7-6 狛犬
三人は、石段を下り始めた。
登る時は感じなかったが、上から見下ろすと、鳥居のある正門までがひどく遠く感じられる。
二百段を超える石段は、数十段ごとに踊り場を挟みながら、山の斜面に沿って続いていた。両脇には背の高い木々が並び、枝葉の隙間から差し込む光が、石の表面へまだらな影を落としている。
「上る時は、許可を取る前だったからな。普通に歩いただけ」
桂一は一段下りるたびに、足元へ視線を落としていた。
「さっきも、結構見てましたよね」
栞が言う。
「普通の人より、少し丁寧に歩いた」
「普通に歩いただけではなかったんですね」
「転びやすい石段だと聞いてるんだから、見るくらいはするだろ」
桂一はしゃがみ込み、石段の表面へカメラを向けた。
相模はその横を通り過ぎてから、数段下で振り返る。
「私は、あと一往復で終わりにしたいですね。昨日もかなり歩いたので、実は足が棒になりそうです」
「旅館で大きなマグロのカマを食べた人とは思えませんね」
「食事で回復するのは空腹です。足の疲労ではありません」
下り始めて間もなく、石段の状態に違いがあることが分かった。
表面が平らな石もあれば、中央だけがわずかに沈んでいるものもある。角が丸く削れたものや、ひびへ補修材が入れられたものもあった。
ただし、歩くことが危険に思えるほど荒れてはいない。
苔は石段の端に少し生えている程度で、人が通る中央部分はきれいに掃かれていた。落ち葉もほとんどない。
桂一は石段の全体と、気になる箇所を交互に撮影する。
相模は録音機へ、石の状態や周囲の様子を吹き込んだ。
栞は二人の少し後ろを歩きながら、バインダーへ書き留めていく。
「晴天。路面は乾燥。目立った苔や落ち葉はなし」
相模が録音する。
「古い石段ではありますが、管理状態は良好ですね」
「少なくとも、今日の状態なら、普通に歩いて何度も転ぶようには見えないな」
桂一が答えた。
「先ほどの男性は、荷物も持たず、乾いた石段で転んだそうですが」
「本人も、どの段だったかまでは覚えていませんでしたからね」
栞は足元を確かめながら、一段ずつ下りた。
自分たちが歩いてきた時も、危険だと感じる場所はなかった。
「お祭りの前にまく塩は、関係あるんでしょうか」
「可能性はあるけど、まだ分からないな」
桂一が答える。
「大量にまけば滑るかもしれない。ただ、神輿の道を清めるための塩なら、石段全体が白くなるほどまくとは思えない」
「実際にまくところを確認したいですね」
相模が言う。
「宮司さんにも聞いてみますか?」
「後でな。まずは、現場を見てからだ」
一つ目の踊り場には、石造りの灯籠が一対置かれていた。
桂一は灯籠の周囲と、次の石段の始まりを撮影した。相模は踊り場の端まで歩き、脇道や斜面の状態を確かめる。
「この辺りではなさそうですね」
「男性が言っていたのは、狛犬の近くだからな」
三人は、さらに下りた。
石段の途中からは、木々の隙間を通して市街地の屋根が見える。風が吹くたびに枝葉が揺れ、その向こうで光が瞬いた。
栞は時折立ち止まり、後ろを振り返った。
上る時には、長い階段という印象しかなかった。こうして調べながら歩くと、石の形も、脇道の位置も、踊り場ごとの広さも少しずつ違っている。
「こういう調査って、もっと機械を使うものだと思ってました」
「どんな機械?」
桂一が尋ねる。
「温度とか、磁場とかを測るものです」
「必要になれば使うけど、転ぶ場所を調べるなら、最初は足元だろ」
「月刊誌では、測定機器を使っている写真がよく載っていますよ」
相模が答えた。
「ああした機器は、持っているだけで調査らしく見えますからね」
「そういう理由もあるんですか?」
「もちろん、実際に計測もしていますよ」
相模は真顔で付け加えた。
四つ目の踊り場を過ぎたところで、石段の下に二体の狛犬が見えてきた。
左右の台座へ一体ずつ置かれ、正面を向いている。
「あれですね」
栞はスマートフォンを取り出し、SNSのコメントをもう一度確認した。
「口を開けている方の狛犬。その裏に、人形やぬいぐるみがあったと書かれています」
「向かって右側ですね」
相模が答えた。
「阿形の方です」
踊り場まで下りると、二体の狛犬の姿がはっきり見えた。
どちらも長い間、雨風にさらされてきたのだろう。石肌は黒ずみ、細かな苔が模様のように付いている。
阿形は大きく口を開き、石段の下を見据えていた。
向かい側の吽形は口を閉じ、同じ方向へ顔を向けている。
桂一は、まず正面から二体を撮影した。
続いて、石段との位置関係が分かるように踊り場の端から何枚か撮る。
「男性が転んだのも、この辺りだった可能性があるんですよね」
栞が言う。
「本人の記憶ではな」
桂一は一段下り、狛犬の横から石段を見上げた。
「ただ、ここは踊り場が広い。転んだのが石段なのか、踊り場へ移る時なのかでも変わる」
「先に、裏を見てみましょう」
相模が阿形へ近づいた。
台座の裏側は、斜面との間にわずかな隙間があった。
木の枝や背の高い草に隠れ、正面からはほとんど見えない。人が入り込めるほどではないが、しゃがめば奥を覗き込むことはできる。
桂一が先に回り込み、枝を避けながら腰を落とした。
「何かありますか?」
栞が尋ねる。
「ある」
短く答え、カメラを構える。
栞も隣へしゃがみ込んだ。
阿形の台座と斜面の間に、いくつもの人形が並べられていた。
陶器製の犬。
木を削って作られた犬。
手のひらほどの小さなぬいぐるみ。
古いキーホルダーのようなものまである。
形も大きさも違っていたが、すべて犬だった。
「本当にあったんですね」
栞は声を抑えた。
古いものは泥と埃で黒ずみ、一部は元の色すら分からなくなっている。
比較的新しいぬいぐるみの上には、風で飛ばされないように平たい石が載せられていた。
「グレーのぬいぐるみですね」
栞が言うと、桂一が奥を覗き込む。
「いや、元は白だな。少年漫画に出てくる犬のキャラクター。知ってるやつだ」
「白が、ここまで汚れたんですか」
「置かれてから、何年も経ってるんじゃないか」
相模も二人の後ろから覗き込んだ。
「すべて犬ですか」
「見える範囲では」
桂一は角度を変えながら撮影した。
人形は、ただ無造作に捨てられているわけではない。
小さなものは手前、大きなものは奥へ置かれ、どれも狛犬と同じように石段の方を向いていた。
古い人形のいくつかは、錆びた釘で木片へ留められている。新しいものは釘を使わず、背中へ石を載せて固定されていた。
「触らない方がよさそうですね」
栞が言う。
「ええ。神社のものか、誰かの奉納物かも分かりませんから」
相模は録音機へ状況を吹き込み、手帳へ数を書き込んだ。
「見える範囲で十数体。年代は不明。すべて犬をかたどったもの。古いものは釘、新しいものは石で固定されている」
桂一はさらに奥へカメラを向けた。
よく見ると、どの人形も足の辺りがひどく傷んでいる。
布製のものは足先から綿が覗き、木製の犬は四本のうち一本が欠けていた。陶器製のものも、耳や尻尾より先に足が割れている。
「足だけ、壊れ方がひどくないですか?」
栞が尋ねる。
「外に置かれているから、下から傷んだとも考えられるけどな」
桂一は立ち上がり、阿形の狛犬を見上げた。
そのまま狛犬の前脚へカメラを向ける。
「こっちも、足が随分傷んでる」
狛犬の前脚は、表面が剥がれ落ち、爪の形が分からなくなっていた。後ろ脚にも細かなひびが入り、台座との境目が崩れかけている。
三人は向かい側の吽形も確認した。
裏側には、落ち葉と枯れ枝が溜まっているだけだった。
足にも多少の傷みはあるものの、阿形ほどではない。
「同じ場所に置かれているのに、随分違いますね」
栞が言う。
「石の質や、雨風の当たり方が違う可能性はあります」
相模は阿形と吽形を交互に撮影した。
「ただ、人形まで足だけ傷んでいるのは興味深いですね」
その時、石段の下から足音が聞こえてきた。
一段ずつ、ゆっくりと上ってくる音だった。
三人が振り返ると、小柄な老女が手すりにつかまりながら、こちらへ近づいてくる。
片手には、布製の手提げ袋を持っていた。
老女は踊り場まで上がると、阿形の裏を覗き込んでいる三人を見て足を止めた。
「あら」
視線が、桂一のカメラから相模の録音機へ移る。
「何かありましたか?」
「すみません。神社の許可をいただいて、石段について調べています」
桂一が答えた。
「こちらの狛犬の裏に、犬の人形が置かれていると聞きまして」
「ああ、その子たちね」
老女は驚く様子もなく、阿形へ近づいた。
それから、石を載せられた白いぬいぐるみを見つけ、ゆっくりと腰を落とす。
「今年も、ずいぶん汚れたねえ」
親しい相手へ話しかけるような声だった。
「この人形について、何かご存じなのですか?」
相模が尋ねる。
「知ってますよ」
老女は手提げ袋を膝の上へ置いた。
「私が置いたものですから」




