第七章 エピローグ
潮塊祭りが終わってから、一週間が過ぎた。
犬の人形たちの加護があったのか、祭りの期間中、石段で転倒したという報告は一件もなかった。
境内にも大きな事故はなく、神輿の巡行も予定どおりに終わったという。
もっとも、石段については、犬たちだけに任せていたわけではない。
栞が足を滑らせたあと、桂一たちは丸い石について宮司へ報告した。
石段に埋まった球状の石は、上から踏むと靴が後ろへ滑りやすい。特に、靴底へ砂が付いている時や、雨で濡れた時には危険になる可能性がある。
同じような石がほかにもないか確認してもらい、見つかった場所には一時的な目印を付けた。
その後、神社が石材店へ相談したところ、栞が滑った場所は、祭りの前に補修してもらえることになった。
丸みを帯びた部分を無理に割ることはせず、周囲を滑りにくい補修用のモルタルで覆い、足を載せても傾かないよう表面をならしたという。
補修後の写真は、宮司がメールで送ってくれた。
相模は丸い石が見えなくなったことを少し残念がっていたが、
『安全には代えられませんからね』
とメッセージを寄越した。
むしろ、補修される前の状態を撮影できたことで、資料としての価値が上がったと考えているようだった。
取材を終えた日、桂一は一度事務所へ戻ると、栞だけを降ろした。
祭りまでは時間がない。
すでにSNSで特集記事の公開を告知しているため、確認を取らずに掲載できる一般的な情報だけでも、先にまとめることにしたのだ。
桂一は、そのまま相模を乗せ、県庁所在地のあるS市の駅へ向かった。
「相沢さんは来なくていいのですか?」
助手席へ乗った相模が尋ねる。
「記事を書く人がいなくなるでしょう」
桂一が答える。
「では、観光部門担当窓口にお任せしましょう」
「相模さんまで、その呼び方を定着させないでください」
栞は事務所の前から二人を見送った。
それから机へ向かい、『と~ほくでアソボ!』の記事を開いた。
既存の記事は、正門から続く長い石段を中心に紹介している。
そこへ、間近に迫った潮塊祭りの日程や交通規制、石段脇の舗装路と中腹の駐車場について、写真と詳しい案内を追加する。
高齢者や小さな子どもを連れた家族、足腰に不安のある人は、無理に正面の石段を上らなくても参拝できる。
ただし、駐車できる台数は限られている。祭りや年末年始には利用できない場合があることも書き添えた。
愛華が集めてくれたアンケートからは、初詣や受験祈願、部活動の必勝祈願に訪れた人数を紹介した。
祭り前に必要なのは、これから神社を訪れる人に役立つ情報だった。
人形の由来や、石段で足を引かれたという噂については、別の下書きへ保存しておく。
老女から話を聞く許可は得ていたが、神社に残されていた人形や、三十年前の出来事について具体的に掲載するなら、宮司にも内容を確認してもらう必要がある。
祭り前の慌ただしい時期に、確認を急がせるべきではない。
栞は、公開できる部分と、祭り後に追記する部分を分けて書き進めた。
記事の更新を終える頃には、外が暗くなり始めていた。
桂一が事務所へ戻ってくる。
「リライトできた?」
「一応。今すぐ公開できる部分は終わりました。人形の話は、別に保存してあります」
栞が席を譲ると、桂一は更新部分を最初から最後まで黙って読んだ。
「いいと思う」
「直すところは?」
「駐車場の写真を、もう一枚増やしたいな。初めて来る人だと、入口を通り過ぎるかもしれない」
「確かに、坂の途中で分かりにくいですね」
「一般情報は、このまま公開しよう。祭り前に読んでもらわないと意味がないからな」
「人形の方は?」
「祭りが終わってから追記しよう。文章と写真を宮司さんに送って、許可をもらってからだな」
栞は駐車場の入口が分かる写真を追加し、記事を更新した。
SNSで告知していたとおり、祭りの特集記事はその日のうちに公開された。
記事には、祭りの日程や参拝時の注意事項、石段を使わずに上がる経路などが載っている。
人形の噂については、一切触れていない。
祭りが終わった翌日、栞は保存していた下書きを開いた。
怖い人形でも、誰かを転ばせるためのものでもない。
三十年前に石段から落ちた少年が、白い犬に助けられたと話したこと。
その母親が、祭りの無事と、石段で誰も転ばないことを願って犬を置き始めたこと。
息子から孫、ひ孫へと、犬の人形が受け継がれてきたこと。
栞は、怪異だと断定する言葉を使わなかった。
白い犬が本当に現れたとも書いていない。
ただ、長い石段の途中には、三十年にわたって誰かの無事を願い続けてきた人がいる、と記した。
石段で足を取られたという噂については、丸い石や靴底の砂が原因になった可能性も併記した。
補修前の写真は使ったが、具体的な位置までは書いていない。すでに補修されているとはいえ、興味本位で探す人が出ないようにするためだった。
書き上げた追記部分と使用予定の写真は、メールで宮司へ送った。
翌日、老女の話し方や、人形の扱いについて、いくつか表現の修正を求める返信が届いた。
栞は指摘された箇所を直し、もう一度確認を求めた。
最終的な掲載許可が届く。
その日のうちに、既存の記事へ人形の由来と石段の噂について追記した。
更新された記事は、神社の公式SNSからも紹介された。
石段の人形を怖がっていた人たちからは、
『そんな理由だったとは知らなかった』
『今度は勝手に触らず、ちゃんとお参りしたい』
『犬が四本足だから転びにくい、という考え方がかわいい』
といった反応が寄せられた。
相模も『月刊超自然大陸』の公式アカウントで記事を共有したため、普段より多くの人に読まれた。
そして、追記を公開してから数日後。
桂一と栞は、再び潮塊神社を訪れていた。
この日は事務所も休みだったが、井浦愛華も一緒にいる。
愛華が集めたアンケート結果を記事作成に使わせてもらったため、公開後の様子を見に行くと伝えたところ、自分も行きたいと申し出たのだ。
三人は正面の石段ではなく舗装路を使い、中腹の駐車場へ車を停めた。
「本当に途中まで車で来られるんですね」
愛華が言う。
「地元なのに知らなかった?」
「石段を上るのが普通だと思ってました。友達と来た時も、毎回下からです」
「だから、記事にする意味があるんだよ」
駐車場から少し歩き、狛犬のある踊り場へ向かう。
阿形の裏にあった古い人形は、すでに整理されていた。
壊れたものや汚れのひどいものは、神社が奉納品として預かっている。
比較的新しいものは、阿形の台座脇に設けられた小さな屋根付きの台へ並べられていた。
その傍らには、木製の案内板が立っている。
――石段を行き来する皆様の安全と、潮塊祭りの無事を願い、長年奉納されてきた犬たちです。
――犬の人形を奉納される方は、社務所へお声がけください。
「きれいになりましたね」
栞が言う。
「怖い感じは全然しません」
愛華はしゃがみ込み、台へ並んだ犬を眺めた。
そこへ、制服姿の女子高校生が母親と一緒にやってきた。
手には、手のひらほどの犬のぬいぐるみを持っている。
二人は案内板を読んでから、阿形へ頭を下げた。
ちょうど石段を上ってきた宮司が、女子高校生へ声を掛ける。
「奉納ですか?」
「はい。受験なので」
女子高校生は、少し恥ずかしそうに犬を見せた。
「合格まで、転ばずに進めるようにと思って」
「では、一度お預かりします。拝殿でお清めしてから、こちらへ納めましょう」
「お願いします」
親子は宮司とともに、石段を上っていった。
愛華が、その後ろ姿を見送る。
「もう新しい願掛けになってません?」
「記事が出てから、受験生が何人か犬を持ってくるようになったそうだよ」
桂一が答えた。
「何人かいるんですか?」
「時期がぴったりだからな。石段で転ばない。受験でも転ばない。意味としては分かりやすい」
社務所へ挨拶に行くと、宮司は机の上へ何枚かの紙を広げていた。
犬をかたどった、小さな御守りの案だった。
「作るんですか?」
栞が尋ねる。
「まだ検討している段階です」
宮司は真剣な顔で図案を見比べる。
「ただ、犬の御守りはないのかと、何件か問い合わせがありまして」
「もう図案までありますよね」
「足腰健康の御守りにするか、諸願成就にするかで迷っています」
「作ること自体は、ほとんど決まってません?」
宮司は答えず、四本の足で立つ犬の図案を一枚持ち上げた。
口を開けた狛犬を基にしたデザインだった。
祭りが終わってから、まだ一週間しか経っていない。それでも、ほとんど完成しているように見える。
「こちらの方が、転びにくそうでしょうか」
「見た目で決めるんですか?」
「御守りですから、印象も大切です」
桂一は笑いながら、二つの図案を写真に収めた。
「完成したら連絡してください。記事へ追記します」
「お願いします」
社務所を出ると、愛華が桂一の隣へ並んだ。
「水野さん、少しいいですか?」
「受験勉強はどうした?」
「一般入試より先に、総合型選抜を受けることになったので、ちょっと許可を取りに来ました」
「許可?」
「面接の時に、『と~ほくでアソボ!の取材に協力しています』って言ってもいいですか?」
桂一は少し驚いたあと、笑った。
「もちろんいいよ」
「本当ですか?」
「取材協力だけじゃなくて、WordPressで記事作成を勉強してることも言えばいい。スマホで写真も撮って、SNSのグループを使って、百人近くからアンケートを集めたことも」
「そこまで言っていいんですか?」
「言った方がいい。他の受験生とは全然違う印象になるだろ」
桂一は石段の途中に並ぶ犬たちへ目を向けた。
「俺が面接官なら、この子を入れたら次に何を始めるんだろうって気になる。絶対に学校へ入れてみたくなるよ」
「大学の宣伝もしてくれるかもしれませんしね」
「水野さん、最後だけ急に打算的ですね」
「面接官の立場で考えたんだよ」
愛華は笑った。
「それなら、全部話してきます。合格したら、一番に連絡しますね」
「その前に、面接の準備をしないとな」
「手伝ってくれるんですか?」
「取材協力してるって言わせるんだから、それくらいはね」
栞は二人の少し後ろを歩きながら、その会話を聞いていた。
石段の噂を調べるために始めた取材は、神社に新しい願掛けを生み、愛華の進路にまでつながろうとしている。
人の足を引くと噂されていた神社で、今度は誰かが転ばず前へ進むため、犬を置いていく。
阿形のそばに並んだ犬たちは、四本の足で、静かに石段を見守っていた。




