第六章 午前四時の空室
「おはようございます」
事務所の扉を開けた栞は、すぐに見覚えのある後ろ姿に気づいた。
見た途端、だいたいの状況は分かった。
一方的に話す相手を、桂一が適当に流している。
たぶん、そんなところだろう。
栞は、今日も楽しくなりそうだな、と笑ってしまった。
「井浦さん、久しぶりだね。とうとう来たんだ」
「あ、相沢さん。おはようございます!」
愛華が振り返る。
相変わらず、凄く可愛らしい女の子だ。
ただ、今日は制服ではなかった。
淡い色のニットに落ち着いたロングスカート。学校ではまとめていた髪も、今日は肩まで下ろしている。
ほんの少し、大人っぽく見えた。
栞には、その感じがなんとなく分かる。
自分も昔から幼く見られることが多く、学生の頃は少し大人びた服を選びたがった。
「とうとうって……。相沢か、入れ知恵したのは」
奥から、気だるそうな声が飛んできた。
「え?」
「おかげで妙なことになってるぞ」
桂一はいつもの白いシャツ姿だったが、今日は何故かいつもより眠そうだった。
髪も少し乱れている。
「私、何かしました?」
「事務所の場所教えただろ」
「ああ」
愛華とは、あれから何度か連絡を取り合っていた。
学校の記事や、サイトのこと。
そして時々、桂一のこと。
『水野さん、思ったよりつれないです』
そんなメッセージが来たこともある。
その流れで事務所の場所を聞かれ、栞はサイトに載っている住所と同じだと教えた。
まさか、本当に来るとは思っていなかった。
「夜中に『明日行きます』って、いきなりメッセージ来てさ」
「ちゃんと連絡しましたよ!」
「夜中だぞ? 読んでなかったらどうする。それにルパンだって、もっと前もって予告状寄越すぞ」
「私、泥棒じゃないですよ!」
「実際来たから飛び起きたぞ」
栞は桂一の顔を見る。
「また事務所で寝泊まりを?」
「……うん」
桂一が、だるそうに頷いた。
「やっぱり」
「朝から元気すぎるんだよ、この子」
「水野さんがつれないからですよ!」
「返事はしてただろ」
「『ありがとうございます』だけですよ!」
「返事じゃん」
「そういうことじゃないんです!」
栞は笑いながらバッグを置いた。
「それで、今日は何しに来たの?」
愛華は一度だけ姿勢を正した。
「私、水野さんに弟子入りしようと思って来ました」
「ほら」
桂一が栞を見る。
「妙なことになってるだろ」
「弟子入り?」
「はい。市影譚も、と〜ほくでアソボ!も。取材とか記事とか、サイトのことも、出来るだけ覚えたいです」
「範囲広いな」
「雑用でもやります」
「それ、弟子っていうよりアルバイトじゃない?」
「アルバイトでもいいです」
「切り替え早いね」
冗談ではないらしい。
桂一は少しだけ姿勢を直した。
「大学は?」
「行くつもりでした」
「でした?」
「今は、来年じゃなくてもいいかなって思ってます」
「成績悪いの?」
「悪くないです」
「じゃあ、なんで?」
愛華は少し考えてから答えた。
「大学に入ること自体を目的にしたくないんです」
文章、写真、動画、ウェブ、広告、会計。
人から話を聞く方法や、ものを調べる方法。
自分が必要だと思うことは、大学とは別にいくらでも勉強できる。
「私、自分がやりたいことを出来るようになりたいんです」
愛華は桂一を真っ直ぐ見た。
「そのためには、自分で稼げないと駄目ですよね」
「まあね」
「それをやってるのが、水野さんです」
今度は桂一も茶化さなかった。
「親御さんには?」
「話しました」
「反対された?」
「賛成はされてません。でも、止められてもいません」
父親からは、同級生とは違う道になることを理解してから選べ、と言われた。
母親からは、高校生だからこそ出来ることもある。桂一がそれを見つける手伝いをしてくれるなら、やってみてもいいのではないか、と言われたという。
「……いい親御さんだな」
桂一は素直に感心していた。
「ちなみに」
愛華が少し身を乗り出す。
「と〜ほくでアソボ!って、どのくらい稼げてるんですか?」
栞は思わず愛華を見る。
こういうことを、嫌味なく聞ける子なのだ。
「サイト単体なら、月五十万から百万円くらい。夏とか連休前は上がるよ。最高で百五十万前後だったかな」
「すごい!」
愛華が両手を上げた。
「しかも、稼ぐことだけ考えて作ってないのに、ですよね?」
「どういうこと?」
栞が尋ねる。
「普通、旅行サイトなら予約に繋がる宿を優先した方が稼ぎやすいんです。でも、と〜ほくでアソボ!は違うんです」
桂一が続きを引き取る。
「予約サイトに載ってない民宿も紹介するし、俺が好きだから載せてるだけの店もあるからね」
「お金にならないですよね?」
「ならないことも多いよ」
「じゃあ、なんで?」
「役に立つから」
答えは早かった。
「有名な旅館より一万円安い。設備は古い。でも親戚が漁師で、夕飯に毎日でかい刺し盛りが出る。子どもには別の料理まで作ってくれる。そういう宿があったら、知りたい人いるだろ」
「私、知りたいです」
「俺も」
桂一は笑った。
「どっちが上とかじゃない。その人に合う情報があるかどうかだよ」
「そこなんです」
愛華が言った。
「自分が面白いと思うことをやって、人の役にも立って、それがお金にもなる。その作り方を知りたいです」
「なるほどね」
桂一はコーヒーを一口飲んだ。
「でも、俺の真似はしなくていいよ」
「じゃあ、何をすればいいですか?」
「今しか出来ないこと」
「例えば?」
「俺が高校生に戻ったら、やりたいことなんていくらでもあるよ」
ちょっと片眉を上げて、桂一は続けた。
「そうだな。あえて嫌そうなバイトやってみてもいい。一人旅してもいい。高校英語だけで海外行って、どこまで通じるか試してみてもいい」
「私は絶対やりたくないですからね」
栞が即座に言った。
「まだ誘ってないだろ」
「念のためです」
桂一は笑った。
「でも、そういうことなんだよ」
それから愛華を見る。
「知識は、人生を楽しくする財産だ」
愛華が少し姿勢を正した。
「例えば、道路標識あるだろ」
「はい」
「コンビニの看板でもいい。何も知らなければ、赤いな、派手だな、で終わる」
「はい」
「でも色のことを知ってれば、なんでその色なのか考えられる。遠くから見つけやすくするためなのか、注意を引くためなのか。標識なら、形にも色にも意味がある」
「知ってれば、見えるものが増える」
「そう」
桂一は頷いた。
「同じ道を歩いてても、知ってる人と知らない人じゃ、見えてる世界が違うんだよ」
そして、その知識は一度身につけば、その先も残る。
「だから財産なんだ」
愛華は小さく頷いた。
「大学も同じ。行けとも、行くなとも言わない」
「はい」
「ただ、受かってから行かないって決めるのと、受けないで行かなかったことにするのは違う」
桂一は愛華を見る。
「それに、『受かったけど、やりたいことがあったから進学しなかった』って言えたらカッコいいだろ?」
「それは、そうかも」
「受験も経験。選べる状態にしてから選べばいい」
「……はい」
「その上で、井浦愛華が、高校生の今だから出来ることを探せばいい」
「難しいですね」
「だから面白いんだろ」
その時。
机の上に置かれていた桂一のスマートフォンが震えた。
画面を見た桂一が、少しだけ目を見開く。
「あ」
「どうしました?」
「大学時代の知り合い」
「大学?」
「ビジネスホテルでナイトフロントやってた時のやつ」
愛華が驚いた顔をする。
「ホテルでも働いてたんですか?」
「やってたよ」
桂一は、まだ鳴っているスマートフォンを見た。
「それ見ろ」
「何がですか?」
「昔の経験が、今になって繋がってる」
桂一はスマートフォンを手に取った。
「前から、ちょっと相談したいことがあるって言われてたんだよ」
「どんな人なんですか?」
「どんなって……」
桂一は少し考えてから、画面を愛華へ向けた。
向けられた画面には、妙な名前が表示されていた。




