4-4 慣れ
三日目も、何も起きなかった。
四日目も同じだった。
最初の頃は、後ろからヘッドライトが近づくだけで栞の身体に力が入った。
AMラジオへ一瞬でも雑音が混じれば、会話を止めて耳を澄ませた。
けれど、三日、四日と同じ道を走っているうちに、少しずつ緊張の種類が変わっていった。
怖くなくなったわけではない。
ただ、この道そのものには慣れてきた。
「次、左に緩く曲がります」
「覚えたね」
「そのあと、右側に広いところ」
「正解」
「さらに先で路面がちょっとガタガタします」
「そこまで覚えたか」
栞は少し得意になった。
何度も同じ場所を通れば、最初は暗闇にしか見えなかった道路にも特徴があることが分かってくる。
草刈りの時に一緒に切り飛ばしてしまったらしい細いポール。
角が削れた縁石。
道路脇だけ少し土が盛り上がっている場所。
何度通っても、同じところで小さく車体が揺れる場所。
「ここ、なんで毎回ガタつくんでしょう」
「田んぼから農機が出入りするからじゃないかな」
「農機?」
「コンバインとかトラクター。重いし、タイヤも普通の車とは違うだろ。こういうところは路肩が沈んだり、土を引っ張ったりするんだよ」
「へえ」
栞は助手席から道路脇を見る。
普段なら気にも留めない場所だった。
田んぼへ続く道があり、その境目だけ舗装が少し傷んでいる。
「桂一さん、こういうの本当に詳しいですよね」
「そう?」
「はい。なんか、素直に尊敬します」
桂一が少しだけ困ったような顔をした。
「普段役に立たないと思ってたけど、そんなに素直に感心されるとむず痒いな」
「役に立ってるじゃないですか。今まさに」
「こういう仕事じゃないと使わないけどね」
「でも、私は知らなかったです」
桂一は小さく笑った。
「まあ、知らなくても困らない知識ではある」
「そういうのをいっぱい持ってるのが面白いんですよ」
「相沢も、そのうち増えるよ」
「この仕事続けてたら?」
「嫌でもね」
五日目になる頃には、十五往復という数字にも慣れた。
一往復ごとに線を消していた栞のメモ帳も、いつの間にか簡素になった。
何もなければ時刻だけ。
車が来れば車種。
気になることがあれば一言。
それだけで十分だった。
二十二時過ぎ。
後ろから黒い軽トラックが近づいてきた。
「後ろ、ベンツです」
栞が言った。
桂一が横目で見る。
「覚えたな」
「黒い軽トラはベンツ」
「うん」
「青はレーシングカー」
「うん」
「赤はフェラーリ」
「完璧」
「絶対、誰もが言ってるわけじゃないですよね」
「だから最初からそう言ってるだろ」
「でも、だんだん本当に田舎の共通語みたいな気がしてきました」
「そこまで浸透してないよ」
黒い軽トラックは、しばらく一定の距離を保って走った。
AMラジオに変化はない。
やがて農道へ曲がり、見えなくなった。
「普通のベンツでしたね」
「もう完全に言ってるじゃん」
「桂一さんのせいです」
そんな会話をしながらも、二人の目は自然にミラーと道路を追っていた。
笑っていても、仕事を忘れたわけではない。
異変があれば会話を止める。
後続車が近づけば距離を見る。
ラジオが少しでも乱れれば、二人とも同時に黙る。
何もなければ、また話す。
その繰り返しが、いつの間にか二人の夜の仕事になっていた。
六日目。
とうとう栞は、指定区間のほとんどを地図なしで説明できるようになった。
「次のカーブの先、左側がちょっと広くなります」
「うん」
「その先の農道は入らない」
「うん」
「さらに進んで、古いガードレールがあるところが、前に言ってた逃げやすい場所」
「正解」
「もう一人でも走れますよ」
「じゃあ交代する?」
「それは別です」
「何で?」
「夜中の山道を一人で十五往復したくありません」
「そこは駄目なんだ」
「知ってる道と、一人で走りたい道は別です」
「それは確かに」
桂一は笑った。
この頃になると、何も起きないこと自体が少し不思議に感じられるようになっていた。
灰島は一日二十万円を出している。
十日間、何もなければ二百万円。
それだけの金を使って、ただ二人に道を往復させている。
「本当に何も起きなかったら、灰島さん損ですよね」
「俺もそう思う」
「でも止めない」
「止めないね」
「ということは、何か起きると思ってる」
「だろうね」
「嫌ですね」
「うん」
答えは簡単だった。
だからこそ、栞はそれ以上考えないことにした。
考えたところで、灰島が教えてくれるとも思えない。
七日目。
午前零時を少し回った頃だった。
その夜も、何事もなく折り返しを続けていた。
AMラジオから流れる声もいつも通り。
後続車もいない。
栞は助手席でメモ帳を膝に置き、少し窓の外を眺めていた。
「うわっ」
「え、なに!?」
ノアが大きく速度を落とした。
急ブレーキというほどではない。
それでも身体がシートベルトへ押し付けられ、タイヤが路肩寄りの細かな砂を噛んで、ザザッ、と音を立てた。
その音がAMラジオと重なった。
栞の身体が固まる。
出た。
一瞬、本気でそう思った。
ヘッドライトの先。
道路の真ん中に、大きな黒い塊がいる。
夜の道路に、そんな大きなものがいるとは思わなかった。
低い位置に頭があり、四本の脚で地面を踏んでいる。
大きさだけを見れば、四つん這いになった成人男性くらいに見えた。
「……何、あれ」
「イノシシだ」
「でっか!」
桂一は少し身を乗り出し、フロントガラスの向こうを見る。
「ライトで照らされてるから、余計にでかく見えるな。肉付きもいい」
栞が桂一を見る。
「そこ見るんですか?」
「え?」
「今、完全に食べ物を見る目でしたよ」
「そう?」
桂一はもう一度イノシシを見る。
狩猟に関わってきたせいなのか。
栞には、野生動物というより半分くらいジビエとして見ているようにしか思えなかった。
イノシシは道路の中央から動かない。
ヘッドライトに照らされた身体は、栞が想像していたものよりずっと厚かった。
「猪突猛進って言うけど、直進しかできないわけじゃないからな。普通に機敏に曲がる。絶対降りるなよ」
「降りるわけないじゃないですかっ」
「念のためだよ」
栞はシートベルトを握りしめた。
「速く逃げてください」
「焦るなよ。待ってればいなくなるから」
「本当に?」
「刺激しなければね」
「さっきから、こっち見てません?」
「警戒されてるね」
「それが怖いんですけど」
ノアとイノシシが、道路の上で向かい合った。
数秒。
実際にはそれだけだったはずなのに、栞には妙に長く感じられた。
その時、道路脇の草が動いた。
「あ」
小さな影が出てきた。
一頭。
続いて、もう一頭。
縞模様の小さな身体が、親イノシシのそばへ駆け寄ってくる。
「ウリ坊……」
「子どもを待ってたんだな」
ウリ坊が親の身体へ擦り寄る。
親イノシシは少し向きを変えると、そのまま道路を横切った。
二頭のウリ坊も、後を追う。
やがて三頭とも反対側の藪へ入り、暗闇の中へ消えていった。
桂一はさらに少し待ってから、ゆっくりノアを発進させた。
「怖かったー……」
栞は大きく息を吐いた。
「子ども連れだったから、降りなくて正解だよ」
「だから降りませんって」
「というか、相沢はこの前、解体してるの見ただろ?」
「あれは半ば解体中でしたし、半分くらいお肉になってましたから!」
「同じイノシシだよ」
「全然違います!」
桂一が笑う。
栞はまだ、シートベルトから手を離せずにいた。
「道路の真ん中にいると、あんなに大きく見えるんですね」
「生きて動いてるのと、解体台の上じゃ印象違うだろうね」
「違いすぎます」
「でも覚えといて。イノシシ見ても、車から降りない。追い払おうとしない。子どもがいたら、なおさら近づかない」
「今日ので十分覚えました」
「それならいい」
栞はバックミラーを見る。
もう親子の姿はない。
AMラジオも、何事もなかったように流れている。
さっき聞こえたザザッという音も、怪異の兆候ではなかった。
ただ、タイヤが路面の砂を噛んだだけだ。
それでも、その後しばらく。
ラジオに小さな雑音が混じるたび、栞の耳は勝手に反応した。
七日目も、結局それ以上のことは起きなかった。
煽り運転も。
強い光も。
灰島からの指示もない。
ただ、午前二時。
最後の往復を終えた時。
栞はフロント中央の窪みに置かれた卵型の機械を見た。
今日も使わなかった。
トランシーバーも、まだ一度も本番では電源を入れていない。
残りは三日。
ここまで何もないと、本当に最後まで何も起きないのではないか。
そんな気が、少しだけしてきていた。




