星占い相談室の予言(7)
ゴールデンウィークの最終日、天文部はこの年の最初の観測会を開いた。
日にちを決めたのは星乃だった。ゴールデンウィークの最終日の夜は、街の人がみんな帰ってきて車が少なくなるので、光害が少し弱くなる。それにその日は新月の二日前で、月がすごく細くて、暗くなるとすぐに沈んでしまう。
問題は天気だった。
その日の朝の天気予報で、降水確率は四十パーセントだった。星乃がLINEのグループにすごく長いメッセージを送ってきた。雲画像と気圧と湿度を分析していて、結論は「観測会を実施するかどうかは、午後四時に改めて判断します」。そのあとに、いろいろな角度からの衛星画像のスクショが何枚も続いていた。
このLINEグループは遥が作ったもので、グループ名は「星占い相談室(天文部)」だった。星乃は何度も抗議して、括弧の中と外を入れかえるよう要求した。遥は、グループの最終決定権は作成者にある、と言った。
午後二時半、東雲がグループに一言送った。
「晴れるよ。傘じゃなくて、レジャーシート持ってきて」
星乃が返した。「降水確率四十パーセントです」
東雲が返した。「じゃあ六十パーセントは降らないってことだね」
星乃が画像を一枚送ってきた。統計学の教科書のスクショで、タイトルは「確率の誤った解釈」だった。遥はあの膝をついたうさぎを送った。僕は何も送らずに、トートバッグに傘を一本と、レジャーシートを一枚入れた。
四時、星乃がグループで宣言した。「雲画像によると、西の雲が晴れつつあります。観測会は予定どおり実施します」
そのあとに一言。「これは東雲先輩が正しかったということではありません。雲画像が正しかったということです」
*
冷蔵庫のドアに付箋が一枚貼ってあった。母さんが朝、仕事から帰ってきて書いたものだ。
遥:九時までに帰ること。
朔:遥を九時までに帰すこと。
二人に、一つのことを、別々に書く。これが母さんのやり方だ。
遥はすごく厚着をしていた。もう五月なのにマフラーを巻いて、あの指先の出る手袋をはめて、保冷バッグを背負っていた。中には彼女が午後に作ったおにぎりが入っていた。観測会には絶対おにぎりがなきゃだめ、天文部の伝統だから、と彼女は言った。星乃は、天文部にそんな伝統はありません、と言った。遥は、じゃあ今日からあることにする、と言った。
城山の観測場所は、天守閣の裏の空き地だった。星乃によると、ここは城山でいちばん光害が少ない場所で、まわりの木が街の明かりをさえぎってくれて、西のほうには広々と空が開けているのだそうだ。
着いたのは六時四十分で、太陽はちょうど沈んだところだった。西の空はまだオレンジ色で、上へ行くほど一段ずつ淡くなって、水色になって、それから濃い青になっていた。東の空にはもう星が一つ二つ見えていた。
星乃は僕らより先に来ていた。もう望遠鏡を組み立て終わっていた。部室のあの古い反射望遠鏡じゃなくて、ひとまわり小さい屈折望遠鏡で、新しそうに見えた。鏡筒にラベルが一枚貼ってあった。星乃恭一。
「これ、お父さんの?」遥が聞いた。
「……借りてきたんです」星乃は言って、それ以上は説明せずに、うつむいて接眼レンズを調整した。
彼女は一人ずつに赤い小さな懐中電灯を配った。「星図を見るときはこれを使ってください。白い光だと目がまた暗さに慣れなおさなきゃいけなくて、戻るのに二十分かかります。赤い光なら大丈夫です」
「なんで?」と僕は聞いた。
「人の目の桿体細胞は赤い光に鈍感だからです」彼女は言った。「だから天文学者はみんな赤い光を使うんです」
「じゃあ星占い師は?」東雲が聞いた。
「星占い師は」星乃は言った。「何色の光でもかまいません。どうせ星が見えなくても占えるので」
東雲は少し笑って、懐中電灯を受け取って、つけて、自分の顔を照らした。赤い光が下から照らして、彼女の顔は怪談でもしているみたいに見えた。遥はそれを見て、笑いすぎておにぎりを落とした。
*
七時十分、空はすっかり暗くなった。
星乃は望遠鏡のそばに立って、一つずつ星を指さして教えてくれた。
「あのすごく明るい、オレンジ色のが、アークトゥルスです。うしかい座の主星。〇等星」
「ポスターに、告白日和って書いてあったよね」遥が言った。
「ポスターには何も書いてありません」星乃は言った。「あの一行はもう消しました」
「書いてあった気がする」
「記憶はあてになりません」星乃は言った。「あてになるのは観測記録だけです」
彼女は望遠鏡を西の空に向けた。そこはすごく低くて、遠くの木の梢にほとんどくっつきそうなところで、星がいくつか集まって、少しずつ沈んでいくところだった。
「朝凪先輩」彼女は言った。「オリオン座です」
僕は歩いていって、腰をかがめて、接眼レンズに目を近づけた。
最初は何も見えなかった。真っ暗なだけだった。目を少しずらすと、見えた。三つの星が、すごく短い斜めの線に並んでいた。すごく明るくて、すごくきちんとしていて、誰かが定規で測ったみたいだった。
「それがベルトです」星乃が横で言った。「三つとも二等星です。左上の赤いのがベテルギウス、一等星で、もうすぐ死ぬ星です。あの光は、六百年以上前に出たものなんです」
「今もまだあるのか」と僕は聞いた。
「わかりません」星乃は言った。「もうないかもしれません。わたしたちが見ているのは、六百年前の姿だけなんです」
僕は接眼レンズから顔を上げた。肉眼で見ると、西の梢の上に、あの三つの星はまだあった。望遠鏡で見るよりずっと小さくて、ずっと暗かったけれど、並び方は同じくらいきちんとしていた。
もう少ししたら、木の向こうに沈んでしまう。
「早めに」星乃は言った。「って、言いましたよね」
「うん」
僕はもう一度接眼レンズをのぞいて、しばらく見ていた。三つの星は静かにそこにかかっていて、少しもまたたいていなかった。
「今夜はシーイングがいいです」星乃が言った。
「なんでわかるんだ」
「またたいていないからです」彼女は言った。「この前こんなに静かだったのは、二年前の冬でした。わたしが一人で、家の屋上で見たときです」
「一人で」と言うとき、彼女の口調はすごく平らだった。観測記録の日付を読み上げるみたいに。
「次の観測会は十月です」彼女は言った。「十月の夜は、オリオン座が東から昇ってきます。そのときは、最初から最後まで見られますよ」
十月。僕は頭の中でカレンダーを開いて、十月までめくった。十月のマスには、今は何も書いていない。少し考えて、心の中にすごく小さな「オ」の字を一つ書いた。
*
遥はレジャーシートに座っておにぎりを食べていた。望遠鏡からは少し離れて座っていた。
僕は歩いていって、隣に座った。彼女はおにぎりを一つくれた。鮭で、塩はすごく少なかった。
「先生が言ってるから」彼女は僕より先に言った。
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってた」
僕らは並んで座って、望遠鏡のほうを見ていた。星乃が東雲に別の星を指さしていて、東雲は腰をかがめて接眼レンズをのぞいて、長いあいだ見ていた。星乃は横で一言ずつ、すごく真剣に説明していた。東雲はずっと何も言わずに、ときどき一回うなずくだけだった。
「お兄ちゃん」遥が言った。
「なんだ」
「星乃さんってね」彼女は言った。「星の話をしてるとき、いつもの四倍しゃべるんだよ」
「四倍?」
「数えたもん」
僕は彼女を見た。彼女はおにぎりを噛みながら、あっちのほうを見ていた。星乃を見て、東雲を見て、もしかしたら何か別のものも見ていた。顔は遠くの街の明かりにほんの少し照らされているだけで、表情はよく見えなかった。
「寒いか」と僕は聞いた。
「寒くない」彼女は言った。「五月だもん」
*
八時二十分、星乃が望遠鏡を片づけはじめた。遥の門限は九時で、城山から家まで歩いて二十分以上かかる。下り坂の速さも考えると、もう出ないといけない。
東雲は彼女の三脚の片づけを手伝った。僕はレジャーシートをたたんだ。遥は横に立って保冷バッグを背負い、マフラーを引き上げて顔の半分を隠した。
星乃は接眼レンズを一つずつケースにしまっていって、最後の一つのところで少し止まって、小声で僕に言った。
「朝凪先輩」
「なに」
「東雲先輩がさっきずっと見ていたのは、ミザールとアルコルです」彼女は言った。「北斗七星の柄のところの星です。肉眼だと一つに見えて、望遠鏡だと二つに見えます。すごく近くに」
「ペアなのか」
「違います」星乃は言った。「くっついて見えるけど、本当は前後にすごく離れているんです。地球から見たときに、たまたま同じ方向に重なっているだけで」
彼女はケースのふたを閉めた。
「東雲先輩に聞かれたんです」彼女は言った。「あの二つは、自分たちでそれを知ってるのかなって」
「なんて答えた」
「星は何も知りません、と言いました」
「そしたら」
星乃は少し考えた。記録を一つ照合するみたいに。
「『なら、よかった』って」
彼女は接眼レンズのケースをカバンに押しこんで、立ち上がって、遥のマフラーを直しに行った。
最後のシートをたたんでいるとき、東雲が来て僕の隣に立った。
「きれいだった?」彼女は聞いた。
「オリオン座?」
「うん」
「よく見えなかった」と僕は言った。「低すぎて。それに何を見ればいいのかわからなかった」
「じゃあ、何を見てたの?」
少し考えた。
「きみたちを見てた」と僕は言った。「星乃が一つずつ説明してるのとか、遥が星乃のしゃべった量を数えてるのとか、きみが接眼レンズをのぞいたまま、ずっと顔を上げないのとか」
「……それ、観測会の正しい使い方じゃないよ」
「知ってる」僕はシートをトートバッグに押しこんだ。「東雲さん」
「ん?」
「なんでそんなに僕を天文部に入れたかったんだ」
彼女はすぐには答えなかった。西の空を見ていた。あの三つの星はもう木の向こうに沈んでいて、すごく深い青だけが残っていた。
「それはね」彼女は言った。「きみには、夜に病院じゃない場所が必要だから」
僕はトートバッグを持って、そこに立っていた。
彼女はすごく静かに言った。とても普通のことを言うみたいに。言い終わると、向きを変えて星乃の望遠鏡を運ぶのを手伝いに行って、僕を見なかった。
どうして彼女がそれを知っているのか、わからなかった。病院のことは話していない。面会時間のことも話していない。夜の七時より遅い時間に、病院でもコンビニでも家でもない場所に座って空を見たのが、もう二年ぶりだということも、話していない。
たぶん遥が言ったんだろう。遥はなんでもしゃべる。
振り返った。遥が少し離れたところに立って、マフラーで顔を半分隠して、こっちを見ていた。何も言わなかった。僕が振り返ったのに気づくと、目をそらして、もう何もない西の空を見た。
*
その夜、九時二分、遥のLINE。
「お兄ちゃん、いる?」
「いる」
「オリオン座、見えた?」
「見えた。星が三つ並んでた」
「それ、ベルトだよ」
「知ってる」
「知らなかったでしょ。星乃さんが四回言って、やっと覚えたじゃん」
「二回」
「四回。数えたもん」
うしろに、あの膝をついたうさぎが続いた。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「九時二分に帰宅、二分遅刻」彼女は言った。「お母さんには言わないで」
「冷蔵庫の付箋に書いてあるのは、僕の責任だ」
「じゃあ書かなきゃいいじゃん」
僕はスマホをテーブルに伏せて、冷蔵庫の横の記録ノートを開いて、今日のページの備考欄に一行書いた。「観測会。九時二分帰宅」
少し考えて、うしろにもう一言足した。「オリオン座を見た」
*
ゴールデンウィーク明けの最初の火曜、午後四時半、部室のドアがノックされた。
小林さんのようなかすかなノックじゃなかった。すごく大きくて、リズムのいい四回で、とっくに開けると決めていたドアをノックするみたいだった。
遥がドアを開けに行った。外には一人立っていた。眼鏡をかけて、首に古いデジカメを提げて、矢印だらけのノートを持っていて、スマホのバッテリーは十二パーセントだった。
「失礼します!」透真は背すじをぴんと伸ばして立っていた。「新聞部です。星占い相談室の取材に来ました」
彼の視線は遥を越えて、松竹梅のテーブルクロスがかかった机を越えて、東雲を越えて、僕のところで止まった。
「……それと」彼は小声でつけ足した。「ついでに、朔の様子を見に」




