焼きそばパンの予言(2)
次の日は土曜日で、毎月第二土曜日だった。
小田原中央病院の循環器内科は本館の二階にあって、待合には長椅子が四列ある。窓ぎわの列は日が当たり、壁ぎわの列は呼び出しの画面にいちばん近く、真ん中の二列はどちらでもない。遥は窓ぎわを「VIP席」、壁ぎわを「不安席」と呼んでいる。
「不安席に座ってる人はね」彼女は声をひそめて教えてくれた。「みんな初めて来た人なの。ずーっと画面見てるでしょ。自分の番号を見逃さないように」
「おまえは初めて来たとき、どこに座った」
「初めて来たとき、あたしはまだベビーカーだったもん」彼女はVIP席に座って、脚を伸ばした。「ベビーカーをどこに停めるかは、お母さんが決めたの」
九時半の予約は、だいたい十時十分に呼ばれる。遥の統計だ。彼女はいろんなものの統計をとっている。どの看護師さんが採血を一回で決めるか、どの自販機のホットココアがいちばん熱いか、土曜の午前の待合で平均何人が泣いていて、何人が寝ていて、何人がスマホを見るふりをしてほかの人をこっそり見ているか。
「今日は」彼女はぐるりと見回した。「泣いてる人ゼロ、寝てる人二人、こっそり見てるのは――」
「おまえだろ」
「あたしは統計をとってるの。統計はこっそり見るに入らないの」
呼ばれたのは十時八分だった。
主治医は桐谷先生という。五十代で、髪は半分白くて、すごく細い眼鏡をかけていて、話すスピードがいつも患者より一拍遅い。相手が先に緊張を使いきるのを待っているみたいに。遥は四歳のときからこの先生に診てもらっている。僕はその隣に十年近く座っていて、先生の白髪が四分の一から半分になるのを見てきた。
先生は血中酸素の記録ノートを見て、心電図を見て、聴診器で長いあいだ音を聞いた。聴診器は遥の胸に当てられていて、ボタンは一つだけ外してある。一つだけ。聴診器がちょうど入るぶんだけ。
「いいですね」桐谷先生は言った。「お薬はこれまでどおりで」
「先生」遥が言った。
「はい?」
「あたし、昨日で十五歳になったんです」
「おめでとう」
「ケーキを一切れ半食べました」
桐谷先生がこちらを見たので、僕はうなずいた。事実です、という意味で。
「いちごのやつです」遥がつけ加えた。「クリームたっぷりの」
「うん」桐谷先生はカルテに何か書いた。「誕生日ですからね」
「じゃあ先生」遥は少し身を乗り出した。「誕生日ってことで、コーラ一回だけ飲んでもいいですか?」
「ひと口」
「ひと口って、どれくらいですか」
桐谷先生は少し考えて、机の上にあった綿球用の小さな計量カップを手に取って、彼女の前にかかげた。
「このくらい」
遥はその計量カップをじっと見つめた。自分にとても冷たい世界を見ているみたいに。
「……これは試飲です」彼女は言った。「飲むとは言いません」
「では試飲で」桐谷先生はカップを戻した。「十五歳の試飲です。十六歳になったら、また相談しましょう」
「十六歳だとどこまで交渉できますか」
「この一年の成績しだいですね」
「お兄ちゃん」遥がこちらを向いた。「聞いたよね。これ、契約だから」
「聞いた」
「お兄ちゃんが証人ね」
桐谷先生が笑った。
*
薬局は一階で、土曜の午前は混んでいる。番号札をもらうと八十八番で、画面に出ているのは六十一番だった。
「二十七人」遥が言った。「一人平均二分として、五十四分」
「薬一種類だけの人もいるだろ」
「十何種類の人もいるよ。あたしとか」彼女は僕の肩にもたれた。「だから五十四分。これ以上は減らない。ちょっと寝る。呼ばれたら起こして」
彼女は眠った。病院だと、家にいるときより早く眠る。なんでなのか、僕はずっとわからないままだ。もしかしたら、ここでは何かが起きる心配をしなくていいからかもしれない。起きるかもしれないことには、ぜんぶここに担当の人がいる。
僕は座ったまま動かなかった。肩に十五歳の頭がのっている。画面の番号が一つずつ上がっていって、七十番台になったころ、スマホが震えた。
透真だった。
「朔! 来週の『汐見新聞』のトップが空いてる! なんかビッグニュースない!?」
返さなかった。肩の上の頭が少し動いたので、スマホを膝の上に伏せて、動かなくなるのを待ってから、またひっくり返した。
八十八番まで四十七分。遥の計算より七分少なかった。
起きた彼女の第一声はこうだった。
「計算まちがえた?」
「七分少なかった」
「それはあたしが寝てたから」彼女は目をこすりながら立ち上がった。「寝てるあいだは、時間が速く進むの。これは計算ミスじゃなくて、誤差っていうの」
*
月曜の朝、六時五十分、遥の部屋のドアが細く開いた。
すきまから手が一本出てきた。人差し指にパルスオキシメーターをはさんで、画面をこちらに向けている。身分証でも見せるみたいに。手にはあの指先の出る毛糸の手袋をはめたままだ。
「九十五」ドアのすきまが言った。
「脈は?」
「八十六。体重四十一・四、ケーキ後」
僕は冷蔵庫の横のノートに書きこんだ。このノートは六冊目で、どのページも同じ枠が並んでいる。日付、血中酸素、脈拍、体重、備考。備考欄はたいてい空っぽで、ときどき遥が自分で一行書いている。「今日のお兄ちゃんはうるさい」とか、「お寿司を食べる夢を見た、回らないやつ」とか。
すきまから頭が出てきて、ノートをのぞいた。
「お兄ちゃんの『5』、おじぎしてる人みたい」
「読めればいいんだよ」
「先生が読めなかったら、あたしの酸素がおじぎしてると思われちゃう」彼女は手袋の指でノートをつついた。「あとこの『4』、椅子が倒れてるみたい。お兄ちゃんの字って、数字になにか恨みでもあるの?」
「数字に恨みはない。朝の六時五十分に恨みがある」
「朝の六時五十分もお兄ちゃんに恨みがあると思うよ」頭が引っこんだ。「備考は『手袋あったかい、でもまだ四月』って書いといて」
僕はそのとおりに書いた。
*
汐見高校の靴箱は南校舎の一階にあって、朝の八時十分が一日でいちばん混む。何百足もの上履きと何百足ものローファーがここで入れ替わる。シフト表のない引き継ぎ現場みたいだ。
「朔! 朔朔朔!」
肩を手でばしばし叩かれた。何度も、だんだん強く。
八雲透真。同じクラスで、中学からの友だちだ。眼鏡をかけていて、新聞部に代々伝わる古いデジカメを首から提げていて、矢印だらけのノートをいつも手に持っている。スマホのバッテリーが二十パーセントを超えているのを見たことがない。本人いわく、彼のスマホは「ずっと働いてる」かららしい。
「できた!」彼はノートを僕の目の前にかかげた。「相関図、第二版! 週末に描き直したんだ!」
「おめでとう」
「だから昼は焼きそばパンを奪いに行ってお祝いする!」声が大きすぎて、二列向こうの靴箱まで聞こえていた。「おまえも来い!」
「弁当がある」
「俺が奪うところを見に来い!」
汐見高校の購買は北校舎の一階にあって、昼の十二時半に開き、五分で半分がなくなる。いちばん先に売り切れるのは決まって焼きそばパンだ。真ん中で割ったコッペパンにソース焼きそばをぎっしりはさんで、紅しょうがを少しのせて、百六十円。この学校でいちばんコスパがいいものだ。透真に言わせると、焼きそばパンは汐見高校の通貨で、これで宿題も、席も、人の秘密も買えるらしい。
通貨には興味がない、と言おうとしたとき、誰かが後ろを通った。
丸い眼鏡。眉にかかる前髪。首から提げた銀色のカメラ。東雲が上履きに履きかえて、僕らの横を通りすぎるところだった。透真はまだノートをかかげたまま、「焼きそばパン」と騒いでいた。
彼女は透真の前で止まった。通りすがりについ止まった、という止まり方じゃなかった。ここまで歩いてきて、最初から止まるつもりだった、という止まり方だった。僕のほうは見なかった。見たのは透真だった。
「透真」彼女は言った。「今日のあれ、焼きそば入ってないよ」
前半はすごく気安くて、ゆるかった。毎日会っている人に返事をするみたいに。後半は平らで、はっきりしていた。前から言うことを決めていたみたいに。
透真は口を開けたまま、ノートを宙に止めていた。
彼女も止まった。笑顔は顔に残ったまま、目だけが先に変わった。その顔は駅で見たことがある。人ごみの中で誰かの背中に声をかけて、振り向いたのが知らない人だったときの顔だ。
「……八雲くん」彼女は言いなおした。「勘だよ」
彼女はくるりと向きを変えて階段を上っていった。すごく速く、上履きのかかとがぱたぱた鳴った。
透真はまだノートをかかげていた。階段を見て、それから僕を見た。
「……透真って呼ばれた」
「おまえはもともと透真だろ」
「この学校で俺を透真って呼ぶのは、おまえだけなんだよ」声が少し浮いていた。「俺たちが話した言葉、合計ゼロだぞ。ゼロ! なのに透真って!」
「クラス名簿で見たんじゃないか」
「名簿には八雲って書いてあるんだよ!」
彼はノートを開いて、相関図のページの余白に一行書いた。すごくきちんとした字で。新聞部の習慣で、なんでも時刻を記録する。
08:12 東雲さん「透真、今日のあれ、焼きそば入ってないよ」
*
二年四組の教室は南校舎の四階にある。窓から外を見ると、小田原城の天守閣の屋根が見える。白い壁に黒い瓦で、朝の光の中だと開封したばかりのプラモデルみたいだ。始業式の日にはクラスの半分が写真を撮って送っていたけれど、次の日にはもう誰も見ていなかった。新入生が海を見る期限より短い。
東雲の席は窓ぎわの列の前から二番目だ。僕は廊下側の列の後ろから二番目。あいだに教室がまるごと一つある。
僕が教室に入ったとき、彼女はもう座っていた。温かいお茶の缶を両手で持って、窓の外を見ていた。カメラは机の端に置いてあって、レンズキャップがはまっていた。
彼女は僕を見なかった。
僕も彼女を見なかった。少なくとも、あからさまには。カバンを置いて、座って、一時間目の教科書を出して、それから目の端で一度確認した。彼女はまだ窓の外を見ていた。
金曜の夕方に「来年の今日、きみは死ぬよ」と言った人が、月曜の朝に靴箱の前で僕の友だちに焼きそばパンの話をして、それから教室ではあいさつ一つしない。医療的に言えば、これはインフォームド・コンセントの手続きとして重大な欠陥だ。リスクは告知したのに、説明もしていないし、署名ももらっていない。
透真が僕の後ろの席に座って、ノートを相関図のページにして、僕の机に押しつけてきた。
ページには名前と矢印がびっしり描いてあった。矢印には「幼なじみ?」「同じ塾」「LINE既読スルー(推定)」と書いてある。クラス全員の名前があって、ほとんどが矢印でつながって網みたいになっていた。一つだけ、窓ぎわの隅に描かれた名前があって、そのまわりにはどんな矢印もなかった。孤島みたいに。
その横に赤ペンで大きな「?」が書いてあって、その下にさっきの一行、08:12があった。
「あいつ、誰ともつながってないんだ」透真は声をひそめた。ぜんぜんひそめられていなかった。「始業から一週間、昼を一緒に食べたやつは一人もいないし、LINEを交換したやつも一人もいない。人と話しても二言より長くならない。なのにさっき俺に話しかけてきて、透真って呼んだんだぞ。これってなんだ?」
「パンについての一言だろ」
「伏線だよ!」
このクラスで、東雲はすぐに忘れられるタイプの人間だった。授業で当てられると立って、正解して、座る。答えはいつも一言だけ。昼休みは自分の席で一人でおにぎりを食べていて、休み時間にときどきカメラを出して、窓の外を一枚撮る。午前中に多くて一枚。撮り終わると、窓の外を長いこと見ている。さっきの一枚が自分で現像されるのを待っているみたいに。
金曜の夕方、あの踏切の向こうにいなかったら、たぶん僕は卒業まで彼女と二言目を交わさなかったと思う。
「透真」と僕は言った。「授業はじまるぞ」
「まだ話終わってない!」
「伏線って言っただろ」
「伏線のあとには回収があるんだよ! 回収は昼!」
担任が入ってきて、透真はしぶしぶ座りなおした。後ろでノートをめくる音がした。すごく大きな音で、まだ始まってもいない推理勝負のウォーミングアップでもしているみたいだった。
窓ぎわで、東雲がお茶の缶を置いた。午前中のあいだ、彼女は一度もこちらを見なかった。




