5-2 警察①
翌朝。
栞が家を出ると、すでにノアが停まっていた。
「早っ……」
思わず時計を見る。
普段なら、まだ事務所へ向かう時間にも少し早い。
運転席の桂一が、窓越しに軽く手を上げた。
「おはよう」
「おはようございます。今日、こんなに早いんですか?」
「昨日連絡してたろ?」
言われてスマホを確認すると、夜のうちにしっかりと連絡が入っていた。
「ホントだ」
「予定詰まってるからな」
栞は助手席へ乗り込み、シートベルトを締めた。
昨日渡された『と〜ほくでアソボ!』のネームタグも、バッグの中に入っている。
「最初は警察ですよね?」
「そう。そのあと港の管理側。漁協代表の宍戸さんにも会う。市場も回りたい」
「今日一日で?」
「出来ればね」
「でも、なんでこんな朝早くから?」
桂一がノアを発進させる。
「港の取材なんて、朝に行かなきゃ意味ないだろ」
「意味がない?」
「そのままの意味で、人がいなくなるからな」
「人が?」
「市場も漁師も、こっちが普通に仕事を始める頃には一仕事終わってる人がいる。昼前には帰る人もいるし」
「ああ……」
「アポ取りと根回しは昨日やっといた」
栞が横を見る。
「昨日?」
「相談者と別れたあと」
「素早いですね」
「ネットに電話番号はあるし、代表者の名前も出てる。分からなきゃ電話して聞けば教えてくれるよ」
「簡単に言いますね」
「こういうのは話題がホットなうちの方がいいんだよ。時間が経つと、相手も『そういえばそんなことあったね』になるから」
桂一は前を見たまま続ける。
「今なら事故のことも覚えてるし、警察も港も動きやすい」
栞は頷いた。
昨日、相談者本人から話を聞いたばかりだ。
それなのに翌朝には、警察、港の管理者、漁協代表まで話が通っている。
自分なら、まずどこへ電話すればいいのか調べるだけで、かなり時間を使ってしまいそうだった。
「桂一さん、こういうの慣れてますよね」
「仕事だからね」
「その一言で済ませるんですね」
桂一は笑った。
S市警察署は、少し古びた建物だった。
何度か塗り直されたらしい外壁と、日に焼けた案内板。
桂一が駐車場へノアを停める。
エンジンを切ると、ドアポケットからネクタイを取り出した。
「つけるんですね」
「見た目が大事だ」
手早くネクタイを結びながら、桂一が栞を見る。
「相沢、警察署入るの初めて?」
「え?」
栞は建物を見上げた。
「……まあ、初めてです」
「じゃあ、後ろからついておいで」
「?」
「普通にしてればいいから」
「分かりました」
栞もバッグからネームタグを取り出し、首へ掛けた。
『と〜ほくでアソボ!』
取材スタッフ 相沢栞。
まだ少し気恥ずかしい。
二人で入口をくぐった。
その瞬間。
何人かの視線が、一斉にこちらへ向いた気がした。
受付。
少し奥の机。
廊下を歩いていた警察官。
ほんの一瞬なのかもしれない。
それでも、初めて警察署へ入った栞には十分だった。
何も悪いことなどしていない。
それなのに、なぜか背筋が伸びる。
自分の鞄に変なものなど入っていなかったはずだ、と意味のない確認までしたくなる。
その前を桂一は気にする様子もなく、ずんずん進んでいった。
「こんにちは」
受付へ着くなり、名刺入れを出す。
「私はインターネットメディアを運営している、水野と申します」
すぐに名刺を差し出した。
『と〜ほくでアソボ!』
運営責任者 水野桂一。
「昨日お電話した、S港の件で伺いました」
「ああ、水野さんですね」
「はい。斎藤さんに対応していただけると聞いています」
「少々お待ちください」
「お願いします」
話はそれだけだった。
桂一は案内された場所へ移動する。
栞も慌てて後を追った。
「桂一さん」
「ん?」
「入る時、凄い見られましたね」
「今も見られてるよ」
「えっ」
栞が反射的に振り返りそうになる。
「見渡さなくていいって」
「まだ見てるんですか?」
「そりゃ見るよ」
桂一は小さく笑った。
「一般の来庁者ならともかく、ネットメディアなんて向こうからしたら訳の分からない存在だからね」
「自分で言います?」
「実際そうだろ。名刺一枚持ってきて、記事にしますって言ってる人間だから。警戒するのは普通だよ」
「なるほど……」
「だから、変に挙動不審にならない方がいい。最初に身分を出して、何のために来たのか説明する」
「私、挙動不審でした?」
「ちょっとだけ」
「う……」
その時、奥から一人の警察官がやってきた。
「水野さんですか?」
桂一が立ち上がる。
「はい」
「斎藤です」
昨日、相談者から聞いていた名前だった。
階級章を見ても栞には分からなかったが、差し出された名刺には巡査長と書かれている。
「本日はありがとうございます」
桂一も改めて名刺を出した。
「こちら、取材スタッフの相沢です」
「相沢です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
三人が席に着く。
斎藤が桂一の名刺へ目を落とした。
「それで、今日は?」
「お電話差し上げた件にはなりますが。S港の立入禁止区域で海へ転落した方から、直接連絡をいただきまして」
斎藤が変わる。
「本人からですか?」
「はい」
桂一が頷く。
「お会いしてきました。立入禁止区域へ入ったことについては、ご本人も自分が悪かったと認めています」
「そこは、こちらからもかなり言いました」
「そう仰ってました」
桂一は擁護も否定もしなかった。
「ただ、同じような方が出ないように、サイトで注意を呼びかけてほしいと頼まれました」
「なるほど」
「うちも東北の旅行情報サイトとして、月によって差はありますが、多い時には十万人近く見に来ることがあります」
斎藤が、もう一度名刺を見る。
「それなら、注意喚起としては意味がありますね」
「そう思っています」
桂一は続けた。
「今日は記事を書く前に、関係するところから一通り話を聞いておこうと思いまして」
「関係するところ?」
「このあと港の管理側へ行きます。漁協代表の宍戸さんにもお会いする予定です」
「もうそこまで?」
「一方の話だけで記事にはしたくないので」
斎藤が頷いた。
「それで警察にも?」
「はい。もちろん、無理にとは言いません」
桂一はメモ帳を開いた。
「今回の件について、話せる範囲だけでも警察側から見た状況を伺いたいのと、S港では立入禁止区域への侵入や転落事故が以前からあるのか。その辺りを知りたいと思っています」
「捜査の内容というより、事故防止の記事として?」
「そうです」
「分かりました」
斎藤は少し考える。
「今回の方が来たのは事実です」
「誰かに押された、と?」
「かなり強く言ってましたね」
「防犯カメラも確認したと聞きました」
「確認しました」
「背後に人は?」
「少なくとも、映像上では確認出来ませんでした」
「本人が海へ落ちるところは?」
「そこは映っています」
桂一のペンが動く。
「どう見えました?」
「そこは何とも言えませんね」
斎藤は慎重に答えた。
「転んだようにも見えるし、急に前へ身体が動いたようにも見える。ただ、暗かったですし、映像だけで誰かに押されたとは言えません」
「そうですよね」
桂一は素直に頷いた。
「ちなみに、この辺って昔から転落事故が多いんですか?」
「うーん。そこなんですよね」
「何か?」
「私もずっとこの辺にいるわけじゃないので」
「ああ、そうですよね」
「こっちへ来て、まだ二年くらいです」
栞は少し意外に思った。
警察署にいる人というのは、何となくその土地の出身者ばかりだと思っていた。
考えてみれば、そんなはずはない。
「それで、今回の話がちょっと気になって、以前この辺を担当していた人に、それとなく聞いてみたんですよ」
桂一のペンが止まる。
「何か気になることが?」
「ええ」
斎藤は少し声を落とした。
「S港って、昔からたまにトラブルがあったらしいんです」
「トラブル?」
「深夜に停めていた車が凹んでたとか、置いてた釣り竿が折られてたとか」
「いたずらですか?」
「普通はそう考えますよね」
斎藤が頷いた。
「それで、防犯カメラも付けられたらしいです」
「なるほど」
「ただ……」
斎藤が一度言葉を止める。
「一度も、それらしい犯人は映ってないそうです」
栞が顔を上げた。
「一度も?」
「少なくとも、私が聞いた範囲では」
桂一は少し考える。
「今回だけじゃないんですね」
「何が起きてるかまでは分かりませんけどね」
斎藤はすぐに付け加えた。
「夜の港ですから。死角もありますし、カメラが全部を映せるわけでもない」
「そうですよね」
「だから、これだけで妙な話にするつもりはないです」
「俺達も同じです」
桂一が答える。
「記事にするなら、あくまで立入禁止区域へ入らないように、という内容にするつもりです」
「それが一番助かります」
斎藤は表情を少し引き締めた。
「今回は夜の海でしたからね。本当に人が死にかねない」
「はい」
「しばらくの間は、夜の巡回も少し増やすことになっています」
「そうでしたか」
桂一が頷く。
「漁協さんも心強いでしょうね」
「そうだといいんですけどね」
斎藤は苦笑した。
「こっちもずっと張り付いていられるわけじゃないので」
「結局、入らないでもらうのが一番」
「そういうことです」
「そこは記事でも強く出します」
斎藤が頷いた。
そのあとも桂一はいくつか確認を続けた。
記事の中でS市警察署の名前を出して問題ないか。
警察へ確認したという事実を書いてよいか。
注意喚起先として、警察署や県警の案内を紹介してよいか。
どれも大げさな質問ではなかった。
会話の終わり際に、ほんの一言ずつ確認する。
やがて取材を終え、二人は部屋を出た。




