6-6 扉
午前三時。
栞は、一階奥の小さな部屋の扉を軽く叩いた。
「愛華ちゃん。三時だよ」
返事はない。
もう一度叩く。
「愛華ちゃん?」
「……はい」
少し間があって、眠そうな声が返ってきた。
やがて扉が開く。
愛華は髪を少し乱し、ぼんやりした顔で立っていた。
「おはよう」
「……おはようございます」
「眠そう」
「起きてます」
「目、半分しか開いてないよ」
「起きてますって」
愛華が小さく欠伸をする。
栞は笑いながら、その頭へ手を伸ばした。
「ちょっと待って」
「え?」
「ここ、すごいことになってる」
後頭部の髪が一束だけ、見事に跳ねている。
栞は指で軽く梳き、寝癖を押さえた。
「相沢さん、直ります?」
「多分」
「多分なんですか」
「水つければ早いけど、これくらいなら大丈夫じゃない?」
何度か手櫛で整える。
「はい。だいぶマシ」
「ありがとうございます」
愛華が自分でも髪を触って確かめる。
「寝癖ついてました?」
「結構」
「桂一さんに見られる前で良かった……」
「そこ気にするんだ」
「気にしますよ!」
栞は少し笑った。
こうしていると、つい数時間前まで怪しいホテルの壁を見ていたことが嘘のようだった。
「ほら、準備して。桂一さんたち待ってるよ」
「はい」
愛華は部屋へ戻り、机の上に置いていたメモ帳を手に取った。
丸っこいキャラクターが描かれた表紙。
その横には、学校でも使っているらしい淡い色のシャープペンと消しゴムが置かれている。
それらを鞄へ入れる。
「それも持ってくの?」
「もちろんです。何かあったら書きます」
「やっぱり真面目だね」
「見に来たんですから」
廊下へ出ると、桂一が壁にもたれて待っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
桂一が愛華を見て、少し首を傾げる。
「寝られた?」
「多分」
「多分?」
「気付いたら栞さんに起こされました」
「それは寝てたって言うんだよ」
「あと、寝癖も直してもらいました」
「報告しなくていいよ」
栞が言う。
「相沢、すっかりお姉ちゃんだな」
「放っておいたら、このまま出てきそうだったので」
「出ませんよ!」
愛華が髪を押さえる。
「多分」
「栞さんまで!」
三人の声が、小さく廊下に響いた。
まだ午前三時だった。
フロントへ戻ると、山本も準備をしていた。
夜中の三時を過ぎたホテルは、二十三時頃よりさらに静かだった。
自動ドアの向こうを走る車もほとんどない。
ロビーの照明だけが、妙に明るく感じられる。
「行く?」
山本が聞く。
「行こう」
桂一が立ち上がった。
四人でエレベーターに乗る。
六階へ上がる間、愛華は小さく欠伸をした。
「眠いなら下で待っててもいいよ」
桂一が言う。
「嫌です」
「即答だな」
「そのために起きたんですから」
「まあ、そうだな」
六階に着く。
扉が開く。
廊下は、先ほどと何も変わっていなかった。
暖色の照明。
暗いカーペット。
並んだ客室の扉。
空調の低い音。
山本を先頭に、突き当たりまで歩く。
白い壁があった。
「まだない」
山本が言った。
「見えない?」
「壁」
「俺も壁だな」
桂一が答える。
栞にも、ただの壁にしか見えない。
「四時じゃないと駄目なんですかね」
愛華が小声で言う。
「いつも四時きっかりじゃないよ」
山本は壁を見たまま答えた。
「三時過ぎに見たこともある。ただ、四時前後が多い」
「じゃあ、もう出てもおかしくないんだ」
「そうだね」
桂一が壁へ近づく。
六階へ来た最初の時と同じように、突き当たりの真正面へ立った。
「……」
栞は何気なくその背中を見ていた。
最初は、何がおかしいのか分からなかった。
目の焦点がずれたのかと思った。
一度瞬きをする。
それでも、何かが変だった。
「……あれ?」
思わず声が出る。
「どうした?」
桂一が壁を見たまま聞いた。
栞は目を擦った。
隣で、愛華も同じように目を細めている。
「相沢さん」
「うん」
「なんか……」
愛華が声を落とした。
「桂一さんが薄いような。私だけですか?」
「……私もそう見える」
「俺?」
桂一が振り返った。
その瞬間、違和感が少し弱くなった。
だが、まだ完全には消えていない。
透けているわけではなかった。
壁が身体の向こうに見えているわけでもない。
輪郭そのものはある。
ただ。
同じ廊下に立っているのに、桂一だけが少し遠くにいるように見えた。
数歩先ではなく。
もっと遠い場所から、その姿だけをこちらへ重ねているような。
「薄いって何?」
桂一が自分の腕を見る。
「俺、普通だけど」
「透けてるわけじゃないんです」
栞は言葉を探した。
「なんというか……存在感が薄いというか」
「幽霊みたいってこと?」
「そこまでじゃないです」
愛華も首を傾げる。
「でも、さっきより遠くに見えます」
「俺ここにいるけど」
「分かってます」
桂一が一歩、こちらへ戻った。
「あ」
愛華が声を上げる。
「今、戻った」
「戻った?」
「普通になりました」
栞にも同じだった。
数歩しか動いていない。
それなのに、さっきまでの妙な距離感が消えている。
「もう一回行ってみる?」
桂一が言う。
「行くんですか?」
「確認しないと分からないだろ」
再び壁へ近づく。
同じ場所に立つ。
数秒。
「……やっぱり」
今度は栞にもすぐ分かった。
桂一が、わずかに薄くなる。
「愛華ちゃん?」
「見えます」
「ダニエル」
桂一が壁の前から呼ぶ。
「俺、変に見える?」
「そうか?」
山本は不思議そうに首を傾げた。
「普通だけど」
栞と愛華が同時に山本を見る。
「本当に?」
栞が尋ねる。
「うん。普通にケイワンだよ」
「私たちには薄く見えるんです」
「照明じゃない?」
「二人とも?」
「……じゃあ何だろうな」
山本は本当に何も分かっていないようだった。
桂一が壁から離れる。
また、いつもの姿に戻った。
「時間が近いからかな」
愛華が言う。
「何の時間?」
栞が聞く。
「その……廊下が出る時間」
「境目が近くなってるってこと?」
「分かりませんけど」
桂一は壁を見る。
「あり得なくはないな」
「やめろよ」
山本が小さく言った。
冗談を言う時の声ではなかった。
「俺には普通に見えるんだぞ」
「それも気になるな」
「嫌な言い方するなよ」
「悪い」
桂一はそれ以上、壁へ近づかなかった。
「一回戻ろう」
「いいんですか?」
愛華が聞く。
「今はまだ壁しかないしね」
「でも、もう少し待ったら出るかも」
「廊下で四人並んで待つわけにもいかないだろ。宿泊客もいるんだから」
「あ」
「ここホテルだぞ」
「そうでした」
「そこ忘れるなよ」
四人は一階へ戻った。
愛華はソファへ座るなり、メモ帳を開いた。
淡い色のシャープペンを走らせる。
「何て書いてるの?」
栞が聞く。
「三時。扉なし。桂一さんが壁の近くだけ薄く見えた。栞さんも確認。山本さんには普通に見える」
「しっかり書くね」
「こういうの、後で絶対忘れますよ」
「そうだね」
桂一は横から覗き込む。
「俺が薄い、だけだと後で意味分からなくなりそうだな」
「じゃあ、遠くにいるみたいに見える、も書きます」
「それなら分かる」
「桂一さんは何も感じなかった、と」
「うん」
「怖くなかったですか?」
「全然」
「それも書いときます」
「そこまで?」
「重要そうなので」
山本はフロントへ戻っていた。
三時十五分。
三時二十分。
三時半。
時間だけが静かに進んでいく。
宿泊客からの電話があれば、山本はいつも通り受話器を取った。
何かを尋ねられれば、落ち着いた声で答える。
必要な処理もする。
仕事をしている間は、何も変わらない。
ただ。
手が空くたびに、時計を見る。
最初は栞も気にしていなかった。
その回数が増えるにつれて、嫌でも目に入るようになった。
「ダニエル」
桂一が声を掛ける。
「何?」
「さっきから時計見過ぎ」
「そう?」
「そう」
山本は否定しなかった。
時計を見る。
今度は、自分でも気付いたのかすぐ視線を逸らした。
「なんかさ」
「うん」
「今日、出る気がする」
愛華のシャープペンが止まった。
「何で分かるんですか?」
「分からない」
「でも出るって?」
「そんな感じがするんだよ」
桂一が山本を見る。
「前にもあった?」
「ある」
「見える前に?」
「……多分」
「どんな感じ?」
山本はしばらく考えた。
「帰らなきゃいけない感じ」
「帰る?」
「違うな」
自分で否定する。
「部屋に戻らなきゃいけない、みたいな」
「自分の部屋でもないのに?」
「そうなんだよ」
山本が苦しそうに笑った。
「おかしいだろ」
桂一は笑わなかった。
「今日は一人で行くなよ」
「分かってる」
「見えても近づかない」
「分かってるって」
「返事だけじゃなくて」
「分かってるよ」
山本の声が少し強くなる。
桂一はそこで止めた。
三時五十分。
愛華がメモ帳を閉じる。
もう眠そうではなかった。
三時五十五分。
山本が時計を見た。
「……行こう」
誰も反対しなかった。
エレベーターの中で、会話はなかった。
六階へ到着する。
山本が最初に降りる。
栞。
愛華。
最後に桂一。
廊下は静かだった。
だが、栞は数歩進んだところで足を止めそうになった。
何かが違う。
何が違うのか、すぐには分からない。
照明も同じ。
壁紙も同じ。
客室の扉も同じ場所にある。
「……相沢さん」
愛華も気付いたらしい。
「何?」
「廊下、こんな感じでしたっけ」
やはり説明出来ない。
長いように見える。
実際に長くなっているわけではない。
突き当たりの壁も見えている。
それなのに、そこまでの距離だけが曖昧だった。
「ダニエル」
桂一が呼ぶ。
山本は返事をしなかった。
廊下の奥を見ている。
「見えてる?」
「……うん」
小さな声だった。
「もう?」
「ああ」
「壁じゃない?」
「廊下」
栞には、まだ壁が見えている。
「どこから?」
「壁の先」
「どのくらい?」
「一部屋分」
以前聞いたのと同じ答えだった。
「扉も?」
「ある」
山本が息を呑む。
「今日は開いてる」
「人は?」
しばらく返事がなかった。
「いる」
桂一が山本の横へ並ぶ。
壁を見る。
「俺にはまだ見えない」
「本当に?」
「壁だよ」
「俺にはある」
山本の足が、ほんの少し前へ出た。
桂一が腕を掴む。
「行くな」
「……分かってる」
「今、行こうとしただろ」
「してない」
「したよ」
山本は何も言わなかった。
栞の背中に冷たいものが走った。
愛華も、さっきまでの好奇心だけの顔ではなくなっている。
「桂一さん」
「うん」
「さっきより……」
「何?」
「また薄く見えます」
栞も桂一を見る。
午前三時より、はっきりしていた。
壁の近くにいる桂一の輪郭が、周囲へ馴染み始めている。
そこにいる。
なのに。
少しずつ、こちら側の人間ではなくなっていくように見えた。
桂一自身は壁から目を離さない。
「相沢」
「はい」
「愛華とダニエル連れて、少し後ろに下がって」
「桂一さんは?」
「一回、一人になってみる」
「駄目です」
栞はすぐに答えた。
「近づかないよ」
「さっき山本さんにも同じこと言ったじゃないですか」
「俺はまだ見えてない」
「だからです」
桂一が振り返る。
少し考えてから、笑った。
「じゃあ、すぐ後ろにいて」
「それなら」
「ただ、話しかけるの少し待って。条件を変えたい」
「……分かりました」
栞は愛華の肩へ手を置き、数歩下がった。
山本も一緒に下げる。
桂一だけが、白い壁の前に残った。
一度、目を閉じる。
開く。
壁。
後ろを向く。
誰も喋らない。
桂一がもう一度、振り返った。
白い壁だった。
もう一度。
背を向ける。
過去の自分を思い出してみた。
ナイトフロント、楽しかった客室対応、朝と夜が逆転した心地良さ、遅刻ギリギリの大学への通学。
今とは違う楽しさがあった日々。
そして。
振り返る。
栞には、まだ壁しか見えなかった。
けれど。
桂一の動きが止まった。
「……桂一さん?」
返事がない。
その横顔から、さっきまでの軽さが消えていた。
桂一の目には。
壁の先へ続く、もう一つの廊下が見えていた。
その一番奥に。
一枚の扉があった。




