閑話 灰島
磨き抜かれたリノリウムの床に、天井の照明が白く反射していた。
壁も白い。
天井も白い。
窓はなく、廊下の先まで均一な明るさが続いている。
その中を、灰島は一人で歩いていた。
黒いスーツだけが、真っ白な空間から切り抜かれたように浮いて見える。
右手には薄いファイル。
左手には、小さな黒いケース。
昨夜、相沢栞から返された卵型の装置が入っていた。
長い廊下の突き当たり。
灰島が角を曲がる。
そこで足を止めた。
一人の男が立っていた。
いつからそこにいたのかは分からない。
灰島を待っていたのだろうが、壁にもたれるでもなく、ただ廊下の中央に立っている。
格好だけが、この場所から明らかに浮いていた。
古びたデザインのジャケット。
首元にはループタイ。
昭和の初め頃の写真から、そのまま抜け出してきたような服装だった。
外見の年齢だけなら、灰島よりはるかに上に見える。
男は胸元のループタイを指先で撫でながら、灰島を見た。
「お疲れだな」
「これはこれは。何か用ですか?」
「随分な挨拶だ」
「用もなく、こんなところで待っている方ではないでしょう」
「待ち伏せみたいに言うな」
「では、偶然お会いしたということで」
灰島はいつもの笑顔を浮かべた。
男は鼻で笑った。
「終わったそうだな」
「ええ」
「捕まえたか」
「無事に」
「無事、ね」
男の視線が、灰島の持つ黒いケースへ向く。
「随分と大掛かりだったそうじゃないか」
「少々、準備が必要な相手でしたので」
「準備どころじゃないだろう。十日も人を置いて、道まで弄って」
「必要経費です」
「金の話じゃない」
「そうでしたか」
男が僅かに眉を寄せる。
「灰島。お前、あの小僧に肩入れし過ぎだ」
「そうでしょうか?」
「人間は移り気だ」
男はゆっくり歩き始めた。
灰島も、その横へ並ぶ。
「初めは興味を持っていても、歳を重ねれば意識も変わる。家族が出来る。守るものが増える。怖くもなる」
「自然なことですね」
「前の失敗で分かっているだろう」
灰島は歩きながら、顎に手を当てた。
「あなたは失敗だと思っているようですが、私は違います」
「ほう」
「彼は今、後進を育てていますよ。本人に、そのつもりはないでしょうが」
男の指が、またループタイへ触れる。
「水野か」
「ええ」
「やつも二十年、三十年もすれば変わるさ」
「その場合は、また次の世代が生まれるでしょう」
男が横目で灰島を見る。
「気の長い話だな」
「我々のような組織にも、時代に合わせた感性が必要です」
「若い連中に任せて、何が変わる」
「今回だけでも、随分と教えられましたよ」
「何をだ」
「携帯電話。SNS。行政への問い合わせ。一般人の移動記録。車載機器。地方の道路事情。それに、現場で人がどう動くか」
灰島は少し笑った。
「昔と同じ方法だけでは、今の時代には目立ち過ぎます」
「だから水野を使う?」
「使う、という言い方は好きではありませんね」
「本人はそう思ってないだろうな」
「水野さんには、よく怒られますから」
「それでも離れない」
「ええ」
「変わり者だな」
「そこが良いのでしょう」
二人の足音が、白い廊下を進んでいく。
男が言った。
「危ういのは変わらんぞ」
「承知しています」
「昨夜も、あと少し判断を間違えていれば死んでいた」
「そのために準備しました」
「昔のお前なら、もっと本人にやらせていただろう」
灰島の足が、ほんの少しだけ緩んだ。
「前の彼でしたら、車から降りていましたよ」
「……あの状況でか?」
「ええ」
「自分から?」
「倒れた相手が起き上がった時点で、確認しに行ったでしょうね」
男は呆れたように息を吐いた。
「馬鹿なのか?」
「好奇心が強いんです」
「同じようなものだ」
「ですが、今回は降りませんでした」
「お前が待てと言ったからだろう」
「それだけではありません」
灰島は前を向いたまま答えた。
「相沢さんが乗っていましたから」
「女を守った?」
「それもあります」
灰島は少し考える。
「一人なら、自分が危険を被れば済みます。しかし二人なら、自分の判断で相沢さんまで危険に晒すことになる」
「だから安牌を選んだ」
「ええ」
「足枷じゃないか」
「私は逆だと思います」
灰島が男を見る。
「退く理由を持てるようになったんです」
男は何も言わなかった。
何歩か進んでから、ぽつりと口を開く。
「それなら、前とは違うということか」
「そう思っています」
「次は治せないかもしれんぞ」
灰島の笑顔が、ほんのわずかに薄くなった。
「もう傷つけませんよ」
「言い切るのか」
灰島は、悪戯をした子どものように笑った。
人差し指を上げ、自分の目元を軽く指す。
「私の目が黒いうちは」
男の指が止まった。
胸元のループタイを撫でていた手が、そのまま動かなくなる。
「……間に合わない可能性もある」
「もう既に、対策は済ませていますよ」
「何をした」
「必要なものは渡してあります」
灰島はそれ以上説明しなかった。
男も追及しない。
「まあいい。俺にはせいぜい迷惑をかけるなよ」
「心得ていますよ」
「分かっているとは思うが、常に監視していろ」
「いけません」
灰島は即答した。
「プライバシーを侵害し過ぎて、最近は水野さんに怒られてばかりなので」
「今更だな」
「信頼関係は大切ですよ」
「お前が言うと薄っぺらい」
「心外ですね」
男は黙ったまま、また胸元のループタイを指先で撫で始めた。
灰島がそれを見て、ふと笑う。
「なんだ?」
「いえ」
灰島は男の胸元へ目を向けた。
「『不思議おじさん』とは、本当に言い得て妙だと思いまして」
男の手が止まった。
「……なんだって?」
「こちらの話です」
灰島はいつもの笑顔に戻った。
男は訝しそうに灰島を見る。
それでもしばらくすると、また何事もなかったようにループタイを撫で始めた。
「気に入らんな」
「似合っていますよ」
「そういう話じゃない」
「では、そろそろ失礼します」
「まだ仕事か?」
「いいえ」
灰島は廊下の先にある扉を見る。
「後片付けです」
男は返事をせず、そのまま反対方向へ歩き出した。
灰島も振り返らなかった。
数十メートル先。
何の表示もない白い扉の前で立ち止まる。
認証機に手を触れる。
短い電子音。
扉が開いた。
中は、廊下とはまるで違っていた。
壁が見えない。
正確には。
壁一面が、資料で埋まっていた。
地図。
航空写真。
道路図。
過去の事故記録。
相談メールを印刷したもの。
日付ごとに整理された目撃証言。
月齢を書き込んだカレンダー。
満月の前後には、赤い印が集中している。
中央の大きな地図には、桂一達が十日間走った区間が太い線で囲まれていた。
何度も折り返した道。
休憩地点。
コンビニ。
退避可能な広場。
細い農道。
昨夜、ノアを誘導した道には、別の色で何本もの矢印が引かれている。
その脇には、手書きの文字。
『進入速度 七〇以上想定』
『車体挙動確認』
『第三曲線後 誘導開始』
『舗装部停止位置』
『接触までの推定時間』
机の上も同じだった。
職員の配置表。
交代表。
通信試験の記録。
ハイパートランシーバーの出力調整。
ノアの車種と寸法。
最低地上高。
砂利道での走行を想定した簡単な計算。
捕獲班の待機位置。
男がどの方向から車へ近づいた場合に、誰がどこを押さえるか。
失敗した場合の第二案。
第三案。
さらにその下。
何枚も修正された跡がある。
壁際には、銀色の頭部装備が三つ並べられていた。
一つには、赤いテープで大きく『録音不良』と貼られている。
別の机には、十日分の記録媒体。
AMラジオの音声。
道路上の電波変化。
車両の位置。
気温。
湿度。
月齢。
どれも、昨夜の数分間のために積み上げられたものだった。
灰島は黒いケースを机へ置いた。
蓋を開ける。
卵型の装置を取り出し、記録欄を確認する。
『使用回数 一』
灰島は小さく笑った。
「これは、修繕費ですね」
脇に置いてある精算書へ、一項目を書き足す。
それから改めて部屋を見渡した。
十日間。
人を置き。
道を整え。
機材を試し。
何度も配置を変え。
何も起きなかった夜にも、同じ準備を繰り返した。
壁一面の資料は、そのまま今回の仕事に費やした時間だった。
灰島はジャケットを脱いだ。
椅子の背へ掛ける。
シャツの袖を一度だけ捲る。
そして。
山のように積まれた書類の前へ立った。
「さて」
灰島は、いつもの笑顔を浮かべた。
「片付けから、始めますか」




