6-5 水野桂一
六階から戻ると、山本はフロントの中へ入った。
「とりあえず、今は何もなしだな」
「ただの壁だったな」
「俺が嘘ついてるみたいだろ」
「そんなこと言ってないよ」
桂一は笑いながら、ロビーのソファへ腰を下ろした。
机を挟み、愛華は鞄から小さなメモ帳を取り出した。
表紙には、丸っこい動物のキャラクターが描かれている。
続いて出てきたのは、淡い色のシャープペンだった。
学校でも使っているものなのだろう。
さっきまで怪異の話をしていたのに、机へ並べると急に高校生らしく見える。
「何書いてるの?」
栞が尋ねた。
「さっきのことです」
愛華はメモ帳を見ながら答える。
「六階。突き当たりの壁は普通。向こうに部屋が入る空間はない。見える時は壁がドアになるんじゃなくて、廊下が一部屋分伸びる」
横にはホテル名や時間が書いてあった。
「ちゃんと書いてるんだ」
「忘れたら勿体ないじゃないですか」
「偉いね」
桂一が言う。
「桂一さんが、見たこととか気付いたことは残した方がいいって言ったんですよ」
「言ったっけ?」
「言いました」
「じゃあ言ったんだろうな」
「適当ですね」
愛華は少し呆れながらも、またメモ帳へ視線を落とした。
その時、フロントの内線電話が鳴った。
山本がすぐに受話器を取る。
「はい、フロントでございます」
さっきまで桂一と話していた時より、声音が一段上がった。
ホテルマン特有の優し気な声だ。
「はい。はい。かしこまりました。お部屋までお持ち致しますね」
受話器を置く。
「急にホテルの人になった」
愛華が呟く。
「ホテルの人だよ」
山本が笑った。
「追加で枕が欲しいってさ。ちょっと届けてくる」
「いってらっしゃい」
「お前んちじゃないぞ」
山本が必要な物を用意し、エレベーターへ向かう。
扉が閉じた。
「ちゃんと仕事してるんですね」
愛華が言った。
「失礼だな」
桂一が笑う。
「ずっと喋ってるから」
「夜勤って、何もない時はこんなもんだよ。何かあったら急に動く」
「桂一さんの時も?」
「そうそう。独り言も多くなるし」
「なんかリアルだなー」
それから数分もしないうちだった。
入口の自動ドアが開いた。
大きなキャリーケースを引いた外国人の男性が、一人で入ってくる。
愛華が急に目を逸らした。
栞が見ると、腕に炎のようなタトゥーが入っていた。
男性はフロントを見る。
誰もいない。
それからロビーを見回し、なぜか真っ直ぐ桂一のところへ歩いてきた。
いつもの白いワイシャツ姿だから、ホテルの従業員だと思ったのかもしれない。
男性が何かを話しかける。
気だるげな桂一が笑顔で立ち上がる。
愛華の身体が、目に見えて固まった。
シャープペンを持ったまま動かなくなっている。
栞も聞き取ろうとしたが、知っている単語がところどころ耳に入る程度だった。
桂一は男性の話をしばらく聞いた。
一度首を傾げる。
それから手の平を下へ向け、ゆっくりというような仕草をした。
男性も察したらしい。
今度は言葉を区切りながら話す。
時計を指差した。
「朝飯?」
男性が頷く。
「時間?」
また頷いた。
続けて、両手で何かを持つような仕草をする。
「パン? ブレッド?」
男性の顔が明るくなった。
桂一も頷く。
どうやら、明日の朝食が何時からなのか。
それから、パンがあるのか知りたいらしい。
ただし、桂一が知っているのもそこまでだった。
このホテルの朝食時間など知らない。
何が並ぶのかも当然知らない。
桂一はフロントを指差し、スタッフがすぐ戻ってくることを、単語と身振りで伝えた。
男性は笑って頷いた。
普通なら、それで会話は一度終わりそうなものだった。
だが、桂一はそのまま何かを尋ねた。
男性が答える。
「オーストラリア?」
また何か返ってくる。
桂一が少し考えた。
「コアラ?」
「Koala?」
聞き取れた単語を口にした途端、二人で笑い始めた。
愛華が栞を見る。
「……何があったんですか?」
「分からない」
今度は男性が、腰の辺りへ何かを差すような仕草をした。
桂一が吹き出す。
さらに男性は、自分の頭の両脇で手を大きく広げた。
髪を派手に膨らませるような動きだった。
桂一がますます笑う。
「何の話してるんですか、あれ」
「私にも全然分からない」
二人が不思議そうに見ているところへ、エレベーターが開いた。
山本が戻ってくる。
「どうした?」
「明日の朝飯の時間と、パンが出るか聞きたいらしいよ」
「ああ。朝六時から」
「パンは?」
「トーストと、小さいクロワッサン。あと麦芽パンもあるな」
「分かった」
桂一は男性へ向き直った。
時計を指し、指で六を示す。
続いてパンの種類を、一つずつ身振りも交えながら説明していく。
男性は嬉しそうに頷いた。
話を聞いていると、旅行中の朝食は米が続いていて、明日はパンを食べたいらしい。
説明が終わると、男性がもう一つ尋ねた。
「ジャム?」
今度は桂一にもすぐ分かった。
「ダニエル、ジャムは?」
「バター、いちご、マーマレード」
「了解」
それも順番に伝える。
男性は満足そうに何度も頷いた。
最後に二人で笑いながら何か言葉を交わし、男性はキャリーケースを引いてエレベーターへ向かった。
「桂一さんって、英語堪能なんですね」
栞が言った。
「ん?」
「私、何言ってるかほとんど分かりませんでした」
「私もです」
愛華も頷く。
「でも、なんかいい雰囲気でしたね」
「ああ」
桂一が笑う。
「オーストラリアって言うから、オーストラリアならコアラかって聞いたんだよ」
「はい」
「そしたら、見たことないってさ」
「え?」
「向こうも日本に来たら侍見られると思ってたらしい」
「侍?」
「あと、ガングロギャル」
「いつの日本ですか!」
愛華が吹き出した。
「俺もコアラって言ってるからな。お互いそのレベルかって」
桂一も思い出して笑う。
「なんか楽しくなっちゃって」
「それで二人で笑ってたんですね」
「そうそう」
山本がフロントの中から口を挟む。
「ケイワンの凄いところはな。英語ならまだ分かるんだけど、イタリア、フランス、モンゴルの言葉? 何でもいけるんだよ」
「えっ」
愛華が桂一を見る。
「そんなに話せるんですか?」
「格好良く言うなよ」
桂一が嫌そうな顔をする。
「みんな半分は日本語か英語が混ざってたぞ」
「でも、話してただろ」
「話すのと喋れるのは違うだろ」
「フランス語もやってたじゃん」
「大学で少しやっただけ」
「イタリアは?」
「挨拶くらい」
「モンゴル語は?」
「挨拶くらい」
「全部挨拶じゃないですか」
愛華が笑う。
「それでいいんだよ」
桂一は平然としていた。
「こんにちはと、ありがとうくらい相手の言葉で言えれば、話し始めやすいだろ」
「その先は?」
「単語と身振り」
「雑ですね」
「でも、さっき通じただろ」
「……通じてました」
山本が苦笑した。
「それが出来ないんだよ。俺が外国人相手に、そこそこ話す度胸ついたの最近だぞ」
「お前、それは遅すぎるだろ」
「うるさいな」
「そういえば」
栞が思い出した。
「事務所の棚に外国語の本がありましたね」
「ああ」
「世界の挨拶……」
「世界の挨拶トップテンな」
「それです」
愛華が首を傾げる。
「そんな本あるんですか?」
「あるよ」
「それ読んだんですか?」
「読んだ」
桂一は少し考えてから笑った。
「あれ、手垢つくまで読んだら、大体なんとかなる」
「挨拶だけで?」
「最初の壁は越えられる」
「そこから先が大変なんじゃないですか?」
「分からなかったら、分からないって顔すればいいだろ」
「それでいいんですか?」
「相手も人間だからな」
愛華は少し考えた後、メモ帳へ何かを書き足した。
「今のも書くの?」
「書きます」
「何て?」
「分からなかったら、分からないって顔をする」
「そこ?」
「大事そうなので」
「好きにして」
淡い色のシャープペンが、キャラクターの横で小さく動いた。
栞が時計を見る。
日付が変わるまで、まだ少し時間があった。
「愛華ちゃん」
「はい?」
「そろそろ寝た方がいいんじゃない?」
「えっ」
「三時に一回見に行くんでしょ」
「はい」
「なら今寝ないと」
「全然眠くないです」
「遠足前の子どもと同じこと言ってる」
「高校三年生ですよ!」
「それは知ってる」
桂一も時計を見る。
「相沢の言う通りだな。今のうちに寝といた方がいいよ」
「桂一さんは寝ないんですか?」
「俺は今日、夕方まで寝てたから」
「事務所で?」
「うん」
「だから朝あんなに眠そうだったんですね」
「誰かさんに起こされたからな」
「それはすみませんでした」
「絶対思ってないだろ」
「思ってますよ」
山本が笑いながら鍵を取り出した。
「寝るなら部屋借りてるよ」
「部屋?」
「一階の端にある小さい部屋。普段はバスの運転手さんとか添乗員さんが泊まる時に使ってる」
「そんな部屋あるんですか?」
愛華の目が一気に輝いた。
「見たいです」
「寝るために行くんだぞ」
「見てから寝ます」
「元気だなあ」
山本に案内され、一階の奥へ進む。
客が通る廊下とは少し雰囲気が違った。
従業員用の扉や倉庫が並び、その奥に小さな部屋がある。
山本が鍵を開けた。
「どうぞ」
「……わあ」
愛華が中を覗き込む。
狭かった。
シングルベッドが一台。
小さな机と椅子。
テレビ。
冷蔵庫。
洗面台。
必要なものだけが、ぎりぎり収まっている。
「秘密基地みたいですね」
「寝るだけだからな」
「普通のお客さんは使わないんですか?」
「基本は出さないね」
「バスの運転手さんとかが泊まるんですよね?」
「そう。団体連れてきて、次の日また運転する人とか」
愛華は部屋へ入る。
ベッドの端へ触れかけて、一度手を止めた。
「どうしたの?」
栞が尋ねる。
「なんか、気を使います」
「何に?」
「ホテルに泊まる時って、私たちがサービスを受ける側じゃないですか」
「うん」
「ベッド使って、タオル使って、何かあったらフロントに聞いて」
「そうだね」
「でも、今日は借りてる感じがして。あんまり汚さない方がいいのかなとか、静かにした方がいいのかなって」
「使っていい部屋なんだから、普通に寝ていいよ」
山本が笑う。
「分かってるんですけど。不思議です」
愛華は改めて部屋を見る。
「同じホテルなのに、いつも泊まる時と全然見え方が違います」
「一個裏側を知ったからじゃない?」
桂一が言う。
「次にホテル泊まった時、運転手さんとか添乗員さん見たら、今までと違って見えるだろ」
「はい」
「それでいいんだよ」
桂一が笑う。
「じゃあ、その経験を忘れないためにも寝ろ」
「またそこに繋げる」
「寝ないと三時に起こさないぞ」
「寝ます!」
「その前にさ」
山本が気軽に言った。
「ついでに、俺が寝てるとこも見るか?」
「見たいです!」
愛華が即答した。
「俺も見たい」
桂一まで食いつく。
「桂一さんも?」
「今のナイトの仮眠場所だろ。気になる」
「さっきまで寝ろって言ってたじゃないですか」
「五分くらいならいいだろ」
「こういう時だけ愛華ちゃん側に行くんですね」
栞が呆れる。
山本が笑いながら、さらに奥へ歩いていく。
「ここ」
開けた扉の向こうは、倉庫だった。
「……」
愛華が黙る。
栞も、一瞬言葉が出なかった。
予備の備品や段ボールが並んでいる。
壁際には、かなり頑丈そうな大型の棚があった。
その下段。
本来なら荷物を置くための場所に、布団が敷かれていた。
枕。
毛布。
小さな目覚まし時計。
横になれるだけの幅はある。
しっかりした造りでもある。
だが。
明らかに、人が寝る場所ではなかった。
「……ここですか?」
愛華が尋ねる。
「ここ」
「寝るんですか?」
「寝るよ」
「棚ですよ?」
「俺の寝床」
「棚です!」
愛華が思わず声を上げる。
「さっきの部屋との落差すごくないですか?」
「あっちは運転手さんとか添乗員さん用だから」
「こっちは?」
「従業員」
「逆じゃないですか?」
「お客さん優先だからな」
その横で、桂一だけが妙に羨ましそうに棚を覗き込んでいた。
「昔の俺らの時より、随分マシだな」
「どんなだったんですか!」
「休憩室の机の横」
「はい」
「床にマット敷いて寝てた」
「床?」
「床」
「それより棚の方がいいんですか?」
「床から離れてるだろ」
「判断基準そこなんですか?」
「冬は大事だぞ」
山本まで真顔で頷いた。
「床、冷たいからな」
「そうそう」
「なんで二人とも納得してるんですか」
桂一が布団の方へ少し顔を近づける。
「しかし、おじさん臭すごいな」
「おい」
「ナイトさん、みんな男か?」
「みんな男」
「だろうな」
「リネン室からタオル借りて、枕に敷いたりしてるけどな」
山本が枕を持ち上げる。
白いタオルが一枚巻かれていた。
「何人もここで寝るから、男の臭いは染み付くな」
「本人たちが言うと余計嫌です」
栞が顔をしかめた。
「洗ってるぞ?」
「そういう問題じゃない気がします」
愛華はしばらく棚を眺めていた。
例の壁を見た時より、よほど衝撃を受けているように見える。
「ホテルって、もっと綺麗なところだけだと思ってました」
「表はな」
山本が言う。
「裏は普通に仕事場だよ」
「……面白い」
愛華がぽつりと言った。
「じゃあ今度こそ寝ろ」
桂一が言う。
「こっちじゃないぞ」
「寝ませんよ!」
愛華が即座に返す。
「ちゃんとさっきの部屋で寝ます!」
三人で愛華を仮眠用の部屋まで戻す。
愛華はメモ帳とシャープペンを机へ置き、ベッドへ腰を下ろした。
「三時に起こしてくださいね」
「起こすよ」
栞が答える。
「絶対ですよ」
「分かったって」
「置いていかないでくださいよ」
「高三なんだろ」
桂一が笑う。
「それとこれとは別です!」
「はいはい。おやすみ」
「おやすみなさい」
扉を閉める。
廊下へ出た栞は、時計を確認した。
まだ、午前零時にもなっていなかった。




