第四章 後ろを見ろ
市影譚の事務所は、M県S市の少し外れた場所にある。
駅からは距離があり、坂も多い。
公共交通だけで通うには、あまり便利とは言えない場所だった。
周囲には昔からの住宅が点在し、その間に小さな畑や空き地が残っている。
少し歩けば幹線道路へ出るが、一本奥へ入れば交通量はぐっと減る。
事務所そのものも目立つ建物ではない。
大きな看板があるわけでもなく、知らなければ小さな会社か個人の仕事場だと思って通り過ぎるだろう。
以前は、届く連絡もそれほど多くなかった。
それがテレビで市影譚を取り上げられてから、状況が変わった。
相談メールが増えた。
昔から地域に伝わる話。
写真に変なものが写ったという相談。
近所に気になる場所がある。
夜中に妙な音を聞いた。
逆に、以前の記事について情報を持っているという人もいる。
そのほとんどを、一度栞が整理する。
すべてを調べるわけではない。
明らかな勘違いもあれば、警察や行政へ相談した方がいいものもある。
そんなメールを振り分けていた栞が、ふと手を止めた。
「桂一さん」
「ん?」
「これ、ちょっと多くないですか?」
少し離れた机でパソコンを見ていた桂一が顔を上げる。
「何が?」
「煽り運転です」
「煽り運転?」
栞が画面を向けた。
同じような相談が、二、三件並んでいる。
夜道を走っていると、後ろから車が近づいてきた。
距離を詰めてくる。
速度を上げても離れない。
道を譲ろうとして速度を落としても、追い越さない。
「警察案件じゃない?」
「私も最初はそう思ったんですけど」
「場所?」
「それもあります」
栞が地図を開く。
相談に書かれていた場所へ印を付けていく。
完全に同じ道路ではない。
だが、どれもS市の市街地から山側へ向かう一帯に集まっていた。
住宅が途切れ。
畑や雑木林が増え始める辺り。
「近いな」
「ですよね」
「同じ車?」
「そこは分かりません。黒っぽかったという人もいますし、軽自動車だったと思うという人もいます。ライトが眩しくて分からなかったという人も」
「じゃあ、まだ何とも言えないね」
「はい」
栞は一度うなずいた。
それから、少し考えて検索欄へ文字を入れる。
「過去のメールも見てみます」
「何で?」
「煽り運転で」
検索結果が表示された。
栞の手が止まる。
「……あれ」
「どうした?」
「思ったよりあります」
桂一が椅子を寄せる。
煽り運転。
後ろからついてくる車。
道を譲っても離れない。
表現は違っても、似た相談がいくつも出てきた。
「これ、全部この辺?」
「確認します」
栞が一件ずつ場所を拾う。
やはり、同じ一帯へ寄っていた。
そこからは二人で調べた。
相談メールだけではない。
公開されている事故情報。
地域の交通安全情報。
過去の記事。
拾える範囲だけでも、夜間の単独事故がいくつか見つかった。
ガードレールへの接触。
縁石への乗り上げ。
カーブで路肩へはみ出した事故。
「暗い道だから、事故が多くても不思議じゃないけどね」
「カーブも多いですし」
「鹿も出るだろうし」
「はい」
それだけなら。
まだ説明はついた。
だが。
栞が相談メールを時系列ではなく、内容ごとに並べ直していくうちに、別の共通点が見えてきた。
「桂一さん」
「今度は何?」
「これ」
栞が一通のメールを指す。
『急に後ろが真っ白になった』
別のメール。
『一瞬、昼間みたいに明るくなった』
さらに。
『強い光が見えて、そのあと後ろの車がいなくなっていた』
桂一が画面を見る。
「……強い光?」
「何件かあります」
「対向車じゃない?」
「そう思ったんですけど、前から車が来たとは書いてないんですよね」
「後ろの車のハイビームとか」
「それなら、その直後にいなくなるのが少し変じゃないですか?」
「事故って見失っただけかもしれない」
「それもあります」
栞は断定しなかった。
桂一も同じだった。
分からないものを。
分かったことにはしない。
ただ。
気になる材料が増えた。
そして。
その中に一通だけ、少し内容の違うものがあった。
後ろからついてきた車が、信号のない交差点で前へ回り込んだ。
進路を塞ぐように止まり。
運転席から人が降りてきた。
相談者は怖くなり、隙間を抜けて逃げたという。
メールの最後には、こう書かれていた。
『煽り運転というより、連れていかれそうになった感じでした』
桂一が椅子へ深く座り直した。
「警察には?」
「相談済みだそうです」
「ならいい」
しばらく。
二人で地図を見る。
赤い印が。
山側の道路へ集まっている。
「本格的に誰かいなくなる前に、一回見た方がいいかもね」
「行きます?」
「まず昼間に道を見ようか。そのあと夜だな」
「分かりました」
栞が新しいファイルを開いた。
その時だった。
机の上に置かれていた桂一のスマートフォンが震えた。
「げっ」
確認した桂一が、心底嫌そうに顔を顰める。
栞も画面を覗き込むと、そこに特徴的な15桁の数字が浮かんでいた。
灰島だ。
桂一は手を伸ばし、そのままスマートフォンを伏せた。
着信が止まる。
「出ないんですか?」
「いい」
「灰島さんですよね?」
「俺から掛けても大体出ないからね」
「根に持ってます?」
「ちょっとだけ」
「どんな人か気になるのに」
栞が笑った。
その数十秒後。
またスマートフォンが震える。
同じ名前。
「ほら」
「本当に掛けてきましたね」
「二回目だから出る」
「そういう基準なんですか?」
「向こうが二回掛けるなら、何かあるんだろ」
桂一が通話ボタンを押した。
「何?」
『こんにちは、水野さん』
「はいはい」
『初めまして、相沢さん』
桂一が栞を見る。
なんですか?
栞は、そんなきょとんとした顔で桂一を見返した。
「……何で相沢がいるの知ってる?」
「私?」
『いらっしゃいますよね?』
「いるよ。だから、何で分かるんだって聞いてる」
『スピーカーではなかったのでしょうか』
「違うよ。自分の話ばかりするんじゃない」
桂一はスマートフォンをスピーカーへ切り替え、机の中央へ置いた。
「相沢。灰島」
「あ、はい」
栞は少し姿勢を正した。
「えっと、初めまして。お守り、ありがとうございます」
『はい、初めまして。珍しく水野さんに頼まれましたからね。気に入っていただけたなら何よりです』
「珍しく?」
「――それはいい。本題は?」
少し上擦った栞の声が、桂一に遮られた。
『今回は、今お二人が見ていた【煽り運転】の件での依頼です』
「ええっ?」
栞の声が事務所に響いた。
思わず窓を見る。
入口のドア。
外。
どこにも人影はない。
怖い。
ひたすらに不気味だった。
栞の前には、印刷した相談メール。
パソコンの画面には、事故地点をまとめた地図が開かれている。
「……待て」
『はい』
「今見てたって言った?」
『言いました』
「怖いんだよ」
『煽り運転は怖いですよね』
「そっちじゃない。どこから見てる?」
『何の話ですか?』
桂一はため息をついた。
「……もういい。続けてくれ」
『今回お願いしたいのは、現場確認です』
「何をすればいい?」
『指定する区間を、夜間に走っていただきます』
「何日?」
『最大で十日ほど』
「最大?」
『途中で目的を達成できれば、そこで終了です』
桂一が少し眉を寄せた。
「報酬は?」
『一晩十万円です』
十晩なら百万円。
桂一が栞へ向けて、小さく手を動かした。
声を出さず。
口だけを動かす。
『やりたいのか?』
栞は思わずうなずいた。
かなりの大金である。
それに、依頼そのものは雇い主である桂一へ来たものだが、栞だって興味がないわけではない。
前回の一件を経験したからといって、怖いものに慣れたわけではなかった。
むしろ。
怖いものは、今でも普通に怖い。
それでも。
桂一と灰島の間では、これまで自分の知らないところで、どんな仕事が交わされてきたのか。
純粋に、それを見てみたかった。
桂一は栞の反応を確認すると、「んん」と咳払いをした。
「時間は?」
『だいたい二十一時から、翌朝二時までになりますね。約五時間です』
「五時間? 街灯も全然ない田舎道を、煽り運転を待ちながら延々走るのか」
『ええ。そうなりますね』
桂一はちらりと栞を見る。
「交代で相沢と運転したとしても、同じ道を五時間だろ。こっちが自損事故を起こすかもしれないし、俺は正直遠慮――」
『倍にします』
「え?」
驚いた声は、栞のものだった。
『ですから、一晩二十万円で。十日で二百万円にします』
灰島は、そのまま畳みかけた。
『経費などが発生しましたら、こちらで持ちます。もし相手が現れた場合は、危険手当もお付けします』
「そこまでするのか」
『ええ。条件は、水野さんの車を使っていただくこと。それから今回は、相沢さんにも同行していただきたいです』
「つまり、二人で一日二十万か」
『高い確率で、プラスアルファも発生するでしょうね』
声が。
少し楽しそうだった。
栞は桂一に向かって、何度もうなずいた。
桂一はそれを見て、小さく息を吐く。
「……分かったよ」
栞の顔が少し明るくなる。
「俺の車を使うのは、何か理由が?」
『慣れている車の方がいいと思いまして』
「それだけじゃないのは分かるが、言い訳がどんどん上手くなるな」
『ありがとうございます』
「褒めてない」
『いやあ、水野さんには毎回助けられています』
「毎回?」
栞が思わず口にした。
「余計なことは言わなくていい」
桂一がぴしゃりと言う。
余計に気になった。
『では、明後日あたりからスタートできるように準備をお願いいたします』
「え、明後日?」
『はい。では、また後ほど』
「おい、ちょっと――」
通話が切れた。
事務所に静けさが戻る。
桂一はしばらくスマートフォンを見ていた。
「……早いな」
「明後日ですよ」
「聞こえてた」
「二百万円ですよ」
「そこはよく聞こえてる」
栞は少し笑った。
桂一は机の上の地図へ目を戻す。
「あいつが二百万出してまで、俺の車で、君と二人で走れって言ってる」
「……あ、言われてみれば」
何か、急に不安が増してきた。
桂一が、やや悲壮感を滲ませて続けた。
「絶対、普通の煽り運転じゃないよね」
栞も。
それには答えなかった。




