焼きそばパンの予言(4)
彼女が僕を百段坂で待ちぶせしたのは、水曜の夕方だった。
待ちぶせ、というのは正確じゃない。百段坂は広くて、彼女一人では何もふさげない。彼女はただ一つ目の踊り場の桜の木の下に座っていた。先週の金曜、踏切の向こうで見たときと同じように膝を抱えて、膝の上にカメラをのせて。桜はもう全部緑になっていて、花びらは掃除されて、石段は灰色に戻っていた。
坂の上から下りていって踊り場まで来ると、彼女が立ち上がった。立ち上がってもたいして高くならなかった。
「朝凪くん」
「東雲さん」
「一年だけ、きみを貸して」
僕は止まった。止まりたかったからじゃない。文法が変すぎて、頭が処理するのに少し時間がかかったからだ。
「一年って」と僕は言った。「なんの単位だ」
「時間の単位だよ」
「時間の単位なのはわかってる。借りて何するんだ」
「ふつうのこと」彼女は言った。「いくつかの場所にいっしょに行って、何人かを助けるの」
「どこに」
「そのうちわかるよ」
「誰を」
「それもそのうちわかる」
僕はトートバッグを反対の肩にかけかえた。
「東雲さん、僕の一日を説明させてくれ」と僕は言った。「朝の七時四十分、妹と登校する。昼は授業。夕方の五時から夜の十時まで、コンビニでバイト。週末は妹の通院に付き添うか、病院に薬をもらいに行くか、家で一週間分の弁当を作る。残りの時間は寝る。睡眠時間は平均五時間半」
「うん」
「だから、きみに貸せる一年はない。貸せる午後一回だってない」
「火曜と木曜は、シフト入ってないよね」
僕は彼女を見た。
「それと、毎月第二土曜の午前は」彼女は言った。「妹さんの通院に付き添う」
「……調べたのか」
「うん」彼女はあっさり認めた。「調べた」
「どうやって」
「それはひみつ」
誰がそれを知っているか、少し考えた。担任は僕がバイトをしているのは知っているけど、シフトまでは知らない。透真は僕が火曜と木曜にひまなのを知っているけど、通院のことは知らない。通院のことを知っているのは、妹と、病院と、うちの冷蔵庫のドアだけだ。
「調べかたが細かすぎる」
「なんでもきちんとやりたいの」彼女はカメラのストラップを手首に巻きつけた。一回、もう一回。
「そこまで細かいなら、探偵になれるな」
「探偵は勘がよくないと」彼女は言った。「わたし、勘はよくないよ」
「金曜の踏切で、ケーキを当てた」
「あれは見ればわかるもん。紙袋にお店の名前があったし」
「じゃあ月曜の焼きそばパンは」
ストラップを巻く手が一瞬止まった。
「あれは勘」
「勘っていうのはそういうものじゃない」
「じゃあ、どういうもの?」
「本当に勘のいいやつは、ぼんやりした、どうとでも取れることしか言わない。『近いうちに大切な人に出会うでしょう』とか、『下旬から運気が上向きます』とか」
「朝凪くん」彼女はすごく真剣に言った。「近いうちに、大切な人に出会うでしょう」
「もう出会った」と僕は言った。「僕のシフト表を調べてる」
彼女は笑った。踏切のときの笑い方とは違った。今度のは少し無防備で、口のはしが片方にゆがんで、それから彼女はあわててそれを引っこめた。うっかり撮れてしまった写真みたいに。
「なんで僕なんだ」
「きみ、写真の光と影がわかるでしょ」
「理由になってない」
「じゃあ、ひまそうに見えるから?」
「さっきの長い説明、聞いてなかったのか。僕はこの学校でいちばんひまじゃない人間だぞ」
「だからさ」彼女は僕を見上げた。「この学校でいちばんひまじゃないことをしてて、それでもひまそうに見えるんだよ。それってすごいことでしょ」
少し考えたけれど、言い返す言葉が見つからなかった。たぶん彼女の言うことは事実だった。母さんも似たようなことを言っていた。母さんの言い方だと「あんたは何もないような顔してるから、かえって心配になる」。僕はそれを褒め言葉だと思っている。何もないように見えるのは、看護助手の息子がもらえる最高の評価だ。
「僕になんの得がある」僕は方向を変えた。
「一年たったら」彼女は言った。「わたしがどうやって知ったのか、教えてあげる」
「何を」
「焼きそばパン。火曜と木曜。ぜんぶのこと」
ずるい条件だった。好奇心はすごく安いものだけど、一度引っぱり出されると、元に戻すのが難しい。感光したフィルムと同じで、巻き戻してももう遅い。
それでも僕は首を振った。
「本当に時間がないんだ」
僕は彼女の横をすり抜けて、何段か下りた。
「じゃあ、言いかたを変えるね」
彼女の声が後ろから追いかけてきた。大きくはないけれど、すごくはっきりした声で。
「わたし、手伝ってくれる人が必要なの」
僕は止まった。
これは僕のよくないところだ。誰かが「必要」と言うと、足が勝手に止まる。看護助手の息子はたぶんみんなそうだ。コンビニの店員が入口のチャイムを聞くと自動的に「いらっしゃいませ」と言うのと同じで、条件反射で、本人の気持ちとは関係ない。
僕は振り返った。彼女はまだ踊り場に立っていて、僕より何段か上にいた。僕が振り向いたとき、彼女は自分のつま先を見下ろしていた。あまりかっこよくないことを言ったばかりの人みたいに。それから顔を上げた。今度は彼女が僕を見下ろす番だった。
「何を手伝うんだ」
「ふつうのこと」
「またそれか」
「本当にふつうのことなんだってば」彼女は一段下りてきて、指を折って数えはじめた。「部活に入る。部活が終わったら、部活の人たちと何か食べに行く。なんでもいいけど、できれば体にあんまりよくないやつ。夏に花火を見に行く、浴衣で。流星群を徹夜で見る。文化祭で廊下に並んで焼きそばを買おうとして、自分の番で売り切れる。テストの前の晩にファミレスで勉強して、結局一ページも進まずにドリンクバーばっかり飲む――」
彼女はそこで止まった。しゃべりすぎたことに急に気づいたみたいに。指は折ったまま、戻っていなかった。
「……そういう、ふつうのこと」彼女は手を下ろした。「一人でやるのは、変でしょ」
「ほかの人に頼めばいい」
「見つからないもん」彼女はさらっと言った。「見てたでしょ、わたしがクラスでどんな感じか」
見ていた。透真の相関図で、彼女の名前は窓ぎわの隅に描かれていて、まわりには何もなかった。赤い「?」が一つあるだけだった。
「僕の時間は」と僕は言った。「週に火曜と木曜だけだ」
「じゅうぶん」
「それに、いつキャンセルになるかわからない。妹に何かあったら、僕は行く」
「知ってる」
「知ってる?」
「えっと」彼女は言いなおした。「わかってる、ってこと」
僕らは百段坂の真ん中に立っていた。下から上ってくる人がいて、上から下りてくる人がいて、両側を通りすぎていくけれど、誰も僕らを見なかった。高校生が二人、石段で話しているのは、百段坂でいちばんありふれた景色だ。
「じゃあ、それで」と僕は言った。「火曜と木曜」
「成立」
「契約なら」と僕は言った。「同意書がいる」
彼女はまばたきした。それからリュックから小さなメモ帳を出して、一枚ちぎって、カメラのボディを下敷きにして、すごく短い鉛筆で何行か書いた。書き終わると僕に差し出した。
借用期間:一年。
用途:ふつうのこと。
借用人:東雲灯里。
その下にもう一行、上より少し小さい字で。
条件:わたしを好きにならないこと。
僕はその一行を二回読んで、読みまちがえていないのを確かめた。
「この条件は」と僕は言った。「いらない」
「いるよ」
「なんで」
「だって、きみは好きになるから」
その言い方は、靴箱の前で「今日のあれ、焼きそば入ってないよ」と言ったときとまったく同じだった。すごく普通で、天気の話とか、靴ひもの話とか、もう起きたことの話をするみたいな。
僕はメモを彼女に返した。
「サインはしない」
「いいよ」彼女は受け取って、ふたつに折って、カメラバッグの内ポケットにしまった。僕がもうサインしたみたいに。「インフォームド・コンセントで大事なのは、インフォームドのほうでしょ。きみはもうインフォームドされたから」
「インフォームド・コンセントはそういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
「インフォームド・コンセントっていうのは」と僕は言った。「相手が全部のリスクを説明して、それを受け入れるかどうか自分で決めることだ」
「うん」彼女はうなずいた。「だから、説明したでしょ。リスクは、きみがわたしを好きになること」
「それはリスクじゃない。きみの自意識過剰だ」
彼女はまた笑った。今度は引っこめなかった。
「僕にも条件がある」と僕は言った。
「へえ?」
「妹の前で、ああいう冗談を言わないこと」
彼女の笑いが止まった。「ああいうって?」
「誰が死ぬとか、誰がいつ死ぬとか、そういうやつ」と僕は言った。
彼女は僕を見た。坂の下から風が吹き上げて、彼女の前髪を少しめくって、その下の眉がのぞいた。眉は寄っていた。すごく合わせにくいピントでも合わせているみたいに。
それから、彼女はすごく真剣に一度うなずいた。
「うん。約束する」
彼女はカメラバッグからさっきのメモをまた出して、広げて、カメラを下敷きにして、いちばん下に一行足した。
追加条件(朝凪):妹さんの前でああいう冗談を言わない。
書き終わると、またたたんでしまった。
「これで双方の契約だね」
「まだサインしてない」
「追加条件を出したのはきみだよ」彼女は言った。「てことは、もう同意してるってことでしょ」
少し考えて、また彼女が正しいと気づいた。今日二回目だった。
「あ、そうだ、朝凪くん」
「今度はなんだ」
「金曜のあの言葉」彼女は言った。「怒ってない?」
「どれ」
彼女は僕を見たまま、答えなかった。
どれかはわかっていた。踏切、遮断機、来年の今日に僕が死ぬと言った同級生。
「あれはうそなんだろ」と僕は言った。
「うん」彼女は言った。「うそだよ」
「なら、怒ることはない」と僕は言った。「僕は死なない。やることがあるから」
本当のことだった。来年の四月十日、僕のカレンダーには「桜」と一文字書いてある。その前にも、そのあとにも、やることはたくさんある。通院、弁当、血中酸素、一年分の薬、それからリストのまだ済んでいない項目。死んでいる時間はない。僕は死なない。
彼女は僕を見ていた。続きを待っているみたいに。
僕は続けなかった。
「うん」彼女は言った。「なら、よかった」
彼女はカメラを首にかけ直して、僕の横を通って坂の上へ向かった。何段か上ったところでまた振り返って、リュックから折りたたみ傘を一本取り出して、ほうってよこした。
僕は受け取った。水色の傘袋に、小さな白い星が一列プリントしてあった。
「今日の降水確率は十パーセントだぞ」と僕は言った。
「うん」彼女は言った。「じゃあ十パーセントの確率で使うね」
「きみのは」
「もう一本あるから」彼女は向き直って、上っていった。「早くバイト行きなよ。五時だよ」
スマホを見た。四時五十一分だった。




