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市影譚 ―怪異を解する―  作者: 宮城 歩


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閑話-1 求人のない面接

「……ワトソン?」


 そのメールを開いたのは、翌日の昼だった。


 市影譚には、いろいろな問い合わせが届く。


 自分の住んでいる地域に妙な場所がある。


 昔、こんな話を聞いた。


 この記事について、もう少し詳しく知りたい。


 逆に、これ以上詳しく書かないでほしい、という連絡が来ることもある。


 もちろん営業メールも混じる。


 桂一は時間があるときに、それらをまとめて確認していた。


 その中に、


【ワトソン、募集していませんか?】


 という件名があった。


 狙っているなら見事だ。


 そりゃまあ、目立つ。


 桂一は少し笑って、そのメールを開いた。


「募集してないけどね」


 独り言を言いながら開く。


 文章は短かった。


 以前から市影譚を読んでいること。


 最近、事務所がM県S市にあると知ったこと。


 自分も、それほど遠くないところに住んでいること。


 そして、自分にできること。


 工業系。


 看護師免許。


 事務。


 接客。


 運転。


 記録。


 資料整理。


 並べてみると、できることだけは妙に多い。


 しかし。


 名前はない。


 年齢もない。


 詳しい住所もない。


 履歴書もない。


「……なんだ、この人」


 もう一度読む。


 悪戯にしては具体的だった。


 求人への応募にしては、肝心なものが何もない。


 桂一はコーヒーを一口飲んだ。


 市影譚を一人で続けてきた。


 始めた頃とは違い、今では記事を読む人も、情報を送ってくる人も増えている。


 一人では手が回らなくなってきた。


 それ自体は、以前から感じていた。


 運転している間は記録ができない。


 誰かと話しながら、相手の表情を見て、その場で全てを書き留めることもできない。


 撮影に集中すれば、周囲への注意が薄くなる。


 一人で現場に入れば、自分が見たものが、そのまま唯一の記録になる。


 何より。


 一人で全部決めていると、自分の判断がおかしくなったときに、止める人間がいない。


 とはいえ。


 だから誰かを雇おう、とまでは考えていなかった。


 市影譚だけで、毎日決まった仕事があるわけでもない。


「ワトソンねえ……」


 件名をもう一度見る。


 少なくとも、こんな件名を付ける人間には少し興味があった。


 短い文章なのに、必要なことは入っている。読みやすい。


 しかも、場所が近い。


 遠方なら、この時点で話は終わっていただろう。


 同じ県内。


 事務所まで、それほど離れていない。


 実際、通える距離かもしれない。


「会ってみるくらいならいいか」


 返信欄を開いた。


『お問い合わせありがとうございます。


 ワトソンは募集していませんでしたが、少し興味があります。


 お近くにお住まいでしたら、一度お話ししませんか?』


 読み返す。


 そのまま送信した。


     *


 返事が来た。


 栞は三回読み直した。


「……本当に?」


 最初のメールを送ったときより困った。


 あれは半分、勢いだった。


 高校生の頃から読んでいた市影譚が、自分の地元に近い場所で作られている。


 それが分かって嬉しくなった。


 記事を見ているうちに、自分にも何かできるかもしれないと思った。


 それで送った。


 まさか、


『一度会いませんか。』


 と返ってくるとは思っていなかった。


 少し迷った。


 栞からすれば、今の市影譚は少し雲の上の存在だった。


 高校生の頃は、ちょっと面白い個人サイト。


 それが今では、かなり知られるサイトになっている。


 その運営者本人から『会いませんか』と言われたのだ。


 少しくらいミーハーな気持ちになってしまうのも、仕方がない。


 それでも、断る理由はなかった。


 栞は返信した。


 そこで初めて、自分の名前を書いた。


 相沢栞。


 二十四歳。


 何度かメールをやり取りして、会う場所が決まった。


 S市内の洋食店。


 昼。


 近い。


 それも、かなりだ。


 本当に事務所があるのなら、通える距離なのかもしれない。


 ただ、決まっているのはそれだけだった。


 面接とは書いていない。


 履歴書を持ってきてほしいとも言われていない。


 でも。


「……一応、持っていこう」


 何も持たずに行く勇気はなかった。


 自分で言うのもなんだが、なんとも勇気のないワトソンだった。


     *


 約束の日。


 栞は予定より早く店へ着いた。


 通路の陰で鏡を見る。


 髪。


 大丈夫。


 服。


 大丈夫。


 派手ではない。


 学生にも見えない。


 アイラインも薄くしているし、メイクは自然に見えるはず。


 ブラウスは色のついたものを選んだし、パンツもクリーニングから戻ってきたばかりだ。


 少なくとも、就活帰りの学生には見えないはず。


 たぶん。


 自分でも、少し舞い上がっているとは思う。


 でも、憧れていた人に初めて会うのだ。


 少しくらい、よく見られたい。


 履歴書もある。


 資格証のコピーまで持ってきた。


 必要ないかもしれない。


 それでも、何もないよりはいい。


 約束の時間より二十分ほど早く、店へ入った。


「こんにちは。『水野』という名前で予約されていると思うのですが」


 店員が確認し、奥の席へ案内してくれる。


 昔からある洋食店らしく、店内には少し懐かしい雰囲気があった。


 木目の濃いテーブル。


 少し色褪せたメニュー。


 昼前の店内には、まだ空いている席も多い。


 栞は案内された席へ座った。


 早く来すぎたかもしれない。


 座ってしまうと、急に緊張してきた。


 何を話せばいいのだろう。


 そもそも。


 自分は今日、何をしに来たのだろう。


 求人に応募したわけではない。


 でも、手伝えると書いた。


 相手は話を聞きたいと言った。


 採用面接なのか。


 ただの顔合わせなのか。


 分からない。


「相沢さん?」


 声を掛けられ、顔を上げた。


「え? あ、はい!」


 思ったより早い。


 二十分前に来ていてよかった。


 栞は慌てて立ち上がった。


 白いシャツ。


 ジャケット。


 ストライプのネクタイ。


 いかにも就職面接というほど堅くはないが、普段よりきちんとした格好なのだろうということは分かった。


 そして。


 思っていたより、若い。


「市影譚の水野桂一です」


「相沢栞です。今日はありがとうございます」


「こちらこそ。急に呼んでごめんね」


「いえ。私から送ったので」


「それもそうか」


 桂一が笑った。


 栞も、少しだけ笑う。


 水野桂一。


 二十六歳。


 高校生の頃から、文章だけは知っていた人。


 もっと暗い人物を想像していた。


 怪談や妙な噂を追いかけているのだから、無口で、近寄りがたい人かもしれない。


 そんなことを勝手に思っていた。


 ネット関係の人と聞いて、もっと身だしなみに無頓着な人を勝手に想像していた。


 まして、山や港まで自分で取材に行く人だ。


 作業着のまま現れるくらいでも不思議ではないと思っていた。


 けれど、実際の桂一は違った。


 白いシャツ。

 整えた髪。

 皺のないジャケット。


 派手ではない。

 ただ、人に見られることを意識している。


 そういうところは、素直に好印象だった。


 実際に会ってみると、普通に話しやすそうな若い男性だ。


 この人が、市影譚を一から作った人なんだ。


 高校生の頃から読んできた文章の向こう側にいた人が、今、目の前にいる。


 そう思うと、栞は少し胸が高鳴るのを感じた。


 桂一が向かいへ座る。


「それ、もしかして履歴書?」


「あ、はい」


「持ってきてくれたんだ」


「何も言われてないんですけど、一応」


「ありがとう。見てもいい?」


「もちろんです」


 差し出す。


「あ、ちょっと待って」


 桂一は受け取ろうと伸ばした手を止めた。


 そのままメニューへ向ける。


「その前に、何か食べようか」


「……はい?」


「昼まだでしょ?」


「まだですけど」


「俺も。好きなの頼んでいいよ」


「これって、面接ですよね?」


 桂一が少し考えた。


「面接にする?」


「私に聞かれても困ります」


「だよね」


 桂一も少し困った顔をした。


「求人出してなかったから、俺もこういう場合どうしたらいいのか分からなくて」


「すみません」


「なんで謝るの。面白かったから返事したんだよ」


「件名ですか?」


「ほぼ件名」


「忘れてください」


 恥ずかしさがこみ上げる。


 記念で送ったつもりが、こんなことになるとは全く思っていなかった。


「それは無理だって」


 栞はメニューを開き、少しだけ顔を隠した。


「決まった?」


「はい。ハンバーグにします」


「俺、オムライスにしようかな」


 桂一が店員を呼ぶ。


「オムライス、特大でお願いします」


 栞は顔を上げた。


「特大?」


「うん」


「食べられるんですか?」


「腹減ってるから大丈夫」


「すごいですね」


 注文を終える。


 栞は改めて履歴書を差し出した。


「どうぞ」


「ありがとう」


 桂一が開く。


「相沢栞さん。二十四歳」


「はい」


 視線が下へ動いた。


「工業高校」


「はい」


「……看護学校?」


「はい」


「看護師免許あるんだ」


「持っています」


「へえ。メールではざっくり見てたけど、改めて見ると面白いね」


 栞は身構えた。


 来る。


 どうして工業高校から看護学校へ進んだのか。


 どうして病院を一年も経たずに辞めたのか。


 その後も、なぜ職場が変わっているのか。


 何度も聞かれてきた。


 だから、答えも用意している。


 しかし。


「工具は?」


「……はい?」


「工業高校なら、多少触ったでしょ」


「ああ。普通のものなら」


「テスター使える?」


「授業では使いました。でも、もうかなり忘れてます」


「図面は?」


「簡単なものなら読んでました」


「機械と電気なら、どっちが得意?」


「得意って言えるほどでは……」


「じゃあ、触ったことはある?」


「あります」


「十分」


 桂一の視線が次へ移った。


「看護師なら応急処置は?」


「基本的なことなら。ただ、病院で働いた期間は短いので、何でもできるわけではありません」


「うん。それでいい」


「いいんですか?」


「できないことを、できるって言われる方が困るから」


 さらに下を見る。


「事務もやってるね」


「はい」


「Excel?」


「使えます」


「電話対応」


「大丈夫です」


「接客」


「できます」


「運転」


「できます」


「山道」


「普通の道なら」


「初対面の人」


「仕事なら話せます」


「血」


「平気です」


「虫」


「種類によります」


「死んだ動物」


 栞は少し考えた。


「たぶん、大丈夫です」


「生きてるイノシシ」


「それは嫌です」


「俺も嫌だよ」


 思わず笑った。


「水野さん、平気そうなのに」


「平気と好きは違うだろ」


 なんというか、この人は人の警戒を解くのが上手い。


 栞は、そんなことを思った。


 見た目がいいからでも、話し方が柔らかいからでもない。


 たぶん、いろいろな人と会って、いろいろな場所で話してきた、その積み重ねなのだろう。


 そういう、人としての慣れのようなものを、栞は何となく感じていた。

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