6-7 暖かな部屋
桂一の目には、壁の先へ続くもう一つの廊下が見えていた。
一部屋分。
ほんの数メートルだけ、廊下が先へ延びている。
けれど、その数メートルが妙に遠かった。
今いるホテルの続きなのに、奥行きだけが別の場所へ引き伸ばされているように見える。
その突き当たりに、一枚の扉があった。
周囲の客室と大して変わらない。
色も、形も、取っ手も同じだった。
ただ、部屋番号だけがない。
扉はわずかに開いている。
「……見えた」
桂一が呟いた。
「ケイワンも?」
山本の声がした。
「ああ」
「廊下?」
「伸びてる。一部屋分くらい」
「俺と同じだ」
栞には、何も見えなかった。
桂一の目の前には白い壁がある。
先ほどまでと同じ、ホテルの突き当たりだった。
ただ。
「桂一さん……」
栞は息を呑んだ。
午前三時に見た時より、桂一の姿が明らかに薄い。
透けているわけではない。
服も髪も見える。
輪郭も分かる。
それなのに、同じ場所に立っているように感じられなかった。
数歩先ではない。
もっと遠くにいる人間の姿だけが、そこへ重なっているように見える。
「相沢さん」
愛華が小さく呼ぶ。
「うん」
「さっきより……」
「私も見えてる」
愛華の手が、栞の袖を掴んだ。
「桂一さん」
栞が少し強く呼ぶ。
返事がない。
「桂一さん!」
「……聞こえてる」
返ってきた声まで遠く感じた。
「一回戻ってください」
「ちょっと待って」
「でも」
「中に人がいる」
山本が息を呑んだ。
「いる?」
「ああ」
「俺にも見える」
桂一は目を細める。
扉の隙間から、部屋の中が見えていた。
ベッド。
小さな机。
椅子。
暖色の照明。
どこのビジネスホテルにもありそうな、ありふれた部屋だった。
椅子に一人の男が座っている。
年を取っていた。
六十代。
いや、七十に近いのかもしれない。
男はこちらを見ている。
桂一は眉を寄せた。
「……親父?」
「え?」
栞の声がした。
口にしてから、自分でも違うと思った。
父親の顔など、写真でしかほとんど知らない。
幼い頃に亡くなった男が、そのまま生きて年を取っていれば。
こんな顔だったのかもしれない。
そう思っただけだった。
男が少し首を傾けた。
桂一の背中を、冷たいものが走った。
その仕草を知っている。
誰かの話を聞きながら考える時。
相手の言葉に引っ掛かりを覚えた時。
自分でも気付かないうちに、桂一がよくやる癖だった。
男の目を見る。
口元を見る。
椅子への座り方を見る。
「……俺か?」
男が笑った。
自分と同じような目だった。
桂一の足が一歩前へ出た。
「桂一さん!」
栞の声が飛ぶ。
「近づかないって言いましたよね!」
「近づいてない」
そう答えてから、桂一は自分の足元を見た。
さっきより扉が近い。
「……あれ?」
もう一歩。
怖くなかった。
それがおかしかった。
部屋の中は暖かそうだった。
静かだった。
妙に懐かしかった。
大学生の頃。
深夜のフロント。
誰も来ない時間。
パソコンの明かり。
ブログを書いて、アクセスを見て、好きなことを好きな順番で調べていた夜。
仕事を終えた朝。
これから会社へ向かう人たちを見ながら、自分だけ一日を終えているような、少し得をした気分。
夜は好きだった。
今でも嫌いではない。
扉の向こうから、その頃の感覚が流れ込んでくる。
ここなら眠れる。
朝まで頑張らなくていい。
決まった時間に起きなくてもいい。
昼間の人混みへ戻らなくてもいい。
誰かの時間に合わせなくてもいい。
疲れたら眠って。
起きたら好きなことをして。
夜だけで生きていける。
「桂一さん!」
栞の声が遠い。
桂一は手を伸ばした。
扉の取っ手へ触れる。
冷たいと思っていた。
違った。
妙に手に馴染む。
何度も触ったことがあるような感覚だった。
指が自然に回り込む。
「ケイワン、入るな!」
山本の声も聞こえた。
「分かってる」
桂一は答えた。
自分では、本当にそのつもりだった。
確認するだけ。
扉の向こうを見るだけ。
入るつもりなどない。
けれど、手は扉を開いていた。
わずかだった隙間が広がる。
暖かな光が桂一の顔に掛かった。
中の男は、動かない。
ただ待っている。
最初から。
桂一がここへ来ることを知っていたように。
一歩、足が出る。
「桂一さん!」
横から人影が飛び込んだ。
「……愛華?」
目の前に愛華が立っていた。
「こっち見てください!」
「危ないから離れて」
「桂一さんの方が危ないです!」
「俺は大丈夫」
「全然大丈夫じゃないです!」
愛華が両手で桂一の腕を掴んだ。
「ずっと壁に入ろうとしてます!」
「壁?」
「私たちには壁しか見えてません!」
愛華の顔が近い。
青ざめている。
呼吸も速い。
腕を掴む指には力が入っていた。
その感触が、妙に鮮明だった。
桂一は反射的に愛華の肩を掴んだ。
「……愛華」
「はい」
すぐ近くから返事が来る。
今度は、はっきり聞こえた。
愛華の肩。
服の感触。
人間の体温。
後ろには栞がいる。
山本もいる。
空調の低い音。
遠くで水の流れる音。
客室のどこかから微かに聞こえるテレビの音。
こちら側の音だった。
桂一は愛華の肩越しに、扉の向こうを見る。
まだ男がいる。
笑っていた。
来い。
声など聞こえない。
それでも、そう言っているのが分かった。
桂一は男を睨みつけた。
「……俺は、お前とは違う」
男の笑みが消えた。
ほんの一瞬。
寂しそうな顔をしたように見えた。
桂一の身体が、それでもわずかに前へ傾く。
その瞬間だった。
胸の真ん中へ、凄まじい衝撃が走った。
「ぐっ!」
息が止まった。
誰かが胸へ手のひらを当て、そのまま力任せに突き飛ばした。
そうとしか思えなかった。
桂一の手が愛華の肩から離れる。
一歩。
二歩。
三歩。
身体が後ろへ押し戻された。
「桂一さん!」
足がもつれる。
桂一は膝をついた。
「っ……げほっ」
咳き込む。
胸が痛い。
殴られた痛みではない。
胸の中央へ平手を叩きつけられ、そのまま身体ごと押し返されたような圧力だった。
シャツの上から胸を押さえる。
その下で、ネックレスの飾りが肌へ強く押し付けられていた。
「桂一さん!」
栞が駆け寄る。
「誰かに……押された」
「え?」
「今、誰か俺の胸押した?」
「誰もいません!」
愛華が答える。
「急に桂一さんだけ後ろに飛びました」
桂一は顔を上げた。
廊下の奥を見る。
白い壁があった。
扉はない。
その先の部屋も。
年老いた男も。
すべて消えていた。
「……消えた」
山本が呟いた。
桂一は壁を睨んだまま動かなかった。
額には、玉のような汗がいくつも浮き出ている。
こめかみを伝い、頬へ流れ落ちた。
息もまだ荒い。
苛立ったように眉を寄せる。
「あいつ、俺を待っていやがった」
「桂一さん……」
栞がそばに膝をつく。
桂一はまた咳き込んだ。
「相沢、愛華」
二人を見る。
「助かった」
愛華が目を見開いた。
栞も、すぐには何も言わなかった。
「一人だったら、今のはまずかったかもしれない」
桂一自身がそう認めたことの方が、栞には怖かった。
「立てますか?」
「多分」
「多分じゃ困ります」
栞は急いで桂一の腕を取り、自分の肩へ回した。
「ほら、ゆっくり」
「悪い」
桂一が立ち上がる。
少しふらついた。
栞は身体を支えたまま、ポケットからハンカチを取り出した。
「汗、すごいですよ」
「そんなに?」
「動かないでください」
額。
こめかみ。
頬。
栞が手早く汗を拭っていく。
桂一は珍しく抵抗しなかった。
「……一度に色々起きすぎたな」
胸を押さえ、ゆっくり息を吐く。
「ロビーで休ませてくれ」
「最初からそのつもりです」
「愛華」
「はい」
「大丈夫?」
「それ、私が聞く方ですよ」
「そうか」
「そうです」
愛華はまだ青ざめていたが、桂一の返事を聞いて少しだけ表情を緩めた。
山本は一人、白い壁を見ていた。
「ダニエル」
「……うん」
「お前も戻るぞ」
「ああ」
山本がようやく壁から目を離す。
誰も、もう一度近づこうとは言わなかった。
四人はエレベーターへ向かう。
栞に肩を借りながら歩く桂一が、一度だけ振り返った。
そこにはもう。
ただの壁しかなかった。




