7-5 集まる声
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「それならよかったです」
「朝食をほとんど食べられなかったことを除けば、ですが」
「そこまでは責任を持てませんよ」
桂一が答えると、相模は小さく笑った。
それから腕時計を確かめ、表情を改める。
「では、取材を始めましょうか」
相模は革の鞄から、小型の録音機と手帳を取り出した。
栞も鞄からバインダーを出す。桂一は首からカメラを提げ、境内の写真を撮り始めた。
社務所を出ると、祭りの準備が進められていた。
拝殿の脇には折り畳まれた長机が重ねられ、その隣には紅白幕の入った箱が積まれている。少し離れた場所では、作業着姿の男性たちが木材を運び、地面へ打った杭の位置を確かめていた。
相模は辺りを見回しながら、録音機のスイッチを入れた。
「動画じゃないんですね」
栞が聞く。
「私一人ですと腕が疲れますし、気になったことをその場でメモするのも難しくなりますからね」
「勉強になります」
「それに、映り込んだ方の許可を取るのも大変です」
「それもそうですね」
素直な返答に、相模の目元がわずかに和らいだように見えた。
「祭りの準備が始まるのは、毎年いつ頃からですか?」
「本格的に人が入るのは、一週間くらい前だそうです」
桂一が答える。
「資材の搬入は、もう少し前からですね。氏子の方だけでなく、業者も出入りします」
「石段を使う方も増えますか?」
「増えると思います。普段とは人の流れも変わるでしょうね」
桂一は、拝殿の前を横切る延長コードへカメラを向けた。人が通る部分には、黒いゴム製のカバーが被せられている。
「転倒が祭りの前に集中するなら、その辺りは確認しておきたいですね」
「まずは怪異より、環境の変化ですか」
「怪異は逃げないけど、準備の状況は祭りが終われば片づけられるからな」
三人が境内の端へ移動すると、石段の脇を通る舗装路から、一人の男性が歩いてきた。
五十代くらいだろうか。作業着姿で、片手に小さな買い物袋を提げている。祭りの作業をしている人たちとは違い、そのまま境内を横切ろうとしていた。
「すみません」
桂一が声を掛ける。
「少しお話を伺ってもいいですか?」
「俺に?」
「地元の方ですよね。こちらの石段を普段から使われていますか?」
「ああ、地元だけど」
男性は石段の方を見た。
「普段は車で途中まで上がるよ。わざわざ下から歩くのは、正月とか祭りくらいだな」
「荷物の搬入とかも、階段を使ったら大変ですもんね」
栞が尋ねる。
「そういうこと。この道を上がると、小さい駐車場がある。台数は置けないけどな。年寄りや小さい子どもがいる家族は、そっちを使うことが多いよ」
栞はバインダーへ書き込んだ。
既存の記事では、正面の石段を参拝の中心として紹介している。脇道についても一応触れてはいるが、写真は少なく、駐車できる台数までは載せていなかった。
「石段で、滑ったり転んだりした経験はありますか?」
桂一が尋ねると、男性は笑った。
「ありますよ。俺も地元ですが、それこそ何度も転んでます」
「何度もですか」
「若い頃は、下から走って上ってたからな。若いやつは体力が有り余ってるから、ああいう階段を見ると走ってみたくなるんだよ。部活でも使ってたし」
「走っている時以外にも転んだことは?」
相模が録音機を手に一歩前へ出た。
「去年だったかな。祭りの少し前に、一度」
「その時の状況を録音してもよろしいですか?」
「録音? あ、いや。構わないけど……アンタ、どこかで見たことあるな」
男性は首をかしげた。
濃いサングラスとベージュのハンチング帽を順番に見て、何かに納得したのか、すぐにうなずく。
「俺の名前を出さないなら、別にいいですよ」
「もちろんです」
相模が録音機を男性へ向けた。
「昨年転んだ時、荷物は持っていましたか?」
「何も持ってなかったよ。天気もよかった」
「石段は濡れていましたか?」
「いや、乾いてたと思う。落ち葉を踏んだわけでもない」
「どのように転んだのでしょうか」
「右足が、急に後ろへ滑ったんだ。誰かに足を引かれたみたいにな」
男性は自分の右足を半歩後ろへ引いた。
「慌てて手をついたから、膝を少し擦ったくらいで済んだけど」
「場所は覚えていますか?」
「下の方だったと思うけどな。狛犬がある踊り場の近くだったかもしれない。何段目までは分からないよ」
相模が手帳へ書き込む。
「祭りの前には、石段を使う方も増えますか?」
「増えるよ。道具を運ぶ人もいるし、若いのは階段を使うからな。それと、祭りの前には宮司さんが塩をまくんだよ」
「塩を?」
「神輿が通る道を清めるためにな。石段全部にまくのかまでは知らないけど、昔からやってるよ」
桂一が石段へ目を向ける。
「ありがとうございます。参考になりました」
「こんな話でよかったなら」
男性は再び相模を見る。
「雑誌、たまに読んでますよ」
「ありがとうございます」
「帽子を被ってたから、すぐには分からなかったけど」
そう言い残し、男性は舗装路を歩いていく。
相模は録音機を止めた。
「荷物はなく、路面も乾いていた。それでも、足だけが後ろへ滑った」
「本人の話を聞いただけでは、原因までは分かりませんね」
桂一はカメラを構え、上から石段全体を撮影する。
「それに、地元の人でも何度も転んでいるなら、単純に古い石段だからという可能性もあります」
「若い頃の分は、走っていたそうですからね」
栞が言う。
「ただ、祭りの前に塩をまくという話は気になります」
「塩そのものより、まく前後で誰がどこを歩くかだな。後で宮司さんにも確認しよう」
境内を一通り見て回ったところで、相模が授与所の前で足を止めた。
御守りや御札と並び、小さな白い袋が置かれている。
「こちらが御神塩ですね」
「ああ、有名ですよね」
栞が言うと、相模が振り返った。
「地元でも有名なのですか?」
「はい。私も巫女のアルバイトをしていた時、一生懸命、湯呑みに塩を入れて袋へ詰めていました」
相模の視線が、白い袋から栞へ移る。
「これは、巫女のアルバイトが詰めているのですか」
「ちゃんと御祈祷はされていますよ!」
栞は慌てて付け加えた。
「それに、私がやっていたのは年末年始の期間限定です。普段も同じかは知りません」
「湯呑みを使うのですね」
「専用だったと思います。少なくとも、休憩中にお茶を飲んでいたものではありません」
「そこは疑っていませんよ」
相模は白い袋を一つ手に取った。
「スタッフへの土産に、いくつか購入していこうと考えていたのですが」
「喜ばれると思います。玄関や水回りに置く方が多いそうです」
「相沢さんも買われましたか?」
「私は詰める側だったので、買うという発想がありませんでした」
相模は興味深そうに手帳へ何かを書き込んだ。
「この辺の学生は、年末になると、郵便局で年賀状の区域分別をするか、神社で巫女をするか、という感じでしたから」
「それはそれは興味深い」
「今もそうなのかは分かりませんよ」
「分かっています。以前の地域事情として記録しているだけです」
「相模さん」
少し離れたところから、桂一が呼ぶ。
「御神塩の記事を書くために来たわけではないでしょう」
「もちろんです。ただ、こういう話も現地へ来なければ聞けませんから」
「載せる時は、神社に確認してくださいよ」
「水野さんは、私を何だと思っているのですか」
「締切前には、使えるものを全部使う人だと思っています」
「否定はしません」
相模は御神塩を元の位置へ戻した。
買うのは、取材を終えてからにするらしい。
三人が授与所を離れたところで、栞はスマートフォンが振動していることに気づいた。
宮司へ挨拶する前にマナーモードへ切り替え、そのまま鞄へ入れていた。画面を見るのは、神社へ着いてから初めてだった。
井浦愛華から、何通かメッセージが届いている。
「井浦さんからです」
「学生さんですね」
相模が反応する。
「はい。潮塊神社へ行ったことがあるか、友達に聞いてみてくれたらしいです」
栞は最初のメッセージを開いた。
『昼休みになったので、友達に聞いた結果を送ります。友達からも、それぞれの出身中学のグループで聞いてもらいました。今のところ九十六人です』
「九十六人?」
思わず声に出すと、桂一も画面を覗き込んだ。
『潮塊神社へ行ったことがある人は九十二人、石段を上ったことがある人は八十七人でした。行った理由は、初詣が六十一人、潮塊祭りが四十八人、高校受験の願掛けが三十四人、部活の必勝祈願が二十一人です。複数回答なので合計は合いません』
続けて、もう一通届いている。
『部活ではバレー部が九人で一番多かったです。優勝はできなかったけど、県大会には行けたと言ってました』
「そこまで聞いたんですね」
最後に、石段についての集計が続いていた。
『石段で滑ったり転んだりしたことがある人は十四人です。そのうち五人は、足を取られたか、後ろへ引かれた感じがしたそうです。大きな怪我をした人はいませんでした。授業が始まるので、続きは放課後に聞きます』
相模が腕時計を見る。
「お願いしたのは、いつですか?」
「駅へ向かう前なので、まだ二時間も経っていません」
「休み時間だけで、ここまで集めたのですか」
「友達の友達まで、話が回ったみたいですね」
桂一も感心したように、もう一度集計を読む。
「井浦は思っていたより顔が広いな」
「質問を広げるだけでなく、すでに集計までしている。取材に向いている学生さんですね」
相模の言葉に、栞は少しうれしくなった。
「あっ、そういえば」
愛華の集計を見て、栞は思い出した。
「車を降りる前に、『と~ほくでアソボ!』のSNSにも投稿していました」
「反応は?」
「宮司さんへご挨拶するので、マナーモードにしたままで……」
栞は観光サイトのアカウントを開いた。
「え?」
「どうした?」
「コメントが、百八十七件あります」
「百八十七?」
「返信まで含めると、二百件を超えています」
相模が小さく唸った。
「投稿してから、まだ二時間ほどでしょう」
「祭り前とはいえ、随分集まったな」
桂一も栞のスマートフォンを覗き込む。
投稿したのは、潮塊神社の特集記事を作成するため、初詣や祭り、長い石段、御神塩などにまつわる思い出を募集する内容だった。今日ここにいることは書かず、写真も既存の記事に使ったものを選んでいる。
コメントには、初詣や受験祈願、部活動で石段を走らされた話が並んでいた。
栞は反応の多いものから目を通していく。
「……ちょっと、妙なコメントがありますね」
「妙とは?」
相模が尋ねる。
「中学生の頃、石段の途中にある狛犬の裏を覗いたら、人形やぬいぐるみがたくさん置かれていて怖かった、と」
「狛犬の裏に?」
「いいねがかなり付いています。返信も……『自分も見た』『去年もあった』『触らない方がいいと聞いた』」
桂一が尋ねる。
「どちらの狛犬か分かる?」
「口を開けている方だそうです」
相模は石段の方へ顔を向けた。
「先ほどの男性が転んだという踊り場にも、狛犬がありましたね」
「ええ。石段の中ほどです」
桂一はカメラを持ち直した。
「まずは、そこを見てみましょう」
三人は境内の端へ移動し、麓まで延びる石段を見下ろした。
途中の踊り場に並ぶ二体の狛犬は、木々の枝葉に半ば隠れている。
どちらが口を開いているのか、ここからではまだ分からなかった。




