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市影譚 ―怪異を解する―  作者: 宮城 歩


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4-5 怪異


 八日目も、九日目も、何も起きなかった。


 指定された区間を走り、端まで行けば折り返す。AMラジオを流し、後続車が来ればミラーを見る。休憩に入る時だけ灰島へ電話を掛け、戻ればまた同じ道へ入った。


 最初の頃は、一台の車が近づくだけで緊張した。


 今ではライトの高さや間隔を見れば、軽自動車なのか普通車なのか、軽トラックなのかまで何となく分かるようになっている。


 栞も、道路の癖をほとんど覚えていた。


 草刈りの時に切り飛ばされたらしい細いポール。角の削れた縁石。農機が出入りするせいで、少し路面が荒れている場所。


 逃げ込める広い路肩も、入ってはいけない細い農道も分かる。



 十日目。


 最後の夜だった。


「十五往復したら終わりです」


 栞がメモ帳を開く。


「最後だけ、また数えるの?」


「達成感が欲しいので」


「同じ道を百回以上走って、達成感ある?」


「言わないでください」


 桂一が笑った。


 その夜も、いつも通りに始まった。


 黒い軽トラックを一台見た。


「ベンツですね」


「完全に覚えたな」


「桂一さんのせいです」


 対向車が数台。後ろから来た乗用車は、しばらく走ったところで県道の方へ曲がっていった。


 AMラジオにも変化はない。


 午後十一時。


 午前零時。


 最後だからといって、何かが起きるわけでもなかった。


 午前一時を少し回った。


 十日間、毎日のように聞いてきたラジオの声が車内に流れている。


「あと何往復?」


「三往復くらいです」


「本当に何もないまま終わりそうだな」


「桂一さんが言いましたね」


「何が?」


「余計なことを言うと何か起きるって」


「あ」


「知りませんよ」


「忘れてた」


 栞が笑った。


 その時だった。


 道路脇から、一頭の鹿が出てきた。


「あ」


 桂一が速度を落とす。


 鹿はヘッドライトの中で一度立ち止まり、そのまま道路を横切った。


「フェラーリ」


「それ、佐原さんしか言ってないやつですよね」


「まだ覚えてた?」


「こんな適当な知識、忘れませんよ」


「一頭いたら、もう一頭いるかもしれないから少し待つぞ」


「こっちはちゃんとした知識なんですね」


 二人で道路脇を見る。


 数秒後、もう一頭、小さな鹿が出てきた。


「本当にいた」


「だろ」


「これは信用します」


「最初から信用してよ」


 二頭目の鹿も道路を横切る。


 桂一はしばらく待ってから、ゆっくりアクセルを踏んだ。


 いつもの夜。


 いつもの道。


 そのはずだった。


 突然、車内が明るくなった。


「え?」


 栞がサイドミラーを見る。


 強いヘッドライトが、ノアの後ろを照らしている。


「あれ、また軽トラですね」


 十日も走れば、それくらいは分かるようになっていた。ライトの位置が低く、左右の間隔も狭い。


 白い軽トラックだった。


 桂一がバックミラーを見る。


 すぐに眉を寄せた。


「変だな」


「何がですか?」


「さっきまでいたか?」


 栞も後ろを見る。


 いなかった。


 少なくとも、何度もミラーを確認していたはずなのに、後ろに車がいた記憶がない。


 曲がり角もない。脇道もない。


 どこから入ってきたのか。


 まるで、そこへ突然出現したようだった。


 ブオオオオオッ――。


 軽トラックのエンジンが唸る。


 音だけでも分かる。異常なほどアクセルを踏んでいる。


「おいおい。アクセル、ベタ踏みだな」


 桂一が速度計を見る。


 ノアはすでに制限速度いっぱいで走っている。


 それでも、軽トラックとの距離が目に見えて縮まっていく。


「速くないですか?」


「速い」


 ブオオオオオッ――。


 さらに音が大きくなる。


 まるでローギヤのまま、アクセルを床まで踏み抜いているような音だった。


 軽トラックの速さではない。


 桂一の表情から笑みが消えた。


 ザザッ。


 AMラジオへ雑音が混じる。


 栞がラジオを見る。


「来ました」


「うん」


 ザザザッ――。


 パーソナリティの声が途切れる。


 その隙間から、別の声が聞こえた。


『……うし……後ろを……』


「なんか、変な声が――」


「聞くな、相沢っ!」


 桂一の怒声に、栞が身体を固くした。


「引っ張られるぞ!」


 山で聞いた声が、一瞬で頭に蘇った。


 名前を呼ばれ、返事をして、自分ではない何かについて行きかけた。


 栞は口を閉じた。


 ザザザザッ――。


『後ろを、見ろ!』


 今度は、はっきり聞こえた。


 栞の背中を冷たいものが走る。


 軽トラックが、一気に距離を詰めた。


「桂一さん!」


「分かってる!」


 追い越す気配はない。右へ出ることもない。


 ただ、真後ろから迫ってくる。


 このままでは追突される。


 桂一がハンドルを強く握った。


「多分こいつだ。違っても構わない! 相沢、スイッチ入れろ!」


「え、あ、はい! 分かりました!」


 栞が身体を捻り、ハイパートランシーバーの電源へ手を伸ばす。


 その瞬間、カーナビの画面が大きくぶれた。


「えっ」


 地図が横へ流れ、現在地表示が一瞬消える。


 栞のスマートフォンが勝手に点灯した。画面が何度も明滅している。


 そこで、初めて分かった。


 なぜ普通の無線ではなく、あの通信機を積まされたのか。


「入れます!」


 カチ。


 キィィィン――。


 耳の奥へ、高い音が突き刺さった。


 初日に聞いたものより強い。


 桂一は耳鳴りを押し切るように叫んだ。


「灰島! 現れた! どうすればいいっ!」


 返事は一瞬だった。


『道なりに、そのまま約二百メートル!』


「了解っ!」


 栞は、灰島の声に少し驚いた。


 いつもの、何を考えているのか分からない穏やかな声ではない。


 短く、強く、迷いがない。


『この先、カーブを三つ数えてください! 三つ目を過ぎたら右です!』


「右?」


 桂一が叫ぶ。


「そんな道ないはずだぞ!」


 十日間、何度走ったか分からない道だ。


 栞だって覚えている。


 その先に右へ入る道などなかった。


『あります!』


 灰島は断言した。


 十日間ひたすら走った二人よりも、灰島の方が確信を持っている。


『細い道が見えたら入ってください!』


「分かった!」


 一つ目のカーブが来る。


「ひとつ――!」


 栞が、灰島に聞こえるように叫ぶ。


 次は左。


「ふたつ……!」


 身体が大きく揺れる。


 軽トラックはまだ後ろにいる。


 エンジン音が、さらに近い。


「みっつ!」


 三つ目のカーブを抜けた。


 桂一が顔を顰める。


「あった!」


 右側。


 今まで何度走っても気付かなかった場所に、細い道が口を開けていた。


 舗装されていない。


 砂利の隙間から、草まで生えている。


「灰島、突っ込むぞ!」


『はい! 速度はなるべく維持! こちらは準備できています!』


「相沢っ、掴まれ!」


「はいっ!」


 桂一がハンドルを切った。


 身体が遠心力にグンと引っ張られる。


 ノアが砂利道へ飛び込んだ。


 タイヤが砂利を跳ね上げ、バラバラバラッ、と車体の下へ石が当たる。


 車内の荷物も激しく揺れた。


 この車で、こんな運転をしたのは桂一も初めてだった。


「うわっ」


 フロント中央の窪みに置いてあった卵型の装置が跳ねた。


 そのまま栞の方へ飛んでくる。


「わっ、と――取った!」


 栞が胸元で両手を合わせるようにして受け止めた。


「凄いなっ」


 それどころではないはずなのに、桂一はつい笑った。


 相沢は本当に、妙なところで意外性がある。


『相沢さん、ナイスキャッチでした』


「なんで分かるんですか!」


『そのまま落とさないようにお願いします』


「答えてくださいよ!」


「相沢、今はいい!」


『徐々に速度を落としてください! 砂利から舗装路へ入ったら、ゆっくり停車です!』


「分かった!」


「ひいっ!」


 後方で、ガツン、と大きな音が響いた。


 振り返ろうとした栞に、桂一の怒声が飛ぶ。


「振り向くな! 見たいならサイドミラーを見ろっ!」


 反射的にミラーへ目をやる。


 軽トラックがカーブを曲がりきれず、ガードレールへ車体をぶつけていた。


 ジャリジャリと金属が擦れ、大きな火花が散る。


 それでも速度を落とさない。


 人間が乗っているとは思えなかった。


 ただの煽り運転が、ここまで乱暴な運転をするだろうか。


 まるで洋画のカーチェイスだった。


「追ってきてます!」


『想定内です! そのまま直進!』


「分かったよ!」


 外灯は一つもない。


 砂利の隙間から伸びた草が、ヘッドライトの中を流れていく。


 左右は法面に挟まれていた。


 農道なのだろうか。


 前方は黒く、道というより闇の中へそのまま飛び込んでいるように見える。


 桂一にも余裕はなかった。


 アクセル、ハンドル、ミラー、前方。


 全てを同時に見ている。


「――あ、見えました!」


 栞が前を指す。


 路面の色が変わっている。


「アスファルトだ! 止まるぞ!」


 こんな道にもかかわらず、速度計は時速百キロに迫っていた。


 タイヤが小石を弾き、ノアの車体が細かく跳ねる。


 桂一は一気にブレーキを踏み込まない。こんな路面で急に踏めば、車体ごと横を向きかねない。


 まずアクセルを戻す。


 九十。


 八十。


 前方の舗装路が一気に近づく。


 ブレーキを慎重に踏み増した。


 六十。


 ノアが舗装路へ乗り上げる。


 四十。


 タイヤがアスファルトを捉えた。


「止まるぞ!」


 そこで初めて、桂一が強くブレーキを踏み込んだ。


 辺りには街灯がない。


 民家の明かりもなく、ヘッドライトの照らす範囲以外はほとんど何も見えなかった。


 後ろから、変わらず軽トラックが来る。


 野生動物の唸り声のようなエンジン音。


「桂一さん!」


「灰島、どこだ! 近すぎる! 限界だぞ!」


『まだです! 動かずに!』


 ――まだなの!?


 栞は叫びたかった。


 近い。


 このままでは絶対にぶつかる。


 石を跳ね上げる音が近づく。


 軽トラックには、止まる気配がまるでない。


 栞の身体が無意識に前へ出た。


「相沢っ、身を乗り出すな!」


「えっ」


「怖いのは分かるが、シートに身体を預けろ! 頸椎を傷めるぞ!」


「わ、分かりました!」


 栞は背中をシートへ押し付けた。


 レーザービームを胸元で握り締める。


『そのままで大丈夫です! 対策済みです!』


 全く信じられなかった。


 誰が見ても分かる。


 あの速度と、あの質量。


 この距離から、どうやって止めるというのか。


 そう思った瞬間だった。


 バンッ!


「うわあっ!」


「なんだよっ!」


 近くで花火でも爆発したのかと思った。


 車体全体が、音に反応して揺れたような気さえした。


『振り向かずに待機してください!』


 灰島の声がすぐに飛ぶ。


『成功しました。絶対に車を動かさないでください』


「分かった。何をした?」


 答えはなかった。


 後ろから聞こえていた軽トラックのエンジン音が、急に低くなる。


 やがて、止まった。


 砂利道をかなりの速度で走ったせいで、辺りには砂埃が舞っていた。


 ノアが巻き上げたもの。


 軽トラックが巻き上げたもの。


 ヘッドライトとテールランプの光が、その中で白く滲んでいる。


 栞が反射的に振り返ろうとした。


「まだ振り向くな」


「え?」


「そのまま前向いてろ」


 桂一自身は身体を動かさず、バックミラーへ視線だけを向けた。


 砂埃の向こう。


 白い軽トラックが、斜めに停まっている。


 そこまでは分かる。


 だが、その上。


 荷台から屋根の上にかけての空間だけが、おかしかった。


 輪郭が揺れている。


 砂埃のせいにも見える。


 けれど、それだけではない。


 何か大きなものがそこにあり、見えないまま周囲の景色だけを引っ掛けて歪ませているようだった。


「なんだ、あれ……」


「桂一さん?」


「ああ、俺にも見えてる」


 桂一はミラーから目を離さない。


「直で見るな。あれは、たぶん良くない」


「……何が見えてるんですか?」


「分からない」


 それでも、一つだけは分かる。


 軽トラックだけではない。


 何かが、あの車と一緒にここまで追ってきている。


「うそっ!」


 栞が思わず桂一の腕を掴んだ。


 軽トラックの、運転席側のドアが開いた。


 男が転がるように地面へ落ちる。


 相当な衝撃だったはずだ。


 そのまま倒れ込んだ。


「……大丈夫なんですか?」


 栞の頭に、一瞬だけ現実的な選択肢が浮かぶ。


 救急車か。


 警察か。


「灰島、降りてきたぞ」


『確認できています。こちらで対処しますが、念のためレーザービームの用意を』


「はいっ」


 栞は両手で抱えるように持っていた装置を確認した。


『スイッチは危険が迫った時だけです。主電源を入れておいてください』


「分かりました」


 震える指で、黒いスイッチを動かす。


 カチ。


 桂一は無言で、相手の出方を窺っていた。


 男が、ザッ、と起き上がった。


 上下青のつなぎ。


 白い靴。


 こんな時間でなければ、普通の農家の男に見えたかもしれない。


 男は、自分の身体が動くことを確認するように腕を動かした。


 そして、こちらへ歩き始めた。


『ハイパートランシーバーの電源を落としてください。ここからはこちらで対処します』


「頼んだ」


 桂一が電源ボタンを押す。


 キィィンという音が消え、一気に静けさが戻ってきた。


 ノア自身のエンジン音が、急に現実的に聞こえる。


 頭の奥へ響いていた高い音が、知らないうちに身体へ負荷を掛けていたのだと、栞はその時になってようやく気付いた。


 ザッ。


 ザッ。


 男が歩いてくる。


「あの人、目が……」


 初めはサングラスを掛けているのだと思った。


 けれど、光を反射していない。


 目にあたる部分だけが、目隠しをされているように真っ黒だった。


 それだけではない。


 目玉があるはずの場所そのものが、奥へ落ち込んでいる。


「……窪んでる?」


 男が運転席側へ向かう。


 桂一がドアロックを確認した。


「桂一さん」


「レーザー、俺に当てるなよ」


 男が選んだのは、運転席側だった。


 ここまで来ると、どうしても見えてしまう。


 目にあたる場所が黒い。


 目玉があるはずの場所そのものが凹んでいる。


 どう見ても異常だった。


 男の右手が上がる。


 窓まで、あと数メートル。


「……まだか」


 叩きつけようとしているのか、桂一がドアの取っ手へ手を掛けた。


 ――その時。


『確保!』


 怒声が闇を裂いた。


「えっ」


 道路脇から、白い影が一斉に飛び出した。

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