4-3 2日目
二日目。
二十一時ちょうど。
ノアは、昨日と同じコンビニを出た。
指定区間をゆっくり走り、端まで行ったら折り返す。
一往復、およそ二十分。
休憩を挟まなければ、五時間で十五往復ほどになる計算だった。
栞は助手席でメモ帳を開いた。
「メモするの?」
「手を動かさないと、眠くなっちゃうので」
「ああ」
桂一は前を見たまま頷いた。
「動きがないと、ぼーっとするからね。ラジオに集中するか、道を気にするのが良いかもね」
「昨日も思ったんですけど」
「うん」
「こんなにラジオをずっと聞くの、初めてかもしれません」
「普通は五時間もAMだけ聞かないからね」
少し籠もった音質で、男性アナウンサーの声が流れている。
番組そのものを聞くためではない。
雑音が混じらないか。
音が急に遠くならないか。
相談メールにあった変化を拾うために流している。
それでも、何十分も聞いていると。
番組のコーナーやジングルまで、少しずつ頭に入ってきた。
「十五往復……」
栞はメモ帳の端に、小さく十五本の線を引いた。
「一往復したら一本消します」
「夏休みの宿題みたいだな」
「五時間何もしないよりいいです」
「それはそう」
一往復目。
異常なし。
二往復目。
後ろから黒い軽トラックが近づいてきた。
「来ました」
「うん」
栞がミラーを見る。
距離は普通。
AMラジオにも変化はない。
桂一が少し速度を落とすと、軽トラックはしばらく後ろを走り、やがて右の農道へ曲がっていった。
「黒い軽トラですね」
「ベンツだな」
「え?」
「黒い軽トラはベンツ」
栞が桂一を見る。
「何を言ってるんですか?」
「田舎だと、たまにそう呼ぶ人がいるんだよ」
「本当に?」
「みんなじゃないよ。俺の周りにも何人かいるくらい」
「じゃあ青は?」
「レーシングカー」
「赤は?」
「フェラーリ」
「絶対、統一されてないですよね」
「されてないと思う」
「田舎あるあるみたいに言わないでください」
「そういう雑な呼び方があるってだけ」
栞は笑いながら、メモ帳には素直に『黒い軽トラック』と書いた。
「ベンツとは書かないの?」
「書きません」
「正しい判断だ」
三往復目。
道路脇で、黒っぽいものが動いた。
「桂一さん」
「見えてる」
桂一が速度を落とす。
ヘッドライトの端に、丸い身体が浮かんだ。
「……子グマ?」
「たぬき」
「え?」
動物はこちらを一度見たあと、道路脇の草むらへ入っていった。
「今ので分かるんですか?」
「身体が丸いだろ。脚も短いし」
「暗くて黒い塊にしか見えませんでした」
「夜は色より形で見た方が分かりやすいよ」
「子グマじゃないんですね」
「この辺で、あの大きさならまず違う」
「まず、なんですね」
「絶対って言うと佐原さんに怒られる」
「そこにも佐原さんが出てくるんですね」
「山の話は、だいたいあの人由来だから」
栞は、たぬき、と小さく書き足した。
四往復目。
五往復目。
車はほとんど来なかった。
たまに対向車のヘッドライトが見えると、それだけで二人とも少し意識を向ける。
後続車なら、さらに注意する。
だが。
AMラジオは何事もなく流れ続けていた。
初日より道は分かる。
次のカーブがどちらへ曲がるのか。
広い路肩がどこにあるのか。
どの農道には入らない方がいいのか。
それでも。
後ろにライトが見えるたび、栞の身体は少しだけ固くなった。
まだ二日目だ、慣れたとは言えない。
深夜零時を回った。
桂一が、指先でリズミカルにハンドルを叩き始めた。
ちょうどラジオから流れたジングルに合わせて。
「イチバン、ラジオMTB~」
栞が横を見る。
「まだ二日目なのに、もう覚えたんですか?」
「いや。一人旅の時にAMは結構聞いてたんだよ」
「そうなんですか?」
「一昨年の年末、千葉のテーマパークまでカウントダウンの花火を見に行ってな」
「なんですか、その面白そうな旅!」
栞が思わず身体を少し桂一の方へ向ける。
「まあ、チケットは買わずに近くをうろついただけなんだけど」
「入ってないんですか?」
「入ってない」
桂一は笑った。
「近くで花火見て、そのまま東京行って。元旦番組の撮影を見てきたりしたよ」
「何してるんですか」
「旅行」
「そんな旅行あります?」
「あるだろ。今話したやつが」
栞は吹き出した。
「そんなの、よく行こうって思いつきますね」
「思いついたら行けばいいじゃん」
「普通は、その間に色々考えるんですよ」
「考えてるうちに休み終わるだろ」
「それはそうですけど」
桂一は前方の暗い道路を見ながら、少し笑った。
「そういうところは、自由業で良かったって思うよ」
「急に千葉行って、そのまま東京ですもんね」
「車で寝れば宿もいらないし」
「それも普通みたいに言わないでください」
「エアコンで声が枯れるんだよ。それも醍醐味だ」
「感性が変わり者過ぎませんか?」
「相沢が来る前なんかは、もっと自由に生きてたからね。今は落ち着いた方だよ」
「これで?」
「これで」
桂一は笑った。
「仕事終わって、そのまま県外行ったり。目的地だけ決めて、泊まる場所は着いてから考えたり」
「普通は逆じゃないですか?」
「寝られれば何とかなる」
「その基準で生きてたんですね」
「まあね」
栞は呆れたように笑った。
「じゃあ、私が来てから少し真人間になったんですか?」
「そこまでは言ってない」
「今の流れ、そう聞こえましたけど」
「予定を組むようにはなったよ」
「十分進歩じゃないですか」
「相沢がいると、急に『今日このまま青森行くか』とか言えないだろ」
「言われても困ります」
「だから落ち着いたんだよ」
話しているうち、また折り返し地点へ着いた。
栞は一本、線を消した。
笑っていても、仕事を忘れたわけではない。
後続車が見えればミラーを見る。
ラジオの音が少しでも変わった気がすれば、二人とも黙る。
数秒聞いて。
何もなければ、また会話に戻る。
次の往路。
道路脇に細い影が現れた。
「あ」
栞が指を差す。
「今度は……たぬきじゃないですよね」
「キツネ」
細い身体に、身体と同じくらい長い尾。
全体的に黄色が強い。
ヘッドライトを避けるように、すぐ草むらへ消えていった。
「初めてちゃんと見たかも」
「夜だとたまに見るよ」
「さっきのたぬきより、全然細いですね」
「見分けつくだろ」
「これは分かります」
栞は少し嬉しくなって、メモ帳へ『キツネ』と書いた。
「それも記録するの?」
「手を動かすためです」
「事件と関係ないよ」
「いいんです。眠気対策なので」
同じ道を何度も走っていると。
昨日まで、ただ暗かった場所に少しずつ意味が付いていった。
ここは田んぼ。
ここは細い農道。
ここは路肩が広い。
この先には、逃げ込めそうな場所がある。
この辺には、たぬきがいた。
少し先ではキツネを見た。
知らない夜道が。
少しずつ、自分達の知っている道へ変わっていく。
それでも。
十五往復目が近づいても。
ラジオは乱れなかった。
午前一時五十分。
栞のメモ帳に残った線は一本。
「あと一往復ですね」
「だね」
「今日も何もなさそう」
「それを言うと出そうだから、黙ってようか」
「そういうの気にするんですか?」
「こういう仕事してるとね」
「意外です」
「幽霊が怖いからとかじゃないよ。余計なこと言った直後に面倒が起きると、自分に腹立つから」
「そっちですか」
「そっち」
最後の往復。
後続車は来なかった。
AMラジオも、一度も乱れない。
二日目も。
何も起きなかった。
午前二時。
指定区間を出る直前。
栞は最後の一本を横線で消した。
「十五本。終わりました」
「達成感ある?」
「あります」
「同じ道を十五往復しただけだけどね」
「言わないでください」
栞はメモ帳を閉じた。
たぬき。
キツネ。
黒い軽トラック。
あとは、ほとんど何もない。
それで二十万円。
数字だけを見れば、かなり割の良い仕事だった。
けれど。
栞はフロント中央の窪みを見る。
灰島が置いていった、卵型のレーザー。
二日目も、一度も触らなかった。
トランシーバーの電源も入れていない。
それなのに。何かが起きる前提で、自分達はこの道を走らされている。
初日の緊張は、少しだけ薄れた。
けれど、安心するにはまだ早い気がしていた。




