誰が決めたのかはもう覚えていない。
家に着いたのは五時半だった。遥はリビングのこたつに寝そべって宿題をしていた。こたつのコードは入っていない。四月なので、彼女は脚に布団がかかっている感じが好きなだけだ。
「おかえり」顔も上げずに言った。「今日早いね」
「今日は木曜だ」
「木曜なのは知ってる。今日は早いねって言ってるの」彼女はやっと顔を上げて僕を見て、また下を向いた。「誰かにすっぽかされたみたい」
「誰にもすっぽかされてない」
「じゃあ誰かが来なかったんだ」
「宿題終わったのか」
「お兄ちゃん」遥はペンのキャップであごをつついた。「話をそらすとき、最初にあたしの宿題を聞くよね。それ、あたしが小二のときからのくせだよ」
僕は台所へ玉ねぎを切りに行った。玉ねぎはすごく細かく切る。鍋で少し炒めると溶けてなくなるくらいに。そうすると遥は玉ねぎに気づかないし、一つずつよけて、皿のふちに戦利品みたいに並べることもない。
*
チャイムが鳴ったのは七時十分だった。カレーはもう煮えていて、僕は皿にご飯をよそっているところだった。
「あたし出る!」遥がこたつから這い出した。「絶対宅配便。新しいゲームのコントローラー買ったんだ」
「いつ買ったんだ」
「ひみつ」
彼女はスリッパで玄関に走っていった。いつもより少し速く。台所から「ゆっくり」と声をかけると、ゆっくりになった。ドアが開いた。
宅配便じゃなかった。
台所から顔を出すと、遥がドアの前に立っていて、片手をまだドアノブにかけていた。外の廊下の電気は古い蛍光灯で、ちかちか点滅していて、遥より少し背の低い人影を照らしていた。
丸い眼鏡。眉にかかる前髪。首からカメラを提げて、手にはノートと、小さな紙の箱を持っていた。
二人はドアのところで見つめ合っていた。
遥の手はドアノブにかかったまま動かなかった。東雲もドアの外に立ったまま動かなかった。廊下の蛍光灯がまたちかっと光った。
「……どちらさまですか」遥が先に口を開いた。
「遥」
東雲はそう言ってから、自分で一瞬止まった。
「――遥ちゃん、だよね」彼女は言いなおした。「朝凪くんの妹さん」
遥は答えなかった。ドアの外の顔をじっと見ていた。ずっと前に見た写真と照らし合わせているみたいに。
「あたしのこと、知ってるんですか」
「お兄さんから聞いてたから」
僕はカレーの皿を二枚持って台所の入口に立っていて、西部劇にまぎれこんだ通行人の気分だった。二人のガンマンが酒場の入口でにらみ合っていて、僕はただ食事を運んできただけ。
同時に僕は考えていた。いつ妹の名前を彼女に言っただろう。契約の日、僕は「妹」としか言わなかった。月曜の教室では焼きそばパンの話をしていた。
思い出せなかった。たぶん透真が言ったんだろう。透真はなんでもしゃべる。
それから、遥が笑った。
「どうぞ」彼女はドアを大きく開けた。「ちょうどご飯なんです」
「おじゃまします」
東雲は靴を脱いで、つま先を外に向けてきちんとそろえた。それから台所のほうを向いて、カレーを持った僕を見つけて、手のノートをかかげた。
「朝凪くん、古文のノート、机に置きっぱなしだったよ」
見ると、たしかに僕の古文のノートだった。表紙に僕の名前が書いてあって、字がすごく下手で、「五」がおじぎをしている人みたいだった。
「なんでうちを知ってるんだ」
「調べたの」彼女は言った。「言ったでしょ、なんでもきちんとやるって」
「お兄ちゃん」遥はもうこたつのそばに戻って座っていた。「お皿、もう一枚」
*
うちの食卓は、あのコードの入っていないこたつだ。僕が一辺、二人が一辺ずつ、残りの一辺はテレビに向いている。テレビは消えている。
東雲は座る前に、あの小さな紙箱をこたつの上に置いた。
「つまらないものですが」
遥が開けて見た。ういろうだった。小田原の古いお菓子で、黒糖味で、一切れずつ切って竹の皮で包んである。
「ういろう!」遥はうれしそうだった。「ひさしぶり。お兄ちゃん、甘すぎるって言って絶対買わないんだもん」
「甘すぎるんだよ」
「食べないくせに、甘いとか関係ないでしょ」遥は箱を自分のほうへ引き寄せて、東雲のほうを向いた。「なんでういろうなんですか」
「保証金だから」
「保証金?」
「お兄さんを一年借りるから」東雲は言った。「何かを借りるときって、保証金を払うものでしょ」
「保証金って、返してもらえるやつですよ」遥が言った。
「うん」東雲は言った。「一年たって、お兄さんを返すときにね」
遥は彼女を見て、僕を見て、それからういろうの箱を見た。
「……ういろう一箱で、うちのお兄ちゃんを一年?」
「足りない?」
「足りるわけないじゃないですか」遥は指を一本ずつ折って数えはじめた。「ご飯作れるし、洗濯できるし、酸素の記録つけるし、薬の名前と副作用ぜんぶ覚えてるし、夜中の二時にあたしが咳してると、たまたまトイレに起きたふりして、ついでにこっそりあたしの部屋のドア開けてのぞきに来るし。そういうものが、ういろう一箱?」
「じゃあ」東雲は少し考えた。「二箱?」
「最低でも五箱」
「成立だね」
「ちょっと待て」と僕は言った。「今話してるのは僕のことだぞ」
「お兄ちゃん」遥は振り向きもしなかった。「借りられたものに発言権はないの」
東雲がちらっと僕を見た。その目に少し笑いがあって、彼女はそれを隠さなかった。たぶん、このこたつのそばでは隠す必要がないと思ったんだろう。
僕はあきらめて、スプーンをもう一本取りに行った。
*
カレーを食べながら、遥はたくさん質問をした。
「で、お兄ちゃん」最初の質問は僕へだった。「始業から一週間で、隠しキャラのイベント起こしたわけ?」
「隠しキャラってなんだ」
「ほら、いつも教室のすみっこにいて、誰とも話さなくて、特定の条件を満たしたときだけ出てくるキャラ」遥はスプーンで東雲をさした。「普通は隠し条件を満たさないと攻略できないんだよ」
「わたし、ゲームのキャラじゃないよ!」東雲が言った。
「攻略もしてない」と僕は言った。
「二人そろって否定してる」遥はうなずいた。「この息の合い方、好感度もう満タン近いね」
それから彼女はカメラに目をつけた。
東雲はカメラを首から外して、彼女に渡した。遥は両手で持った。生まれたばかりの何かの動物でも抱えるみたいに。ファインダーに顔を近づけて、片目をつぶった。
「え?」彼女は言った。「なんで二つあるの」
「真ん中の小さいところに、影が二つあるでしょ」東雲は言った。「レンズのそのリングを回すと、二つの影が一つに重なるの。そしたらピントが合ってる」
遥はレンズを僕に向けた。ピントリングを回して、こっちへ回して、またあっちへ回した。
「お兄ちゃん、今二人いる」彼女は言った。「一人はカレー食べてて、もう一人もカレー食べてる」
「合った?」
「まだ」もう少し回した。「よし、一人になった」彼女はカメラを下ろして、実物と照らし合わせるみたいに僕を見た。「うん。一人で十分」
「二人いたら」東雲が言った。「家事を分担できるよ」
「二人いたら、保証金も二人分になるもん」遥はカメラを返した。「割に合わない」
遥はそのあともいろいろ聞いた。どこに住んでるのか聞くと、荻窪、と答えた。なんでカメラを持ってるのか聞くと、くせ、と答えた。カメラのメーカーを聞くと名前を一つ言った。遥は聞いたことがなかった。僕は聞いたことがあったけど、黙っていた。最後に、焼きそばパンの話になった。
「うちのクラスでもうわさになってるよ」遥は食べながら言った。「新聞部が新聞出して、掲示板に貼ってあったの。見出しが『焼きそばパンの予言』。二年の女子が朝の八時に、昼の焼きそばパンに焼きそばが入ってないのを知ってたって。下のほうに、同じクラスのAくんは『パン工場に知り合いがいる』と考えている、編集部コメント:つまらない、って書いてあった」
「透真のやつ……」
「で、どうやって知ったんですか?」遥は少し身を乗り出した。「透視?」
東雲はスプーンを置いて、すごく真剣に言った。
「パン工場に知り合いがいるの」
僕はカレーでむせそうになった。
「……それ、僕が言ったやつだ」
「新聞読んだよ」彼女はうなずいた。「Aくんの考察、すごく筋が通ってると思う」
「あれはきみの考察に反論するために言ったんだ」
「いい反論だった」彼女はまたスプーンを手に取った。「だから借りたの」
遥は彼女を見て、僕を見て、急に笑いだした。スプーンを置いて、手で口を押さえて、肩をふるわせて。
「お兄ちゃん」笑いながら言った。「王手かけられてる」
「かけられてない」
「かけられてるよ。しかも相手が使ってるの、お兄ちゃんの飛車だし」
「将棋にそんなルールはない」
「はいはい、お兄ちゃんの言うとおり」遥は目じりをぬぐって、東雲のほうを向いた。「じゃあ、あたしのことも何か当ててみてよ」
東雲は彼女を見た。
ほんの少しのあいだだけ。そのあいだの彼女の顔はすごく静かで、静かすぎるくらいだった。それから皿のカレーに目を落とした。
「今日のカレー」彼女は言った。「塩、少なめだね」
「それ、当てたんじゃないじゃん!」遥が抗議した。「事実じゃん! お兄ちゃんの作るご飯はいっつも塩が少ないの!」
「医者が一日六グラム以下って言ってる」と僕は言った。
「医者は自分で食べないじゃん!」
東雲はうつむいて、カレーを大きくひと口食べた。
「でも、おいしい」彼女は言った。
遥が止まった。僕も止まった。
僕の作る減塩カレーを、よその人がおいしいと言ったことは一度もない。透真は一回食べて「これは病人の味だ」と言った。母さんは何度も食べているけど、感想は言わない。「おつかれさま」と言うだけだ。遥は二年食べていて、毎回「薄い」と言って、毎回ぜんぶ食べる。
「本当に?」と僕は聞いた。
「本当に」彼女は言った。「味の薄いものって、作った人が何を考えてたかわかるんだよ」
「じゃあ何がわかった」
彼女はもうひと口食べて、ゆっくり噛んだ。
「玉ねぎがすごく細かい」彼女は言った。「溶けちゃうくらい細かい。そうすれば、誰かがよけたりしないから」
遥が僕を見た。東雲は僕を見なかった。うつむいて、ひと匙ずつ、ゆっくり食べていた。ずっと食べていなかったものを食べているみたいに。
僕もうつむいてカレーを食べて、何も言わなかった。
*
食事のあと、遥は薬の時間だ。
ピルケースを出して、順番にテーブルに並べた。一粒ずつ。水をくみに行こうと振り向いたとき、東雲がもう立ち上がっていた。流しの前へ行って、上の戸棚を開けて、二段目からコップを一つ出して、ぬるま湯を半分くんで、戻ってきて遥の前に置いた。
うちのコップは、流しの上の戸棚の二段目にある。一段目は母さんの保温マグと薬、三段目は高すぎて遥の手が届かない。
僕は少し考えた。たいていの家のコップは、たぶん流しの上にある。二段目も普通だ。
遥は薬を一粒ずつ飲んだ。僕はこれを何年も見てきた。目をつぶっていても順番はわかる。それでも毎回、目を開けて見ている。最後の一粒がいちばん大きくて、皮をむいていないピーナッツみたいだ。遥はそれを飲む前にいつも一度眉をしかめる。
東雲はそれがなんの薬なのか聞かなかった。「大変だね」みたいなことも言わなかった。ただ、遥がいちばん大きい一粒に手を伸ばす前に、コップを少しだけ遥の手もとへ押した。
遥がちらっと彼女を見た。
「灯里さん」遥が言った。「ベランダ来て。見せたいものがあるの」
もう「灯里さん」になっていた。うちの遥は、学校で同じクラスの子と話すのにも一週間は様子を見るのに、カレー一杯のあいだに名前で呼ぶようになっていた。
「何を見せるんだ」と僕は聞いた。
「女子のもの」遥は立ち上がって、東雲の袖を引っぱった。「お兄ちゃんは皿洗い」
「なんで僕が皿洗いなんだ」
「借りられたものだから」
二人はベランダへ行った。うちのベランダはすごく狭くて、二人しか立てない。そこから南を見ると、屋根の列の向こうに、海が少しだけ見える。夜は海は見えなくて、海の上に明かりが一つか二つ見えるだけだ。夜中に出ていく漁船の明かりだ。
僕は台所の流しの前に立って、水を出した。
台所の窓はちょうどベランダの角に向いていて、ガラス二枚越しに二人の背中が見えた。声は聞こえなかった。水の音が大きかったからだ。うちの蛇口は古いタイプで、ひねると夕立みたいな音がする。
遥はずっと話していて、手をすごく大きく動かしていた。東雲はそばで聞いていて、ときどきうなずいた。途中で遥が一度笑った。腰を折って、手すりにつかまって笑った。
そのあと遥は手を動かさなくなった。二人で並んで立って、漁船の明かりを一つ二つ見ていた。東雲がカメラを持ち上げて、海のほうに向けて、しばらく構えて、押さずに、下ろした。
僕は皿とスプーンを全部洗った。鍋も一つ。それから鍋をもう一回洗った。
ベランダのドアが開いた。
「さむいさむい」遥が手をこすりながら駆けこんできて、こたつにもぐりこんだ。コードは入っていないのに。「お兄ちゃん、灯里さんもう帰るって。下まで送ってあげて」
東雲があとから入ってきて、玄関で靴をはいた。
僕は手をふいて、鍵を持って、彼女といっしょに下へ下りた。鉄の階段が二人分の足音でがんがん鳴った。二人ですごく大きな鍋をたたいているみたいだった。
下に着くと、彼女はこちらを向いた。
「ここまででいいよ」
「駅まで送る」
「いいって」彼女は言った。「すぐそこだし」
「荻窪は近くない」
「駅は近いよ」彼女はカメラのストラップを手首に一回巻いた。
僕は水色の折りたたみ傘を差し出した。ゆうべ使って、乾かして、きれいにたたんである。
「傘。ありがとう」
「持ってていいよ」
「なんで」
「来週の木曜も雨だから」
「天気予報で言ってたのか」
彼女は少し止まった。「うん」と言った。「天気予報」
僕は傘をトートバッグに戻した。トートバッグに、遥のためじゃないものが一つ増えた。二年ぶりのことだった。
「さっき、ベランダで何話してたんだ」
「女の子どうしのひみつ」
「……遥、何か言ったか」
彼女は僕を見上げた。街灯が彼女の眼鏡に小さな光の点を二つ映していた。
「遥ちゃんがね」東雲は言った。「きみは夜中の二時に、トイレに起きたふりをするって」
「それはさっき食卓で言ってたことだろ」
「もう一回言ってたの」彼女は言った。「すごく詳しく」
なんと言えばいいのかわからなかった。
「おやすみ、朝凪くん」彼女は駅のほうへ歩きだした。「カレー、ごちそうさま」
僕は下に立って、彼女が遠ざかるのを見ていた。交差点まで行ったところで、彼女は一度振り返って、うちのベランダを見上げた。少しのあいだ見て、また前を向いて、角を曲がって見えなくなった。
部屋に戻ると、遥はまだこたつに寝そべっていて、指先の出る手袋をはめたまま、ういろうを食べていた。
「甘すぎるんじゃなかったのか」
「甘すぎるって言ったのはお兄ちゃんでしょ」彼女はもうひと口かじった。「お兄ちゃん」
「なんだ」
「あの人、いい人だね」遥は言った。「お兄ちゃん、貸してあげなよ」
「僕はものか」
「保証金、もうもらっちゃったし」遥は最後のひと切れを口に放りこんだ。
「……保証金、食べたな」
「だからもう返せないじゃん」




