5-8 海の男
発泡スチロールの箱を二人で抱え、ノアを停めた場所へ戻っていく。
「重いです」
「もう少しだから頑張れ」
「誰がカニ十匹も追加したんですか」
「俺だけど、重いのは氷だよ」
「分かってます」
栞が箱を持ち直した時だった。
「あれ?」
「ん?」
「あの人」
栞が視線を向ける。
少し離れた岸壁に、先ほど話を聞いたサングラスの男がいた。
さっきまで煙草を吸っていた場所とは違う。
船と岸壁の間を行ったり来たりしながら、何か作業をしている。
古いタイヤを船体の横へ下ろし、太いロープを引っ張っていた。
「何してるんでしょう」
「さあ」
桂一も足を止めた。
「ちょっと聞いてみよう」
「また行くんですか?」
「せっかくだし」
二人は発泡スチロールをいったん地面へ置き、男の方へ向かった。
近づくと、男がこちらに気付いた。
「なんだお前ら。まだいたのか?」
「今、帰るところです」
桂一が船を見る。
「何かされたんですか?」
「別に」
男はロープを引きながら空を見上げた。
「雲の流れ見てたら、荒れそうだからな」
「天気ですか?」
「ああ。心配だからな」
男は舌打ち混じりに続ける。
「仲間の船にタイヤ付けたり、ロープ結び直したりだよ」
船体と岸壁の間には、古いタイヤがいくつか垂らされていた。
「それは助かりますね」
「ただの気まぐれだよ」
男はぶっきらぼうに言った。
「いいから、生もの買ったなら早く帰れ。ぬるくなるぞ」
「あ」
桂一がポケットへ手を入れた。
「そうだ。さっき渡し忘れました」
名刺を一枚取り出す。
「何かあったら連絡ください」
「何もねえから、早く帰れ」
「まあまあ」
「いらねえって」
「一応です」
桂一が差し出したままなので、男は面倒臭そうに名刺を受け取った。
「……水野ね」
「はい」
「分かったから、もう行け」
「ありがとうございます」
「何に対してだよ」
桂一は笑い、素直に引き下がった。
二人で再び発泡スチロールを持つ。
少し離れたところで、桂一が振り返った。
男はもうこちらを見ていない。
今度は隣の船へ移り、係留ロープを確認していた。
「良い人だな」
「私は怖かったです」
「相沢はそうか」
「見た目もですけど、口も悪いです」
「でも、あの人、誰に言われるでもなく友達の船を守ってたんだぞ」
「そうだったんですか?」
「タイヤは岸壁にぶつかった時の当て物だろうし、ロープも増やしてた」
栞がもう一度振り返る。
「自分の船じゃないんですよね?」
「仲間の船って言ってたからね」
「じゃあ、本当に勝手に?」
「たぶん」
桂一は少し笑った。
「海の男だから、気恥ずかしいのかもね」
「気まぐれって言ってました」
「それに、人の船に乗ったりロープ触ったりしてたから、俺たちに変なことしてると思われないように説明したのかもしれない」
「そこまで考えてたんですか?」
「知らない。俺の想像」
「桂一さん、人のこと良く考えすぎじゃないですか?」
「悪く考えるよりいいだろ」
そのまま数歩歩いて。
桂一が、ふと足を止めた。
「……あれ?」
「今度は何です?」
桂一は空を見上げた。
港の上を、低い雲がかなり速い勢いで流れている。
「いや」
少し考える。
「今回落ちた人の日も、荒れたのかなと思って」
「天気ですか?」
「うん」
「でも、落ちた時は普通だったって言ってませんでした?」
「その時はね」
桂一は再び歩き始めた。
「何時まで釣るつもりだったんだろうな」
栞も空を見る。
今すぐ雨が降り出しそうな空ではない。
けれど、さっきの男には何か違って見えているのだろう。
「調べます?」
「後でね」
「珍しい」
「今は魚が優先」
「さっきの人と同じこと言ってますね」
「生ものだからな」
二人はノアへ戻った。
後部を開け、発泡スチロールを積み込む。
中で氷がざらりと動いた。
「よし」
「事務所戻ります?」
「その前に、ちょっと佐原さんのところ寄る」
「何かありました?」
「今日、猟友会の集まりやってるんだよ」
「そこに?」
「通り道だからね。五分だけ」
桂一は後部座席に置いてあった紙袋を指した。
「朝食ってた最中。佐原さんたちにも分けようと思って持ってきた」
「ちゃんと人に分けることもあるんですね」
「俺を何だと思ってるんだ」
「甘いものを一人で食べる人」
「否定しにくいな」
ノアが港を離れる。
車窓の倉庫や作業場が少しずつ減り、代わりに住宅と田畑が増えていった。
栞は助手席で今日のメモを見返す。
相談者。
警察。
宍戸。
漁師。
立入禁止区域。
市場。
一日で随分いろいろな人に会った。
それでも、背中を押したものについては何一つ分かっていない。
「桂一さん」
「ん?」
「結局、今日も正体は分かりませんでしたね」
「何の?」
「押したものです」
「ああ」
桂一は前を見たまま答えた。
「別に今日中に分からなくてもいいだろ」
「気にならないんですか?」
「気になるよ」
「ですよね」
「でも、分からないものを分かったことにするよりはいい」
桂一はそこで話を切った。
しばらくして、ノアは古い集会所の駐車場へ入った。
軽トラックが何台も停まっている。
「結構いますね」
「猟期前だからね」
中から男たちの声が聞こえていた。
桂一はエンジンを止めると、後部座席から紙袋を取った。
「本当に置いてくだけ?」
「魚があるからね」
「今度こそ生もの優先ですね」
「そういうこと」
二人で集会所へ入る。
中では十人ほどの男たちが長机を囲んでいた。
地図や書類が広げられ、壁際には長靴や作業着が並んでいる。
「おう」
佐原が桂一に気付いた。
「何しに来た」
「差し入れ」
「珍しいな」
「貰い物だけどね」
「なら、お前の手柄じゃねえだろ」
「持ってきたのは俺だよ」
「恩着せがましいな」
周囲から笑いが起きる。
桂一は机の端へ紙袋を置き、中から最中の包みを取り出した。
「これ。みんなで――」
そこで手が止まった。
「……あれ?」
「どうしました?」
栞が横から覗く。
包みの端が破れている。
桂一は眉を寄せ、中を確認した。
「一個ない」
「お前が食ったんだろ」
佐原が即答する。
「いや、朝食った分は覚えてる」
「なら、もう一個食ったんだろ」
「そんな食い意地張ってないよ」
桂一は少し考えた。
それから、ゆっくり栞を見る。
「失礼な!」
栞が即座に声を上げた。
「なんで私なんですか!」
「今日ずっと一緒だったから」
「なら分かるでしょう! 私が勝手に食べる時間なんてなかったじゃないですか!」
「小腹空いたって言ってなかった?」
「言ったかもしれませんけど、人のお菓子を勝手に食べません!」
佐原が鼻で笑った。
「どうせお前が忘れて食ったんだ」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも、包み破れてるんだよな」
「雑に扱ったんだろ」
「俺、こういうの結構丁寧だよ」
「知らねえよ」
栞が腕を組む。
「とにかく、私は食べてませんからね」
「分かった分かった」
「絶対信じてない言い方です」
「信じてるよ」
「今、一瞬笑いましたよね?」
「気のせい」
「失礼な!」
また周囲から笑い声が上がった。
桂一はまだ少し首を傾げていたが、やがて包みを佐原へ押しやった。
「まあいいや。みんなで食べて」
「最初からそうしろ」
「じゃ、俺たち帰るから」
「もう帰んのか?」
「魚と蟹がある」
「何しに行ってたんだ、お前」
「港」
「余計分からん」
「仕事だよ」
桂一が手を振る。
「またね」
「おう」
二人は集会所を出た。
ノアへ向かいながら、栞がまだ不満そうに言う。
「本当に私じゃないですからね」
「まだ言ってるの?」
「疑った本人が言わないでください」
「ごめんごめん」
「軽いです」
「じゃあ、この蟹一匹多くやるから」
「二匹なら許します」
「食い意地張ってるじゃん」
「それとこれは別です」
桂一が笑った。
栞も、つられて笑う。
破れた最中の包みのことは、それで終わった。
少なくとも、その時は。




