6-8 親友
一階へ戻ると、桂一はロビーのソファへ身体を沈めた。
「水、持ってくる」
山本がフロントの奥へ入る。
「お願いします」
栞は桂一の隣へ座った。
愛華も向かい側のソファへ腰を下ろす。
さっきまでの興奮は、もう顔に残っていなかった。
「桂一さん、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「それ、信用していいやつですか?」
「さっきよりは」
「さっきが駄目だったんじゃないですか」
「それはそう」
桂一は胸元を押さえたまま、ゆっくり呼吸する。
深く吸うと、まだ痛む。
「病院行きます?」
栞が聞く。
「息は出来てるし、骨がどうこうって感じでもない。少し休んで、それでも痛かったら考える」
「無理はしないでくださいね」
「うん」
山本がペットボトルの水を持って戻ってきた。
「ほら」
「ありがとう」
桂一は一口飲んだ。
冷たい水が喉を通る。
それだけで、ようやく身体がこちら側へ戻ってきたような気がした。
愛華はしばらく黙っていたが、やがて鞄からメモ帳を取り出した。
シャープペンを持つ。
けれど、すぐには書き始めなかった。
「……何て書けばいいんだろ」
「そのままでいいんじゃない?」
栞が言う。
「そのまま?」
「見たことだけ」
愛華は少し考えた。
「私は扉は見えてない」
「うん」
「桂一さんが壁に向かって歩いていった。途中から薄くなった。呼んでも反応が鈍くなった」
シャープペンが動き始める。
「私が腕を掴んだ。桂一さんが肩を掴んだ。その後、急に後ろへ飛ばされた」
「それでいいよ」
桂一が言う。
「中に何があったかは、俺とダニエルが見たことだから分けて書いといて」
「はい」
「あと、俺が『親父』って言ったのも」
「書くんですか?」
「書いといて」
桂一は少し間を置いた。
「後から都合よく記憶変えるかもしれないから」
愛華が頷く。
「分かりました」
山本はフロントの椅子へ座らず、その場に立ったままだった。
「ダニエル」
「ん?」
「お前も座れよ」
「仕事中」
「今くらいいいだろ」
「お前に言われたくない」
「じゃあ立ってろ」
「冷たいな」
軽口は返ってきた。
けれど、山本の顔色はまだ悪い。
桂一が水をもう一口飲む。
「中のやつ」
「……うん」
「どう見えた?」
山本は答えなかった。
「前は親父だと思ったんだよな」
「ああ」
「今日は?」
「最初は同じだった」
「うん」
「でも、お前が近づいて……中のやつも少し動いて」
山本は両手で顔を擦った。
「違うって思った」
「何が?」
「親父じゃない」
ロビーが静かになる。
「俺なんだと思う」
愛華のシャープペンが止まった。
「山本さんも?」
「ああ」
「桂一さんと同じ……」
「多分な」
桂一が答えた。
「多分?」
「断定はしない」
「でも二人とも、自分に似た年上の人を見たんですよね」
「そう」
愛華が考え込む。
「ドッペルゲンガー……みたいな?」
「相手は爺になってたぞ」
「じゃあ、未来の自分?」
「名前を付けるな」
愛華が顔を上げた。
「駄目なんですか?」
「似てる話に知ってる名前付けると、それで分かった気になるだろ」
「でも、整理しやすくないですか?」
「整理するのはいい」
桂一は水のボトルをテーブルへ置いた。
「決めつけるのが駄目」
「じゃあ、今分かってるのは?」
「夜中の三時くらいから、あそこの境目がおかしくなるらしい」
指を一本立てる。
「四時前後になると、ダニエルには廊下と部屋が見える」
二本目。
「今日は俺にも見えた」
三本目。
「中には、自分が年を取ったような人間がいた」
四本目を上げようとして、やめる。
「それ以上は分からない」
「入ったらどうなるかも?」
「分からない」
愛華が少し顔を曇らせた。
「でも、桂一さんは入ろうとしてました」
「うん」
「怖くなかったんですか?」
「それが一番まずかった」
桂一は即答した。
「全然怖くなかった」
「……」
「むしろ、すごく居心地良さそうだった」
山本がゆっくり頷いた。
「分かる」
「だよな」
「俺も最初は怖かったんだよ」
山本が言う。
「ありもしない部屋があるんだから。でも何回も見るようになってから、怖いより入りたい方が強くなった」
「何で?」
愛華が聞く。
「分からん」
「俺は、帰ってきた感じがした」
桂一が言った。
「帰ってきた?」
「大学の頃にナイトやってた時の感じに近かった」
静かなロビー。
人の少ない時間。
誰にも急かされない夜。
桂一はその頃のことを少し思い出す。
「入ったら、楽だろうなって」
「楽?」
「朝に戻らなくていい」
山本の表情が固まった。
「昼の時間に合わせなくていい。好きな時に起きて、夜だけで生活出来る」
「……うん」
「だから」
桂一は山本を見る。
「お前が見てたのも、そういうやつなんじゃない?」
「俺の?」
「夜から戻らなくなった、お前」
山本は笑わなかった。
「俺、そんなに夜好きかな」
「好きだろ」
「まあ……嫌いじゃない」
「朝仕事行く人見ながら酒飲むの好きなんだろ?」
「それは好き」
「じゃあ十分だよ」
「でも、それだけで?」
「知らん」
桂一は肩を竦めようとして、胸の痛みに顔をしかめた。
「だから決めつけないって」
栞がすぐに気付く。
「桂一さん」
「大丈夫」
「今痛かったでしょう」
「ちょっと」
「ちょっとじゃない顔してました」
「後で見るよ」
「絶対ですよ」
「はいはい」
桂一は山本へ視線を戻した。
「とりあえず、あれが何かを調べるのは一旦終わり」
「え?」
山本が意外そうな顔をする。
「もう調べないの?」
「今のところは」
「でも正体分かってないぞ」
「正体が分からないと仕事出来ないの?」
「いや」
「じゃあいいじゃん」
山本が黙る。
「目的、忘れるなよ」
桂一が言った。
「お前が困ってるから来たんだろ」
「そうだけど」
「怪談を完成させに来たわけじゃない」
「……うん」
「ホテルで安全に働ければいい」
桂一は指を折る。
「四時前後に巡回時間ずらせるならずらす」
「多分出来る」
「突き当たりまで行く必要なければ行かない」
「非常口と廊下見ればいいから、毎回壁の前まで行く必要はないな」
「なら行くな」
「でも、出てるか気になるだろ」
「気にするな」
「無理だよ」
「じゃあ気になっても確認するな」
山本が苦笑した。
「同じじゃん」
「違う」
桂一は真面目な顔をした。
「見えるかどうか確認するために、毎晩危ないところまで行く必要ないだろ」
「……」
「身を守るため、手を抜けるとこは抜け」
栞が少し笑った。
「桂一さんからその言葉が出るんですね」
「俺は自分の仕事なら好きにやるよ」
「はい」
「でも、ダニエルはホテルに雇われてるんだから、怪異の調査まで給料に入ってないだろ」
「入ってないな」
「ならやらなくていい」
「妙に説得力あるな」
「あと、寝不足の時は特に近づくな。前より見えやすいって言ってただろ」
「うん」
「それから」
桂一は少し間を置いた。
「親に会ってこい」
「は?」
山本が眉を寄せる。
「なんで急に?」
「生きてるんだろ、親父さん」
「生きてるよ」
「なら会って話してこい」
「何を?」
「何でもいいよ」
「雑だな」
「飯食うでもいいし。お前が見たものの話なんてしなくていい」
「……何で親?」
「昼に繋がってるもの、増やした方がいいだろ」
山本の表情から、少しだけ笑いが消えた。
「昼?」
「親でも友達でも何でもいい」
「ケイワン」
「夜を辞めろとは言わないよ」
桂一は静かに言った。
「俺だって夜勤好きだったし。夜の仕事が悪いわけじゃない」
「……うん」
「ただ、夜しか残ってない状態にはするな」
山本は返事をしなかった。
フロントの時計の秒針が進む。
愛華も、今度はメモを取らなかった。
「俺さ」
しばらくして山本が言った。
「最近、親父と電話しかしてないわ」
「じゃあちょうどいいだろ」
「実家、ちょっと遠いんだよ」
「生きてるなら行ける」
「簡単に言うなあ」
「今の部屋に入るよりは簡単だろ」
山本が一瞬黙る。
それから、小さく笑った。
「それ言われたら何も返せないわ」
「だろ」
「今度の休み、行ってみる」
「うん」
桂一は少しだけ力を抜いた。
それから、山本を見る。
「ダニエル」
「何?」
「何かあったら、いつでも俺に電話してこい」
「……急にどうした」
「別に」
桂一は一度視線を逸らした。
「お前は、数少ない俺の親友だ」
山本が黙った。
数秒して、照れくさそうに笑う。
「なんだよ、それ」
「嫌なら取り消すけど」
「取り消すなよ」
山本は笑ったまま、少しだけ視線を落とした。
「ケイワンも、俺に電話しろよ」
「何を?」
「何でもいいよ」
「雑だな」
「さっきお前も同じこと言っただろ」
「ああ」
「一人で変なもん見に行く前とかさ」
「それは考えとく」
「そこは電話するって言えよ」
栞が小さく笑った。
愛華も、二人を見ながらどこか嬉しそうにしている。
「桂一さん」
「何?」
「私も、昼に繋がってるものに入ります?」
栞が思わず愛華を見る。
桂一は少し考えた。
「入るんじゃない?」
「本当ですか?」
「こんな時間まで一緒にいて、壁に入ろうとしてる俺を引っ張ったんだから」
愛華の顔が少し明るくなる。
「じゃあ、結構強い繋がりですね」
「それは知らん」
「そこは認めてくださいよ」
「これから次第だろ」
「分かりました」
愛華はメモ帳へ一行書き足した。
栞には、何を書いたのか見えなかった。
桂一はロビーの窓へ目を向ける。
外はまだ暗い。
けれど、真夜中の黒とは少し違っていた。
遠くの空が、ほんのわずかに青み始めている。
もうすぐ朝だった。




