第三章 エピローグ
翌朝。
家の前に停まった車を見つけて、栞は小走りで向かった。
助手席のドアを開ける。
「おはようございます」
「おはよう」
車へ乗り込んだ瞬間。
ふわりと、コーヒーの香りがした。
「あ」
「相沢のはそれだよ」
桂一が助手席のカップホルダーを指す。
すでに栞の分が用意されていた。
嬉しい。
星のマークが入った、ちょっと高いカフェのカップだ。
「ありがとうございます!」
受け取る。
まだ温かい。
一口飲んで。
カフェモカだと気付いて嬉しくなった。
「はあ……」
思わず息が漏れる。
昨日。
山から帰ってきて。
家で食事をして。
風呂へ入り。
ちゃんと自分の布団で眠った。
朝になれば。
こうしていつもの車へ乗っている。
それだけのことが。
今日は少しだけありがたかった。
「甘いので良かったみたいだね」
「はい! ―― あ、それと」
栞は持ってきた袋を持ち上げる。
「これ、洗ってきました」
「何?」
袋から出したのは。
濃い青色の作業着だった。
胸には。
『Penasonic』
白い刺繍。
「やっぱり返す?」
「それなんですけど」
栞は胸元の文字を見る。
「昨日は絶対いらないと思ってたんですが」
「うん」
「これ、無事に帰ってきたお守りにしようかなって」
「Penasonicを?」
「Penasonicを」
自分で言って。
栞も笑った。
「事務所に私物で置いておきたいです。山とか、汚れる現場で使えるかもしれませんし」
桂一の表情も自然と緩んだ。
「うん。いいと思うよ」
「ありがとうございます」
そこで。
栞は桂一の顔を改めて見た。
いつもと同じ。
白いワイシャツ。
整えているようで、少し無造作な髪。
けれど。
いつもより目が重そうだった。
「ちょっと疲れてます?」
「俺?」
「眠そうです」
「ああ」
桂一が小さく欠伸を噛み殺す。
「早い時間に来客があってね」
「来客?」
「うん」
そう言って。
後部座席へ手を伸ばした。
「あと、これ」
細長い箱を取り出す。
栞へ差し出した。
「なんですか、この箱」
「プレゼント」
「え?」
「どうぞ」
突然すぎる。
栞は箱と桂一を交互に見る。
「私に?」
「そう」
「何の日です?」
「別に何の日でもないよ」
「怖いんですけど」
「失礼だな」
栞は恐る恐る箱を開けた。
中に入っていたのは。
細い革紐のネックレスだった。
「……え」
白に近い革紐。
その先には。
小さな羽を模したトップが付いている。
深い青。
そこへ金色が重なる。
派手ではない。
それでも。
角度を変えると光を拾い。
青と金が静かに表情を変えた。
「ネックレス?」
「うん」
「……これを、私に?」
「そう」
桂一が。
何でもないことのように言う。
「俺とお揃いだ」
「ええっ!?」
思わず。
栞の声が車内へ響いた。
「ちょっと待ってください」
「何」
「どういうことです?」
「何が?」
「いや、急にお揃いのネックレス渡されたら驚くでしょう!」
「あ」
桂一が。
ようやく意味に気づいた顔をした。
「悪い。言い方間違えた」
「間違えすぎです」
「灰島から」
「……はい?」
「お守りだって」
「灰島さん!?」
情報が増えた。
しかも。
理解しやすくなる方向ではない。
「待ってください。昨日の今日ですよ?」
「うん」
「なんで灰島さんが出てくるんですか?」
「昨日、いろいろあっただろ」
「ありましたけど」
「だから、ちょっと相談してな」
栞は。
そこで黙った。
昨日。
家の前。
母に誘われた桂一は。
片付けと用事がある。
そう言って帰った。
「……用事」
「ん?」
「昨日言ってた用事って」
「ああ。これ」
「本当に用事あったんですか」
「何だと思ってたんだよ」
「私に気を遣って帰るための口実かと」
「何でそんな回りくどいことするんだよ」
「桂一さんなら、やりそうだからです」
「やらないよ」
栞は。
もう一度ネックレスを見る。
「でも、昨日相談したんですよね?」
「したよ」
「それが、もうここにある?」
「あいつ、朝四時に事務所に来やがった」
珍しく。
桂一の声に少し苛立ちが混じった。
「四時?」
「朝の」
「それは分かります」
「寝てたのに」
「事務所に泊まったんですか?」
「昨日はね」
「それで朝四時に灰島さん?」
「そう」
「……本当に何なんですか、あの人」
「俺も知りたい」
栞はネックレスを手のひらへ乗せた。
改めて見る。
「でも」
「うん?」
「可愛い、ですね」
「だろ」
「灰島さんが選んだんですか?」
「たぶん」
「意外です」
「俺のは男っぽいやつになってた」
「桂一さんも?」
「だから、お揃い」
桂一がワイシャツの襟元へ手を入れた。
細いものを引き出す。
「あ」
黒い革紐。
その先にも。
同じように羽を思わせるトップが付いている。
栞は。
そこでようやく気づいた。
朝。
桂一を見たときから。
何となく普段と違う気がしていた。
相変わらず。
白いワイシャツ姿。
なのに。
胸元に少しだけ違和感があった。
これだったのだ。
「本当にお揃いなんですね」
「形は違うけどね」
「私の方が可愛い」
「よかったね」
「桂一さんのも見せてください」
「今度な」
「なんでですか」
「もうしまったから」
「今出したじゃないですか」
桂一は聞こえないふりをした。
「これって」
栞が羽のトップを指で摘まむ。
「何か効果があるんですか?」
「魔除けだそうだ」
「魔除け」
「強い災厄とか、悪意を避けるとか言ってた」
「……急にファンタジーですね」
「俺も言った」
「灰島さん、何て?」
「気持ちの問題だって」
栞が桂一を見る。
桂一も栞を見る。
「それ」
「うん」
「絶対違いますよね?」
「俺もそう思う」
即答だった。
「ですよね」
「あと、満月のときは」
「まだあるんですか?」
「トップを月が見える場所に置いとけって」
「何でです?」
「それも気持ちの問題らしい」
「絶対違いますよね?」
「俺もそう思う」
二回目だった。
栞は笑った。
「満月って、いつなんです?」
「今月は二十五日らしい」
「調べたんですか?」
「言われたからね」
桂一がスマートフォンを見る。
「忘れそうだから、毎月カレンダーに印付けとこう」
「そこまでちゃんとやるんですか?」
「もらった以上はね」
「意外と素直」
「こういうのは言われた通りにした方がいいんだよ」
「昨日、佐原さんにも同じようなこと言ってましたね」
「現場知ってる人の言うことは聞く」
「灰島さんも?」
「……そこは微妙だけど」
栞はまた笑った。
手のひらの羽を見る。
青。
金。
そして。
白い革紐。
「着けてみていいですか?」
「もちろん」
栞はネックレスを取り出した。
首の後ろへ手を回し。
留める。
羽が。
胸元へ落ちる。
「どうです?」
「似合ってるよ」
「本当ですか?」
「うん」
栞は。
車のサンバイザーの鏡を開いた。
確認する。
派手ではない。
普段の服でも使えそうだった。
「いいかも」
少し嬉しくなる。
新しいアクセサリーを身につけた。
それだけでも。
朝の気分は少し変わる。
けれど。
それだけではなかった。
昨日。
桂一は自分を家まで送った。
そのあとも。
自分が知らないところで動いていた。
灰島へ連絡し。
相談し。
朝四時に叩き起こされながら。
これを受け取った。
わざわざ口にするようなことではないと思っているのだろう。
だから。
昨日も。
ただ「用事がある」としか言わなかった。
「よし」
栞が小さく両手を握る。
「今日も一日、頑張るぞ」
「急に元気になったな」
「新しいアクセサリーですから」
「お守りね」
「アクセサリー兼お守りです」
「はいはい」
桂一が車を出そうとする。
その前に。
栞は少しだけ迷った。
何となく。
正面から言うのは照れくさい。
助手席から足を伸ばし。
桂一の靴の横を。
つま先で、軽くつついた。
「何だよ」
「ありがとうございます」
桂一は。
一瞬だけ栞を見る。
「いいよ」
それだけだった。
車が走り出す。
いつもの道。
いつもの朝。
コーヒーの香り。
胸元には。
昨日までなかった、小さな羽。
昨日は。
あれほど怖い思いをした。
それでも。
不思議と。
今日は何があるのだろうと。
栞は少しだけ楽しみにしていた。




