4-2 初日
翌日の二十時五十分。
ノアは、昨日灰島に指定されたコンビニの駐車場に停まっていた。
昼間に見れば、郊外によくある店だ。
だが夜になると、駐車場だけが白く浮かび上がり、その外側にはすぐ暗闇が広がっている。
ここから指定区間までは、車で十分ほど。
今日から最大十日間。
二十一時から午前二時まで、その道を繰り返し走ることになる。
栞は買ったばかりのコーヒーをカップホルダーへ置いた。
「領収書、取ってあります」
「一応ね。経費は出すって言ってたから」
「コーヒーもですか?」
「とりあえず、渡してみよう」
「じゃあ次から、もう少し高いの買います」
「そういう時だけ遠慮なくなるな」
桂一が笑って、自分のコーヒーを置く。
後部座席には飲み物と軽食、メモ帳、懐中電灯。
そして昨日取り付けた黒い通信機がある。
助手席側には、今までなかった太いアンテナが一本立っていた。
時刻は二十時五十七分。
桂一が車の時計を見た、その時だった。
コンコン。
「きゃっ」
栞が肩を跳ねさせる。
運転席の窓のすぐ外に、人が立っていた。
「……普通に来いよ」
桂一は驚いた様子もなく、窓を下げた。
「こんばんは」
灰島だった。
栞は、初めてその姿を直接見た。
想像していたより、ずっと若い。
見た目だけなら三十代の初めくらい。
男なのだが、どこか宝塚の男役を思わせるような、整った顔立ちをしている。
肌が妙に白いせいか、眉だけが少し浮いて見え、唇の赤さが目についた。
綺麗なのだが。
どこか、綺麗に作られすぎている。
人の顔を、そのまま形だけ整えて被せたような。
そんな印象が、一瞬だけ頭をよぎった。
「初めまして、相沢さん」
「あ、初めまして」
電話では何度も声を聞いている。
それでも、実際に目の前へ立たれると少し緊張した。
灰島の視線が、栞の首元へ向く。
「お守りはいかがですか?」
「付けてます。ありがとうございます」
「それは良かった」
桂一がシートベルトへ手を掛けた。
「降りるよ」
「いえ。すぐ時間になりますし、そのままで結構です」
灰島が片手を上げる。
「今買ったレシートがあれば預かりますよ?」
「嗜好品が混じっているぞ」
「酒たばこ以外なら大丈夫ですよ」
栞は思わず灰島を見る。
怪異らしきものを追うために、夜中まで山側の道を走る。
正体の分からない通信機まで積んでいる。
その仕事を依頼した人物が。
コンビニのコーヒー代を気にしていた。
「経費って、本当に見るんですね」
「仕事ですから」
「そこだけ普通なんだよな」
「そこだけ、とは?」
「何でもない」
灰島は貼り付けたような笑顔のまま、ジャケットのポケットへ手を入れた。
「もう一つ、お渡しする物があります」
「まだあるの?」
「はい」
取り出したのは、手のひらに収まる程度の卵型の物だった。
黒に近い灰色。
表面には小さなボタンが一つ。
表示も、メーカー名らしいものもない。
灰島は、それを桂一へ差し出した。
「これは?」
「レーザービームです!」
「レーザービーム?」
「レーザービーム?」
二人の声が重なった。
きちんとしたスーツ姿の男が口にするとは思えない単語だったので、つい驚いた。
整った顔で言われると、余計に調子が狂う。
「レーザーポインターみたいな?」
栞が訊いた。
「そんなようなものですね」
「ならそう言えよ」
桂一が手の中の機械を見る。
「操作は簡単です」
灰島が指を差した。
「裏のスイッチが主電源になってまして、表のボタンを押すとレーザーが出ます」
「俺、運転するから持ってて」
「はい」
栞が受け取る。
見た目より、少し重い。
「裏のスイッチ?」
確認しようと手首を返した。
底の近くに、小さな切り替えスイッチがある。
「これですか?」
「そう――」
カチ。
「あ」
指が引っ掛かった。
「わたたっ」
卵型の機械が、手の中で滑った。
慌てて掴み直そうとして、指が表側をなぞる。
「――っ!」
窓の外にいた灰島の上半身が、一瞬で後ろへ引いた。
あまりにも速かったので、栞は灰島が消えたように見えた。
どうにか両手で機械を掴む。
「す、すみません」
「いえ」
灰島が、何事もなかったように元の位置へ戻った。
桂一は目を丸くしている。
「お前でも焦ることがあるんだな」
「危ないですよ」
「何が?」
「目に当たると、失明の恐れがありますからね」
栞の手が止まった。
「……え?」
「普通のレーザーポインターの話か?」
「普通のレーザーポインターもです」
「意味深だな」
「電源切ります」
栞は慌ててスイッチを戻した。
カチ。
卵型の機械は、再びただの無機質な塊になった。
「これ、本当にレーザー出るんですか?」
「出ますよ」
「どのくらい強い?」
「使用する必要が生じた場合に説明します」
「嫌な言い方するなあ」
「今のところ、操作する必要はありません。私から指示があった場合のみ使用してください」
「分かりました」
栞は、さっきよりずっと慎重に持った。
桂一がフロント中央の窪みを指差す。
「そこに置こう。転がらないだろ」
「はい」
栞は卵型の機械を置き、軽く揺らして動かないことを確認した。
手を離してからも。
念のため、もう一度主電源が切れていることを確認する。
「ああ、それと」
灰島が言った。
「走行中は、AMラジオをつけておいてください」
「AM?」
「相談メールの中にあったでしょう。後ろから車が近づいてきた時、ラジオが急に乱れたという話が」
「あったな」
栞も覚えている。
走行中。
突然ラジオへ雑音が入り。
その直後に、バックミラーへ後続車が現れた。
そんな内容のメールがあった。
「ラジオをセンサー代わりにするんですか?」
「そう考えていただいて結構です」
「でも、なんでAMなんですか?」
灰島は少し考えるような顔をした。
「何もない道はAMですよ。オシャレな街はFMです」
「適当なことを言うな」
「え?」
桂一が栞を見る。
「相沢。AMは田舎でも電波が入りやすいからだ」
「そうなんですか?」
「FMだと山が近いと雑音が入りやすい。AMは強いんだよ」
「なるほど」
「そういう理由もあります」
灰島が何食わぬ顔で付け足した。
「そっちを先に言えよ」
「何もない道はAM、というのも悪くないと思いますが」
「仕事中に相沢へ変な知識を植え付けるな」
「危うく覚えるところでした」
「ほら」
灰島は小さく頭を下げた。
「では、AMでお願いします」
桂一が後部座席の通信機へ目をやる。
「トランシーバーは?」
「ハイパートランシーバーのチャンネルは一つだけです。電源を入れれば、そのまま繋がります」
「設定はいらない?」
「はい」
「それは楽だな」
「相手が現れたら、こちらから指示を出します。その時はハイパートランシーバーをオンにして連絡をください」
桂一が灰島を見る。
「本当にハイパーで通すんだな」
「分かりやすいでしょう?」
「まあ、分かりやすいけど」
昨日まで、ただの通信機だったはずだ。
一晩で名前が決まってしまった。
「休憩は?」
「指定区間を出る時は連絡をください。戻る時は分かるので大丈夫です」
栞が灰島を見る。
戻る時は分かる。
その部分だけ。
少し引っ掛かった。
桂一も同じだったらしい。
一瞬、眉を動かしたが。
特に追及はしなかった。
「電話でいいか?」
「はい。任務中は出れますので」
「普段もそれくらい出ろよ」
「それは難しいですね」
「だろうな」
桂一は小さくため息をつく。
「お前達は、どこかに待機してるのか?」
「区間が広いので、何ヶ所かに分かれて待機しています」
「何人いる?」
「必要な人数です」
「出たよ」
「何かありましたら、こちらから指示を出します」
「了解」
灰島は、貼り付けたような笑顔のまま頭を下げた。
「では、そろそろ時間ですね。お気を付けて」
「はいはい」
桂一が窓を閉める。
ノアはコンビニの駐車場を出た。
店の明かりが、少しずつ後ろへ流れていく。
栞は何となく振り返った。
「……消えてませんね」
「ん?」
桂一はバックミラーを確認した。
コンビニの明かりの下。
スーツ姿の灰島が、貼り付けたような笑顔でこちらへ手を上げている。
「そういえばそうだな。見送りたい気分なんだろう」
「期待したのに」
「何を?」
「見たことないから、見たかったのに」
「消える所?」
「そうです」
「消える所を見たいとは、言い得て妙ってやつだね」
栞はもう一度、後ろを見る。
灰島はまだいた。
「いつの間にかいなくなるところ、一回ちゃんと見てみたいんですよ」
「見てたら消えないんじゃない?」
「それ、ずるくないですか?」
「俺に言われても知らないよ」
コンビニの明かりが遠ざかる。
灰島の姿も、やがて見えなくなった。
少しして。
栞が口を開いた。
「灰島さんって、想像よりすごい若かったです」
「ん?」
「電話の声だけだと、もう少し年上かと思ってました。三十代の初めくらいにしか見えませんでしたけど」
桂一は。
少しの間、何も言わなかった。
「あいつは、俺が会った時からあんな感じだよ」
「会った時から?」
「佐原さんが三十年くらい前に会った時も、ほとんど変わってなかったらしい」
「……え?」
栞は、反射的に後ろを見た。
当然。
もう灰島は見えない。
三十代の初めくらい。
そう見えた。
それが。
三十年前からほとんど変わっていない。
それなら、少なくとも還暦前後。
もっと上でも、おかしくない。
ぞくりとした。
「……そんな人に、よく対等に話せますね」
「散々な目に遭わされてるからな」
桂一は前を見たまま言った。
「もういいんだよ。あいつとか、お前とかで」
「慣れるものなんですか?」
「慣れたくて慣れたわけじゃないけどね」
栞は、バックミラーを見る。
さっきまで。
そこに普通に立っていた男が。
三十年前から、ほとんど同じ姿をしている。
レーザービームより。
そちらの方が、よほど現実味がなかった。
桂一がラジオへ手を伸ばす。
FMからAMへ切り替えた。
少し籠もった音質の声が、夜の車内へ流れ始める。
今のところ。
雑音はない。
街の明かりが少しずつ減っていく。
しばらくして。
桂一が前を見たまま口を開いた。
「そういえば」
「はい?」
「お母さん、何か言ってなかった?」
「何がですか?」
「この仕事。十日間も夜だけ出掛けるとか」
「ああ……」
栞は少し言いにくかった。
「妙な勘繰りはされました」
「妙な?」
「そこは聞かなくていいです」
「そう?」
「はい」
栞は窓の外を見る。
「でも、テレビに出たのが大きかったみたいです」
「テレビ?」
「桂一さんの評価、百八十度変わりました」
「そんなに?」
「前は結構怪しまれてましたからね」
「……何だと思われてたんだろ」
「よく分からない仕事をしてる、よく分からない人です」
「間違ってないな」
「自分で言います?」
栞は笑った。
「でもテレビに出てからは、『水野さんなら大丈夫でしょ』って」
「それは良かった」
桂一は、本当にそれだけ言った。
少しも気を良くした様子がない。
「嬉しくないんですか?」
「何が?」
「信用されたんですよ」
「相沢のお母さんに?」
「はい」
「それはありがたいよ」
少し間を置いて。
「娘を夜中まで連れ回す側だからね」
栞は横顔を見る。
そういうところなのだ。
本人はたぶん、何とも思っていない。
けれど。
昨日、灰島が言っていた。
水野さんは真面目ですからね。
少しだけ。
その意味が分かった気がした。
二十一時七分。
ノアは指定された区間へ入った。
栞はメモ帳を開く。
「二十一時七分。天候、晴れ。路面、乾燥」
「交通量は少なめ」
「はい」
前方から軽自動車が一台来る。
すれ違う。
それだけだった。
道路沿いの家は、少しずつ減っていく。
街灯も途切れ始めた。
昼間なら畑だと分かる場所も。
夜になると、ただの黒い空間にしか見えない。
桂一は速度を少し落とした。
周囲を見るように走る。
「最初の一周は、道を見るぞ」
「道?」
「追われた時に逃げられる場所がないか、確認しながら走る」
栞も前を見る。
「逃げられる場所って?」
「広い駐車場。コンビニ。交番。人がいる施設。車を止めても、後ろから塞がれにくい場所」
「なるほど」
「逆に、細い農道とか行き止まりには入らない。道を譲るにしても、完全に止まらなくていい場所の方がいい」
桂一が、左側に少し広くなった路肩を見る。
「ここは使える」
栞がメモ帳へ印を付けた。
少し先。
古い建物の前に、広めの駐車スペースがある。
「ここも」
「はい」
さらに進む。
右へ細い道が伸びていた。
「こっちは?」
「入らない。地図だと先で細くなる」
「覚えてるんですか?」
「昨日見たからね」
桂一は前を見たまま続ける。
「普通の煽り運転なら、逃げ道を持っておけば大体なんとかなる」
「普通じゃなかったら?」
「その時は、その時考える」
「そこは考えてないんですね」
「相手が何か分からないのに、全部先回りはできないよ」
栞は小さくうなずいた。
分からないものを。
分かったつもりで動かない。
昨日。
通信機について桂一が言っていたことと同じだった。
「夜だと、昨日より全然違って見えますね」
「夜道なんてそんなもんだよ」
「ここを五時間ですか」
「まだ始まったばかりだよ」
「二十万円」
「それ唱えながら乗り切るつもり?」
「大事なので」
桂一が笑う。
AMラジオは。
普通に流れていた。
二十一時四十分を過ぎた頃。
二度目の往路。
バックミラーの中に、二つのライトが現れた。
「後ろ、来ました」
「うん」
栞が振り返る。
白い軽トラックだった。
距離は普通。
速度も普通。
ラジオにも変化はない。
「まだ何も変じゃない」
「はい」
桂一が少し速度を落とす。
軽トラックは無理に詰めてこない。
しばらく後ろを走った後。
右へ曲がり、農道へ入っていった。
赤いテールランプが。
闇の中へ消える。
栞は少し息を吐いた。
「普通の軽トラでしたね」
「普通の車を、普通じゃないって思い始めたら終わりだからね」
「気を付けます」
また走る。
古いガードレール。
緩い左カーブ。
畑へ入る細い道。
山の黒い輪郭。
何度か車とすれ違った。
どれも。
普通の車だった。
二十二時五十分。
栞が時計を見る。
「そろそろ休憩します?」
「そうだね」
桂一はスマートフォンを取り出した。
灰島へ電話を掛ける。
二回目の呼び出し音で繋がった。
『はい』
「休憩入る。指定区間から出るよ」
『分かりました』
「本当に出たな」
『任務中ですので』
「普段も――」
『それは難しいですね』
「まだ言ってないだろ」
『大体分かります』
「そういうところが怖いんだよ」
電話が切れた。
栞は笑う。
「なんだかんだ、仲良いですよね」
「どこを見てそう思ったの?」
「会話が慣れてます」
「散々な目に遭えば、これくらいにはなるよ」
ノアは指定区間を外れ。
先ほどのコンビニへ戻った。
二十三時過ぎ。
トイレと短い休憩を済ませる。
運転を栞へ交代した。
「戻りますって連絡は?」
「いらないって言ってたろ」
「あ」
栞は思い出す。
戻る時は分かるので大丈夫です。
「……どうやって分かるんでしょうね」
「考えない」
「そんなもんか?」
「そう。そんなもんか」
桂一は助手席へ座り、シートベルトを締めた。
「行こう」
「はい」
ノアは再び。
暗い指定区間へ入った。
午前零時。
何も起きない。
一時。
また同じ道。
AMラジオは乱れない。
後ろから来る車も。
普通の車ばかりだった。
同じカーブ。
同じガードレール。
同じ農道。
何度も走っているうちに。
栞も少しずつ、道路の形を覚えていった。
「本当に何も起きませんね」
「起きない方がいい仕事なんだけどね」
「でも、何も起きなくても二十万円」
「そこだけは忘れないな」
「十日なら二百万円ですよ」
「分かったよ」
栞は笑った。
怖くないわけではない。
暗い道。
正体の分からない通信機。
フロントの窪みには。
本当に目を失うかもしれない、卵型のレーザーが置かれている。
そして。
何を待っているのか。
肝心なところを、灰島はほとんど説明していない。
それでも。
栞は嫌ではなかった。
桂一がこれまで一人で関わってきた仕事。
灰島と。
佐原と。
自分が知らないところで繋がっていた世界。
その一部に。
今夜から、自分も加わっている。
怖さとは別のところで。
少しだけ嬉しかった。
午前一時五十八分。
最後の区間を走り終える。
「今日は終わりかな」
「何もなかったですね」
「初日から出る方が嫌だよ」
桂一がスマートフォンを取り出した。
その直前。
電話が鳴った。
画面には、灰島。
「……本当に見てるな」
桂一が通話へ出る。
「はい」
『本日は終了してください』
「今ちょうど掛けようとしてた」
『それは良かった』
「今日は何もなかったぞ」
『ええ』
「明日も同じ?」
『お願いします』
「はいはい」
『相沢さんも、お疲れ様でした』
「あ、はい。お疲れ様です」
『それでは』
通話が切れた。
栞は時計を見る。
午前二時。
本当に。
五時間、何も起きなかった。
「これで二十万円ですよね」
「最後までそこか」
「大事です」
桂一が笑った。
ノアは帰路へ入る。
AMラジオは最後まで。
一度も乱れなかった。
初日は。
何も起きなかった。
煽り運転も。
強い光も。
説明のつかない何かも。
ただ。
栞は一度だけ。
フロント中央の窪みへ目を向けた。
そこには。
灰島が直接持ってきた、卵型の機械が置かれている。
結局。
使わなかった。
使う必要もなかった。
そのはずなのに。
なぜ灰島が。
これだけは段ボールへ入れず。
自分で持ってきたのか。
そのことだけが。
少し、引っ掛かっていた。




