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市影譚 ―怪異を解する―  作者: 宮城 歩


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閑話 ワトソン、募集していませんか?

 「市影譚について」というページを開いたのは、その日が初めてだった。


 相沢栞がこのサイトを見つけたのは、高校を卒業する少し前。


 それから何年も経っている。


 記事は読む。


 新しいものが出れば見るし、気になることがあれば過去の記事まで遡る。


 けれど、サイトそのものについて書かれたページまで読んだことはなかった。


 その日は、たまたまだった。


 記事を読み終え、何となく画面の一番下までスクロールする。


 そこに、


【市影譚について】


 という文字があった。


「こんなページあったんだ」


 押してみる。


 サイトを始めた理由。


 掲載している情報について。


 取材先への配慮。


 場所によっては、正確な所在地を公開しないこと。


 情報提供を受け付けていること。


 そんなことが簡単に書かれていた。


 何年も読んでいれば、記事の作りから何となく分かっていたことも多い。


 栞は流すように読み進めた。


 そして、ページの一番下で指が止まった。


【運営 市影譚編集室】


【所在地 M県S市】


「……え?」


 もう一度見る。


 M県。


 S市。


 知らない地名ではない。


 どころか、近い。


「S市……?」


 栞はそのまま、過去の記事を開いた。


 一つ。


 もう一つ。


 写真を見る。


 山。


 道路。


 海。


 防波堤。


 小さな集落。


 古いコンクリートの建物。


 以前から、ときどき思うことがあった。


 この景色、どこかで見たことがある気がする。


 市影譚では、取材場所をそのまま書かない記事がある。


 危険な場所。


 個人の土地。


 人が押しかければ迷惑になる場所。


 記事によっては、市町村名すら伏せられていた。


 だから、確信したことはない。


 それでも写真を見ていると、ときどき妙な既視感があった。


 山の形。


 道路脇の側溝。


 海沿いの防潮堤。


 集落の雰囲気。


 雪の残り方。


 東北のどこか。


 もしかすると、同じ県。


 そのくらいには思っていた。


 けれど。


【M県S市】


 その文字を知ってから過去の記事を見ると、今まで引っかかっていたものが一つずつつながっていく。


「……やっぱり、地元だったんだ」


 正確には、まだ分からない。


 事務所がS市にあるだけで、取材先まで近所とは限らない。


 県外の記事だってある。


 それでも。


 高校生の頃から読んでいた市影譚が、急に近くなった。


 画面の向こうにしかなかったものが、自分の生活圏とつながった。


 それが、妙に嬉しかった。


「これも……」


 別の記事を開く。


 見覚えのある景色が、さっきまでより増えたような気がする。


 たぶん、思い込みも混じっている。


 それでも楽しかった。


 そして、記事を遡っているうちに、別のことにも気づいた。


 取材へ行く。


 写真を撮る。


 人に話を聞く。


 資料を探す。


 必要なら、役所や施設の管理者にも確認する。


 文章を書く。


 サイトへ載せる。


 記事を読めば読むほど、そのほとんどを一人の人間が動いて作っているように見えた。


「……これ、一人でやってるのかな」


 運営者欄には「市影譚編集室」とある。


 けれど、記事から感じる人間の癖は、ほとんど同じだった。


 写真の撮り方。


 質問の仕方。


 文章の書き方。


 記事の最後に残す、少し距離を置いた結論。


「編集室って書いてるけど……」


 さらにいくつか読む。


 やはり、一人に見える。


「大変そう」


 その瞬間。


 転職活動中だった栞の頭に、妙な考えが浮かんだ。


 ――私なら。


 少しくらい、手伝えるんじゃないだろうか。


 工業高校を出た。


 そのあと看護学校へ進み、看護師免許を取った。


 病院で働いた期間は短い。


 その後も、いくつか違う仕事をした。


 事務。


 電話対応。


 接客。


 書類整理。


 車の運転もできる。


 普通の転職活動では、説明しにくい経歴だった。


 どうして工業高校から看護学校へ行ったのか。


 なぜ病院を辞めたのか。


 なぜ、その次の仕事も辞めたのか。


 一貫性がない。


 自分でもそう思う。


 けれど。


 毎回違う場所へ行く市影譚なら。


 ばらばらになっている自分の経験も、全部少しくらい使えるかもしれない。


「…………」


 栞は問い合わせフォームを開いた。


 求人は出ていない。


 スタッフ募集中とも書いていない。


 そもそも、本当に雇うような人間がいるのかさえ分からない。


 だから、正式な応募をするつもりはなかった。


 自分にできそうなことを、簡単に書いてみる。


 工業系の学校を出ていること。


 看護師免許を持っていること。


 事務や接客の経験があること。


 車を運転できること。


 記録や資料整理も手伝えると思うこと。


 詳しい職歴は書かなかった。


 名前も書かなかった。


 住所も。


 年齢も。


 返信用のメールアドレスだけ入力した。


 どうせ返事が来るとは思っていなかった。


 ただ。


 件名だけは、少し考えた。


【ワトソン、募集していませんか?】


「……何これ」


 自分で書いて、自分で笑った。


 一人で各地を調べて歩いている市影譚の運営者を、勝手にホームズ扱いしている。


 しかも、求人も出していないのに助手へ立候補している。


「さすがに変か」


 消そうと思った。


 けれど。


 さっき見つけた、


【M県S市】


 という文字が、まだ少し嬉しかった。


 遠くの知らない誰かではない。


 高校生の頃から読んできた文章を書いている人が、案外すぐ近くにいる。


 その人が、本当に一人でこれをやっているのなら。


 少しくらい話を聞いてみたい。


 その勢いのまま、


「……まあ、いいか」


 送信ボタンを押した。


【送信しました】


「あ」


 送ってから、急に恥ずかしくなった。


 件名をもう一度思い出す。


 ワトソン、募集していませんか?


「……いや、ないな」


 今さら取り消せない。


 栞はスマートフォンを伏せた。


 けれど、返事が来るとは本気で思っていなかった。


 だから、このときの栞にとっては。


 高校生の頃から抱えていた小さな疑問が一つ解けた記念に送った、少し変なメール。


 その程度だった。


 まさか、そのメールに返事が来るとは思っていなかった。

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