6-4 壁
四人を乗せたエレベーターが、静かに上がっていく。
「何階なんですか?」
愛華が声を抑えて尋ねた。
「六階」
山本が答える。
「毎回、同じ場所?」
「今のところはね」
「他の階では見たことないんですか?」
「ないね」
山本の返事が、さっきまでより少し短い。
栞は横目でその顔を見た。
ロビーで愛華と話していた時には、年齢のことを弄られて本気とも冗談ともつかない顔をしていた。
今は違う。
ただ、緊張しているように見えた。
エレベーターが六階で止まった。
扉が開く。
「静かにね。普通にお客さん泊まってるから」
山本が先に降りた。
廊下には、何の変哲もないビジネスホテルの景色が続いている。
暗い色のカーペット。
一定の間隔で並ぶ客室の扉。
暖色の照明。
壁際には部屋番号の案内があり、少し離れたところから空調の低い音が聞こえていた。
いくつかの部屋からは、テレビらしい音が微かに漏れている。
どこかで水を流す音もした。
「普通ですね」
愛華が小声で言う。
「ホテルだからな」
桂一も声を落とした。
「普通じゃなかったら困るだろ」
「そうですけど」
山本は廊下の奥へ進んでいく。
最後の客室を過ぎた。
その先。
廊下は白っぽい壁で終わっていた。
「ここ」
山本が立ち止まる。
愛華が壁を見る。
栞も見る。
どこからどう見ても、ただの壁だった。
「……これですか?」
「これ」
「本当に普通の壁ですね」
「だから困ってんだよ」
山本が答える。
桂一は何も言わず、壁へ近づいた。
壁紙を見る。
天井との境目。
幅木。
カーペットとの接点。
壁の左右まで目を動かす。
それから手の甲で、軽く二度叩いた。
乾いた音がした。
「何してるんですか?」
「一応確認」
「叩くと分かるんですか?」
「壁の向こうが空間かどうかくらいは、なんとなくね」
桂一は少し位置を変えて、もう一度叩いた。
「普通だな」
「だろ?」
「少なくとも今は」
桂一はスマートフォンを取り出した。
壁を一枚。
少し離れて、最後の客室の扉と一緒に一枚。
天井と床が分かるように、もう一枚。
「写真撮るんですね」
「何もない時の写真がないと、比べられないだろ」
「ああ」
「変なのが出た時だけ撮っても、それが変なのか判断出来ないからね」
愛華が感心したように頷く。
桂一はスマートフォンを下ろした。
「ダニエル」
「ん?」
「ドアが見える時って、この壁がドアになるの?」
「少し違う」
「違う?」
「廊下が伸びる」
桂一の視線が山本へ向いた。
栞も思わず壁を見る。
「どれくらい?」
「一部屋分くらいかな」
「今、この壁があるところから先に?」
「そう」
「その先に部屋?」
「うん」
桂一は壁へ近づき、今度は左右を見る。
「ここから先、外だよな」
「外」
山本が即答した。
「図面も見た。建物の外からも確認した。ここに部屋一個入るような空間はない」
「改装前は?」
「支配人にも聞いた。昔からここで終わり」
「設備室とか、配管スペースとか」
「そういうのもない」
「なるほど」
桂一は壁を見たまま頷いた。
愛華が、おそるおそる手を伸ばす。
「愛華」
「はい!」
桂一が壁を見たまま呼んだ。
愛華の手が止まる。
「触るなよ」
「……ちょっと触ろうと思っただけです」
「それを触るって言うんだよ」
「今は普通の壁ですよ?」
「だから?」
「触っても大丈夫かなって」
「わざわざ調べに来て、最初に高校生が触る必要ないだろ」
「確かに」
愛華は素直に手を引いた。
栞が小さく笑う。
「今日は見るだけね」
「はい。了解です」
「返事だけは良いんだよな」
「ちゃんと守ります!」
「ならいいけど」
桂一はもう一度、山本を見る。
「出る時も、ここと同じ照明?」
「多分」
「多分?」
「そこまで見てないんだよ」
「床は?」
「同じだったと思う」
「壁紙」
「多分同じ」
「ドアの色は?」
「他の部屋と同じだった」
「部屋番号は?」
「ない」
山本の答えが少しずつ苛立ったものになる。
「悪いけどさ、見えてる時って、そんなところ気にしてないんだよ」
「うん」
「ドアがあるんだぞ。本来何もないところに」
「分かってる」
「しかも最近は、そこに入りたくなる」
「だから聞いてる」
桂一の声は変わらない。
山本が黙った。
「責めてないよ」
桂一が続ける。
「覚えてないなら、それでいい」
「……悪い」
「謝ることじゃない」
桂一は壁から三歩ほど下がった。
「むしろ次に見えても、細かく確認しようとしない方がいいな」
「え?」
「ドアの色とか、壁紙とか。どうでもいい」
「でも、お前そういうの調べに来たんじゃないの?」
「調べには来たよ」
桂一が壁を見る。
「でも、近づきたくなるものを、観察するために近づくのは違うだろ」
「……」
「仕事の巡回なら、廊下の安全が確認出来ればいい。存在するはずのない部屋を毎回証明する必要はない」
山本は少し考えてから頷いた。
「そうだな」
「それに」
桂一はスマートフォンを軽く振った。
「何もない時の記録は取った」
「それで足りる?」
「今のところはね」
愛華が壁と桂一を交互に見る。
「桂一さん、こういう時って、もっと調べるのかと思ってました」
「調べるよ」
「じゃあ、なんで?」
「調べることと、危ないことするのは別だから」
桂一はあっさり答えた。
「分からないもの全部に手突っ込んでたら、そのうち指なくなるだろ」
「それ、例えですよね?」
「多分」
「多分なんですか?」
栞が思わず笑った。
桂一は壁を指差す。
「それよりダニエル。この一個上か下も同じ構造?」
「同じ」
「後で見せて」
「いいよ」
「外からも見たい」
「明るくなってから?」
「いや、今日でもいい。駐車場から位置だけ確認出来れば十分」
「分かった」
愛華が壁を見ながら尋ねる。
「ドアが出る時間って、やっぱり四時なんですか?」
「絶対じゃないよ」
山本が答える。
「三時過ぎから見ることが多い。四時前後が一番多いってだけ」
「今は十一時前」
桂一が腕時計を見る。
「まだ早いな」
「出ないですかね?」
「出ない方がいいんじゃないの?」
栞が言う。
「それはそうなんですけど……」
「顔が残念そう」
「だって、見に来たんですよ?」
「俺は出ないなら出ないで帰るよ」
桂一が言う。
「ええ?」
「見えなかったっていう結果も結果だろ」
「そうですけど」
「それに、俺らが来たせいで出ない可能性もある」
「人がいるから?」
「ダニエルは一人の時しか見てないんだろ」
「今のところは」
「じゃあ、俺ら三人ぞろぞろ付いて歩いてたら出ないかもしれない」
「それ困ります」
愛華が真剣な顔をする。
「なんで君が困るんだよ」
「せっかく来たのに」
「観光じゃないんだぞ」
栞は笑いながらも、もう一度壁を見る。
ホテルの突き当たり。
白い壁。
天井の照明。
床のカーペット。
何も変わったところはない。
むしろ、じっと見ていることの方がおかしいくらいだった。
その壁の向こうに、山本だけが見た廊下と部屋がある。
そう言われても、今は想像するしかない。
「戻ろうか」
桂一が言った。
「フロント空けっぱなしにしてる方が気になる」
「それな」
山本も時計を見る。
「この時間でも電話来る時あるし」
四人は来た道を戻り始めた。
愛華だけが数歩進んだところで、一度振り返る。
壁は、まだそこにあった。
当然だった。
「井浦さん」
山本が小声で呼ぶ。
「置いてくよ」
「あ、はい!」
愛華が慌てて追いつく。
エレベーターの前で待っていた桂一が笑った。
「気になる?」
「気になります」
「俺も」
「え?」
「気になるから来たんだよ」
エレベーターの扉が開く。
乗り込む直前、桂一も一度だけ廊下の奥を振り返った。
白い壁には、やはり何もなかった。




