第一章 エピローグ
読み終えても、栞はしばらく画面から目を離せなかった。
文章は、そこで終わっていた。
写真はない。
録音もない。
ブルーシートに包まれていたものが何だったのかも、最後まで書かれていない。
灰島という男についても同じだった。
所属も。
目的も。
なぜ、あの山にいたのかも。
何一つ分からない。
分からないことばかりなのに、妙に具体的だった。
白い石灰。
消毒薬のような臭い。
獣が暴れた跡のない地面。
見た目より軽かった、細長い包み。
防護服のような白い服。
何台もの車と一緒に消えた人たち。
そして――。
『日本国 協力費』
六年前の桂一が、銀行口座で見たという文字。
栞はマグカップへ手を伸ばした。
すっかり冷めている。
一口飲む。
「……まず」
「ん?」
向かいのモニターから桂一の声がした。
「コーヒーが」
「そりゃ、だいぶ放置してたからな」
桂一はこちらを見もしない。
「コーヒーは淹れてから時間が経つと酸化も進むから、味が悪くなるんだよ」
「そうなんですか?」
「香りも飛ぶしな。冷めたコーヒーが全部まずいってわけじゃないけど、置きっぱなしはよくない」
「へえ」
栞はもう一口飲んだ。
「……知識を得ても、まずいものはまずいですね」
「それはそうだろ」
桂一が笑った。
いつものやり取りだった。
だから余計に、さっき読んだ文章との落差が気になった。
「桂一さん」
「ん?」
「これ、本当の話なんですか?」
マウスを動かす音が止まった。
桂一がこちらを見る。
何か説明するのかと思った。
けれど、何も言わずに立ち上がった。
「?」
部屋の端にある棚へ向かう。
下の方にある引き出しの前でしゃがみ、ポケットから鍵を取り出した。
鍵穴へ差し込む。
栞は椅子に座ったまま、その様子を見ていた。
「何ですか?」
「証拠になるかは分からないけど」
桂一が引き出しを開けた。
中を探す様子はなかった。
手を入れて、すぐに一枚の紙を取り出して、戻ってくると栞の前へ置いた。
「これって」
名刺だった。
六年前のものにしては、きれいに残っている。
手に取った。
書かれている文字は少ない。
中央に、
【灰島】
それだけ。
会社名はない。
肩書きもない。
住所もない。
メールアドレスもない。
その下に、ハイフンのない数字が並んでいる。
話を読んだ後なのもあるが、実際に見るとゾッとした。
「……本当に残してたんですね」
「捨てろとは言われなかったからな」
「掛けるな、でしたっけ」
「そう」
栞は数字を見る。
「これ、何なんですか?」
「電話番号……って言っていいのかな」
「へ?」
「少なくとも、この数字で着信は来る」
栞はもう一度、名刺を見る。
「これが?」
「うん」
普通の電話番号には見えない。
数字が、ただ並んでいるだけだ。
栞は指で追った。
「いち、に、さん……」
「おかしいよな」
「ちょっと待ってください」
最後まで数える。
念のため、もう一度。
「……十五桁ありますよ」
「あるね」
「あるね、じゃないですよ」
栞は自分のスマートフォンを見る。
「日本の携帯番号って、十一桁ですよね」
「これは普通じゃないからな」
「十五桁でも着信できるんですか?」
「知らない」
「調べなかったんですか?」
「調べたよ」
栞は顔を上げた。
「分かったんですか?」
「分からなかった」
「桂一さんが?」
「俺をなんだと思ってるの」
「分からないことがあると、とりあえず調べる人」
「それは合ってる」
桂一が少し笑った。
けれど、その笑い方がほんの少しだけ違って見えた。
栞は名刺へ視線を戻した。
六年前。
二十三歳だった桂一が、山の中で受け取ったもの。
それが今も、鍵の掛かった引き出しに保管されている。
「それから」
「ん?」
「かかってきたんですか?」
桂一が黙った。
ほんの一瞬だった。
それでも栞は見逃さなかった。
「まあ、それなりに」
「それなりに?」
「うん」
「連絡取ってるじゃないですか」
「俺から掛けたことはないよ」
「向こうから?」
「たまにね」
「何の用で?」
「いろいろ」
「いろいろって何です?」
「相沢」
「はい」
「その辺まで記事に書く?」
栞は口を閉じた。
逃げられた。
「……書きませんけど」
「なら、今回はそこまで」
桂一が名刺へ手を伸ばす。
栞は渡す前に、もう一度それを見た。
「この人、今も何者か分からないんですか?」
「分からないよ」
「六年も経ってるのに?」
「六年経ったからって、分からないものが分かるようになるとは限らないだろ」
「でも、連絡は来る」
「来る」
「仕事も?」
桂一は答えなかった。
その沈黙が、答えに近い気がした。
栞は名刺を返した。
桂一は受け取ると、また棚へ向かう。
鍵付きの引き出しを開ける。
名刺を戻す。
鍵を掛けた。
何事もなかったように、自分の席へ戻っていく。
栞は画面を見た。
【猟師の荷運びバイト】
高校を卒業する少し前に、市影譚を見つけた。
その頃はまだ、地方の妙な噂や不思議な出来事を一人で集めている、小さなサイトだった。
それから何年も読んできた。
今では、その運営者本人と三年間一緒に働いている。
それなのに。
こんな話があったことを知らなかった。
灰島という男がいたことも。
今も連絡が来ることも。
たぶん、まだある。
自分の知らないことが。
「桂一さん」
「今度は何?」
栞は少し考えた。
「桂一さんって、結局、二十歳くらいの頃って何してたんですか?」
今の桂一が二十九歳だ。
この話が六年前なら、そのさらに前、二十歳前後は何をしていたのだろうか。
「何って……」
桂一が眉を寄せた。
本気で考えている。
普通は考えなくても答えられる年齢だと思う。
少しして、
「学生だよ」
「それは分かります」
「じゃあ何を聞いてるんだよ」
「学生で市影譚を立ち上げたってことですか?」
「ああ」
桂一は椅子の背にもたれた。
「正確には、学生やりながら、興味が出たことを何でもやってみてたって感じかな」
「何でも?」
「サイト作ったり、文章書いたり、バイトしたり。面白そうだと思ったら、とりあえずやってみる」
「今とあまり変わらないですね」
「そうかもな」
「で、当たったのだけ残した?」
「そんな感じ」
桂一は少し考えてから続けた。
「何が自分に向いてるのか、当時は全然分からなかったからな」
「へえ」
「だから、とりあえずやる。合わなきゃやめる。面白かったり、仕事になったり、続けられそうなら残す。サイトもいくつも潰したよ」
「いくつも、ですか」
相変わらず、話の端々に聞き逃せない物語がある人である。
「それで今こうなったと」
「こうなったって何だよ」
「何屋さんか分からない人」
「失礼だな」
栞は笑った。
けれど、妙に納得した。
今の桂一が、最初から今の桂一だったわけではない。
あちこちに手を出して、失敗して、残ったものを続けた。
その一つが市影譚だった。
「俄然、興味が出てきたんですけど」
「何に?」
「昔の桂一さんにです」
「ろくなもんじゃないぞ」
「自分で言います?」
「言えるくらいには覚えてる」
桂一も笑った。
それから、モニターに残った古い原稿を見る。
少しだけ、表情が変わった。
「でもまあ」
「はい?」
「今思えば、『市影譚だけは続けよう』って思ったきっかけは、これだったのかもしれないな」
「この件が?」
「うん」
桂一は画面を見たまま言った。
「分からないまま終わったからな」
栞も画面を見る。
六年前の未公開原稿。
答えのないまま残された話。
「……それ、桂一さんには一番だめなやつですね」
「だろ」
佐原が六年前に言った言葉を、栞は知らない。
けれど、おそらく同じことなのだろう。
分からないまま終わるのが嫌い。
だから調べる。
記録する。
分からないことを、分からないまま残すためにも。
「じゃあ、次に灰島さんからかかってきたら教えてください」
桂一の手が止まった。
「関わらない方がいいこともあるよ」
「ここまで知ってしまったら、関わらない方が体に悪いです」
桂一がこちらを見る。
少しだけ呆れた顔をした。
それから笑った。
「そういうところ、相沢も大概だよな」
「誰の影響でしょうね」
「俺のせいにするなよ」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
栞も笑った。
そして、もう一度画面へ向き直る。
公開するなら、どこまで残すか。
何を削るのか。
六年前の桂一が公開しなかった話を、今の市影譚としてどう扱うのか。
考えることは多い。
けれど、一つだけ分かる。
この原稿を、そのまま公開することはない。
分からないことを、分かったようには書けない。
それは六年前の桂一も、今の桂一も変わっていなかった。
栞はマグカップへ手を伸ばす。
残っていたコーヒーを一口飲んだ。
「……やっぱりまずい」
「だから、淹れ直すって」
「お願いします」
桂一が立ち上がった。
「三温糖は?」
「いりません」
「美味いのに」
「ブラックでいいです」
桂一はコーヒーの準備をしながら言った。
「好きなように飲めばいいだろ。コーヒーなんだから」
「じゃあ、好きなようにブラックで飲みます」
「分かったよ」
やがて、いつものようにコーヒーの香りが事務所に広がった。
六年前の名刺は、再び鍵の掛かった引き出しへ戻った。
けれど。
六年前に閉じたはずの話は、もうそこには戻らなかった。




