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市影譚 ―怪異を解する―  作者: 宮城 歩


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6-1 ダニエル


「どうした、ダニエル」


『あ、ケイワンか?』


「俺から掛けたみたいに言うな。お前からだろ」


『細かいなあ』


「前も話したけど、スタッフがいるからスピーカーにするぞ。女性だから口に気を付けろよ」


 桂一が通話をスピーカーへ切り替える。


『今スピーカーになった? お疲れ様! ダニエルこと山本健太です!』


「全然ダニエルじゃない!」


 愛華が思わず声を上げた。


「あ、すみません。初めまして」


『ははは! 元気な子だな。初めまして!』


「井浦と言います」


「相沢です。お疲れ様です」


『井浦さんと相沢さんね。ケイワンがいつもお世話になってます』


「なんでお前が保護者みたいに言うんだよ」


『大学時代から面倒見てきたからな』


「面倒見られた記憶ないけど」


「それで」


 愛華がスマートフォンを見る。


「なんでダニエルなんですか?」


「ん? ああ」


 桂一が面倒そうに答えた。


「大学の時、こいつがジャックダニエル飲みすぎて、アルコール中毒で救急搬送されたんだよ」


『あれは酷かったなあ』


「笑って話すことじゃないだろ」


『病院でさ。自分の鼻の頭と、先生の指先を交互に指でちょんちょんしてって言われたんだけどね』


「はい」


『全然それどころじゃなくて、そのまま緊急入院だったよ』


「結構重症じゃないですか!」


『翌日は人生で一番酷い二日酔いだったな』


「自業自得だろ」


『あの時は本当に思ったよ。二度と飲むかっ、って』


「それ以来飲んでないんですか?」


『いや、ハイボールに変えた』


「飲んでるじゃん!」


 愛華の声が事務所に響いた。


『ジャックダニエルをそのまま飲むのはやめたんだよ』


「反省する場所そこじゃないだろ」


『人間、そうやって成長するんだよ、ケイワン』


「薄い成長だな」


 栞は笑いながら二人のやり取りを聞いていた。


 電話越しでも分かる。


 かなり長い付き合いなのだろう。


「ところで」


 愛華が首を傾げた。


「ケイワンって、水野さんのあだ名なんですか?」


『そうだよ』


「お前が勝手につけたんだろ」


『名付け親だからな。今後もブレずにいこうと思う』


「……ケイワン」


 愛華が少し考える。


「あっ」


「何?」


「と〜ほくでアソボ!のキャラクター」


「そう」


 桂一が少し嫌そうな顔をした。


『何の話?』


「旅行サイトだよ」


『旅行サイト?』


「と〜ほくでアソボ!ってやつ」


 少し間が空いた。


『……まさか、あのサイト、お前が作ったやつなのか!?』


「言ってなかったか?」


『言ってねえよ! 言えよ! 雇え!』


「嫌だよ」


『即答すんなよ!』


「お前とは、上司と部下には絶対なれない。そんな人雇えるほど稼げてもないし」


 愛華が、楽しそうに栞へ目を向けた。


 さっき聞いた収益額を思い出したのだろう。


 どうやら桂一は、こういうことを昔の友人にまでろくに話していないらしい。


 栞も少しだけ笑った。


『おいおい! なんか可愛い香りがするぞ! そう言えば声も若かったよな』


「キモいな。通話で匂いするわけないだろ」


『気配の話だよ! 紹介しろ!』


「もう紹介されただろ」


『いや、そういう意味じゃなくて』


「だから口に気を付けろって言ったんだよ」


『はいはい。もう言いません』


 桂一が小さくため息をつく。


「で?」


『うん?』


「この前の話だろ」


 電話の向こうが少し静かになった。


 ほんの数秒前までの軽さが、不自然なくらい消える。


『……ああ』


 桂一もそれに気づいたらしい。


「今度は何があった?」


『あったっていうかさ』


 山本が息を吐く音がした。


『前に話しただろ。夜勤ずっとやってると、昼と夜がひっくり返るって』


「言ってたな」


『あれ、昔は結構好きだったんだよ』


「何が?」


『夜の生活』


 山本の声は、先ほどよりゆっくりしていた。


『基本夜勤だからさ。仕事終わって家帰るの、朝なんだよ』


「それは分かる」


『朝に酒飲むの、結構気持ちいいんだよね』


「朝からお酒?」


 愛華が聞く。


『俺にとっては夜だからね』


「ああ」


『ベランダから外見ながら飲むの。みんな仕事に行くんだよ。車出したり、駅に向かったり』


「はい」


『それを見ながら、俺はこれから酒飲んで寝る』


「性格悪いですね」


『ちょっとだけ優越感あるんだよ。お前らこれから仕事だろ。俺はもう終わったぞ、って』


「分からなくはないな」


 桂一が笑った。


『だろ? 誰にも迷惑かけてないし。家で静かに飲んでるだけだしさ』


「それでハイボール?」


『そうそう。炭酸は酔いが早く回るから節約になる』


「反省してないな」


『そこは今どうでもいいだろ』


 山本が笑う。


 ただ、その笑いは長く続かなかった。


『朝が夜で、昼が夜中みたいなもんなんだよ』


「まあ、そうなるよな」


『夕方に起きてさ。普通の人が仕事終わる頃に、俺はこれから仕事』


「うん」


『最初は、それが楽しかったんだよ』


 最初は。


 その言い方に、栞は少し引っかかった。


 桂一も同じだったらしい。


「今は?」


『……夜の方が普通になってきた』


「それ自体は、夜勤長ければあるんじゃない?」


『俺もそう思ってた』


「思ってた?」


『昼間に外出るとさ。明るすぎるんだよ』


 山本の声が低くなる。


『人も多いし、車も多い。店も開いてるし、音も多い。なんか、全部うるさい』


 愛華が黙ってスマートフォンを見つめている。


『でも夜になると楽になる』


「寝不足じゃなくて?」


『ちゃんと寝た日も同じ』


「酒は?」


『飲んでない日も』


「休みの日は?」


『むしろ休みの日の方が困る。昼間起きてても、何したらいいのか分かんないんだよ』


 桂一は黙った。


『前はさ、夜勤だから夜型なんだと思ってた。でも最近、逆なんじゃないかって思うんだよ』


「逆?」


『夜型だから、夜から出られなくなってるんじゃないかって』


「……それで、俺に相談?」


『それだけならしないよ』


「だろうな」


『ケイワン、お前さ』


「うん」


『ホテルで働いてた時、一部屋多いって話、聞いたことあったっけ?』


 桂一の眉が僅かに動いた。


「ないと思う」


『俺もなかった』


「一部屋多いって、どういうことですか?」


 愛華が聞く。


 山本は少し迷ったようだった。


『客室』


「客室が増えるんですか?」


『うん』


 事務所の空気が少し変わる。


『夜中に巡回するだろ』


「するな」


『廊下歩いてると、たまにドアが一枚多いんだよ』


「どこに?」


『突き当たり』


「非常口とか、従業員用の扉じゃなくて?」


『違う。普通の客室と同じドア』


「部屋番号は?」


『ない』


「防火扉とか、設備室は?」


『違うって。そこ、昼間は壁なんだよ』


 栞は思わず桂一を見る。


 桂一の表情から、さっきまでの眠そうな気配が消えていた。


「他の人は見てる?」


『見えてない』


「同僚に言った?」


『言ったよ。一緒に見に行った』


「その時は?」


『壁』


「写真は?」


『撮った』


「どうだった?」


『壁しか写ってない』


「何回見た?」


『最初に気づいたのは二ヶ月くらい前。その後、五、六回かな』


「時間は?」


『ばらばら。でも全部深夜。三時過ぎが多い』


「寝不足の日?」


『それはあるかも』


 山本が答える。


『酔っ払いの対応とかで仮眠ほとんど取れなかった日は、出やすい気がする』


「だったらまず、疲労と睡眠不足を疑うな」


『俺もそう思った』


「眼科とかは?」


『行った。特に何もなし』


「じゃあ睡眠」


『だから最初は、見間違いだと思ってたんだよ』


「最初は?」


 また、その言葉だった。


『前は怖かったんだ』


「今は違う?」


『うん』


 山本が、しばらく黙った。


『最近さ』


 電話の向こうから、僅かな呼吸音が聞こえる。


『あの部屋に、入りたくて仕方ないんだよ』


 愛華が小さく息を呑んだ。


「入りたい?」


『うん』


「怖いんじゃなくて?」


『怖いよ』


「じゃあ、なんで?」


『分かんない』


 山本は、困ったように笑った。


『ただ、あのドア見るとさ。ここだって思うんだよ』


「何が?」


『やっと着いた、って』


 誰も口を挟まなかった。


『あそこに入ったら、すげえ眠れる気がする』


「ホテルなのに?」


『そうなんだよ』


 山本自身も、それがおかしいことは分かっているらしい。


『もう朝まで頑張らなくていい。昼間起きなくてもいい。ずっと夜のままでいいっていうか』


 桂一が椅子に深く座り直す。


「入ったことは?」


『ない』


「触った?」


『昨日、初めて触りかけた』


「昨日?」


『今まで閉まってたんだよ。でも昨日は、ドアが少し開いてた』


 栞の背中に、薄い寒気が走った。


「それで?」


『気づいたら近くまで行ってた』


「自分から?」


『たぶん』


「たぶんって」


『覚えてるんだけどさ。なんていうか、行こうって決めた感じじゃないんだよ』


 山本は言葉を探している。


『普通に巡回して、普通に歩いてたら、気づいた時にはドアの前にいた』


「取っ手は?」


『手、伸ばした』


「入らなかった?」


『入ってない』


 桂一が少し息を吐いた。


「よく止まれたな」


『違う』


「何が?」


『止まったんじゃない』


 山本の声が、さらに低くなった。


『中に誰かいたんだよ』


「急展開だな」


『俺だってそう思ったよ』


「誰?」


『分かんない』


「知らない人?」


『いや』


 山本が黙る。


 さっきまで、急性アルコール中毒を笑い話にしていた男とは思えないほど、その沈黙は重かった。


『目が合ったんだ』


「うん」


『俺、ホテルの癖でさ。反射的に頭下げちゃって』


「まあ、やるだろうな」


『そしたら急に怖くなって、後ろに下がった』


「相手は?」


『動かなかった』


「どんな人だった?」


 しばらく返事がない。


「山本?」


『……親父に似てた』


 桂一の表情が止まった。


『うちの親父に、すげえ似てたんだよ』


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