5-9 偶然
事務所へ戻ると、桂一は買ってきた魚と蟹をさっさと片付けた。
ワタリガニは塩を入れたお湯で茹でて、魚は下処理。栞が家で切るだけで食べられるようにサクにしてくれた。
「こんなに貰っていいんですか?」
「魚がたくさんあるし、俺は一人暮らしだからね」
桂一は茹で上がった蟹を袋へ入れながら笑った。
「昔はね。蟹なんてみかんみたいに、こたつの上に重なってたんだよ」
「なんですか、その夢みたいな状況」
「爺さんが観光船のチケットもぎりやっててな。船もあったから、カゴ仕掛けてたんだよ」
「それでそんなに?」
「うん。子どもの頃は、それが普通だと思ってた」
桂一は魚の入った容器も一緒に渡した。
「今日は朝から動いたし、もう帰っていいよ」
「良いんですか?」
「俺も何本か電話したら終わりにする」
「じゃあ、お言葉に甘えます」
「魚は今日中な」
「はい。ありがとうございます」
栞は思いがけず豪華な夕食を抱えて、事務所を後にした。
翌朝。
「母が喜んでました!」
事務所へ入って早々、栞が言った。
「蟹?」
「はい。昔よく食べたなあって」
「それは良かった」
桂一はパソコンから目を離して笑った。
「海も、大きいのが来てから随分変わったけどね。獲れるものも少しずつ変わったし、地元の人が進んで獲らなくなったものもある」
「そうなんですか?」
「まあね」
それ以上、桂一は説明しなかった。
栞にも、何となく続きを聞かない方がいい気がした。
いつものことだ。
桂一が何気なく口にする昔話には、時々、自分が知らない何かが奥に続いている。
「それより」
桂一が椅子を少し横へずらした。
「昨日、何本か電話するって言ったろ?」
「はい」
「今朝、折り返しも来てね。少し予想が付いたかもしれない」
「何がです?」
栞は桂一のパソコンを覗き込んだ。
机の上には、印刷した資料とメモが何枚も並んでいる。
昨夜調べたらしい気象記録。
新聞記事。
港の案内図。
手書きの日付と時刻。
桂一の目元には、うっすらとクマがあった。
「……昨日、ちゃんと寝ました?」
「九時にはしっかりな」
「九時まで、の間違いじゃないですよね?」
「細かいな」
桂一は伸びをした。
「とりあえず、昨日は相談者本人と、斎藤巡査長に確認してみた」
「何を聞いたんです?」
「まず相談者」
桂一が一枚のメモを手元へ寄せた。
「使ってた仕掛け。車を変な場所に停めてなかったか。それと、あの日の天気について何か覚えてないか」
「仕掛けは?」
「普通のエギ。本人が言う限りではね」
「車は?」
「港の外。少なくとも、車まで立入禁止区域へ入れてたわけじゃない」
「じゃあ、その二つは特に変なところなし?」
「今のところは」
桂一が次の項目を指した。
「それより、何時まで釣るつもりだったか聞いた」
「何時までだったんです?」
「次の日が休みだったらしくてね。釣れてたら午前二時くらいまではやるつもりだったって」
「遅いですね」
「うん」
桂一は別の資料を栞の前へ滑らせた。
「海へ落ちたのが、大体二十二時」
「はい」
「その日の夜、日付が変わる頃にはかなり荒れてる」
栞が資料を見る。
「暴風警報……波浪警報」
「そう」
「事故の時は?」
「まだそこまでじゃない」
桂一が時間を指で追った。
「ただ、そこから急に風が強くなってる」
「じゃあ、二時までいたら……」
「かなり危なかった可能性はあるね」
「宍戸さんにも聞いたんですか?」
「聞いた」
桂一が頷く。
「遮るものが少ないから、荒れた時の岸壁は相当きついって。波も当然上がる」
「昨日の漁師さん、雲を見て船を括ってましたもんね」
「それ見て気になったんだよ」
桂一は窓の外を見た。
「ちなみに、昨日の夜も結構荒れたらしい」
「やっぱり?」
「台風が来る時期だからね。別に珍しいことじゃないけど」
栞は資料へ目を戻した。
「でも、あの人には荒れる前に分かってた」
「海で仕事してる人だからな」
「今回の人を押した何かも、分かってた?」
桂一は答えなかった。
「次」
もう一枚の紙を手元へ寄せる。
「斎藤巡査長から、今朝返事が来た」
「車の件ですか?」
「そう」
桂一はメモに書かれた日付を指した。
「漁協さんから、以前、夜中に停めていた車が凹んでいたことがあると聞きました。話ぶりだと、そんなに昔のことでもなさそうで」
昨夜の電話を思い出すように言う。
「『おそらく警察にも通報があったと思うんですが、報告があった日付って分かりますか?』って聞いた」
「調べてもらえたんですか?」
「話せる範囲でね」
桂一が日付の隣へ、印刷した記事を置いた。
「二年前の、この日」
栞が見出しを読む。
「……多重衝突事故?」
「うん」
夜間、港からそれほど離れていない幹線道路で、複数台が絡む事故が起きていた。
「見出しを見ると、車両まで炎上したらしいね」
「かなり大きな事故だったんですね」
「そうみたい」
桂一は今度は警察から聞いた時刻を指した。
「その少し前、立入禁止区域に停めてあった車が凹んでるって通報が入ってる」
「立入禁止区域に車を?」
「うん。そもそも停めちゃ駄目なところだね」
「それで警察が来た?」
「現場確認にね」
桂一が事故記事へ指を移す。
「その対応をしてる最中に、近くでこの事故が起きた」
栞が顔を上げた。
「じゃあ、港にいた警察がそのまま?」
「事故対応に回った」
「早く着けた?」
「みたいだね」
桂一は記事の続きを指でなぞった。
「燃料が漏れてる車両があって、それを早い段階で確認してる。周りの車を離したり、乗ってた人を車外へ出したりして、その後に炎上」
「……凄い偶然ですね」
「うん」
栞は二つの時刻を見比べた。
「偶然とは思えないような」
「そう見えるね」
「桂一さんは?」
「気にはなるよ」
桂一は資料を机へ戻した。
「でも、車が凹んだ理由なんていくらでもある」
「例えば?」
「そもそも立入禁止区域に停めてたんだ。何か作業中のものが当たったのかもしれないし、風で何か飛んできたのかもしれない」
「誰かがいたずらしたのかもしれない?」
「そう」
桂一は記事を指先で軽く叩いた。
「その車の凹みと、多重事故に直接関係がある証拠は何もない」
「でも、妙なタイミング」
「それはそう」
「釣り竿の件は?」
「そっちは駄目だった」
「駄目?」
「警察への正式な通報まではしてなかったみたい。いつだったかも曖昧」
「じゃあ、分からないまま?」
「今のところはね」
栞は並べられた資料を見る。
車。
釣り竿。
転落。
起きていることは、どれも違う。
「バラバラですね」
「うん」
「でも……」
栞は少し考えた。
「結果だけ見ると、少し似てません?」
桂一が顔を上げる。
「どう似てる?」
「その人が、それまでやってたことを続けられなくなってる」
車なら、警察を呼ぶ。
釣り竿なら、釣りを続けられない。
今回の相談者なら、海へ落ちた時点で釣りどころではなくなる。
「危ないことをしてる人を、止めてる?」
「そう見えなくはない」
「じゃあ、やっぱり怪異が――」
「怪異かは分からない」
桂一は言い切った。
「たまたま何か事故があっただけかもしれないよ」
「でも、車の件も、今回も……」
「似たものはあるね」
「だったら」
「似てるからって、同じものとは限らない」
桂一は机の資料を軽く揃えた。
「車はただの偶然かもしれない。今回だって、俺たちが気付いてない理由があるのかもしれない」
「天気も?」
「港なら荒れる日はある。まして台風の時期だろ」
「……それもそうですね」
「俺たちが後から都合よく繋げてる可能性だってある」
栞は黙った。
どれも、一つだけなら珍しくない。
夜の港で車が傷付く。
釣り竿が壊れる。
海に落ちる。
天候が荒れる。
道路で事故が起きる。
原因なんて、いくらでもある。
昨日の漁師も、そう言っていた。
「じゃあ、まだ何も分からない?」
「うん」
桂一はあっさり頷いた。
「分からないままでいいと思う」
「いいんですか?」
「今回、分かったことは別にあるからね」
「別?」
「立入禁止には、それなりの理由がある」
桂一は指を折った。
「夜は見えない。船は動く。釣り糸はスクリューに絡む。岸壁から落ちる。天気も変わる」
「昔から事故もある」
「そう」
「怪異なんかいなくても十分危ない」
「十分過ぎる」
桂一は椅子の背へ身体を預けた。
「だったら、人間側で出来ることをやればいい」
「人間側?」
「うん」
桂一はメモ帳の余白へ、大きく一行書いた。
『人目に意味を持たせる』
「……どういうことです?」
「今までも、立入禁止区域へ入る人を誰かが見掛けることはあったと思う」
「はい」
「でも、見ただけで終わる」
「自分で注意するのも怖いですしね」
「だから、注意しなくていいようにする」
桂一は続けて書いた。
『立入禁止区域内に車両が停車していた場合は、ナンバーを控え、漁協で記録します』
『漁協連絡先』
『警察連絡先』
『危険防止のため、ご協力をお願いします』
栞が文字を追う。
「看板に?」
「うん。宍戸さんに提案してみる」
「実際にナンバーを記録するんですか?」
「漁協側がその運用でいいって言えばね」
「それだけでも入りづらくなりそう」
「だろ?」
「見られたら、記録されるかもしれない」
「場合によっては警察にも連絡される」
桂一が頷く。
「人目に意味が出来る」
栞はもう一度、その一文を見る。
「見掛けた人はどうするんです?」
「自分では声を掛けない」
「やっぱり」
「トラブルになるかもしれないからね」
桂一はさらに書き足した。
『危険区域へ入る方を見掛けても、直接注意したり、追い掛けたりしないでください』
「安全な場所から漁協か警察へ連絡する」
「桂一さんも?」
「もちろん」
「自分なら話しかけそうですけど」
「今回はしない」
「珍しい」
「記事で『直接注意するな』って書いて、俺だけやってたら格好悪いだろ」
「そこですか」
「そこも」
栞が笑った。
桂一はメモを眺めた。
「記事にも同じことを書こう」
「立入禁止区域を紹介するんじゃなくて?」
「入ってる人を見掛けた時に、どうすればいいかを紹介する」
「なるほど」
「警察が巡回する。漁協も見る。近くにいる人も、見掛けたら連絡出来る」
桂一はペンを置いた。
「それだけでも、入りにくくはなるだろ」
特別な設備を増やすわけではない。
誰かに二十四時間見張らせるわけでもない。
元からそこにいる人たちの目に、役割を持たせる。
栞は少しだけ不思議に思った。
車を凹ませる。
竿を折る。
海へ突き落とす。
子どもじみたイタズラにも思える。
でも、もし本当に、何かがそこから人を遠ざけようとしていたのなら。
桂一が今考えていることも、目的だけなら同じなのかもしれない。
「桂一さん」
「ん?」
その時だった。
机の上のスマートフォンが震えた。
二人の視線が画面へ向く。
表示されているのは、登録されていない番号だった。
「誰です?」
「さあ」
桂一は少し首を傾げた。
スマートフォンは、鳴り続けていた。




