第六章 エピローグ
ホテルを出る頃には、空はすっかり朝の色になっていた。
夜の間は黒く沈んでいた駐車場にも光が差し、国道を走る車の数も少しずつ増えている。
入口の近くでは、愛華の母が待っていた。
「お疲れさまでした」
栞が頭を下げる。
井浦も会釈を返し、それから娘を見る。
「どうでしたか?」
「すごい助かりました」
愛華が答えるより先に、桂一が言った。
「愛華が?」
「はい」
井浦が少し意外そうな顔をする。
愛華は待ってましたとばかりに母へ近づいた。
「本当にすごかったんだよ。最初は普通の壁だったんだけど、三時くらいから桂一さんが薄く見え始めて」
「薄く?」
「そう。そこにいるのに遠くにいるみたいになって。それで四時になったら、山本さんと桂一さんには壁の先に廊下が見えて」
「あなたには?」
「壁のまま」
井浦の眉が少し寄った。
「その後、桂一さんがその壁に入ろうとしたの」
「壁に?」
「桂一さんには扉が見えてたんだって!」
「……そう」
「本当なんだから!」
「分かったわ。あなたが嘘をついてるとは言ってないでしょ」
そう言いながらも、井浦の表情には明らかに訝しむものが残っていた。
当然だろうと栞は思った。
自分だって、実際に見ていなければ同じ顔をしたはずだ。
井浦は桂一を見る。
「本当に、そんなことが?」
「大体、愛華が言った通りです」
桂一は笑わなかった。
「最後は、愛華にかなり助けてもらいました」
「……そうですか」
「止めてもらわなかったら、ちょっとまずかったかもしれません」
井浦はもう一度、娘を見る。
今度は先ほどとは違う目だった。
「なら、良かったわね」
「うん」
「ちゃんと役に立てたのね」
「かなり」
桂一が答えると、愛華が少し嬉しそうに笑った。
井浦はそれ以上、昨夜のことを追及しなかった。
「なら、あとは帰るのね?」
「あ」
愛華が桂一を見る。
「そのことなんですが」
桂一が口を挟む。
「ちょっと約束したことがありまして」
「約束?」
「愛華に手伝ってもらったお礼も兼ねて、三人で釣りに行こうって話してたんです」
「今から?」
「はい。危ない場所には行きません。昼前には戻します」
「お願いします!」
愛華がすぐに両手を合わせた。
井浦は娘の顔を見る。
「昨日から、これも楽しみにしてたのね?」
「うん」
「その顔を見れば分かるわ」
小さく息を吐く。
「分かりました。ただ、眠くなったら無理しないこと」
「はい」
「水野さんと相沢さんの言うことを聞く」
「はい」
「海に落ちない」
「そこまで子どもじゃないよ!」
「高校三年生でしょ」
「そうだけど!」
栞が思わず笑った。
「ちゃんと見てますから」
「お願いします」
井浦は栞と桂一へ頭を下げる。
「自分で見たいって言って来たんだもの。最後まで見てきなさい」
「うん!」
母を見送った愛華は、眠気などすっかり忘れたような顔で車へ向かった。
三人が着いたのは、ホテルから少し離れた港だった。
立入禁止でもなければ、怪談の噂もない。
朝から何人かの釣り人が竿を出している、ごく普通の場所だった。
「海釣り、初めてです」
愛華が海を覗き込む。
「私も」
栞が答える。
二人の視線が桂一へ向いた。
「桂一さんは?」
「釣り堀ならある」
「それ、経験者に入るんですか?」
「魚は釣ったことあるぞ」
「急に頼りなくなりましたね」
「大丈夫。昨日調べた」
「昨日?」
「ホテル行く前」
「桂一さんも楽しみにしてたんじゃないですか」
「そりゃ楽しみだったよ」
桂一は車から釣り道具を降ろした。
竿もリールも、仕掛けも一通り揃っている。
以前、夜の海へ落ちた男から譲られた一式だった。
「あの人から貰ったんですよね?」
栞が聞く。
「そう。もう怖くて釣り出来ないから、全部持ってってくれって」
「結構ありますね」
「多分、ちゃんと揃えたらそれなりにするよ」
「大事に使わないと」
愛華が言う。
「そうだな」
三人とも説明書やスマートフォンを見ながら、どうにか準備を進めた。
「これ、向き合ってます?」
「多分」
「また多分」
「初めてなんだから仕方ないだろ」
「桂一さんでも初めてのことあるんですね」
「そりゃあるよ」
「何でも出来るのかと思ってました」
「何でもは出来ない。やってみるだけ」
ようやく仕掛けを作り終え、海へ投げる。
最初は何も起きなかった。
餌だけがなくなる。
「また取られてます!」
愛華が仕掛けを上げる。
「魚がいるってことじゃない?」
栞が言う。
「じゃあ次は釣ります」
「その意気だ」
桂一も仕掛けを確認しようと屈み込んだ。
「っ……」
一瞬、動きが止まる。
「桂一さん?」
栞がすぐに気付いた。
「ん?」
「今、痛そうにしましたよね」
「ちょっと胸がな」
「胸?」
「昨日から痛くて」
栞の表情が変わった。
「昨日からって、今朝のあのことですよね?」
「……そうなるな」
「見せてください」
「ここで?」
「いいから」
桂一は仕方なく、白いシャツの上のボタンを一つ外した。
胸元を少し開く。
「……え」
栞の顔から笑みが消えた。
「何?」
「すごい痣になってますよ。ちょっと見せてください」
もう少しシャツを開く。
桂一自身も、そこで初めて痣を見た。
胸の中央。
赤紫色の内出血が大きく広がっている。
丸くはない。
形があった。
掌。
五本の指。
誰かが人間の手を力任せに押し付けたような痕だった。
「うわっ」
愛華も寄ってくる。
「横綱に張り手でもされたんですか?」
「胸に張り手された覚えはないな」
「今朝、飛ばされた時ですよね」
「多分」
桂一が指で触れようとする。
「触らないでください」
栞がその手を止めた。
「周りも少し腫れてます」
「だから痛いのか」
「当たり前です」
栞は痣を注意深く見る。
そこで、視線が止まった。
掌の中央。
桂一の胸元には、羽を思わせる意匠のネックレスが掛かっている。
「桂一さん」
「ん?」
「これ」
「何?」
「ネックレスの位置が、ちょうど手のひらの真ん中です」
桂一も見下ろす。
「……本当だな」
愛華も覗き込む。
その目が、桂一の胸元から栞へ移った。
「あれ?」
「どうしたの?」
「相沢さん、それ」
「これ?」
「桂一さんと同じじゃないですか?」
栞も自分の胸元へ手をやる。
色合いこそ少し違うが、羽を思わせる意匠は同じ系統だった。
「よく見たら二人でお揃いじゃないですか!」
「お揃いっていうか」
栞が少し笑う。
「同じ知人からもらった御守りだよ」
「二人とも?」
「うん」
桂一も頷いた。
「共通の知り合いからな」
「……二人だけですか?」
「そこ気にする?」
「気になりますよ!」
愛華は手形を見る。
桂一を見る。
今度は栞のネックレスを見る。
「桂一さんを心配すればいいのか、手形に驚けばいいのか、二人がお揃いなのを気にすればいいのか分からないです!」
「怪我を一番にして」
栞が言う。
「分かってます!」
少し頬を膨らませた愛華を見て、桂一が笑った。
栞だけは、もう一度痣を見た。
「でも、本当に不思議ですね」
「うん?」
「御守りの真ん中から、手の形が広がってる」
「そうだな」
「今朝、誰にも触られてないんですよね?」
「見てただろ」
「見てましたけど」
「俺にも分からないよ」
桂一は胸元の飾りを指で摘まむ。
少し考えた。
「……まあ、守られたんだろ」
「誰にですか?」
「知らん」
「気にならないんですか?」
「気にはなる」
桂一はシャツのボタンを戻した。
「でも、助かったのは確かだからな」
それ以上は言わなかった。
「よし」
竿を持つ。
「釣ろう」
「切り替え早くないですか?」
「朝まずめ終わるぞ」
「その言葉、昨日調べて覚えたんですよね?」
「覚えたなら使っていいだろ」
三人で再び海へ向かって竿を出した。
しばらくして。
「来た!」
愛華が声を上げる。
「巻いて!」
「巻いてます!」
「ゆっくり!」
「どっちですか!」
「糸緩めるな!」
「桂一さんも初めてなんですよね!」
「調べたから知識はある!」
「実績がないです!」
水面が跳ねた。
銀色の細長い魚が上がってくる。
三人が黙った。
「……嘘だろ」
桂一が魚を見る。
「秋刀魚じゃないですか?」
栞が言う。
「……秋刀魚だな」
「やった!」
愛華が嬉しそうに笑った。
「初めて釣った魚、秋刀魚です!」
桂一は笑わなかった。
魚を見る。
海を見る。
もう一度魚を見る。
「群れ、入ってるのか?」
「そんなにすごいんですか?」
「その仕掛けでよく掛かったな」
「じゃあ私、才能あります?」
「それはまだ分からん」
「そこは褒めてくださいよ」
桂一は急に道具箱を開き始めた。
「サビキどこだ」
「え?」
「アミエビもあったよな」
「急に本気になりましたね」
仕掛けを外そうとして、桂一が胸を庇う。
「っ」
「桂一さん、痛いならゆっくりやってください!」
「今はそれどころじゃない」
「さっき手の形の痣見つけたばっかりですよ!」
栞と愛華が笑う。
桂一が真顔で顔を上げた。
「笑ってる場合じゃないぞ」
「何でですか?」
「今年は高いぞ。末端価格で一匹三百五十円くらいするぞ?」
二人の笑いが止まった。
「……一匹?」
愛華が釣った秋刀魚を見る。
「これが?」
「店ならな」
「急に大事に見えてきました」
栞まで真顔になった。
「だろ?」
その時。
少し離れた場所で釣りをしていた男性が、勢いよくリールを巻き始めた。
水面から銀色の魚が上がる。
三人が同時にそちらを見る。
「……秋刀魚」
愛華が呟いた。
桂一の目が輝いた。
「天はまだ俺たちを見放してないぞ」
「急に大袈裟ですね!」
「周りが諦めるまでは、もう少し粘ってみよう」
「基準が周りなんですか?」
「釣れてる人がいるなら、まだ群れがいる可能性あるだろ」
桂一は胸を庇いながらも、仕掛けを付け替える。
「最低三匹。ノルマ一人一匹」
「仕事になってますよ」
「愛華も早く投げろ。群れがいるうちが勝負だ」
「はい、社長!」
「誰が社長だ」
三人の笑い声が、朝の海へ流れていった。
それからしばらく粘ったものの、すぐに二匹目が釣れるほど世の中は甘くなかった。
「群れ、行っちゃいましたかね」
愛華が海を見る。
「かもな」
「三百五十円……」
「まだ言ってる」
栞が笑う。
「自分で釣ったんだから、愛華が食べればいいよ」
桂一が言った。
「いいんですか?」
「初めて釣った魚だろ」
「じゃあ、ちゃんと写真撮ってから食べます」
「それがいい」
桂一はその横顔を見て、少し考えた。
「愛華」
「はい?」
「ちょっと記事、書いてみるか?」
愛華が振り向いた。
「良いんですか?」
「昨日の扉の話」
「釣りじゃなくて?」
「釣りでもいいけど、それは別で書けばいい」
愛華の目が輝く。
「扉のこと、本当に書いていいんですか?」
「ホテルが特定出来る情報は出さない。山本の名前も分からないようにする」
「はい」
「場所を探しに行ける記事にもするなよ」
「怪異スポット紹介みたいにはしない?」
「そう」
桂一は海へ視線を戻した。
「長く夜にいると、あるタイミングから戻れなくなる」
愛華が黙って聞く。
「ある人は、午前四時頃、本来あるはずのない場所に扉を見たという」
「ある人は?」
「別の人には、ただの壁にしか見えなかった」
「扉の中は?」
「そこは説明しすぎない方がいい」
「入ったら戻れなくなる?」
「そうかもしれない、くらいだな」
桂一は竿先を見る。
「怖い場所だから近づくな、だけじゃない」
「じゃあ?」
「居心地がいいから、戻れなくなる場所もあるのかもしれない」
愛華は少し考えた。
「……書いてみたいです」
「うん」
桂一が頷く。
「読者には、夜の仕事してる人も多いだろうからな」
「ホテルとか?」
「ホテルも。工場、介護、警備、運送、病院、飲食。夜に働いてる人なんていくらでもいる」
「はい」
「そういう人の中には、ためになる人もいるかもしれない」
「ためになる?」
「夜の仕事って、知り合いと時間が合わなくなりやすいんだよ」
桂一は言った。
「こっちが仕事終わる頃には、相手が仕事へ行く。こっちが起きる頃には、向こうは一日終わりかけてる」
「山本さんみたいに?」
「そう」
「じゃあ、だんだん会わなくなる?」
「そういうこともある」
桂一は頷いた。
「夜の仕事が悪いわけじゃない。俺も好きだったし」
少し間を置く。
「ただ、孤独にはなりやすい」
愛華の顔が真面目になる。
「だから、意識して昼の時間に動いてる人とも繋がった方がいい」
「昼の人と?」
「家族でも、友達でも、趣味の仲間でも何でもいい」
「夜を辞めた方がいい、じゃなくて?」
「違う」
桂一は首を振る。
「昼に戻れる場所も残しておいた方がいい、って話」
愛華はゆっくり頷いた。
「それ、入れたいです」
「入れていいよ」
桂一は栞を見る。
「相沢」
「はい?」
「学生には少し難しい表現だと思うから、しっかり見てやってくれ」
「分かりました」
栞が笑う。
「優しいですね」
「そう?」
「記事のことも、その先のことも考えてるじゃないですか」
「愛華のお母さんとも繋がったからな」
桂一は何でもないことのように言う。
「絶対に無下にはしないさ」
愛華が、少し感動したような顔で桂一を見る。
栞はその横顔を微笑ましく眺めた。
「そういう所があるから、みんな桂一さんを頼っちゃうんでしょうね」
「そうかな」
「そうですよ」
桂一は少し困ったような顔をした。
「まあ、頼られたって全部出来るわけじゃないけどな」
「でも、出来ることはやるんでしょう?」
「出来る範囲ならね」
「それです」
「何が?」
「そういうところです」
桂一は結局よく分かっていないようだった。
「それと、愛華」
「はい?」
「受験はしておけよ」
「え?」
「記事は気分転換で書けばいい。勉強の邪魔にならない時でいいよ」
「急がなくていいんですか?」
「うん」
桂一は少し間を置いた。
「でも、忘れないうちにな」
「どっちなんですか」
「急がなくていい。でも、忘れるほど放っておくなってこと」
「難しい注文ですね」
「仕事って大体そんなもんだよ」
栞が笑った。
「ちゃんと受験のことも覚えてたんですね」
「そりゃ覚えてるよ」
桂一は愛華を見る。
「受かってから行かないって決めるのと、受けないで行かなかったことにするのは違うからな」
「……はい」
「選べる状態にしてから選べばいい」
愛華は少し考えた。
桂一はさらに続ける。
「俺のところは、第一候補にしなくていい」
愛華の表情が止まった。
「……やっぱり、弟子入りは駄目ってことですか?」
桂一はそれには答えなかった。
少し照れくさそうに視線を逸らし、海を見る。
「まあ」
しばらくして口を開いた。
「大学も駄目だった。やりたい仕事もうまくいかなかった。他に面白そうな場所も見つからなかった」
愛華は黙って聞いている。
「全部がもし駄目になった時の、避難場所とでも考えとけばいいさ」
「避難場所?」
「うん」
「全部駄目だったら、桂一さんのところに来てもいいんですか?」
「その時に俺がまだ何かやってればな」
「絶対何かやってますよ」
「それは俺もそう思う」
桂一が笑った。
愛華も少し笑う。
それから、海へ視線を落とした。
「……なんか」
「うん?」
「受験してみよう、って思いました」
桂一は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
栞が愛華の頭へ手を伸ばす。
「え?」
そのまま、髪を軽く撫でた。
「良かったね」
「相沢さん?」
「実はね、私も色々仕事したの」
「そうなんですか?」
「うん」
栞は海を見る。
「高校出て、看護の勉強して、病院でも働いたし。その後も別の仕事したりして」
「知らなかったです」
「最初から桂一さんのところにいたわけじゃないよ」
「じゃあ……」
「色々やって、最後にたどり着いたのが桂一さんのところだったの」
愛華が少し驚いたように栞を見る。
「今は?」
「今?」
「ここで良かったですか?」
「うん」
栞はすぐに答えた。
「おかげで今は、色んなことがちょっとずつできるスタッフになれてるよ」
「色んなこと?」
「取材したり、写真撮ったり、SNSやったり、電話したり、資料作ったり。昔やった看護の勉強が役に立つこともあるし」
少し笑う。
「たまに変な場所にも連れて行かれるけど」
「最後だけ嫌ですね」
「本当にね」
「本人の前で言う?」
桂一が言った。
「言います」
愛華が笑った。
「でも、相沢さんも色々やったから今があるんですね」
「そうだね」
「桂一さんと同じこと言ってます」
「最近ちょっと似てきた気がするんだよね」
「二世だからじゃない?」
桂一が横から言う。
「まだその話続いてたんですか?」
「設定は大事だろ」
「設定って言わないでください」
愛華が笑った。
「じゃあ、私も色々やってみていいんですね」
「いいんじゃない?」
桂一が答える。
「十八くらいで、人生一個に決めなくてもいいだろ」
「迷いません?」
「迷えばいいよ」
「いいんですか?」
「選べるものが一個しかないよりはいい」
桂一は竿先を見る。
「大学受けて、受かったらその時また考えればいい。行ってみたら面白いかもしれない」
「桂一さんのところに来たくなくなるかも?」
「それなら、それが一番いいだろ」
「え?」
「もっと面白い場所見つけたってことだからな」
愛華は一瞬、何も言わなかった。
それから、小さく笑った。
「でも、記事は書きます」
「うん」
「相沢さんに見てもらって」
「しっかり見るよ」
「出来たら桂一さんに見せます」
「待ってる」
少し間が空いた。
「愛華は明るいからな」
桂一が言う。
「明るい?」
「夜の世界に戻らないために、明るい方との縁を繋いどくのも悪くない」
栞には、その言葉の意味が分かった。
「桂一二世が生まれたら良いですね」
「二世は君だろ」
「私ですか?」
「だから愛華が三世」
「私、三世なんですか?」
「ルパンみたいで格好いいだろ」
「じゃあ桂一さんが一世?」
「そこは知らん」
「自分で言ったのに!」
三人が笑った。
その時だった。
桂一のポケットの中で、スマートフォンが震えた。
取り出した画面を見る。
表示された名前に、桂一が僅かに眉を上げる。
「誰ですか?」
栞が尋ねた。
桂一は画面を二人へ向ける。
灰島。
「さしずめ、こいつが銭形警部だな」
桂一が笑う。
愛華は不思議そうな顔で、桂一を見る。
「出ないんですか? 銭形警部からの電話」
「ルパンは銭形から逃げるもんだろ」
桂一はそう言って、スマートフォンをポケットへ戻した。
「しつこくかけてきたら、出ようとは思う」
「それでいいんですか?」
「いいんじゃない?」
桂一は海を見る。
少し離れた場所では、さっき秋刀魚を釣った男がまだ竿を出していた。
「今は秋刀魚だ」
栞が笑う。
愛華も笑った。
昨夜、あれほど戻りたくなかった朝の中で。
三人はもう一度、明るい海へ仕掛けを投げた。




