星占い相談室の予言(6)
その木曜、相談室を閉めたあとで、東雲が一つ発表をした。
「何か食べに行こう」
僕らは四人で北校舎の入口に立っていた。遥はリュックを背負っていて、星乃は観測記録のノートを抱えていて、僕はトートバッグを提げていた。東雲がいちばん前に立って、財布を握りしめていた。すごく大事な切符でも握るみたいに。
「何食べるの?」遥が聞いた。
「体にあんまりよくないもの」東雲は言った。
「なんで体によくないものじゃなきゃだめなの?」
「部活が終わったら」彼女は言った。「部活の人たちと、体にあんまりよくないものを食べに行くの。それが……」彼女は少し止まった。「それが、ふつうのことなの」
遥は彼女を見て、まばたきをして、それから力強くうなずいた。「そう! ふつうのことだよ!」
星乃は家で観測記録を書くから帰ると言った。遥は、観測記録は明日書けるけど、からあげは今日食べないと明日には冷めちゃう、と言った。星乃は、からあげと観測記録は比較できません、と言った。遥は、じゃあいっしょにできるってことだね、と言った。結局星乃は僕らについて百段坂を下りた。ずっと「わたしは同行するだけです。食事には参加しません」と言いながら。
城山のふもとに、何十年も続いている小さな店がある。コロッケとメンチカツとたこ焼きを売っていて、店の前にプラスチックのベンチが二つ置いてある。汐見高校の生徒は放課後、よくここに一列に並んで座っている。
東雲はガラスのショーケースの前に立って、長いあいだ見ていた。
品物を選んでいるというより、ちゃんと全部まだあるか確かめているみたいな見方だった。ひととおり見て、もう一度最初から見た。
「メンチカツ」彼女はやっと言った。「二つ」
「二つ?」
「一つはわたしの」彼女は言った。「もう一つもわたしの」
僕はコロッケを一つ頼んだ。遥もコロッケを一つ頼んで、僕を見た。
「塩」と僕は言った。
「わかってる」遥は言った。「半分だけ食べて、残りはお兄ちゃんにあげる。そしたら塩も半分でしょ」
星乃は食事には参加しないと言って、それからたこ焼きを一つ頼んだ。八個入り。八個がいちばん小さい単位なのであって、八個食べたいわけではない、と彼女は言った。
僕ら四人はあの二つのプラスチックのベンチに一列に並んで座った。日が暮れかけていて、店の明かりが僕らの手を照らしていて、紙袋はメンチカツの熱でやわらかくなっていた。
東雲がメンチカツをひと口かじった。
それから止まった。口をふくらませたまま、目の前の道路を見て、長いあいだ見ていた。ずっと聴いていなかった歌でも聴いているみたいに。
「熱い?」と僕は聞いた。
彼女は首を振って、噛み終えて、飲みこんだ。
「おいしい」彼女は言った。
彼女はすごくゆっくり、ひと口ずつ食べた。一つ食べ終えて、二つ目を手に取った。二つ目を半分食べたところで、彼女はこちらを向いて、僕が見ているのに気づいた。
「なに見てるの」
「なんでもない」と僕は言った。「初めてメンチカツ食べる人みたいな食べ方だなと思って」
「初めてじゃないよ」彼女は言った。「すごくひさしぶりなの」
「どのくらい」
彼女は少し考えた。
「すごく」彼女は言った。「この味だったのを忘れかけるくらい」
「このお店、四十年やってるんだって」遥が横で言った。口にコロッケを半分つめこんだまま。「お兄ちゃんも小学生のとき来てたんだよ」
「知ってる」東雲は言って、またひと口かじった。
どうして知っているのかは聞かなかった。遥はなんでもしゃべる。
星乃は一人で八個のたこ焼きを食べ終えて、食べ終えたあと、空の容器に向かってすごく真剣に言った。「このお店のたこ焼きのたこの含有量は、おおむね平均以上です」
「何等星?」遥が聞いた。
星乃は少し考えた。
「二等星です」彼女は言った。
「メンチカツは?」
「メンチカツは食べていません」
東雲が手に残った小さなメンチカツの半分から一切れちぎって、星乃の前に差し出した。星乃はそのメンチカツを見て、東雲を見て、長いあいだ迷って、最後に受け取って口に入れた。
「……一等星です」彼女は言った。顔が少し赤かった。
「へえ」東雲は言った。「じゃあ、わたしの信頼度は?」
「六等星以下です」星乃は言った。「肉眼では見えません」
遥が笑いすぎてベンチからずり落ちた。僕は彼女を引っぱり上げて、ついでに彼女のコロッケの半分も取り上げた。
帰るころには、すっかり暗くなっていた。
遥は星乃の腕に自分の腕をからめて前を歩いていて、いつもより足が速かった。星乃は引きずられながら、ずっと「朝凪さん、心拍数が」「朝凪さん、下り坂で膝にかかる負担は平地の四倍です」と言っていたけれど、遥は一言も聞いていなくて、どんどん速くなって、あっというまに僕らから通り半分ぶん離れた。
ゆっくり、と声をかけようとすると、東雲が隣で言った。
「行かせてあげて」
「あいつは速く歩いちゃだめなんだ」
「わかってるよ」東雲は言った。「わざとやってるの」
「わざと何を」
東雲は答えなかった。紙袋をすごく小さな四角にたたんで、リュックの横のポケットに押しこんでから、首からカメラを外して手に持った。
「朝凪くん、前は何を撮ってたの」
「遥が行けない場所」と僕は言った。「朝五時の城山とか、箱根の山頂とか、大涌谷の煙とか」
「今は?」
「今は何も撮ってない」
「どうして」
「今はそんなに時間がない」
彼女は何も言わなかった。僕らは街灯を一つ通りすぎて、また次の暗がりに入った。前で遥と星乃が角を曲がって、見えなくなった。
「じゃあ、わたしがきみを撮るね」彼女は言った。
「なんで」
「遥ちゃんが行けない場所、あんなにたくさん撮ったのに」彼女は言った。「写真の中に、きみは一回もいないでしょ」
彼女はカメラを構えた。僕が何か言う前に、シャッターが鳴った。すごく小さな音。カシャ。踏切のあの日と同じだった。
「街灯の下だと」と僕は言った。「光が硬すぎる。顔の影がすごく濃くなる」
「またわかるんだ」
「前に、ちょっとだけ」
「じゃあ今度教えて」彼女はカメラを下ろして、親指で巻き上げレバーを動かした。「一枚六十円。今日はきみに百二十円使っちゃった」
「一枚しか撮ってないだろ」
「踏切の日のぶんも入れて」
少し考えたけれど、言い返せるところが見つからなかった。僕らはもう少し歩いて、駅前の交差点まで来た。彼女は西へ、僕は東へ行く。
「東雲さん」
「ん?」
「今日のメンチカツ」と僕は言った。「すごく楽しそうに食べてたな」
彼女は交差点に立っていて、赤信号の光が眼鏡に映っていた。
「……わたしを好きにならないこと」彼女は言った。
「メンチカツの話をしたんだ」
「わかってる」彼女は言った。「念のため言っただけ」
信号が青になった。彼女は横断歩道を渡っていった。すごく速く。向こう側に着いても、振り返らなかった。
僕は交差点に立って、次の青信号を待った。トートバッグの横のポケットには、まだあの星柄の折りたたみ傘が入っていた。来週の木曜も雨だよ、と彼女は言っていた。
*
四月の最後の週、天文部の部室に一つものが増えた。ポスターだ。
ポスターは星乃が作ったもので、タイトルは「今月の星空」。毎月貼りかえて、部室のドアのあの看板の隣に貼る。これは天文部の伝統で、棚には歴代の先輩たちが作ったものが一枚残らずしまってあって、一か月も途切れたことがないのだそうだ。四月の一枚は、彼女が一人で作った最初の一枚だった。
五月の一枚は、彼女が週末をまるまる使って作った。紺色の地に、白い細いペンで五月二十日の夜九時の星空が描いてあった。星は明るさによって大きさの違う点で描かれていて、どの星座も点線で結ばれていて、横に名前と一行の小さな説明が書いてあった。
うしかい座。主星アークトゥルス、〇等星。オレンジ色。春の夜空でいちばん明るい星のひとつ。
おとめ座。主星スピカ、一等星。白色。地球からの距離は約二百五十光年。
彼女はポスターを貼って、二歩下がって、長いあいだ見て、また一歩前に出て、角を一つ押さえて平らにした。
次の日の朝、ポスターが変わっていた。
どの星座の説明の下にも、一行ずつ字が増えていた。鉛筆で、すごく薄く書いてあるのに、ひと目で見つかった。
うしかい座。主星アークトゥルス、〇等星。オレンジ色。春の夜空でいちばん明るい星のひとつ。
今月の運勢:告白日和。ラッキーアイテム:温かいお茶。
おとめ座。主星スピカ、一等星。白色。地球からの距離は約二百五十光年。
今月の運勢:二百五十年前の光が、今日やっと届く。あせらないで。
星乃はポスターの前に立って、手に消しゴムを持って、顔を真っ赤にしていた。
「これ、誰が書いたんですか」
僕はお湯をわかしていた。東雲はお茶を飲んでいた。遥はスマホを見ていた。すごく熱心に。
「これ、誰が書いたんですか」星乃はもう一度聞いた。声がもっと高くなっていた。
「筆跡鑑定」遥は顔も上げずに言った。「丸くて、ちょっと傾いてる」
全員が東雲を見た。
「わたしじゃないよ」東雲は言った。
「丸くて、ちょっと傾いてる」遥は言った。「天文部でそういう字を書くの、灯里さんだけだよ」
「遥ちゃんの字も丸いでしょ」
「あたしの字は平べったいもん」
「わたしの字、練習した?」
「するわけないじゃん」遥はやっと顔を上げて、すごく無邪気に彼女を見た。「あたしの字のほうが、灯里さんよりきれいだもん」
星乃は消しゴムを持ったまま、東雲を見て、遥を見て、ポスターを見た。最後に前に出て、「告白日和。ラッキーアイテム:温かいお茶」の一行を消した。おとめ座のところまで来て、手が止まった。
「二百五十年前の光が、今日やっと届く。あせらないで」
彼女はそれを一度読んで、消さずに、向きを変えてお湯をわかしに行った。お湯は僕がもうわかしていたのに。
*
その日の午後は、お客さんが来なかった。遥は保健室に呼ばれて月一回の面談に行っていて、透真は新聞部で原稿に追われていて、部室には星乃と東雲と僕しかいなかった。
星乃は観測記録を整理していた。僕は古い記録ノートを年ごとにファイルボックスに詰めるのを手伝っていた。これは自分から言い出したことだ。お湯をわかす仕事はもう終わっていて、僕は一か所に座って何もしないのに慣れていないから。
東雲は窓ぎわに座って、あの古いノートパソコンに向かっていた。
画面には、屋上の地震計から送られてくる波形が出ていた。細い線が一本、画面の左から右へゆっくり這っていく。たいていは平らで、ときどき一回ふるえる。ふるえはすごく小さくて、誰かがすごく遠くで机を軽く叩いたみたいだった。
「このふるえは」僕は星乃に聞いた。「なんなんだ」
「ほとんどは人です」星乃は顔を上げなかった。「下の階で誰かが歩いたり、ドアを閉めたり、城山の下の道をトラックが通ったり。地震計にはそれが何なのか区別できません。地面が一回動いた、ということしかわからないんです」
「じゃあ何の役に立つんだ」
「記録します」星乃は言った。「判断はしません。記録するだけです。判断するのは人の仕事です」
東雲はずっとその線を見ていた。
長いあいだ。僕が一年分の記録ノートを詰め終わっても、まだ見ていた。
その線は画面の上を跳ねながら進んでいった。平らで、一回ふるえて、また平らになる。一瞬、何かに似ていると思ったけれど、何に似ているのか思い出せなかった。あとで遥が面談から戻ってきて、ドアを開けて入ってきたとき、保健室の消毒液のにおいが少しして、やっと思い出した。
心電図に似ていた。遥の毎月の診察のときに、桐谷先生が印刷するあれだ。
ドアの音が聞こえて、東雲は画面から目を離した。立ち上がって電気ポットのそばへ行って、遥にぬるま湯を一杯ついだ。ちょうどいい量だった。半分で、熱くない。
「ありがとう」遥は言った。
「うん」
彼女は窓ぎわに戻って、もうあのパソコンを見なかった。




