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市影譚 ―怪異を解する―  作者: 宮城 歩


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7-8 足を引くもの


 老女の言葉を受け、宮司は傷んだ阿形を見上げた。


「分かりました。修繕については、祭りが終わり次第、石材店へ相談します」


「お願いしますよ」


「人形の方も、こちらで整理しましょう」


 宮司は狛犬の裏へ回り、並べられた犬たちを確認した。


「壊れているものや、汚れがひどいものは、奉納品として神社でお預かりします。布や木のものはお焚き上げに回し、それ以外のものも、お清めをしてから適切に納めます」


「捨てるわけではないんですね」


 老女が念を押す。


「はい。これまで石段を守ってくれたものですから」


 その答えに、老女は満足そうにうなずいた。


「比較的新しいものは、こちらへ残してもいいでしょうか」


 相模が尋ねる。


「ええ。ただ、今のままでは風で飛ばされますし、釘や石で固定するのも危険です」


 宮司は阿形の台座脇を見回した。


「雨風を避けられる小さな台を用意します。人形を置く場所だと分かるようにしておけば、勝手に奥へ入り込む方も減るでしょう」


「ちょっとした祭壇のような形ですか」


「そこまで立派なものではありませんが、奉納場所として整えたいと思います」


「それなら、あたしも安心ですよ」


 老女が答えた。


「噂については、こちらでも説明を出します」


 宮司は、栞のスマートフォンに表示されたコメントを見た。


「狛犬の裏に怖い人形がある、という話ではなく、祭りの無事と、石段で誰も転ばないことを願って置かれた犬だと」


「こちらの記事でも、そのようにまとめます」


 相模が言う。


「怪異として煽るおつもりではなかったのですか?」


 宮司が尋ねると、相模はわずかに首を傾けた。


「理由が分かったものを、分からないふりで書くつもりはありません」


「相模さんでも、そういう判断をするんですね」


 桂一が言う。


「水野さんは、私を何だと思っているのですか」


「締切前には、使えるものを全部使う人です」


「それは先ほど認めましたが、使い方は選びますよ」


「『と~ほくでアソボ!』の方も、記事を更新します」


 桂一は石段脇の舗装路へ目を向けた。


「人形の経緯だけでなく、途中まで車で上がれることや、脇の駐車場についても詳しく載せます。石段を上るのが難しい人には、その方が役に立つでしょうから」


「お願いいたします」


「相沢、観光部門担当窓口として頼むな」


「まだ、その役職は続いていたんですか?」


「宮司さんへ紹介した以上、急にはなくせないだろ」


「なくしてもらっても困りますけど」


 栞が答えると、桂一が笑った。


 話がまとまったところで、老女は新しく置いた薄茶色の犬をもう一度撫でた。


「それじゃあ、今年も頼んだよ」


 阿形と、その後ろに並ぶ犬たちへ声を掛ける。


 それから宮司へ頭を下げ、手すりにつかまった。


「お送りしますよ」


 宮司が言う。


「大丈夫ですよ。ここは何十年も上り下りしてますから」


「ですが、石段ですし」


「急がなければ平気です」


 老女はそう言って、一段ずつ下り始めた。


 先ほど上ってきた時と同じように、その足取りはおぼつかない。右手で手すりを握り、片足を下ろしてから、もう片方の足をそろえる。


 栞は少し心配になり、その後ろ姿を見守った。


 数段下りたところで、老女の足が止まった。


 何かを聞いたように顔を上げる。


 それから、ゆっくりと栞の方を振り返った。


「どうしましたか?」


 栞が尋ねる。


「なんも」


 老女は首をかしげた。


「空耳かね」


「何か聞こえたんですか?」


「犬の声がした気がしたんだけどね」


 辺りに犬の姿はない。


 木々の間から聞こえるのは、葉が擦れる音と、遠くを走る車の音だけだった。


 老女は気にした様子もなく、再び石段を下り始めた。


 栞の後ろには、口を開いた阿形の狛犬がいる。


 それが妙に気になり、栞は一度だけ振り返った。


 石の狛犬は、先ほどと変わらず石段の下を見据えていた。


「では、私は社務所へ戻ります」


 宮司が言った。


「祭りの準備もありますので、残りの確認が終わりましたら、声を掛けてください」


「分かりました」


 桂一が答える。


 宮司が石段を上り始める。


 相模も録音機を確かめながら、その後へ続いた。桂一は阿形をもう一枚撮影してから、二人を追う。


 栞だけが、まだ老女を見送っていた。


「相沢、行くぞ」


「あ、はい」


 すでに数段上っていた桂一に呼ばれ、栞は慌てて振り返った。


 右足を一段上へ載せる。


 踏み込んだ瞬間、靴底が後ろへ滑った。


「きゃっ」


 足だけを強く引かれたように、体が前へ傾く。


 咄嗟に手を伸ばしたが、届く場所に手すりはない。


 膝が石へぶつかる。


 そう思った瞬間、何かが右の足首へ触れた。


 柔らかな毛の感触だった。


 下から足首を押し上げるように支えられ、滑った右足が一段下で止まる。


 栞は両手を石段へつき、どうにか転倒を免れた。


「相沢!」


 桂一がすぐに駆け下りてきた。


「大丈夫か?」


「はい。転んではいません」


「足は?」


「痛くないです」


 桂一は栞の腕を取り、ゆっくり立たせた。


 相模も数段上から戻ってくる。


「何かに躓きましたか?」


「いえ。右足が、急に後ろへ滑って……」


 栞は自分の足首を見た。


 パンツの裾と靴の間に、わずかに肌が出ている。


 先ほど触れた感触は、そこに残っている気がした。


「誰かに引かれたような感じでしたか?」


「それは確かに感じた気がしますが」


 栞が少し悩む。


「それより……」


 阿形を見ていう。


「下から支えられたような気がします」


「支えられた?」


「毛のようなものが、足首に触れました」


 三人とも黙って周囲を見回した。


 犬はもちろん、小動物の姿もない。


 桂一は、栞が足を載せた段へしゃがみ込んだ。


 石段の中央から少し右へ寄った場所に、周囲とは違う形の石が埋まっている。


「これか」


 直径は十センチほど。


 石段の中に、丸い石の一部だけが顔を出していた。何度も踏まれてきたためか、表面は周囲より滑らかになっている。


「丸いですね」


 栞も覗き込む。


「さっき下りた時には気づかなかったな」


「石の色が周囲とほとんど同じですからね」


 相模は録音機をしまい、代わりにカメラを取り出した。


 桂一は自分の靴底を確認する。


 境内や狛犬の裏を歩いたため、細かな砂が付着していた。


「少し離れててください」


 桂一は一度立ち上がり、丸い石へ意識して右足を載せた。


「危なくないですか?」


「滑ると分かってれば、すぐに足を下ろせる」


 手すりへ手が届く位置に立ち、ゆっくり体重を掛ける。


 次の瞬間、桂一の右足が勢いよく後ろへ滑った。


 すぐに手すりをつかんだものの、靴だけが一段下へ落ちる。


「本当に引かれたみたいですね」


 栞が言う。


「靴の裏についた砂と、この丸みだな。上から踏むと、後ろへ力が逃げる」


 桂一は丸い石の表面を指でなぞった。


「雨で濡れたり、祭りの前で人の出入りが増えたりすれば、ここを踏む人も増える。原因の一つにはなっていそうだ」


 相模は、丸い石をじっと見つめていた。


「どうしたんですか?」


 栞が尋ねる。


「これは、球状コンクリーションか、ノジュールと呼ばれるものではないでしょうか」


「ノジュール?」


「地層の中で、特定の成分が集まってできた硬い塊です。周囲より硬いため、こうして丸い形だけが残ることがあります」


 相模は石段へ顔を近づけた。


「川原で、丸い石を拾ったことはありませんか。割ると中から化石が出てくることもあります」


「相模さんも割ったことがあるんですか?」


「子どもの頃は、見つけるたびに大きな岩へぶつけて割っていました」


「昔からやっていることが変わりませんね」


 桂一が言う。


「今は、割る前に写真を撮るようになりました」


「少しは成長してますね」


 相模は丸い石へカメラを向けた。


 何枚か撮影してからも、まだ石を見つめている。


「もしかしたら、この石の中に犬に関連する化石があるとか。そうした不思議があれば、記事が盛り上がりそうだと思ったのですが」


「割らないでくださいよ?」


「割って何も出なければ、ロマンまでなくなりますからね」


 相模は別の角度からシャッターを切った。


「謎のままにしておきましょう」


 夢中になって撮影を続ける相模の横で、栞はもう一度右の足首へ触れた。


 指先に、何か細いものが当たる。


 摘まみ上げると、一本の毛だった。


 白い毛の先だけが、微かに茶色がかっている。


 どう見ても、人の髪ではない。


「あの、これ」


 小さな声で桂一を呼ぶ。


 桂一は栞の指先を見て、驚いたようにわずかに目を開いた。


 それから阿形の狛犬へ目を向け、なぜか眩しそうに目を細める。


 相模はまだ丸い石の撮影に夢中だった。


 桂一は口元へ指を当て、栞にだけ聞こえる声で言った。


「財布にでも入れときな」


 秘密にしておけ、ということらしい。


 確かに、相模が知れば記事に書きたがるかもしれない。


 だが、白い毛が残っていたとなれば、犬を探すために石段へ来る人も現れるだろう。


 栞はメモ帳から一枚紙を抜くと、毛をなくさないように包んで財布へ入れた。


 物理的には、丸い石を踏んだせいで滑ったのだと思う。


 それでも、転ばずに済んだ理由までは説明できない。


 栞は阿形の狛犬に向き合い、感謝の気持ちで少しだけ頭を下げた。


 今なら、あと一往復くらいは平気で歩けるような気がした。


「相沢、今度こそ行くぞ」


「はい」


 桂一たちの後を追おうと、石段へ足を掛ける。


 その時、背後で犬が一度だけ吠えた。


 栞は振り返った。


 阿形の口は開いたまま動かない。


 石段の下にも、木々の間にも、犬の姿はなかった。


 ただ、その一声は誰かを脅かすものではなく、これから人が通る道を清め、足元へ気づかせるための声だったように思えた。


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