焼きそばパンの予言(3)
焼きそばパン事件は、その日の昼に起きた。
僕は焼きそばパンを買わない。昼は自分で作った弁当を食べる。遥のと同じ鍋から作った減塩のやつで、味はすごく薄い。透真は一回食べて「これは病人の味だ」と言って、それから二口目を食べた。
十二時二十五分、遥のLINEがいつもどおり届いた。写真が一枚。空になった小さなピルケースと、ふたの開いたミネラルウォーター。
「食後。水。報告おわり」
「了解」と返したところで、透真に腕をつかまれて北校舎まで引きずられていった。
購買の前に着いたとき、小型のトラックがちょうど走り去るところだった。荷台にはパン工場の名前と、コック帽をかぶったパンの絵が描いてあって、そのパンは笑っていた。購買のおばちゃんが入口から箱を一つずつカウンターの奥へ運びこんでいて、箱の封のガムテープはまだ新しかった。
「今届いたやつだ!」透真の目が光った。「朔、見たよな! 今届いた!」
「見た。トラック一台」
「十二時二十五分!」彼は言った。「今届いたパンのことを、朝の八時十二分に知ってたやつがいるんだぞ!」
購買の前には長い列ができていた。透真は七番目に並んで、僕は列の外で付き合った。彼の番が来たとき、かごには焼きそばパンが最後の一つだけ残っていた。彼はそれをつかんで、お金を払う前に僕の目の前にかかげた。
「触ってみろ」
「先に払え」
彼はお金を払って、また僕の前にかかげた。
「触ってみろ」
僕は軽く押してみた。やわらかくて、普通だった。パンとして当然の手ざわりだ。真ん中の切れこみはビニールで押さえられていて、中は見えない。
「ぺたんこか?」透真の声が震えていた。
「パンだよ」
彼は袋を破って、大きくひと口かじった。それから動きが止まった。口にパンを詰めたまま、手に残った半分を見下ろしている。
それは真ん中で割ったコッペパンだった。真ん中にソースが塗ってあって、紅しょうがが何切れかのっていた。
焼きそばは入っていなかった。
「……おばちゃん!」透真はパンをかかげて窓口に駆け戻った。「これ、焼きそば入ってない!」
おばちゃんが顔を出して見て、「あらま」と言って、さっき開けた箱からもう一つ取って割った。それも空だった。
「この便、今届いたばっかりなんだけどね。工場で入れ忘れたみたい」おばちゃんは言った。「はいはい、ほかのにかえてあげる。あんパンでいい?」
後ろに並んでいた人たちがどっと笑った。透真は焼きそばの入っていない焼きそばパンの半分をかかげて窓口の前に立っていて、運命に名指しされた人みたいに見えた。
彼はあんパンにかえてもらって、戻ってきて僕の腕をつかんだ。すごく強く。
「朔」声が震えていた。「八時十二分」
「わかってる」
「パンが届いたのは十二時二十五分」
「わかってる」
「なんであいつが知ってるんだよ!」
僕は少し考えた。真剣に考えた。朝の八時十二分、パンはまだ工場か、道路を走るトラックの中だった。購買のおばちゃんでさえ、今やっと気づいた。高二の女子が靴箱の前で、パン工場のおばちゃんより先に、パンに焼きそばが入っていないのを知っていた。
「工場の人に聞いたんだろ」と僕は言った。「朝に電話があって、今日の便に問題があるって」
「工場がなんで高二の女子に、今日の焼きそばパンに焼きそばが入ってないって電話するんだよ」
「仲がいいんじゃないか」
透真はひどく悲しそうな目で僕を見た。診断を受け入れようとしない患者の家族を見るみたいな目だった。
「朔、おまえみたいなやつ、推理小説でなんて呼ばれてるか知ってるか」
「なんて」
「最初に死ぬやつ。『そんなことあるわけない』って言って、第二章で自宅の密室で発見されるやつだよ」
「うちの壁は石膏ボードだぞ。薄すぎて密室にならない」
「そこじゃない!」
*
その日の五時間目が終わって、僕は窓ぎわまで歩いていった。
新学期になってから、自分から彼女の席のそばに行くのは初めてだった。彼女は小さな布でカメラのレンズを拭いていた。すごくていねいに、くるくると、何かの顔でも洗ってあげているみたいに。
「東雲さん」
「ん?」顔は上げなかった。「朝凪くん、どうしたの」
「朝の焼きそばパン」と僕は言った。「パンが届いたのは十二時二十五分だった。きみは八時十二分に知ってた」
レンズを拭く手が一瞬止まった。
「……透真、時間メモしてたんだ」
「新聞部の習慣だよ」
「いい習慣だね」彼女はもうひと拭きした。「勘だよ」
「勘にしては当たりすぎだろ」
「うん」彼女はうなずいた。「わたしもびっくりしたよ」
すごく真剣に言うので、本当のことを言っているのか、からかわれているのか、わからなかった。彼女はやっと顔を上げた。丸いフレームの奥の目は、教室の蛍光灯の下だと、踏切のときより明るく見えた。彼女はしばらく僕を見ていた。ピントを合わせているみたいに。
「それにね、朝凪くん」彼女は言った。「朝、靴箱のところで、もう目で一回聞いてたでしょ」
「目は質問しない」
「きみの目はするよ」彼女はレンズキャップをはめて、お茶の缶を両手で持った。「すごく大きい声で」
席に戻ってから、答えを一つももらっていないのに、なんだか一勝負負けた気がした。
後ろで、押し殺した、すごく大きな息をのむ音がした。透真がいつのまにか聞き耳を立てていた。ノートを握りしめて、眼鏡を光らせて、顔を真っ赤にしている。
「『びっくりした』」彼は声をひそめて言った。「朔、あいつ嘘ついてる。これ絶対伏線だ」
「あっち行け」
「行かない! 考察する!」
*
放課後、透真は百段坂のてっぺんで僕を待ちぶせていた。
「ちょっと待て、五分だけ」彼はノートを開いた。「東雲さんについて、今のところの考察をまとめた」
ページのタイトルは「焼きそばパン事件」。八時十二分、十二時二十五分、十二時四十一分。いくつかの時刻が縦に並んでいて、カルテのバイタルみたいだった。その下にこう書いてある。
考察一:パン工場に知り合いがいる。(朔)
考察二:パン工場から送りこまれたスパイ。
「この二つ、何が違うんだ」と僕は聞いた。
「二つ目のほうがかっこいい」
「スパイがなんで焼きそば入ってないって教えるんだよ」
「そこがスパイのうまいところなんだよ!」透真は眼鏡を押し上げた。「言っちゃいけないことほど、わざと言う。そうすれば誰もスパイだと疑わないだろ!」
「今まさにおまえが疑ってる」
「……それはあいつの計算外だ」
「あともう一つ」彼は声を落とした。「怖すぎて書けなかったやつがある」
「なに」
「パン工場の社長の娘」
僕は彼を見た。本気だった。
「透真」と僕は言った。「この中でどれがいちばんありそうか、わかるか」
「どれ」
「一つ目」
透真の顔がしぼんだ。結末を聞かされた読者みたいに。
「……いちばんつまんない考察じゃん」
「つまんない考察はだいたい当たってる」
「認めない!」彼はノートを閉じて胸に抱えた。「絶対考察してみせる。来週の『汐見新聞』のトップはこれだ。見出しももう考えてある」
「どんな」
「『焼きそばパンの予言』」
「僕の考察も載せるのか」
「載せる」彼は言った。「編集部コメント付きで。『つまらない』って」
新聞部っておまえ一人だろ、と言うと、一人でも新聞部だ、と返された。
帰りぎわ、彼はもう一度振り返った。
「そうだ朔、明日の放課後ひま? 新聞部の部室、こたつあるぞ」
「ひまじゃない。バイト」
「あさっては?」
「あさってもバイト」
「……おまえ、いつならひまなんだよ」
「火曜と木曜」
「じゃあ来週の火曜!」
「火曜はスーパーに行く」
透真は大笑いした。僕がすごくおもしろい冗談を言ったみたいに。それから手を振って、校舎に駆けこんでいった。彼は中学のあいだずっと僕に断られつづけてきたけれど、断られて傷ついたことは一度もない。たぶん彼は、僕の断りも考察の材料として集めているんだと思う。いつかそれで答えを組み立てられるように。
彼がいなくなってから、僕は坂の上に立って、下を一度見た。
下校する人の波が、一段ずつ下へ流れていく。運動部は一歩で二段、三年生はゆっくり歩いて、一年生はまだ振り返って海を見ている。
朝、靴箱の前で、彼女があの言葉のあとに止まった姿を思い出した。当てた人の顔じゃなかった。口をすべらせた人の顔だった。「透真」と呼んだあの声も、初めて話す同級生を呼ぶ声じゃなかった。
でも、口をすべらせるには、先に知っていなきゃいけない。そして人がどうやって先に知るのか、その問題はこれ以上掘っていくと、すごく大きくなる。
五時からバイトだ。僕はトートバッグを提げて、坂を下りた。




