5-7 取材
二人が建物から少し離れたところまで歩いた時だった。
「あの!」
後ろから声がした。
振り返る。
井浦愛華が、一人で立っていた。
「井浦さん?」
栞が目を丸くする。
「友達は?」
「先に行ってもらいました!」
そう言い切ったものの、明らかに先ほどより緊張している。
両手で、小さく折った紙を握っていた。
「どうしたの?」
桂一が尋ねる。
「あの……」
愛華は一度、大きく息を吸った。
「私、早生まれで、来年の四月には十八歳です!」
「うん?」
桂一は、何の情報なのか分かっていないらしい。
けれど、栞にはすぐに分かった。
――なるほど。
ここは知らないふりをしておこう。
「これ、お願いします!」
愛華が桂一の手へ紙を押しつける。
「え?」
「ありがとうございました!」
「え? ええ?」
桂一が状況を理解する前に、愛華は踵を返した。
「ヤバ! 顔熱!」
両手で顔を押さえながら走っていく。
「ちょっと、井浦さん?」
桂一が呼んだが、止まらない。
あっという間に遠ざかってしまった。
桂一はしばらくその背中を見送ってから、手元の紙を開いた。
栞も横から覗き込む。
名前。
電話番号。
SNSのアカウントらしい文字列。
女の子らしい丸い字で、丁寧に書かれていた。
「……」
「なんか、めちゃくちゃファンですね」
「俺もびっくりした」
桂一は紙を見ながら笑った。
「凄い嬉しいね」
「顔、真っ赤でしたよ」
「そこまで?」
「めちゃくちゃ可愛かったですね」
桂一は数秒、紙を眺めていた。
やがて栞へ差し出す。
「相沢、これ持っててくれ」
「なんでです?」
「連絡したくなるから」
「連絡したらいいじゃないですか」
「ばかたれ。高校生だぞ」
「話してあげるだけですよ」
「女子高生と連絡先を交換するのは、親戚くらいで十分なんだよ」
「急に何言ってるんですか?」
「テレビにも出たしな。あらぬ誤解を招いたらやってられん」
「急にカッコ悪くなりましたね」
「慎重と言ってくれ」
栞は紙を受け取ったものの、少し嫌そうな顔をした。
「でも、私が持つのも嫌です」
「なんで?」
「念が強そうだから」
「何の念だよ」
「知りません」
栞は紙を名刺入れへしまった。
ただ、愛華を嫌だと思ったわけではない。
むしろ、可愛らしいと思っていた。
あれだけ顔を赤くして、それでもわざわざ一人で戻ってきたのだ。
栞にも、少しだけ似た経験がある。
学生の頃、好きなバンドが地元でライブをすると知って、前日に駅で何時間も待ったことがあった。
もしかしたら、ここを通るかもしれない。
そんな程度の期待だった。
そして、本当にメンバーを見つけた。
奇跡みたいだった。
けれど、いざ本人を目の前にすると、緊張して声すら掛けられなかった。
結局、少し離れたところから見送っただけだった。
だからこそ、栞には分かる。
顔を真っ赤にしながら、それでも戻ってきた愛華は、結構すごい。
「今は、憧れみたいなものだと思いますけど。一回くらい話してあげたら?」
「そうだろうけどね。さっき嫌だって言っただろ」
「私は持ってるのが嫌なんです。井浦さんは連絡もらったら嬉しいでしょうし」
「理不尽だな」
「女心です」
「便利な言葉だね、それ」
栞は笑った。
「次、どこです?」
「市場」
「まだ開いてます?」
「ぎりぎり」
桂一が時計を見る。
「だから急ぐよ」
二人は足早に市場の方へ向かった。
市場は、すでに一日の終わりに近づいていた。
朝の活気が残っているというより、片付けの気配の方が強い。
空になった発泡スチロール箱が積まれ、濡れた床を水で流している人もいる。
シャッターを半分下ろした店もあった。
「ほぼ終わってますね」
「一軒でも開いてればいいよ」
桂一は周囲を見回した。
少し先に、まだ魚を並べている店がある。
「ほら」
二人が近づくと、店にいた女性が顔を上げた。
「いらっしゃい。もう終わりだけどね」
「まだ買えます?」
「買えるよ」
女性が並んでいる魚を示す。
「もう片付けるところだから、まとめて買うなら安くするよ!」
「じゃあ、これ一箱ください」
桂一が即答した。
「一箱?」
栞が箱を見る。
何種類かの魚が混じっていた。
その中に、イカも入っている。
桂一も見逃していなかった。
「イカも入ってますね」
「入ってるよ。今日はちょっとだけだけど」
「じゃあ、ちょうどいい」
「何がです?」
「今日の取材」
「ああ」
桂一が箱の端へ目を移した。
「これ、ワタリガニですか?」
「ああ、それ?」
女性も覗き込む。
「そうそう」
「カゴに掛かったんですか?」
「ああ。たまたま歩いてきたみたいでね。馴染みが卸してくれたんだよ」
「何匹あります?」
「十匹くらい」
「全部ください」
「全部?」
今度は女性が聞き返した。
「はい」
栞も桂一を見る。
「全部?」
「うん」
「食べきれます?」
「何とかなるだろ」
「その考え方で十匹買うんですか」
女性が声を上げて笑った。
「兄ちゃん、気持ちいい買い方するね!」
「せっかくなので」
「じゃあ、魚と蟹まとめて三千円でいいよ」
「三千円?」
桂一が思わず聞き返した。
「もう終わりだから。持って帰るよりいいよ」
「いや、安すぎますね」
桂一は財布から千円札をもう一枚出した。
「四千円出すので、発泡もください」
「え?」
「このまま持って帰りたいので。氷も少し入れてもらえたら助かります」
女性が桂一の顔を見る。
「兄ちゃん、普通こういう時は値切るんだよ」
「もう十分安くしてもらってますから」
「発泡やら氷なんてタダでやるのに。変わってるねえ」
「よく言われます」
女性が笑った。
「じゃあ、今包んでやるよ」
「ありがとうございます」
「ほんと気持ちいい買い方するね。兄ちゃん、イケメンだし」
「ありがとうございます」
「そこは即答なんですね」
栞が横から言う。
「褒めてもらったんだから、受け取っとけばいいだろ」
「今日ずっと機嫌いいですね」
「人生初のファンが出来たからね」
「まだ言ってる」
女性は二人のやり取りを楽しそうに聞きながら、魚を発泡スチロールへ移し始めた。
「そういや兄ちゃんたち、さっき取材って言ってたね」
「はい。港の立入禁止区域のことで」
「ああ、この前落ちた人の話?」
桂一が顔を上げた。
「やっぱり、ご存じなんですね」
「そりゃ知ってるよ。港なんて、みんな知り合いみたいなもんだから。噂なんかすぐ回るよ」
「警察と漁協さんにも話を聞いてきました」
「へえ。ちゃんとしてるんだね」
「ご本人からの依頼なんです。同じような人が出ないように、注意を呼びかけてほしいって」
「ああ」
「昨日会いましたけど、あざだらけでしたよ」
女性の手が少し止まった。
「そんなだったの?」
「顔も手も傷だらけで。本人は、死ぬかと思ったって言ってました」
「そりゃ夜の海なんてそうだろうさ!」
女性は呆れたように声を上げた。
「昼だって落ちたら危ないのに、夜なんか何も見えないんだから」
「ですよね」
「しかも立入禁止なんでしょ?」
「はい」
「馬鹿なことするよ」
女性はイカを発泡スチロールへ移しながら、ため息をついた。
「この辺じゃ、大体みんな同じこと言ってるよ」
「どんなふうに?」
「馬鹿なやつが、また立入禁止に入ったって」
「また、なんですね」
「また」
女性はあっさり答えた。
「入るやつは昔からいるからね」
「今回、押されたって話も広まってます?」
「広まってるよ」
栞が顔を上げる。
「そこまで?」
「警察来たら、その日のうちにみんな知ってるよ」
「港って凄いですね」
「狭いからね」
女性は氷を箱へ入れる。
「誰がどこで何したなんて、すぐ回るよ」
桂一は少しだけ考えた。
「じゃあ、昔の話も結構残ってます?」
「ものによるけどね」
「夜中に車が凹んでたとか、置いてた釣り竿が折られてたとか」
女性の手が一瞬だけ止まった。
「ああ」
「聞いたことあります?」
「あるよ」
「誰か捕まったとかは?」
「それは聞かないね」
「やっぱり」
「まあ、夜の港だからね。誰が何やってるか全部分かるわけじゃないよ」
「そうですよね」
桂一はそれ以上追わなかった。
女性が発泡スチロールの蓋を閉める。
「はい。出来たよ」
「ありがとうございます」
「ちゃんと記事にしてね。入っちゃ駄目だって」
「もちろんです」
「イカ釣れるなんて大きく書いちゃ駄目だよ」
「そこは気を付けます」
「本当だよ。また来るから」
「分かってます」
桂一が発泡スチロールの箱を持ち上げる。
「重っ」
「そりゃそうですよ」
栞が呆れた。
「魚一箱に、蟹十匹ですよ」
「相沢、そっち持てる?」
「結局、私も持つんですか?」
「取材スタッフだから」
「仕事内容に魚運びなんてありませんでしたよ」
「今日増えた」
「勝手に増やさないでください」
女性の笑い声を背中に聞きながら、二人は市場を後にした。




