1-5 日本国
家に帰ると、言われた通りにした。
玄関で服を脱ぐ。
手袋はゴミ袋へ入れた。
長靴は外で洗った。
服は洗濯機へ放り込む。
普段なら、山で使う服に強い匂いを残したくない。
コンビニでは、それを気にしていた。
でも、いざ家に帰ると、どうでもよくなった。
洗剤を入れる。
いつもより多めに。
洗濯機が回り始める。
水の音を聞きながら、自分の手を見る。
ブルーシートを持った感触が、まだ残っている気がした。
石鹸で手を洗う。
指の間。
爪の周り。
手首。
一度では足りない気がして、もう一度洗った。
それでも落ちた気がしなかった。
風呂に入った。
ボディタオルを泡立てて、体を洗う。
腕。
肩。
首。
実際には触れていない場所まで、念入りに擦った。
記憶まで一緒に洗い流せればいいのにと思った。
シャワーを止める。
水音が消えた。
静かになった。
その瞬間、頭の中にあの形が浮かんだ。
細い。
長い。
イノシシではない。
イノシシなら何度も見てきた。
運んだこともある。
大きな個体なら、二人でも苦労する。
きつく包んだところで、胴の形までああはならない。
それに、軽すぎた。
地面も荒れていなかった。
罠に掛かった獣が、あれほど何も残さないものだろうか。
『いや、気にしますよ。だって、まるで――』
山で言いかけた言葉が蘇る。
佐原に止められた。
あのとき何と言おうとしたのか。
桂一自身には分かっていた。
認めたくなかっただけだ。
あれは、ヒトに似た形をしていた。
だからこそ、桂一は「人間ではない」と考えることにしていた。
もし人だと思っていたら、あのまま運び切れたか分からない。
中を見たわけではない。
分かるはずもない。
それでも、あの形だけが頭から離れなかった。
桂一はもう一度シャワーを出した。
意味がないと分かっていても、もう一度体を洗った。
*
その夜は、思ったより簡単に眠った。
疲れていたのだと思う。
翌朝。
携帯の通知音で目が覚めた。
まだ頭が重い。
画面を見る。
銀行からの入金通知だった。
「……なんだ?」
昨日の仕事関係かと思った。
だが、五万円はすでに現金で受け取っている。
何か別の支払いでもあったのか。
金額を見る。
「……は?」
眠気が消えた。
桁を数える。
一度。
もう一度。
六桁。
口座を開いて確認する。
間違いなく入っている。
二十三歳の桂一は、一日の仕事で六桁の金を受け取ったことなどなかった。
昨日の五万円ですら、かなり割がいいと思っていた。
それとは別に、この金額。
しばらく画面を見つめた。
おかしいのは、金額だけではなかった。
振込人名義。
そこには、
『日本国 協力費』
と表示されていた。
「……日本国?」
声に出した。
国。
昨日の仕事に、国が関わっているということなのか。
なら、あの白い服の人間たちは何だったのか。
灰島は国の人間なのか。
それなら、なぜ名刺には所属も役職も書いていなかったのか。
疑問が増えただけだった。
そして、もっと根本的なことに気づいた。
桂一は、口座番号を教えていない。
すぐに佐原へ電話した。
数回の呼び出し音のあと、眠そうな声がした。
『もしもし』
「佐原さん」
『朝っぱらからなんだ』
「金が入ってます」
少し間があった。
『……いくらだ』
金額を伝える。
今度は、もっと長い沈黙だった。
「佐原さん?」
『ちょっと待ってろ。俺も見てみる』
電話が切れた。
「え?」
待つしかなかった。
その間に、何度も口座を確認した。
六桁。
変わらない。
振込人名義も、そのままだ。
『日本国 協力費』
昨日もらった五万円が、急に現実味のある金額に思えてきた。
十分ほどして、携帯が鳴った。
佐原だった。
「はい」
『俺にも入ってるな』
「同じ名義ですか?」
『ああ』
「日本国、協力費」
『そうなってる』
「これ、国の仕事だったんですか?」
『知らん』
「いや、振込名義が日本国なんですよ」
『見りゃ分かる』
「じゃあ、なんで知らないんです?」
『俺に聞くな』
いつもの調子だった。
「これ、どう扱えばいいんですか?」
『気にしないで、雑収入で処理しとけ』
「いや、そういう話じゃなくて」
『税金は払えよ』
「そこじゃないです」
思わず声が大きくなる。
「俺、口座番号なんて教えてませんよ」
『知ってるよ』
「なら、なんで振り込めるんです?」
『知らん』
「またそれですか」
『俺に聞くな』
「佐原さんが紹介したんでしょう」
桂一は一度、息を吐いた。
「それに、電話番号だって教えてませんよ」
『それも知ってる』
「なら、どうやって俺に連絡するんです?」
少し間があった。
『必要なら、あの番号から着信がある』
「……あの番号?」
『昨日の名刺だ』
白い名刺が頭に浮かんだ。
灰島。
その下に並んでいた、意味の分からない数字。
「あれ、電話番号なんですか?」
『知らん』
「知らないんですか?」
『気味が悪いが、俺はそうだった』
「どういう意味です?」
『必要なときになると、あの数字で着信が出る』
桂一は黙った。
「……掛けたことは?」
『ない』
「一回も?」
『ない』
「じゃあ、佐原さん――」
『桂一』
「はい?」
『俺に振るなよ』
「え?」
『次からはお前に来る』
「ちょっと待ってくださいよ」
昨日の会話を思い出した。
――俺も年だ。これからはこいつに振ってくれ。
あれは冗談ではなかったらしい。
『俺はもう手伝わん』
「ちょっと!」
『年になるまで、お前もがんばれ』
「佐原さん!」
『五万はやる。手切れ金だ』
通話が切れた。
桂一は携帯を耳から離した。
画面には、通話終了の表示。
「……なんなんだよ」




