7-1 相模
栞が事務所へ着いた時、桂一は玄関ではなく駐車場にいた。
ノアの後部を開け、カメラバッグと折り畳んだ三脚を積み込んでいる。
「おはようございます。昨日はお休み、ありがとうございました」
「おはよう。ゆっくりできた?」
「はい。母と一緒に買い物して回って、昼はバイキング、夜はスイーツバイキングを楽しんできました」
「連続でバイキング? 二人ともすごいね」
口にしてから自分でもおかしくなったのか、栞が笑いだした。
「さすがに食べすぎました」
「昼の時点でも言ってたんじゃない?」
「言ってましたね」
桂一は三脚の位置を直し、後部の扉を閉めた。
「悪いけど、そのまま乗って。迎えに行くから」
「今日会う編集の人ですか?」
「そう」
「どんな人なんですか?」
「雑誌の編集長。たぶん有名な人だから、見ればすぐ分かると思う」
「有名な人?」
栞は記憶を探ってみた。
雑誌の編集長と言われても、顔まで思い浮かぶ人物は一人もいない。
栞が助手席のドアへ手を掛けると、桂一に止められた。
「相沢、今日は後ろ」
「私が後ろなんですか?」
「その編集長を前に乗せるから」
それ以上の説明はなかった。
栞は釈然としないまま、後部座席へ乗り込んだ。
いつもなら助手席に置かれている桂一の鞄も、今日はカメラバッグと一緒に荷室へ移されている。
飲みかけのペットボトルや充電用のケーブルまで片づけられ、普段より少しだけ車内がきれいだった。
事務所から駅までは、車で十五分ほどだった。
途中、桂一はコンビニへ寄り、自分のコーヒーと栞のカフェラテ、それから来客用らしい無糖のペットボトルコーヒーを買った。
「好み、知ってるんですか?」
「前に飲んでた」
「よく覚えてますね」
「人の好みを覚えてるというより、前に何を渡したか覚えてるだけ」
桂一はそう言いながら、ペットボトルを助手席のドリンクホルダーへ入れる。
二人が駅へ着いたのは、到着予定時刻の五分ほど前だった。
駅舎は二階建てで、中央のガラス扉の上に大きな丸時計が付いている。正面のロータリーは、中央に低い植え込みを挟んだ一方通行になっていた。
右側にはタクシーが三台並び、その先に一般車の送迎スペースがある。左側には路線バスの乗り場が二つ。屋根の下では、買い物袋を提げた高齢者と制服姿の高校生が、次のバスを待っていた。
ロータリーの入口には、
――送迎車両は五分以内でお願いします。
と書かれた看板が立っている。
桂一は送迎スペースの端へノアを止め、ハザードランプを点けた。
すぐ前には、家族を迎えに来たらしい軽自動車が停まっている。その向こうでは、タクシーの運転手が車外へ出て、運転席の脇で背中を伸ばしていた。
ガラス扉が開くたびに、駅構内の放送と人の話し声が外へ流れてくる。
桂一は車内の時計を確認した。
それから、駅の出入口を見る。
しばらくして、また時計を見る。
栞は後部座席から、その様子を眺めていた。
「なんか、緊張してます?」
「何度か会ってはいるんだけどな」
「珍しいですね」
「いや、とにかく目立つ人なんだよ」
桂一は駅舎の方を見たまま答えた。
「人が集まる前に、早く車に乗せたいし、相沢が思っているような緊張ではないと思う」
「目立つ人って、どんな人ですか?」
「さっき電車が着いたから、すぐだと思う」
ちょうどその時、ガラス扉の向こうから、まとまった人の流れが出てきた。
買い物袋を持った女性。
キャリーケースを引く若い夫婦。
制服姿の学生。
出張らしいスーツ姿の男性。
その中に一人だけ、周囲から切り取ったように黒い男がいた。
「ほら」
桂一が顎で示す。
「あんな人だよ」
黒いジャケット。
黒いシャツ。
黒いパンツ。
磨かれた革靴まで黒い。
濃いサングラスを掛け、片手には黒い革の鞄を持っている。
唯一色が入っているのは、頭に被ったベージュのチェック柄のハンチング帽だけだった。
「相模編集長じゃないですか!」
突然上がった声に、桂一は相模ではなく栞の方を見た。
「だから、雑誌の編集長って言っただろ?」
「いや、相模編集長って、なんか『相模編集長』って名前で一つのキャラクターみたいに思えてて、役職だって感覚が抜けちゃってました」
書店のオカルトや民俗学の棚で、何度も見た顔だった。
『月刊超自然大陸』の編集長として雑誌へ登場するだけでなく、テレビやネット番組にも時折出演している。
先ほどまで編集長の顔など一人も思い浮かばなかった栞が、後部座席で身を乗り出している。
相模に気づいたらしい高校生が、二人で何かを話しながら振り返った。
「ほら、もう見られてる」
桂一はすぐに運転席を降りた。
「相模さん、こっちです」
声を掛けられた相模が、片手を軽く上げる。
桂一は相模の鞄を受け取り、後部の荷物置きへ入れた。その間にも、先ほどのタクシー運転手が相模を二度見している。
「お待たせしました」
「いえ。俺たちも今来たところです。とりあえず乗ってください」
桂一が助手席のドアを開ける。
相模は軽く頭を下げ、助手席へ乗り込んだ。
「失礼します」
「初めまして」
後部座席から、栞が声を掛けた。
「相沢栞です。市影譚の資料整理や、記事の補助をしています」
「初めまして。相模です。相沢さんのお話は、水野さんから伺っています」
「私のことを?」
「水野さんの仕事が、以前より随分と整うようになったと」
栞は、運転席へ戻ってきた桂一を見る。
「そんなこと話したんですか?」
「少しはね」
桂一はシートベルトを締め、ハザードランプを消した。
相模が窓の外へ目を向ける。
「一応、変装してはいたのですが、やはり気づかれますね」
「……どこがですか?」
栞は思わず尋ねた。
「サングラスは、いつものものとは違います」
相模は自分のサングラスへ触れた。
「それに、今日はこの帽子を被っています」
ベージュのチェック柄のハンチング帽を、軽く押さえる。
「相模さん」
桂一がノアをゆっくりと発進させた。
「そこで判断しているわけではないので、まったく意味がありませんよ」
「そうでしょうか」
「全身真っ黒で、革靴にサングラスでしょう。帽子が増えた分、いつもより目立ってます」
「私は気に入っているのですが」
「帽子の良し悪しを言ってるんじゃないんですよ」
相模は納得していない様子で、助手席から栞を振り返った。
「相沢さんも、そう思われますか?」
「はい」
栞は即答した。
「駅から出てきた瞬間に分かりました」
「私をご存じだったからでは?」
「知らなくても見ます」
「相沢さんまで」
相模が少し傷ついたような顔をする。
雑誌や映像で見るよりも、ずっと普通の反応だった。
栞はこらえきれずに笑った。
ノアはロータリーを一周し、駅前通りへ出た。
背後では、次の路線バスがロータリーへ入っていく。バスを待っていた人々と駅舎が、リアガラスの向こうへ遠ざかっていった。
「潮塊神社までは、どれくらいですか?」
相模が尋ねる。
「ここから三十分くらいです」
桂一が答えた。
「石段の下までは、ですが」
「そこから先は歩きですね」
「ええ。そのために相沢にも、歩ける靴で来てもらいました」
栞は前方の二人の間から、道路の先をのぞく。
「ところで、今回メインで調べることはなんですか?」
相模が少しだけ体をひねり、後部座席へ顔を向けた。
「相沢さんは、潮塊神社の長い階段をご存じですか?」
「はい。それはもちろん」
潮塊神社そのものと同じく、あの石段も地元ではよく知られている。
正面から境内へ続く階段は、二百段を超える。以前は地元の中学生が、部活動のトレーニングで上り下りすることもあった。
願掛けのために上る人も多く、栞自身も何度か挑戦したことがある。
「その階段で、『祭りの前に人がよく転ぶ』という噂の調査です」




