6-3 井浦とダニエル
愛華が事務所へ戻ってきたのは、五分もしないうちだった。
「大丈夫です」
「何が?」
「行っていいって」
「早いな」
桂一が呆れたように顔を上げる。
「ただし、条件があります」
「ほら」
「お母さんも同じホテルに泊まります」
「……お母さんも?」
「はい」
愛華は少し得意そうだった。
「あと、水野さんと話したいって」
「今?」
「今です」
「展開が早いんだよ」
そう言いながらも、桂一は愛華からスマートフォンを受け取った。
桂一は受け取ってからスピーカーにしていたのに気づいたようだ。
愛華が得意げに栞をみる。
どうやら成り行きを一緒に聞きたいらしい。
「お電話変わりました。水野と申します」
『突然すみません。井浦の母です』
「いえ、なにか妙な話になってしまって」
『いいんです。本人から大体聞きました』
どこまで聞いたのだろう、と栞は少し気になった。
『愛華は、夜のホテルを見学したいと言っているんですよね』
「はい。ただ、ホテルの仕事を見学するわけではないんです」
桂一は少し言葉を選んだ。
「色々やらせていただいている私の仕事のうち、取材というものがありまして。今回は、その作業を見せる形ですね」
『ホテルのお仕事に関わったりは?』
「それはありません。ホテル側も未成年を深夜の仕事に雇うことはないでしょうし、受付や会計、宿泊者の情報を扱わせることもありません」
『それなら大丈夫です』
「……いいんですか?」
桂一の方が聞き返した。
『本人がやりたいと言ってますから』
落ち着いた声だった。
『せっかく水野さんのところへ行ったのに、何も見ないで帰ってくるよりは、見られるものは見てきた方がいいと思っています』
「随分、信用してもらってますね」
『娘が前から話していましたので』
桂一が愛華を見る。
愛華は何故か少し得意そうだった。
「俺について、何話したの?」
「色々です」
「怖いな」
『ただ、お願いがあります』
「はい」
『何か危ないと思ったら、その時点で部屋へ戻してください』
「分かりました」
『あと、本人が調子に乗ったら止めてください』
「それは多分、一番大変です」
「聞こえてますよ!」
愛華が横から抗議した。
電話の向こうで、小さく笑う声がした。
『当日は、私も同じホテルに泊まります』
「お母さんも?」
愛華まで驚いた。
『愛華も宿泊客として泊まっている、という形にすれば、ホテル側にも理解していただきやすいかと思いますので』
「それは助かります」
『私は部屋におります。何かあれば、すぐ連絡してください』
「分かりました。ただ、最終的にはホテル側の許可次第になります」
『もちろんです』
「見せられない場所や情報もありますから、その辺は俺からも止めます」
『お願いします』
通話を終え、桂一がスマートフォンを愛華へ返す。
「強いな、君のお母さん」
「そうですか?」
「普通、高校生の娘が夜中のホテル見に行きたいって言ったら、もう少し止めると思う」
「ちゃんと安全なら、やってみればいいっていう人なので」
「なるほどね」
「じゃあ、行けます?」
「ダニエルとホテル側がいいって言ったらな」
「やった!」
「まだ決まってないって」
到底、まだ決まっていないと思っている顔ではなかった。
二日後。
午後十時を少し過ぎた頃、栞たちは山本が勤めるビジネスホテルへ到着した。
大きな駅から少し離れた幹線道路沿いにある、八階建てのホテルだった。
特別新しくもなければ、古びてもいない。
駐車場には県外ナンバーの乗用車や、仕事で使っているらしい白いバンが並んでいる。
金曜日ということもあってか、駐車スペースはかなり埋まっていた。
自動ドアが開く。
明るいロビーの奥にフロントが見えた。
「こういうホテル、久しぶりです」
愛華が周囲を見回す。
その隣には母親がいた。
初めて会った栞は、愛華とは随分印象が違う人だと思った。
似ていないわけではない。
目元を見ると、確かに親子だと分かる。
ただ、愛華の可愛らしい雰囲気に対して、母親はずっと落ち着いて見えた。
細い縁の眼鏡。
落ち着いた色のジャケットにパンツ姿。
肩には仕事用らしい大きめのバッグを掛けている。
少し開いた口からは、ノートパソコンの角まで見えていた。
「今日はよろしくお願いします」
母親が先に頭を下げた。
「こちらこそ。夜遅くにすみません」
桂一も頭を下げる。
「娘が無理を言っているだけですから」
「無理じゃないよ」
「あなたは黙ってなさい」
「はい」
愛華が素直に引いた。
その時、フロントの奥から声が飛んできた。
「ケイワン!」
「ホテルでその呼び方すんなよ」
桂一が嫌そうな顔をする。
山本健太は、電話で受けた印象そのままの男だった。
桂一より一つ年上だと聞いていたから、三十歳のはずだ。
ただ、そう言われなければ、もう少し上に見える。
目元なのか、肌なのか。
長い夜勤生活のせいなのかもしれない。
少なくとも桂一と並んで、一歳しか違わないとは思いにくかった。
「久しぶり!」
「元気そうじゃん」
「電話でも元気だっただろ」
「悩んでる割にはな」
「それはそれ、これはこれ」
山本が笑う。
ホテルの制服を着て、胸元にはきちんと名札も付いていた。
そこには当然、山本健太と書かれている。
「まず、チェックインお願いします」
山本はすぐに仕事の顔へ戻った。
「井浦様、お名前お願いいたします」
愛華の母親が宿泊カードへ記入する。
「今日は金曜日だからな。さっきまで結構忙しかったんだよ」
山本が桂一たちへ言った。
「団体もいたし、チェックイン重なっててさ」
「今は?」
「予約上、残ってた最後のお客さんが井浦さん」
「じゃあ落ち着いたところ?」
「大体ね。あとは旅行サイトから予約入ったら、FAXとかメール確認して処理するくらいかな。遅れて来る客とか、飛び込みがなければ」
「夜は一人?」
「基本一人」
「そっか」
「お前らと働いてた頃とは違うよ。あそこは繁華街近かったから、夜も二人いたけど」
「酔っ払い多かったもんな」
「多かったなあ」
「その話は後で聞きたいです」
栞が言うと、山本が嬉しそうに笑った。
「いっぱいありますよ」
「余計なこと言うな」
「さて、カードキーも預かりましたし、ご挨拶させていただきますね」
チェックインを終えた愛華の母親がそう言った。
「俺、ちょっと残ってる処理してくるわ」
山本がフロント奥を指す。
「支配人から話は通ってるから、館内のことは後で説明する」
「分かった」
「逃げるなよ」
「俺、勤務中だから」
山本は笑いながら奥へ戻っていった。
四人はフロント前を離れ、少し離れたロビーのソファへ場所を移した。
愛華の母親がバッグから名刺入れを取り出す。
「改めまして」
桂一へ一枚差し出した。
「井浦です。今日は娘がお世話になります」
「こちらこそ」
桂一が名刺を受け取る。
そこには、小さな井戸を模したロゴがあった。
その隣に、『いうら会計事務所』と書かれている。
「井浦さんが経営されているんですか?」
栞が尋ねた。
「ええ。私と夫で。小さいですが、幸い不自由ないくらいの取引先はいただいています」
「ロゴも可愛らしくて、ひらがなだと覚えやすいですね」
桂一が名刺を眺めながら言った。
「やっぱり良い視点ですね」
井浦が少し嬉しそうに笑った。
「そうです。それを狙って、ひらがなにしてみました」
「井戸のマークも、井浦だからですか?」
「はい。夫が最初に考えまして。少し安直かなとも思ったんですけど」
「いや、良いと思いますよ。一回見たら覚えます」
桂一がもう一度名刺へ目を落とす。
それから少し考えた。
「あの」
「はい」
「うちの会計もお願いしていいですか?」
「え?」
栞が思わず桂一を見る。
井浦も一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑った。
「もちろん、ご相談なら」
「本気でお願いします」
「そんなに困ってるんですか?」
栞が聞く。
「困ってるっていうより、そろそろ面倒になってきた」
「今まで自分でやってたんですか?」
「うん」
「どうして?」
「面白かったから」
「会計が?」
「最初はね」
桂一は何でもないことのように答えた。
「売上が入って、経費があって、どこからいくら残るか見えるの、結構面白いんだよ」
「それは分かります」
井浦が頷いた。
「ですよね」
「でも、事業が増えてくると、急に面倒になりますよ」
「まさに今そこです」
桂一が即答した。
「収入先が増えすぎた」
「それなら、一度きちんと整理した方が良さそうですね」
「お願いします」
「帰ったら夫にも話してみます」
「助かります」
井浦が笑う。
「愛華がお世話になるつもりで来たのに、こちらが仕事をいただく話になりましたね」
「それはそれ、これはこれです」
「桂一さん、こういうところ本当に早いですよね」
「良さそうだと思ったら、聞いてみるだけだよ」
桂一は受け取った名刺をしまう。
それから、自分の名刺入れを取り出した。
「じゃあ、こちらも改めまして」
開いた名刺入れを見て、栞は少し首を傾げた。
名刺入れのはずなのに、差し込まれている場所が妙に多い。
市影譚の名前が入ったもの。
と〜ほくでアソボ!のもの。
それ以外にも、栞が普段見たことのないデザインが何種類か混じっている。
「桂一さん、名刺何種類持ってるんですか?」
「用途別」
「そんなに要ります?」
「あると便利なんだよ」
桂一は、その中から一枚を抜いた。
いつものものより、随分と文字が多い。
「こちらも改めまして、メディアコンサルタントの水野と申します」
栞は大いに驚いた。
「メディアコンサルタント?」
「うん」
「初めて聞きましたけど」
「いろいろやりすぎたからな。格好いい名前考えたら、これになったんだよ」
「そんな決め方なんですか?」
「全部説明すると長いだろ」
井浦が楽しそうに笑った。
「私も初めていただきました」
「普段あんまり使わないんですよ」
「そうなんですね」
井浦は何気なく名刺を裏返した。
「……」
ほんの一瞬だった。
だが、さっきまで柔らかく笑っていた表情が止まったのを、栞は見逃さなかった。
眼鏡の奥の目が、裏面に並んだ文字を上から下まで追っている。
「え、何かあったの?」
愛華が母親の手元を覗き込もうとした。
「見せて」
井浦は名刺をすっと自分の方へ引いた。
「駄目よ」
「なんで?」
「あなたが、きちんと教わる立場になったら見せてもらいなさい」
「ええ?」
その言い方で、栞まで気になってしまった。
「桂一さん」
「うん?」
「私にも一枚もらえますか?」
「嫌だよ」
「なんでですか!」
「そんな枚数ないんだよ、これ」
「一枚くらいいいじゃないですか」
「それに、なんとなく相沢に見られるのは恥ずかしい」
「余計気になるんですけど」
「また今度ということで」
「えー」
栞が不満そうにすると、桂一は笑った。
「まあ、俺もいろいろやってるから」
「それは知ってますけど」
「相沢は普通に、いつもの仕事しててくれたらいいよ」
「……はい?」
「助かってるし」
あまりにも普通に言われて、栞は一瞬返事が遅れた。
「それとこれとは別です。名刺は気になります」
「まだ言う?」
井浦が小さく笑う。
ただ、その手にはまだ桂一の名刺があった。
「水野さん」
「はい」
「会計の件、本当に一度ご相談ください」
「お願いします」
「少し、整理しがいがありそうですね」
「そんなに?」
「名刺を見る限りでは」
「だから見せたくないんだよなあ」
桂一が頭を掻いた。
井浦はもう一度だけ裏面へ目を落としてから、大事そうに名刺入れへしまった。
何が書いてあったのだろう。
三年一緒に働いていても、自分の知らない桂一はまだかなりいるらしい。
栞には、それだけが分かった。
「では、私は部屋に行きますね」
井浦が立ち上がる。
「もうですか?」
愛華が聞いた。
「私は見学しに来たんじゃないもの」
「それはそうだけど」
「少し仕事してから寝ます」
バッグから見えていたノートパソコンは、やはりそのためらしい。
井浦は愛華を見る。
「勝手に一人で歩かない」
「はい」
「邪魔しない」
「はい」
「水野さんか相沢さんが戻れと言ったら戻る」
「はい」
「それだけ」
愛華が少し拍子抜けしたような顔をした。
「もっと何か言われるかと思った」
「自分で見たいって言ったんでしょ」
「うん」
「なら、ちゃんと見てきなさい」
愛華の表情が明るくなる。
「うん!」
「何かありましたら、いつでも連絡してください」
井浦は桂一と栞へ頭を下げた。
「分かりました」
「お任せください」
「では、おやすみなさい」
随分あっさりしていた。
エレベーターの扉が閉まる。
「格好いいお母さんだね」
栞が言う。
「そうですか?」
「うん」
「普通ですよ」
愛華はそう答えたが、少し嬉しそうだった。
「終わった?」
フロントの方から声がした。
山本が戻ってくる。
「終わったよ」
「じゃあ、改めて」
山本は愛華を見る。
「君が高校生?」
「はい。井浦愛華といいます」
山本はわざとらしく一歩引き、きざっぽく腰を折った。
「私、ジャック・ダニエルと申します。以後、お見知りおきを」
「いやいや、山本って書いてありますよ」
愛華が胸元の名札を指差した。
「そこは見ない約束で」
「初めて聞きました」
「厳しいなあ」
山本が笑う。
それから栞と愛華を見比べた。
「しかし、ケイワンの周りには、なんだか知らんけど可愛い子が集まってくるんだな」
「は?」
「羨ましいわ」
「何言ってんだ、お前」
「だってそうだろ。スタッフさんも美人だし、高校生まで弟子入りしに来るし」
「変な意味で言うなよ」
「言ってないって。純粋な羨望」
栞は苦笑した。
愛華は山本をじっと見る。
「ダニエルさんと桂一さんって、いくつくらい離れてるんですか?」
「ダニエルが一つ上だよ」
桂一が答える。
「一つだけ?」
愛華が素で聞き返した。
一瞬。
山本の表情が硬くなったのを、栞は見逃さなかった。
桂一は全く気にしていない。
「俺よりこいつの方が老けてるよな」
「お前さ」
山本が低い声を出す。
「初対面の女性二人の前で、それ言う?」
「事実だろ」
「事実でも言わなくていいことあるだろ」
「大丈夫ですよ」
愛華が慰める。
「何が大丈夫なの?」
「落ち着いて見えます」
「それ絶対フォローだよね?」
「はい」
「認めるなよ!」
栞が吹き出した。
桂一も楽しそうに笑っていた。
電話で聞いた時と変わらない。
昔から、こんな調子で付き合ってきたのだろう。
少なくとも今の山本からは、数日前に聞いた話を本気で怖がっているようには見えなかった。
「さて」
山本がフロントの時計を見る。
「まず、見に行く?」
「例の場所?」
「うん」
笑っていた山本の表情が、ほんの少しだけ変わった。
それも、栞は見逃さなかった。
「今なら、ただの壁だと思うけど」
「それでいい」
桂一が答える。
「何もない時を先に見ておきたい」
山本がフロント奥へ一度視線をやる。
それから、三人へ向き直った。
「じゃあ行こうか」
静かになり始めたホテルの奥へ、四人は歩き出した。




