7-7 四本の足
老女の言葉に、栞は阿形の裏を振り返った。
「あれを、全部ですか?」
「そうですよ。ずいぶん増えましたけどね」
老女は手提げ袋を開き、中から新しいぬいぐるみを取り出した。
薄茶色の犬だった。
垂れた耳に、丸い目。首には赤い布が巻かれている。最近の子ども向けアニメに出てきそうな、随分と愛嬌のある顔だった。
「今日は、その子を置きに?」
栞が尋ねる。
「お祭りが近いですからね。今年も誰も怪我をしないで、無事に終わりますようにって」
老女はぬいぐるみの頭を撫でた。
「毎年、祭りの前に来られているのですか?」
相模が録音機を持ち直す。
「お話を記録してもよろしいでしょうか。お名前は出しませんので」
「記録?」
老女は相模のサングラスを見たが、特に何かへ気づいた様子はなかった。
「こんな話でよければ、構いませんよ」
「ありがとうございます」
相模が録音機のスイッチを入れる。
「人形を置き始めたのは、いつ頃からでしょうか」
「三十年くらい前だったと思います。最初は、うちの息子が子どもの頃に持っていた犬でした」
「三十年前から?」
栞は、狛犬の裏へ並ぶ人形を見た。
どれも同じ時期に置かれたものではないと思っていたが、それほど長く続いているとは予想していなかった。
「その後は孫のものをもらって、今はひ孫ですね」
老女は手にしたぬいぐるみを見せる。
「この子も、ひ孫が持っていたものです。新しい犬を買ってもらったら、もう遊ばなくなったそうで」
「それで、置かれている犬の種類が違うのですね」
相模が言う。
「昔は、陶器や木の置物が多かったんですよ。孫の頃から、ぬいぐるみや漫画の犬が増えましたね。子どもが好きになる犬も、時代で変わるんでしょう」
栞は、石を載せられた白いぬいぐるみへ目を向けた。
「この白い犬は、少年漫画のキャラクターだそうですね」
「ああ、それは孫のですね。随分気に入っていたんですよ」
老女が笑う。
「ここは雨も風も当たりますからね。毎年見に来るたび、少しずつ汚れていきます」
「どうして、人ではなく犬なのでしょうか」
相模が尋ねた。
「犬は足が四本あるでしょう」
老女は、当たり前のことを説明するように答えた。
「人より足が多いんだから、転びにくいと思って」
「転びにくいから、石段で人を守ってもらう?」
「ええ。二本の足より、四本の方が踏ん張れるでしょう」
理屈として正しいのかは分からない。
それでも、老女は少しも疑っていないようだった。
「こちらの狛犬だけに置いているのにも、理由がありますか?」
相模が阿形を見上げる。
「息子が、こっちの犬に助けてもらったと言ったからですよ」
老女も、口を開いた狛犬へ顔を向けた。
「三十年ほど前、息子が石段から落ちたんです」
「落ちた?」
栞が聞き返す。
「祭りの前でした。友達と石段を走っていて、足を滑らせたそうです」
老女は石段の下を見た。
「家へ帰ってきた時は、膝も肘も血だらけでね。でも、何段も転がったのに、骨も折れていなかったんです」
「この踊り場の近くですか?」
「そう聞いています。息子は、落ちている途中で白い犬が体を押さえてくれたと言っていました」
栞は阿形を見上げた。
長い年月で黒ずんだ石の狛犬が、口を開けたまま石段の下を見据えている。
「それが、こちらの狛犬だったと?」
「息子がそう言ったんですよ」
「実際に、犬がいた可能性はありませんか?」
桂一が尋ねた。
「この辺りには、昔から犬を飼っている家もありますよね」
「それは分かりません。ただ、息子は、こっちの狛犬が下りてきたと言い張ったんです」
老女は笑った。
「子どもの言うことですからね。転んで驚いて、夢でも見たのかもしれません」
「信じてはいないのですか?」
栞が尋ねる。
「本当かどうかなんて、どちらでもいいんですよ」
老女は穏やかに答えた。
「息子が大きな怪我をしなかったのは本当ですから。助けてもらったと思った方が、ありがたいでしょう」
最初に置いたのは、息子が持っていた小さな犬の置物だったという。
一体では狛犬を手伝い切れない気がして、翌年も一体。その次の年にも、また一体。
孫が生まれてからは、いらなくなった犬のおもちゃをもらうようになった。
今では、ひ孫が遊ばなくなったものまで回ってくる。
「人形の足が傷んでいるのは、置く前からですか?」
相模が尋ねた。
「いいえ。ここへ持ってくる時は、ちゃんと足が付いてますよ」
老女は阿形の裏を覗き込んだ。
「でも、なぜか足から傷んでいくんです。雨水が下に溜まるからだと思いますけどね」
「こちらの狛犬も、足の損傷が目立ちます」
「そうでしょう」
老女の声に、少しだけ不満が混じった。
「前より、ずっとひどくなりました。早く直してあげればいいのに」
老女は新しいぬいぐるみを、阿形の裏へ置こうとした。
しかし、手を離すと斜面の方へ倒れてしまう。
もう一度起こし、平たい石を背中へ載せた。
「古い人形は、釘で留めてありますね」
桂一が言う。
「昔は、釘を打っていたんですよ。風で飛ばされないように」
「今は石を載せているんですか?」
「もう、釘を打つ力もないですからね」
老女は立ち上がり、膝についた土を払った。
「最初に置いた時は、神社の方へ許可を取りましたか?」
桂一が尋ねる。
「お願いしましたよ。宮司さんに、事情を話しました」
「今の宮司さんですか?」
「ええ。ずっと同じ方でしょう」
栞は桂一と顔を見合わせた。
今の宮司が三十年前から務めていたようには見えない。
「一度、確認してもいいですか?」
「どうぞ。宮司さんなら知っていますよ」
桂一はスマートフォンを取り出し、先ほど教えられた社務所の番号へ電話をかけた。
事情を簡単に説明すると、宮司はすぐに石段まで来てくれるという。
数分後、上から宮司が下りてきた。
老女は、その顔をじっと見る。
「ありゃ?」
首をかしげ、目を細めた。
「ずいぶん変わらないんだね」
「えっと、私は息子です」
宮司が困ったように答える。
「ん? ああ、そりゃそうか」
老女は納得したようにうなずいた。
「前の宮司は、私の父です」
「そうでしたか。顔がよく似ているから、分からなかったですよ」
宮司は阿形の裏へ並ぶ人形を見た。
「これを置く許可を、父が?」
「そうですよ。三十年くらい前にお願いしました」
「私は何も聞いていませんでした」
「そんな昔の話、わざわざ息子に引き継がないでしょう」
老女は悪びれる様子もない。
宮司は返す言葉を探すように、阿形と人形を見比べた。
「最近、狛犬の裏に人形があるという話が、少し噂になっているようです」
栞がスマートフォンを見せる。
「怖かったとか、触らない方がいいと聞いたという投稿がありまして」
「怖い?」
老女は目を丸くした。
「犬しかいないのに?」
自分が噂の原因になっているとは、まったく考えていなかったらしい。
「こうして理由を知らずに見ると、少し驚く方もいると思います」
「そうなの。毎年一体ずつだから、あたしは気にしたことがなかったですよ」
「置いた本人には、増えている感覚が薄いのでしょうね」
相模が小さな声で言った。
宮司はしばらく考えたあと、老女へ頭を下げた。
「父が許可したものなら、こちらで勝手に処分はしません。ただ、釘や石で固定する方法は危ないので、今後はこちらで置き場所を整えます」
「そうしてもらえると助かります」
「狛犬の修繕についても、祭りが終わりましたら石材店へ相談します」
老女は、足の崩れた阿形を見上げた。
「ちゃんと直してあげてね」
「はい」
「頑張ってくれているんだから」
老女は阿形の前脚へ、触れないように手を添えた。
「あたしも、もう年だし、ちょこちょこ来られないんですよ」
そして、その裏へ並んだ犬たちを見る。
「人形なんかじゃ、かばい切れないんだから」




